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3.水辺の梨花(2)

(あ、これは『いた』な)





 砂利混じりの泥水を含んだ刷毛で、背筋を撫で上げられるような違和感を覚え、翠旺(すいおう)は込み上げる笑いを懸命に押し殺した。

 夜間に忽然(こつぜん)と姿を消したという宮女(きゅうじょ)。その同室の女性たちに、翠旺はさっそく話を聞きに来ていた。

 部屋に入った瞬間感じたものに、翠旺の鼓動はドクドクと早鐘を打つ。それは彼女が怨霊の気配を感じた時に、いつも抱く感覚だった。

 下級妃でも一応は、小さな個室を与えられる。だが、宮女ともなれば、その部屋に三人一組で押し込められるのが常である。同室の女性たちは、「いつものように寝て起きたら、彼女が居なかった」と、困惑したように語った。


(宮女が五人、侍女が二人。……思った以上に、多かった)


 失踪した女性たちの数だ。

 先日のような、「上級妃や中級妃の(とぎ)の場に怨霊が現れた」といった事件はすぐに広まるが、宮女や女官の失踪など、今もって珍しくはない。人々の話題にならないのも、当然のことだった。


 現帝は後宮にさほど関心がないため、かつてのような、寵愛を巡る血みどろの争いは少ない。ただ、数百もの人間が一箇所に閉じ込められれば、やはり、揉め事とは無縁ではいられない。後宮にはいつも、(よど)んだ空気が渦巻いていた。


 失踪した宮女の寝台──私物入れの行李(こうり)に、薄い(ふすま)を敷いただけの質素なものだ──に散っていたという、(しお)れた梨の花びらを指先で(つま)みながら、翠旺は宮女たちに問い掛けた。


「姿を消した、ええと、玉児(ぎょくじ)さん。何か変わった様子はありませんでした? 何か良いことがあったとか、逆に悪いことが起こったとか」


 砕けた口調の翠旺に、宮女たちは目線を交わし合う。ちなみに彼女たちには、翠旺の表向きの立場は伝えていない。質素な衣服にパッとしない顔立ちから、数多いる宮女の一人だろうと思われており、翠旺も敢えて訂正していなかった。

 彼女たちはしばらくモジモジとしていたが、やがて、その内の一人がそっと翠旺に耳打ちをした。


「内緒にしてね。──実はあの子、最近、宦官といい仲になってたの。だから、私たちも最初は、『逢い引きにでも行ったのかな』って」


 翠旺は目を(しばたた)く。


 下級妃は宮女にいたるまですべて、「皇帝の所有物」というのが建前だった。だが、後宮の下働きである宮女の密通は、相手が「男」でなければ黙認されるのが通例だ。事実、失踪した五人の宮女のうち、宦官の「妹」であるのは、これで三人目だった。

 残りの二人のうち、一人は皇帝に声を掛けられた例の宮女で、もう一人は同僚との賭け事に大勝した宮女だった。侍女二人も良縁を得て、遠からず後宮を退く予定だったと聞いている。

 翠旺は再び手にした梨花をじっと見下ろし、にっこりと笑った。


「分かった。ありがとう」








 風が吹き抜けてもなお、どんよりと重苦しい空気の漂う池のほとり。翠旺(すいおう)は揺れる水面をつつきながら、一人思考を巡らせていた。


(恋人が出来た。賭け事に勝った。結婚が決まった。

みんな、いいことが起こった直後に姿を消した。そして全員、西の居住区で生活していた)


 翠旺は、後宮の全体図を頭に思い浮かべる。


 塀に囲まれた広大な土地を、ざっくり上下に区切った上側は、上級妃の殿舎が立ち並ぶ区域だ。下半分をさらに縦に割った右側は中級妃の、左側は下級妃の住まいである。

 宮女(きゅうじょ)たちは言わずもがな。上級妃の侍女であった二人も、西に近い区域に暮らしていた。そして、()氏が身を投げたという池も、後宮の西の外れにあった。


(法則性は分かった。七人の寝所(しんじょ)に残る気配も、共通していた。あとは、この池に残る怨霊の空気も一緒だったら、完璧だったんだけど……。気配がごちゃごちゃし過ぎてて、よく分からない)


 過去、一体どれだけの人間がここに身を沈めたのか。池に漂う気配は様々な情念に満ちていて、目眩(めまい)がするほどだった。


 この場でまとめて(はら)ってしまえば話は早いのだが、いかんせん、「怨念ごった煮、負の感情てんこ盛り」状態。いくら清顕(せいけん)が凄腕道士だとしても、これだけの数を同時に相手をするのには危険が伴う。


 なによりも。


(人に(あだ)なす存在にまで堕ちていないなら、そっとしておいてあげたい……)


 幽鬼は、哀しい存在だ。


 翠旺はふっと溜め息を零し、立ち上がる。その眼差しは遠く透き通っていた。

 ここまで集めた情報を一旦幼なじみに共有すべく、彼女は自室へと向かった。










 静々(しずしず)と扉を開けて入室してきた人物を、翠旺(すいおう)はぽかんと口を開けて出迎えた。


 翠旺は聞き取りと、池の調査を終えた直後、すぐに清顕(せいけん)に連絡を取った。彼からは返事がなかったので、呑気に使い古した箜篌(くご)を奏でていたのだが。

 予想に反して、その日の夕刻前には、幼なじみは後宮に姿を見せた。

 だが、その「姿」が問題だったのである。


「……清顕。なんで、女装してるの?」


 そう。彼が(まと)っているのは、地味な色合いの襖裙(おうくん)(しょう)を片手に、まるで後宮に籍を置く楽師のような装い。鍛えられた身体つきは、間違いなく男性のものなのに、どう見ても女性にしか見えない。

 清顕は全身を震わせながら、翠旺の部屋の扉が閉まっていることを確認したあと、胸ぐらを掴む勢いで彼女に詰め寄ってきた。


「――お前が! 『呼鳥(こちょう)』を使うから! 緊急事態かと思ったんだ!」


 「根回しする時間もなかった」と吐き捨て、清顕は忌々しそうに裾を払ってその場に胡座(あぐら)をかいた。翠旺もおどおどと、その前に座る。

 ちなみに「呼鳥」とは、翠旺と清顕の連絡手段だ。清顕が道術をかけた、特殊な筆と紙で書いた手紙は、翠旺の二胡(にこ)の音色に乗り、彼の元に届くようになっている。


 「これは便利だ」と早速活用したのだが、何かまずかったのだろうか。


 首を傾げる翠旺に、清顕は盛大に溜め息を零す。彼はくしゃくしゃと(まげ)を掻きむしり、俯いた。


「あれは、非常用だと言っておいただろう。……あまり、人と違うことをするな」


 清顕(せいけん)は、翠旺(すいおう)が「普通」とは違う行動を取ることを、ひどく嫌がる。怨霊が見えるだけの翠旺が、彼らに関わろうとすると、いつも血相を変えて飛んでくるのだ。

 それは、彼らが出会った頃からずっと変わらない。彼自身が道術という、特殊な力を(ふる)えるのにも関わらずだ。

 翠旺自身は多少の危険が伴おうとも、使えるものは使ってしまえという性分だった。それがたとえ、「自分自身」であったとしても。

 それでも、幼なじみが本気で自分を案じてくれているのは、何となく理解している。後宮の下級妃を訪ねるのに醜聞(しゅうぶん)が広がらないよう、女装までしてきてくれたのだ。


 翠旺は、コクリと頷いてみせた。


「……努力する」


 その言葉に、清顕はようやく顔を上げ、翠旺はにっこりと微笑んだ。


「似合ってるね、その襖裙(おうくん)

「……ぶっ飛ばすぞ」


 堂々たる偉丈夫の皇帝陛下と並べば、まさに一服の絵画のようだ、などと思ったことは、言わない方が良さそうだった。









 ()令嬪(れいひん)が身を投げたという池については、清顕もすでに調査済だったため、翠旺(すいおう)は後宮で見聞きし、感じたことを中心に報告した。清顕(せいけん)は真剣な表情で、彼女の話に耳を傾けている。

 一通りの話が終わったところで、清顕はじっと翠旺を見つめて言った。


「……気配の主の特定は、現段階では難しいんだな?」

「うん。あの池に住まう幽鬼を片っ端から(はら)っていくのは、現実的じゃないよね。

被害者が西に固まっているということは、まだ、後宮を自由に歩き回れるほどの力はないんだと思う。それならいっそ、西で、『幸せな住人』の振りをして待ち受ける方が良いのかも」


 途端に清顕が険しい表情になり、翠旺は慌てて両手を振った。


「一人ではやらないよ。……皇帝陛下に許可をいただいて、逢い引き中の宦官と女官を演じてみる、とか?」

「……誰がやるんだ、それを」


 翠旺は頬を引き()らせる清顕を指さし、次いで自分の鼻先を示す。

 心底嫌そうな表情で、清顕が口を開いた。


「絶対に、嫌だ」

「えー」


 唇を尖らせる翠旺に、清顕は大きく溜め息を吐く。


「……とはいえ、そうせざるを得ないんだろうな。これ以上の犠牲は避けたい」


 「陛下には俺から報告しておく」と告げ、清顕はそそくさと部屋の扉へ向かった。








 去り際、清顕はふと足を止め、翠旺を振り返って尋ねた。


「……陛下とは、よく茶を共にしていると聞いたが」


 翠旺はきょとんと目を見開き、首を傾げて答える。


「うん。よくってほどじゃないけど。たまに、変装した陛下に呼ばれるて、世間話をしてるよ。――それが、どうしたの?」


 だが、清顕は彼女の問いには答えず、黙って部屋を出て行ってしまう。取り残された翠旺は一人、首を傾げた。


(なんだったんだろう?)


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