2.水辺の梨花(1)
「宮女連続失踪事件……ですか?」
李寧国第二十三代皇帝の下級妃・劉 翠旺の正体は、祓魔──「皇帝の何でも屋」所属の女官である。彼女は今、幼なじみの高 清顕とともに、皇帝の呼び出しを受けていた。
二人の目の前で盛大に顔を顰めているのが、彼らの雇い主、董 獅英だ。
二十五歳の若き皇帝の後宮では、先般、夜伽を邪魔する怨霊騒ぎが起こったばかりだった。その事件がやっと解決したと思えば、今度は下級妃の失踪騒ぎである。
次から次へと起こる事件。彼自身の即位の経緯も相まって、「現帝は天に認められていないのでは」などと、口さがない噂が広がり始めていた。
目を見開く翠旺たちに、皇帝は直々に苦い表情で説明を始める。
「……宮女以外にも、妃嬪付きの女官が何名か失踪している。全員、確かに寝床に入ったのを目撃されたのにも関わらず、朝になるとその姿が消えていたそうだ」
仏頂面で息を吐いた皇帝に、傍付きの宦官たちが恐る恐る茶を差し出した。武人と見紛うほど鍛えられた体躯と、鋭い美貌に、線の細い彼らは恐怖心を抱いているようだ。皇帝は荒々しい手つきでそれを受け取る。
張り詰めた空気を和ませるように、清顕が穏やかな声で問い掛けた。
「自らの意思による失踪の可能性は、ございませんか?」
皇帝はチラリと彼を見やり、茶を含みながら淡々と答える。
「──失踪した女官の一人は、高官の息子に見初められたばかりだった。宮女も……俺に声を掛けられたと喜んでいたらしい。失踪する理由がない」
「声を。ということは、夜のお相手に呼ばれたんですか?」
あっけらかんと口を挟んだ翠旺の言葉に、皇帝が不意に茶を噴き出した。
「ぐ……っ、ゴホッ!」
派手にむせる彼の背を、清顕が断りを入れてさすりつつ、翠旺をジロリと睨み付ける。
「劉常在。言葉を慎まれよ」
「失礼」
ケロリと笑う翠旺を見やり、息を整えた皇帝は、何とも言えない表情で続けた。
「……生憎、後ろ盾になりそうにない女には、手を出さない主義なのでな。昼間に張華貴妃を訪ねた帰り道、具合が悪そうに屈み込んでいた宮女を見かけ、宦官に保護を命じただけだ」
上級妃の第二位、二人の貴妃は区別のために、「華貴妃」「明貴妃」の通称で呼ばれる。いずれも名家の令嬢たちで、その機嫌取りも必要な仕事の一つなのだろう。
そして彼の言うように、宮女は後宮の下働きである。よほど好みに適ったなどの理由がない限り、一生皇帝の顔を見ることもない女性たちだ。
そんな彼女たちが相次いで失踪したとして、皇帝が直々に調査を命じることなど、普通は有り得ない。
翠旺は首を傾げ、まっすぐに皇帝を見上げた。
「陛下。私たちを呼ばれたということは、その失踪に、何か怪しげな気配があるということでしょうか?」
異能揃いの祓魔の中でも、類稀な霊視能力を誇る翠旺、最強道士と名高い清顕の組み合わせとなれば、その事件に怨霊が絡んでいる恐れがあるということだ。清顕も皇帝から離れ、改まって畏まる。
皇帝は苦々しい表情で、遠くを見つめて答えた。
「いずれの女も、空の寝床は水浸しで、足元に季節外れの白い梨花が大量に落ちていたらしい」
「梨の花……ですか」
首を傾げる翠旺に代わり、清顕が口を開く。
「梨といえば、幽丞帝の後宮に、美貌をその花に例えられた嬪がいらっしゃいましたね。確か、夏令嬪でしたか」
「令嬪は死後に追贈された位だ。生前は静嬪──中級妃の最下位だった。祖父帝の寵愛を受けたが、他の妃嬪たちに壮絶な嫌がらせを受けて心を病み、後宮の池に身を投げた」
幽丞帝は、四代前の皇帝だ。芸術を愛し、文化の発展に貢献した帝ではあったものの、一方で無類の女好きとも知られていた。彼の後宮は随分と殺伐としており、刃傷沙汰も日常茶飯事だったらしい。
(梨の花に例えられるような繊細優美な女性なら、ひとたまりもなかっただろうね……)
恨みつらみを抱えて、自死した中級妃。その彼女が、幸せそうな下の立場の女性たちを妬み、黄泉に引きずり込んだ。皇帝は、そして清顕は、そのように考えているのだろうか。
翠旺が首を反対側に傾げると、皇帝は真剣な顔付きでこちらを見て命じた。
「高統括官、そして劉常在。突如姿を消した宮女たち、その原因を突き止め、所在を探し当てろ」
「御意」
間髪入れずに拱手で答えた清顕に続き、翠旺も黙って頭を下げた。
「……ちょっと、顔貸しなさいよ」
清顕との打ち合わせを終え、下級妃たちの居所・輪花殿に戻ってきた翠旺を待ち受けていたのは、同じ常在の位にある女性たちだった。
ずらりと並んだ彼女たちは、軒並み険しい表情で、翠旺を取り囲む。思わず冷や汗を浮かべ、翠旺は恐る恐る尋ねた。
「な……なんでしょうか」
「何で貴女が、陛下の遣いの方の呼び出しを受けているのよ!」
額に青筋を立てているのは、彼女たちの中心人物である陳氏だ。
気の強そうな美人である彼女は、翠旺が皇帝の配下の宦官に呼ばれたことを聞き付けたらしい。さすがに皇帝本人からの呼び出しだとは想像もしていないだろうが、冴えない翠旺がそのような場に召されたことが、よほど気に食わないようだ。
(ただ仕事を命じられただけなんだけど……。言えないしなぁ)
翠旺の正体が下級妃ではないことは、皇帝と、祓魔所属の官だけが知る事実だ。潜入任務を命じられた官は、その任務を隠す必要があるためだ。
先日、皇后とその侍女の前では盛大にばらしてしまったが、それ以外では口外を禁じられている。
どうしたものか、と逡巡した翠旺は、自分を睨み付ける下級妃たちを見上げ、へらりと笑ってみせた。
「ちょっとした事情で。……ご安心ください。陛下は、ご自身の役に立たない女性には興味がないそうです」
「なぁ……ッ」
居並ぶ下級妃たちの頬が、怒りで真っ赤に染まる。
(あ、まずい)
翠旺は、自分の失言を悟った。
眼前の女性たちは皆、下級官僚や中堅商人の娘である。翠旺と同じく、有力な後ろ盾を持たない彼女たちにも、皇帝から声が掛かることなどないと、告げてしまったようなものだ。
「貴女ねぇ……っ」
激高した陳氏の手のひらが、自分の頬に振り下ろされるのを、翠旺はぼんやりと眺める。するとそこへ、突如、冷ややかな女性の声が響き渡った。
「何を騒いでいるのです」
慌てた様相で、下級妃たちが振り返る。翠旺は人垣越しにその人物を見つめ、目を瞬いた。
「こ……っ、皇后陛下……!」
慌てふためいて礼をとった下級妃たちを細めた目で見やり、皇后・黄氏は軽く嘆息して告げた。
「その者は、陛下の配下に呼ばれたのです。それに難癖をつけるということは、陛下に物を申すことと同義。分かっているのですか」
「で、ですが……!」
雲の上の存在が下級妃に過ぎない翠旺を庇ったこと、また、その発言内容に怯みながらも、陳常在が黄皇后に食ってかかる。険しい表情で足を踏み出した侍女たちを諌め、黄氏は翠旺についと手にした扇を向けた。
「着いて参りなさい、劉常在。話があります」
「はぁ……」
要領の得ない返事をした翠旺は、身を小さくしながら皇后一行の末尾に続いた。
「……あの、ありがとうございます」
勧められた茶を恐る恐る口にしながら、直言を許された翠旺は頭を下げた。
ここは皇后陛下の住まう宮。先日は幽霊騒動ではしゃいでいたため、気にもしていなかったが、本来、翠旺などが近寄れるはずもない場所である。
怨霊が絡まなければ大人しくなる翠旺を、皇后とその侍女、鈴鈴が不思議そうに見つめている。通された小部屋には、彼女たち三人きりだ。
皇后・黄氏は、来年七つになる息子を後宮の悪意から守るため、歌妓出身の鈴鈴に命じて怨霊騒動を起こさせた。ただ、彼女の演技があまりにも真に迫りすぎた結果、本物の幽霊を呼び寄せてしまった。その騒動の解決に祓魔の高 清顕が駆り出され、翠旺も首を突っ込んだのだ。
事態の鎮静後、皇帝は正妻の罪を隠し通すことを決めたそうだ。相次ぐ義兄の崩御の末、帝位についた彼は、後ろ盾を失うことを嫌った。気付かぬところで心労を掛けていた妻に対して、思うところもあったのだろう。彼女への処分は、周囲に気付かれない程度の額の、一年にわたる減給に止めた。
翠旺がなぜそんなことを知っているかと言えば、たまに祓魔に扮した皇帝に、秘密裏に茶席に呼ばれるからだ。面倒だと思うが、直属の雇い主の命令には逆らえない。
遠い目をした翠旺を咳払いで正気に戻し、黄皇后は淡々と口を開いた。
「陛下から話は伺っています。表立って協力は出来ませんが、貴女の立ち回りの不味さぐらいであれば、多少は補佐しましょう。──私の侍女の中に、夏令嬪の遠縁にあたる者がおります。話をするようにと、陛下の命です」
黄皇后の言葉に鈴鈴が部屋の扉を開くと、先程皇后の背後に立っていた侍女の一人が入ってくる。左目の下の泣きぼくろが印象的な美人だ。
彼女は楊 亜珠と名乗った。母方の祖母が、亡くなった夏令嬪の妹にあたるそうだ。
「話といっても……、私も、大叔母のことは祖母から二、三度聞いたくらいなのです。お役に立てるかどうか……」
楊氏は申し訳なさそうに黄皇后を見やる。主が無言で頷くと、楊氏は翠旺に向き直って話を始めた。
「大叔母は元々、とある上級妃の侍女として後宮に上がったそうです。儚げな面差しと麗筆の持ち主で、そこから皇帝陛下に見初められたとかで……」
そこで言い辛そうに口を噤んだ楊氏に、翠旺は堂々と尋ねる。
「それで、お偉方の顰蹙を買ってしまったと」
「……はい」
後宮の主たる皇后の前で、かつての上級妃たちを悪く言うことは憚られたのか、楊氏は歯切れ悪く続けた。
「皇帝陛下から賜った筆や紙を隠されるなどは、日常茶飯事で……。化粧品を有害なものにすり替えられたり、動物や虫の死骸を食事に混ぜられたり。
家族に送る手紙は検閲が入りますので、祖母や曾祖父母たちがそのことを知ったのは、大叔母が亡くなった後だったそうです。後宮を退いた侍女を、問い詰めたとか」
(うわぁ……えぐい……)
露骨に顔を引き攣らせる翠旺に苦笑し、皇后の侍女・楊氏は頷いてみせた。
「それらに立ち向かう強さが、大叔母にはなかった。後宮で生き抜くための、強かさと知恵が。……祖母にはそう言い聞かされて育ちました」
悲しげなその声に、翠旺は顎に手を添えて考え込み始める。視界の外で、皇后が彼女に下がるように告げていた。鈴鈴が黙って、冷めた茶を入れ替える。茶器の立てる微かな音に、翠旺は顔を上げた。
「皇后陛下。姿を消した宮女や侍女を最後に見た方々に、話を聞いても良いでしょうか?」
幼なじみの清顕に、耳にタコができるほどに言い聞かされた内容を思い出し、翠旺は後宮の主に伺いを立てる。黄皇后は無表情にうなずいた後、このように付け足した。
「くれぐれも、陛下の命だということは内密に。たとえ不穏な気配を感じても、暴走するこのとなきよう」
(すっかり見抜かれてしまっている……)
じとりとこちらを睨めつける黒曜の双眸から、翠旺はそっと目を逸らした。




