24.君に捧げる真紅の玫瑰(後)
「……鈴鈴様ぁ。私、もう大丈夫です。そろそろ起きないと、寝台の怨霊になっちゃいそうです」
「いけません。皇后陛下より申しつかっています。貴女の『大丈夫』は、決して信用してはならぬと」
劉 翠旺は閉口して、寝台の中で小さくなった。
皇后陛下とは決して、深い付き合いであるとは言えない。第一、なんちゃって下級妃である彼女が、おいそれと口をきける相手でもない。
それがなぜ、畏れ多くも皇后の宮の離れに部屋を与えられ、医官たちの診察を受けているのか。
翠旺には、まるで理解不能だった。
すっかり顔なじみとなった、皇后付きの侍女である鈴鈴は、腰に手を当ててぷりぷりと怒っている。困惑とともにその後ろ姿を見つめながら、翠旺は溜め息をついた。
女神を天上に帰したあの日から、十日あまりが経過していた。
一時、邪教徒たちに占拠されていた後宮は、皇后の迅速な指示のもと、すっかり元の落ち着きを取り戻しつつある。実家の罪に連座される妃嬪が出て来るかは、これからの調査次第だ。
何度か見舞いに来てくれた、祓魔の杜長官や楊次官も、さっそく次の任務に向かっていう。
清顕だけはいまだ、医官たちから許可が降りないため、医務室に縛り付けられているらしい。教えてくれたのは、一度だけ内密に顔を出してくれた、皇帝陛下だった。
彼は何か企んでいるのか、首を傾げる翠旺をよそに、意地の悪い笑みを噛み殺していた。
(大丈夫かなぁ、清顕……)
これまでの目まぐるしい日々が嘘のように、静かな時間が流れる。
翠旺はいつの間にかうとうとしながら、幼なじみの生真面目な顔を思い浮かべていた。
それから三日後、ようやく、翠旺に外出許可が下りた。
とはいえ、それなりの期間、寝たきり生活を余儀なくされていたため、足元がおぼつかない。すぐに輪花殿の自室に戻ることや、職務に復帰することは許されず、あと二日ほど、離れ周辺で歩行訓練や経過観察を受けることになった。
皇后は、「陛下直々の任務の最中に負った名誉の怪我であるのだから、大人しく従え」と言っていたが、たかが下級妃に随分な厚遇だと思う。
(あとで治療費とか、滞在費とか、請求されたらどうしよう……。払えるかな。お養父さん、助けてくれる?)
翠旺は慎重に足を踏みしめながら、皇后専用の東屋を目指して歩いていく。そこまで行って、また離れに戻ることを、休憩なしに出来るようになれば自室に帰って良いと、医官には言われていた。
目と鼻の先である東屋は中々近付かず、翠旺はすっかり上がってしまった呼吸を宥めながら、空を見上げた。
季節はいつの間にか夏の終わりに差し掛かり、青々としていた木々も、少しずつその艷めきを失っている。
(清顕はすごいなぁ。前の時、足にあんな大怪我を負って、一月ほぼ寝たきりだったのに。すぐに任務に復帰してた)
小さく笑い、ふと翠旺は瞬きをした。
(私、なんでこんなに、清顕のことばっかり考えてるんだろう……)
四つ年上の幼なじみの、生真面目に整った、穏やかな面差しが脳裏に浮かぶ。
大切な幼なじみ。尊敬すべき上官。頼れる道士。彼はずっと、そんな存在だった。……そのはず、だった。
鼓動がざわめいて、うるさい。翠旺は深呼吸と共に、胸中のその面差しをじっと見つめる。
涼犀皇子の怨霊に、我が物顔で触れられた時。翠旺は無意識に清顕の姿を思い浮かべ、罪悪感と恐怖に慄いた。
孫氏と対峙し、自分の来歴に不安を抱いたあの夜。咄嗟に飛び込んで縋ったのは、彼の胸だった。
決戦が終わり、意識を失って倒れ込んだ時。身体を支えてくれた彼の腕の力強さに、心から安堵した。
(……どうして?)
ぼんやりと考え込んでいると、足元への注意が疎かになっていた。小さな小石に蹴躓き、翠旺の身体が前方に大きく泳ぐ。
「わ……ッ」
(いつだったかも、こんな風に、怨霊に背を押されて池に落ちたっけ……)
眼前に迫りつつある石畳を、翠旺はぼんやりと見つめていた。
「……まったく」
呆れた風を装ったその声に、奥底から湧き上がる心配が滲んでいることを、既に翠旺は知っている。
彼女の小さな身体を抱き留めた腕の持ち主を見上げ、翠旺はそっと息を零した。
「……清顕」
「危ないだろう。ちゃんと足元を見ろ」
幼なじみは生真面目そうな面差しを微に顰め、翠旺の身体をそっと起こした。
清顕は翠旺の手を引き、ゆっくりと東屋に誘った。彼女の足取りを気にしつつ、過剰に案じすぎない絶妙な速度に、翠旺は胸のざわめきが少しずつ落ち着いていくのを感じる。
彼は黙って東屋の椅子に翠旺を腰掛けさせると、僅かに躊躇い、彼女の隣にゆっくりと腰を下ろした。
晩夏の夕暮れの風が、二人の髪をさらさらと揺らす。
いつもの祓魔の官服に正装の帽子を被った彼は、どこか大人びて見える。目のやり場に困った翠旺は、足元の石目に目線を落とした。
しばしの沈黙のあと、翠旺はおもむろに口を開く。
「……今日は、どうしたの?」
「皇后様の診察に立ち会うようにと、陛下のご命令だった。あのお方もひどい呪詛を受けたから、医官に定期的に同席して様子を確認するように言われている。
……そうしたら、皇后様に、お前を東屋まで迎えに行けと。動くのが大変そうなら、一度そこで休ませるようにとも言われた」
「……そう」
いつもならば、水が上から下へと流れるように、次から次へと話したい内容が溢れてくる。けれど何故か今日は、翠旺の口は重く、清顕は訝しげに目を細めていた。
(……変なことを、意識してしまったから)
キュッと唇を引き結び、翠旺は俯いたまま密かに溜め息をつく。清顕はそんな彼女に構わず、少しずつ赤みを増しつつある空を見上げながら、さり気なく話を変えた。
「陛下に伺った。……褒美として、自分の立ち位置の確認を望んだそうだな」
「……うん」
翠旺は小さく頷き、自らを「姉」と呼んだ女性に思いを馳せた。
彼女が呼んだ「王 彩華」という名の持ち主は、誰が調べてもやはり、今、どこにいるのか分からなかった。
双子の妹だという、「王 香蕾」も同様だ。
李寧の北西に位置する地域に、「王」という名の一族はいたそうだ。よくいる地方貴族で、当主夫婦が失踪の末、断絶してしまったことしか分からない。
確かなのはやはり、翠旺は劉 才恩の養女で、孫 香蕾は地方の名家・孫氏の三女ということだけだった。
けれども、自分は、国家反逆の大罪を犯した人間の縁者かも知れない。
翠旺は、そんな自分がこのままここに居ても良いのかと、あの日以来、ずっと苦悩していた。
しかし、敬うべき主は、彼女の懊悩を一笑に付した。
「──お前は、劉 翠旺だろう?」
彼に赦されたから、翠旺の生命は今も繋がっている。
清顕はじっと前を見つめたまま、微動だにしない。そのことが少し悲しくて、翠旺は幼なじみの官服の袖をそっと引いた。
「清顕は? ……何を、褒美に願ったの?」
探るような彼女の声音に、清顕はそっと瞼を伏せる。彼は何度も深呼吸を繰り返し、やがてようやく彼女の方へ目線を向けた。
普段柔和な眼差しは、何かを真っ直ぐに見つめる際、吸い込まれそうな力強さを持つ。
翠旺は、その漆黒の瞳に映る自分自身の姿に、微かな戸惑いと不安を覚えた。
清顕はそっと目を細め、囁くように告げる。
「俺は、──下級妃・劉 翠旺の下賜を願い出た」
翠旺の周囲で、時間が止まった。
彼女は我知らず早鐘を打つ鼓動に声を震わせながら、無理やりに笑ってみせた。
「……そっか。今回の潜入任務を終えて、私が後宮を出るのに、名目がいるもんね。でも、そんな嘘ついて、大丈──」
「違う」
清顕の目が束の間、怖いほどに真剣な光を帯びる。
咄嗟に怯んだ彼女の両手を、彼の大きな手のひらが握り締めた。その手は汗に濡れ、指先が微かに震えている。
翠旺は食い入るように、間近にある幼なじみの顔を見つめていた。
「俺は、……俺は。お前に受け入れてもらえるなら、妻に迎えたいと願った」
清顕の瞳の中の翠旺が、驚いたように目を見開いている。
彼女は喘ぐように息を吐き、繋がれた指先に力を込めた。
先ほど自覚したばかりのこの気持ちが、幼なじみへの親しみなのか、執着なのか、翠旺には今も自信がない。
けれども。
(あの時、……触れられるならこの人が良いと、思ってしまったんだ)
見目が良いだけの見ず知らずの男の怨霊でも、国の頂点たる皇帝でもない。
翠旺の心は、高 清顕の名を叫んでいた。
ならばきっと、それが答えだ。
「翠旺。──俺の妻に、なってくれるか」
緊張のせいか、ついに震え始めた幼なじみの言葉に何度も頷き、翠旺はその胸に飛び込んでいった。
明豊三年、夏。皇都中を騒がせた邪教徒の反乱を、瞬く間に鎮めた第二十三代皇帝・董 獅英は、後世の歴史家すらも唸らせるほどの善政を敷いた。彼は歴代続いた官僚たちの腐敗を正しつつも、清濁併せ呑む柔軟な決断を下し、李寧をより一層力強い国へと甦らせていく。
その右腕となったのは、天寿をまっとうするその日まで、全力で主を支え続けた高 清顕という男だった。彼は道術の天才でありながら、皇帝の側近組織・祓魔の長に任じられた。そして、曲者揃いの高官や貴族たちの魔手から主人を守り、その道行に影のように寄り添い続けた。
長年、祓魔の長官として辣腕をふるった彼だが、ただ一人の妻を生涯にわたって愛し抜いた、情熱的な一面でも知られている。その愛妻の名は史書に記されていないが、彼らの息子たちもまた、次代の皇帝のもとで武官として大きな功績を残したという。
李寧の歴史は、明豊帝・獅英の曾孫、第二十六代皇帝の死とともに幕を下ろすこととなった。
だが、その最後の煌めきは後の世である今もなお、人々の間に広く知れ渡っている。




