23.君に捧げる真紅の玫瑰(前)
(なんの拷問なんだ、これは……)
高 清顕は口元まで衾を引き上げながら、額に冷や汗を滲ませていた。
あの日の朝、翠旺の身体に腕を伸ばした皇帝陛下を、清顕は無意識に押し退けていた。崩れ落ちる幼なじみを抱き留めた彼は、堪え切れずに地面に倒れ、そのまま気を失った。
翠旺は負傷直後の無茶な探索、不衛生な地下道での長時間の滞在、明け方の全力疾走に加え、罪妃孫氏の追撃を肩に受けた結果、一時、深刻な状態に陥ってしまった。明け方すぐの医官たちの懸命な処置により、幸いにも生命に別状はなく、後遺症も残らなかった。ただし、胸を撫で下ろす周囲をよそに、額に青筋を立てた医官たちは、翠旺を半ば監禁状態に追いやった。
話を聞きつけ、同じく般若と化した皇后陛下・黄氏の命で、彼女は後宮の離れに閉じ込められ、今も治療と休養を余儀なくされている。
今回、目立った負傷はないものの、気力を根こそぎ使い果たした清顕も、同様に、医官たちの一刻に及ぶ説教を受けた。
全治一ヶ月の大怪我を治療してもらった直後、またもや無理を繰り返した清顕に、医官たちは怒り心頭の様子だった。自宅での療養では信用出来ないと、清顕は医官たちの仮眠室に押し込まれている。ご丁寧に監視付きで、その中にはなんと予想外の人物まで混ざって。
主にこの時間帯を担う監視員は、ニンマリと笑って尋ねてきた。
「……ん? 喉でも乾いたか? 水を飲ませてやろうか?」
偉丈夫が、楽しげにこちらを見下ろしている。
(……なんで、皇帝陛下がいらっしゃるんですかぁぁぁ!?)
声を限りに喚きたいのを懸命に堪え、清顕は畏れ多さにブンブンと首を振った。
邪教徒と彼らに扇動された民の処分、不正を行っていた数多の佞臣の対応に、再組閣。それらに忙殺されているはずの皇帝・董 獅英が、何故か医務室に設置した机で執務に勤しんでいた。
彼は、「どうせ仕事で休む間もない。それなら、どこでやっても一緒だろう」などと嘯き、三交替制の医官たちの勤務の、僅かな隙間を埋めている。
状況が理解出来ず、指一本動かせないでいる清顕を、皇帝は苦笑気味に覗き込んだ。
「お前たちに無茶をさせたのは俺だからな。医官の負担軽減に、一役買わざるを得んだろう」
「畏れ多過ぎて、心臓が止まりそうです……」
「おお、それは大変だな。呼吸を手伝ってやらねば。唇をこじ開けて、息を吹き込めば良いか?」
「謹んで、ご遠慮申し上げます」
無の境地で答えた清顕に、皇帝は楽しげに声を上げて笑っている。
あの日以来、清顕に対して肩の力が抜けたような皇帝は、威厳と親しみやすさを兼ね備えた、不思議な素顔を見せるようになった。
しばらく彼を見つめていた皇帝は、不意に真顔になり、書類が満載の机を片付けながら言う。
「明日、明後日は近郊視察があるから、ここに来るのは医官たちだけだ。──戻ったら、お前に話がある」
「はぁ……」
ヒラリと手を振った皇帝は、おっかなびっくり入室してきた医官に席を譲り、部屋を出て行った。
三日後、言葉通りに医務室に現れた皇帝は、半身を起こした清顕の腹にポンと巻子を置いた。
清顕が目を瞬かせると、皇帝は小さく笑って、彼に中身の確認を促す。
「国はまだまだ荒れている。目立つ褒賞はやれんが、せめてと思ってな。──昇進の報せだ」
皇帝直々の言葉に、清顕は恐る恐る書類──勅旨を取り上げる。
そこには力強い墨痕により、「祓魔統括官・高 清顕を、正五品に封ず」と記されていた。
清顕は息を飲んだ。
正五品と言えば、中央省庁の局長級の役職だ。二十一歳の若造には過ぎた地位に、清顕が硬直していると、皇帝はニヤリと笑って肩を竦める。
「期待しているぞ? 未来の祓魔長官殿」
「そんな、あまりに畏れ多く……」
清顕はひたすらに狼狽えるが、皇帝は狙いを定めた獣のような眼差しで、彼を捕らえて離さない。
かなりの時間逡巡したのち、清顕は深く息を吸い、「微力を尽くします」と頭を垂れた。
満足げに頷いた皇帝は、ふと、悪戯をしかけるように清顕の耳元で囁いた。
「今回の件の功労者には、個人的に褒美を取らせている。
杜長官は、先日の冷宮の事件で亡くなった、祓魔の官たちの墓の建立費用の援助。楊次官は亡くなった恋人との冥婚と、現世での離別の手続きを。周 沙慈と郭 孝良は良縁を……だったかな。
──さて、お前で最後だ、高」
「冥婚と、離別……?」
不可解な言葉の並びに、清顕は首を傾げる。
冥婚とは、未婚のまま亡くなった男女が死者同士、あるいは生者と死者とが、冥府での縁を結ぶ行為だ。楊次官は亡き恋人を今も思っているから、冥婚は分かる。だが、現世での離別とは、一体どういうことなのか。
皇帝は小さく笑って、彼に頷いた。
「楊はもちろん冥婚のみを望んだが、現世での離別は、杜長官の助言だ。この先、彼女の思い出を大切にするあいつと、共に歩みたいと願ってくれる相手が現れるかも知れん。その時に、自分の存在が妨げになることを、彼女は望まないだろうと」
上官らしい気遣いに、清顕は思わず頬を緩める。
楊次官はふざけた部下だが、一本気で、懐の広い頼りになる男だ。幸せになってほしいと、清顕も心から願っている。
(ん? 俺で最後……?)
清顕はふと、先ほどの皇帝の言葉を思い出し、恐る恐る彼に尋ねた。
「あの……、陛下。劉、女官は?」
「ん? ああ」
皇帝は軽く応じ、遠い目で、窓の向こう──皇后陛下の宮の離れの方角を見やった。
「やっぱり、訳の分からんことを言う奴だよ、あいつは。自分の現在の立場の保証を──だそうだ。『王 彩華』という子どもの戸籍は、この国のどこにも見当たらないというのに」
清顕は、何も言えずに黙り込んだ。
孫 香蕾、あるいは王 香蕾は、早々に死刑になることが決まっている。先生と仰いでいた老人の暴言に心を閉ざし、彼女は取り調べでもほとんど口を開かないという。
彼女の実家の孫家も、寿天教の幹部からの要請で彼女を受け入れ、戸籍を実子と偽っていた。国家を揺るがす思惑を秘めていることを知りながら、彼女を後宮に送り込んだ罪により、孫家にも族滅が言い渡されている。
そして、彼女が名乗った「王」という家名はありふれていて、その起源を辿ることは難しい。皇帝陛下の権威があれば調べられようが、多忙な彼に、その時間は取れない。
彼女は、翠旺の何だったのか。
知る者は間もなく、この世から消えていなくなる。
夜闇に紛れ、不安に涙を浮かべていた翠旺の姿を思い出し、清顕の胸は音を立てて引き絞られる。
神妙な顔つきになった清顕を、皇帝は呆れた顔で見下ろした。
「……お前は、何を望むのだ? 人のことを気にしている場合か」
ハッと正気に戻り、清顕は皇帝の顔を振り仰いだ。
いつの間にか、いつものように机につき、相変わらず山積みの奏上書と決済書類に目を通しながら、皇帝は小さく眉間に皺を寄せていた。「……ああもう、面倒な」と、書類の向こうに見え隠れしているのであろう官僚の姿に、遠慮なく悪態をついている。
清顕は息を詰め、じっと自らの手のひらに目線を落とした。
(俺が、望むもの……)
地位や金銭などに、元々執着はない。守るべきものを守り、食べていけるのであれば、それで十分だと思っている。
(守るべきもの。……守りたいもの)
何の気なしに思い浮かべたその言葉に、連想されるたった一人の姿。
無茶苦茶で、無謀で、危なっかしくて。涙脆くて、怨霊だろうとすぐに肩入れして、誰かを守るためなら危険にも平気で突っ込んで行く。
清顕の脳裏を、大切な幼なじみの無邪気な笑顔が過ぎった。
手のひらを握り締める清顕に、書類の山と格闘する皇帝はおもむろに口を開いた。
「……これは、一人の男としての忠告だが」
驚いて顔を上げた清顕とは目も合わせず、一心不乱に書類を捌ながら、皇帝はゆっくりと告げる。
「大切なのは、幼なじみだからか? ……それを見誤ると、彼女を不幸にしかねんぞ」
「──!」
その言葉にギクリとして、清顕は目を見開く。
それはまさに、翠旺本人にも当たり前のように告げ、そして今、自分自身が思い浮かべた言葉だったからだ。
彼女と出会ったのは、もう八年も前のこと。
共にいるのが当たり前で、危なっかしい彼女を守るのが当たり前で。
清顕の心の奥深くに、当たり前のように在る少女。
怨霊に連れ去られ、彼女が姿を消した時。彼女を失うのではと考え、清顕の胸に去来したのは、途轍もない恐怖だった。
皇子の怨霊に押し倒された彼女の姿を目にした瞬間、相手への怒りに、頭が沸騰しそうだった。あれは、殺意と呼ぶのに等しい感情。
力尽きた彼女が倒れかけたその瞬間、至高の存在を押し退けてでも自分が支えるのだと、あれは、紛れもない嫉妬と執着だった。
自分の内に知らず知らずのうちに育っていた感情の重さにようやく向き合い、清顕自身、呆然としてしまう。
すっかり固まってしまった清顕の内心をどう捉えたのか、四つ年上の青年皇帝は静かに笑って言った。
「これは、俺の独り言だがな。……曲がりなりにも、『あれ』は俺の下級妃だ。彼女を不幸にするような男に、大切な妻をやるわけにはいかん。
──さて、高 清顕。此度の褒美に、お前は何を願う?」
「わた……くし、は、」
震える声で答えた若き官僚は、恐る恐る、彼の主を見上げた。
玫瑰:まいかいと読みます。薔薇を指します。(本来は「ハマナス」)




