22.朝月夜に君を想う(6)
目の前に立つ女性の放つ雰囲気が、明らかに変わった。翠旺は孫 香蕾の意識が寿天に取って代わられたことを確信し、壊れたように震える左手で懐を探った。何が起こるか分からず、右手の小刀は手離したくない。
痛みのあまりうっすら白んだ視界はぐるぐると回り、耳鳴りと相まって吐き気がする。翠旺は唇を噛み締め、必死に耐えた。
半ば感覚を失った左手の指が、ついに「それ」に触れる。翠旺は小さく息を吐きながら、捧げ持つように女神の眼前に差し出した。
今にも消えそうなほど弱々しい光球が、朝靄の中で微かに明滅する。
女神は愕然とした様子で、震える吐息を零した。
『礼彗……』
礼彗、それが彼の名前なのだろう。
翠旺の手中に在る魂の輪郭は、もはやぐずぐずに崩れ、彼女にもその言葉を聞き取ることは出来ない。長い長い時を孤独に封じられていたその魂は、しかし、ただ一つの名だけを呼び続けていた。
「ずっと、ずっと。か細い声で呼んでいました。『寿天様』……と」
弾かれたように、女神が顔を上げる。翠旺はゆっくりと頷き、彼女の手のひらを離れ浮遊する魂を見守った。ようやく彩度を取り戻した翠旺の視界の中、その光は、ふよふよと頼りなく虚空を彷徨う。だがやがて、帰る巣をようやく見付けた迷子の小鳥のように、光球は女神の手のひらに降り立った。
翠旺は小さく微笑み、彼女に頷き掛けた。
「長い間、彼の魂は西へ東へ……時には国境を越えて、連れ回されていたようです。そして、恐らく幽丞帝の御代に、この皇宮にやって来た……。そうして、彼の魂を人質に、幽丞帝は貴女の仮封じに成功した。その後、彼の魂はずっと、後宮内のとある場所に封じられていたんです。
後宮に捕らえられていることは予測出来ていましたが、その行方を追うことは困難を極めました。でも……、貴女の名を、神気を思い浮かべたら、辿り着けたんです」
『あ……』
か細い光に混ざる自身の気配に、響く微かな声に、女神の目に一筋の涙が浮かぶ。思わず彼女が光球を搔き抱くと、ひときわ強い光が瞬いた。
そよ風にすら吹き消されそうなか細い声が、それでも懸命に、愛する女神の名を呼ぶ。
『寿天様、……じゅてんさま……』
『……礼彗……っ』
愛しげに響く男の声に、女神がその場にくずおれる。全身を引きずるようにしてこちらに歩み寄ってきた清顕が、翠旺の隣に並んで立った。
彼は迷いなく九字を切り、その指先を空に向ける。
「──開け」
次の瞬間、昊極殿から吹き上がった光と風が、真っ直ぐに虚空に伸びていった。
大術の連続に、思わずふらついてしまった清顕の身体を全身で支え、翠旺は呆然となった女神を呼ぶ。
「寿天様! その風に乗ってください!」
『何……を……』
のろのろと顔を上げる女神に、清顕も力強く頷いた。
「神気の通い路をこじ開けました。……お早く! 脆弱な人の身では、あとわずかも保ちません……!」
彼の言葉に血相を変えた寿天教徒たちが、慌てて身を起こしてこちらに飛びかかってくる。しかし、木陰に潜んでいた楊次官をはじめとした祓魔の官たちが、容赦ない旋風を彼らに向ける。彼らはあっという間に弾き飛ばされ、地面や壁に身体を打ち付けて気絶した。
一連の騒動に、女神は唖然としたように瞬きをして、──穢を削ぎ落とした微笑を浮かべた。
『……物好きな奴らだな』
殺せば良かったのに。
そう嘯きながらも、女神はようやく腕の中に帰り来た愛しい男の魂を胸に抱き、そっと目を閉じた。
「うぅ……っ」
香蕾は割れるように痛む頭を抱え、そろそろと身を起こした。
そして覚えた違和感に、彼女は目を見開いた。自分の中を満たしていた圧倒的な神の気配が、跡形もなく消え去っていることに気付く。
(おのれ……!)
美貌を醜く歪めて歯噛みした彼女は、それでも不敵に笑って両足を踏み締めて立ち上がった。こちらの様子を伺っている姉たちに、震える指を突き付ける。
「女神を失ったとはいえ、まだまだ勝機はこちらにある……! 皇宮の外に集まった、李先生の教徒たちが……っ」
「……李先生とやらは、この男か?」
重々しい声が遠くからそう問い掛け、香蕾は息を詰めて振り返った。
蜂起した民衆に、為す術もなく翻弄されているはずの皇帝──董 獅英が、逞しい腕を組んで仁王立ちしている。
差し込む朝陽の中、彼が従えた一団、その腕の一つに捕らえられた姿に、香蕾は血相を変えて叫んだ。
「……先生ッ!」
額から血を流した老翁は、彼女の悲鳴にのろのろと顔を上げた。
屈強な男たちに引き摺られ、彼は香蕾の間近に立たされる。普段、知的な光を湛える瞳は力なく濁り、いつも朗々と衆生に教えを説く唇は、醜く引き結ばれていた。
呆然と固まる香蕾を憎々しげに見下ろし、寿天教徒の当代教祖は、玉の美貌に唾を吐き捨てた。
「……役立たずの、無能が」
呪詛のようなその声に、香蕾の瞳が音を立ててひび割れる。
その様を見ていた皇帝は顔を顰め、溜め息と共に配下の御庭番に命じた。
「李 大峰。孫 香蕾。……民衆の扇動、禁教の復活、昊極殿および後宮の不当占拠、劉常在への刃傷沙汰。他、数々の罪状により、極刑は免れられないと考えよ。──連れて行け」
抜け殻のようになった香蕾の腕を、武官や御庭番は後ろ手に縛り上げる。その隣で同じく拘束されながら、国家転覆を目論んだ老人は、狂ったように大声で嗤った。
「ふふ……、ははは! 偽りの王を戴く腐った国! 李寧は遠からず滅び去る! 一度、民衆の心に芽生えた火種は消えないのだからな!
いつか……いつか大爆発を起こして、驕り高ぶった者どもを、根こそぎ吹き飛ばしていくだろう!」
いきり立つ武官たちを押さえ、年若き皇帝は静かに頷いた。
「……分かっている。そうならぬように、少しでも良き世の中を、創り上げるしかない」
老翁は空っぽの哄笑を漏らし続け、香蕾と共に引き立てられて行った。
長い長い悪夢の夜明けに、祓魔の道士たちが、地下道を駆け回った楊次官が、次々にその場に崩れ落ちた。清顕と共に術を結んだ沙慈たち以外の道士も、いきり立つ民衆たちが皇宮になだれ込まないよう、決死で守護に当たっていたのだ。彼らは口々に、「水……」「腹減った……」「もう寝る……限界……」などと呟いている。
一部の御庭番や武官は皇帝の傍に残ったが、大部分は彼に最大限の敬礼をして、その場を駆け去っていった。未だ混乱の続く皇宮前、寿天教徒の摘発と、不正を行っていた高官たちの連行の手伝いに向かったのだろう。
翠旺はそんな彼らを見つめながら、ぼんやりと立ち尽くしていた。疲労と痛みで、もう何も考えられそうにない。
清顕と翠旺に向かって片手を掲げ、皇帝陛下がこちらに足を向けたのが見える。
頭を下げて挨拶をしなくては。そう思うのに、彼女の指は一本たりとも動かない。皇帝の姿が歪んで見える。
「よくやった、お前たち──」
(あ、……まずい)
キンと一際大きく耳が鳴り、視界が歪な円を描くように激しく回る。
(倒れる──)
ふらついた身体が、地面に崩れ落ちる。
「……翠旺!」
咄嗟伸ばされた逞しい腕が、翠旺の華奢な背を支える。
その腕、その声の主を認識する間もなく、彼女の意識は朝靄の中に吸い込まれていった。




