21.朝月夜に君を想う(5)
女神は不意に覚えた違和感に、ふと顔を上げた。
「寿天様?」
身体を共有する女──香蕾といったか──が、怪訝そうに彼女に呼び掛ける。穢れの女神は『気安く名を呼ぶな』と吐き捨て、窓の外を眺めた。
闇に紛れて、ごく密やかに、異質な空気が建物を囲い始めている。女神とは相容れぬ、この国に古くから伝わる術の気配だった。
(祓魔──といったか、あの若造)
この女も、普段であれば気付いただろうが、今はそんな余裕はなさそうだ。涼しい顔をしているものの、意識を完全に奪われぬよう、必死に歯を食いばっている。神をその身に降ろし、意のままに操ることが、この女に課せられた義務だからだ。
別に、彼女を祀り上げるこいつらがどうなろうが、知ったことではない。退屈から解放され、飢えから逃れられるのなら、何でも良かった。狂信は手っ取り早く気力の補充になるから、馬鹿げた理想論に付き合ってやっているだけだ。
(飽きたな……)
無理矢理この地に縫い止められ、数百年が過ぎた。神にとっても、そろそろ退屈を覚え始めるほどの時間だ。
彼女を呼び寄せた男はとうに死に、脆弱な人の子の世は頻繁に移り変わる。
もうずっと、自暴自棄になっていた気がする。
女神が真心を捧げた相手は、その魂の行方も知れない。つい先日、ふざけたあの男──幽丞帝と名乗っていた──が、彼の魂の所在を餌に彼女を信者から引き離したが、結局彼の居場所は分からずじまいだ。
(八つ裂きにしてやれば良かった)
神の心を弄ぶとは、万死に値する。それでも彼女が手を下さなかったのは、彼が──どこかに眠るかつて愛した男が、嫌がると思ったからだ。
馬鹿げている。
穢れを愛する彼女は、彼女を担ぎ上げた人間たちの思惑に乗り、数多の諍いを引き起こした。今更それを悔やむこともない。人間など、神たる彼女には塵芥に等しい存在だ。
けれど、何とか彼女を逃がそうとひたむきに足掻いた、愚かで優しい彼だけは──悲しませたくなかった。
器であるこの女は、その身体を差し出したところで、神との会話が完璧にこなせる訳ではない。弱い神であれば完全に制御出来ようが、女神ほどの格の持ち主であれば、共有する内容の選択肢はこちらにある。
彼女は、今までの物思いは僅かにも悟らせないまま、淡々と女に尋ねた。
『女。──あの娘は何者だ? えらく濃い怨霊の匂いを纏っていたようだが』
奇妙な娘だった。男物の黒衣を身に着け、いかにも清廉そうな男と並んで立っていた。澱んだ怨念にも清澄な空気にも、どちらにも飲まれず自然体を保つ、不可思議な存在。
彼女の脳裏を過ぎる光景がある。隣に立つ男にごく自然に身体を預けた、二人の間の親密な距離感。負傷した女を強く抱き締め、必死に案じる男の表情。
それは女神に、在りし日の彼女と、かの男の姿を思い出させた。
とうに失ってしまった、かつての屈辱の日々に差し込んだ、一筋の幸福。
寂莫の思いに駆られる女神には気付かず、器の女はうっとりと微笑んだ。
「貴女様と初めてお会いしたあの頃に、生き別れになった姉なのです。寿天の信徒に見出され、神の御許に導かれた私の、大切な半身。私を探すために家を出た愚かな両親に棄てられ、叔父夫婦に持て余され、殺されかけた。怨霊の声が聞こえるだけの、可哀想なお姉様です。
──死んでしまったと、思っていました」
どれほど調べても、彼女の痕跡は九つの年で途切れ、永遠に失ってしまったと諦めたのだという。「まさか、こんなところで再会するなんて」と、涙さえ浮かべて女は語る。
女神は嘲笑に頬を歪め、唾棄するように言った。
『そんなに大切な姉を、あわよくば殺そうとしたか。……とんだ鬼女だな』
「あら! 女神様は、そうした穢れがお好きでしょう? それに、ちゃんと急所は外しましたよ」
女神様がこの世界を掌握し、李先生が国の導き手になられたあかつきには、姉を保護して共に暮らそうと思っています。
夢見るように告げる女を、女神は冷ややかに見つめた。
『……そんな日が、来ると良いな』
彼女を崇める集団が、本懐を遂げることを願っているのか。彼女を利用する彼らが、無様に破滅するのを望むのか。
女神には、自分の気持ちが分からなかった。
呪の最後の一音を唱え終え、清顕はその場に膝をついた。
「とう……かつ、かん!」
「大丈夫ですか……っ」
息も絶え絶えに地に転がっていた周 沙慈と郭 孝良が、半身を起こして清顕を案じている。彼らを左手で抑えながら、清顕は右手をついて懸命に体勢を立て直した。
広大な面積を誇る、昊極殿の母屋。その全体に破邪の術の下準備を施すのには、甚大な精神力と道力が必要だった。発動に際しても、とんでもない気力を要する。
たった二人でやってのける規模の術ではなく、沙慈の額からは、滝のような汗が吹き出している。術を成す間、二人の姿と道力を周囲から隠し通した孝良も、もはや立ち上がる気力もなさそうだった。
清顕はぐったりと倒れ伏した孝良に代わり、改めて彼らの周囲に、隠遁の術を織り成す。緻密なその呪に孝良が目を見張る中、清顕はついでとばかりに、二人に体力増強の呪を施した。
気付いた沙慈が、目を三角につり上げる。
「とっ……」
「俺にはまだ余裕がある。それに、いざと言う時の護衛は、お前たちに頼んだんだぞ。動いてくれなくては困る」
青を通り越して土気色になった顔に浮かへだ清顕の強がりに、年上の部下たちはぎゅっと唇を引き結んだ。清顕は淡く微笑む。
(昔も今も、良い部下に恵まれた)
そして次の瞬間、彼は微かに白み始めた空を睨んだ。
(杜長官からは何も連絡がない。……ということは、あちらは無事だ。翠旺と楊次官は……?)
翠旺が男の魂を見つけ、屋外に隠した二胡で呼鳥を飛ばしたら、清顕が杜長官に合図を送る予定だった。術の気配は恐らく、敵にもすぐに気付かれる。道力を纏った鳥の飛来が、決戦の火蓋を落とす号砲になる。
清顕は純白の鳥の姿を空中に探しながら、じりじりと登り始める朝陽を険しい目で見上げた。この陽が地平線を完全に越えた瞬間、女神の力は完全となってしまう。
(頼む……、急いでくれ! 翠旺……!)
彼の叫びを聞き届けたかのように、その瞬間、一羽の鳥が、一目散に清顕目掛けて滑空してきた。
(……来た!)
清顕は腕を目いっぱい伸ばし、鳥を腕に止まらせる。素早く中を検め、──次の刹那、真っ赤な炎龍を空高く解き放った。
(……やっとか!)
虚空を貫くように噴き上がった炎を認め、祓魔の長である杜 綜哲は、力の限り声を上げた。
「放て──ッ」
地をも揺るがす低音の叫びに、今にも皇宮に押し入ろうとしていた民衆は目を見開いた。その頭上を、鏃を潰された大量の弓矢が掠め飛ぶ。
「うわ……っ!」
「ヒィイッ!」
寿天教徒の唱えるお題目に釣られて集まった民たちは、殺傷力などほとんどないその攻撃にすら、慌てふためき逃げ出した。人垣が割れ、皇宮の正門の前に隙間が生まれる。
そこに、いつの間にか颯爽と姿を現した皇帝・董 獅英が、一面に轟く大音声を発した。
「静まれ──!」
雷に撃たれたように、人々が動きを止める。黒山の人だかりはしんと静まり返り、玉座の若き主を呆然と見上げた。
皇帝は幾千、幾万の視線に怯むこともなく、決然と顔を上げる。その威風堂々とした姿を庇いながら、杜氏は小さく微笑んだ。
彼が唯一の主と戴く青年は、万民に力強く訴えかける。
「寿天を奉じる民に告げる。……お前たちに言われるまでもなく、我はこの国を汚す悪臣を裁く準備を始めていた! 彼らの罪はもはや明白、赦すことなど到底出来ぬ! 奴らの悪事の証拠は、我が全て握っているのだ!」
「う……、嘘だ! お前たちはいつもそうやって……!」
畏れ多くも至高の存在の御言葉を遮り、ボロを纏ったやせ細った男が抗議の声を上げる。瞬間的に加熱しかけた民衆に、皇帝は不敵に笑って告げた。
「嘘ではない。その証に……」
次の瞬間、皇宮の北東方面──高官たちの住む区域で、次々と怒声と悲鳴が上がり始めた。
「不正な蓄財を繰り返した者、祖父が崇めてはならぬと定めた邪教を支援した者。──そやつらの身柄は、たった今、我らが押さえた」
呼鳥が一目散に飛んで行った先を目指し、翠旺と楊次官は地を駆け抜けた。……正確には、翠旺をおぶった楊次官が、死に物狂いで駆け抜けた。
どこかから流れてくる、澄み切った清冽な空気が、二人の頬を叩く。その空気が間近に迫った瞬間、楊次官は息も絶え絶えに切実な声で叫んだ。
「ごめん、降りて翠旺ちゃん! こっからは一緒に走って!」
「……? 分かりました!」
体力を温存させてもらった結果、翠旺の頬は血色を取り戻しつつあった。彼女は左肩を庇いつつ、馴染み深いその気配に向かい、楊次官の後ろをひた走った。
神々しい朝陽が差し込み始め、思わず翠旺が息を呑んだ時だった。その光に照らされた清顕たちが、腕を力強く振って唱和するのが目に入る。
「──邪よ。光にひれ伏せ!」
次の瞬間、昊極殿を中心に、大地が五芒星の閃光を放った。
一切の穢れを許さないその強烈な光に灼かれ、昊極殿の中から次々に絶叫が轟く。
だが、そこに重なって響いた女性の声には、絶望的なまでの余裕が伴っていた。
『ほう。……やるな、道士。随分と、穢れを持っていかれたわ』
広間に続く扉を開け、涼しい顔でこちらを見る孫 香蕾──寿天の言葉に、清顕たちは目を見開いた。
王 香蕾は、絶望に顔を歪める道士たちを見下ろしながら、込み上げる高笑いに全身を委ねていた。
「……あは、あははははははッ 無駄よ! 民の意も神の庇護も、全て私たちにある! 貴方たちにはもう、寿天様と李先生にひれ伏すしか、道は残されていないの!」
愚かな者たちだ。
自分たちの権益にしがみついて、苦しむ民のことも見ようとせず、凝り固まった概念から抜け出せない。
(李先生なら、苦しむ衆生を必ずや救い出してくれる……!)
こちらには、強大な力を持つ女神がついているのだ。先生の教え──平等と公正を旨とした社会運営に反対する者は、女神の神力で屠ってしまえば良い。「悪いことをすれば天罰がくだる」、これほど分かりやすく、美しい世界はない。
勝利を確信する彼女はしかし、自らが強く求める半身、姉の彩華がじっとこちらを見つめているのに気付き、目を細めた。
「いつの間にいらしたの? お姉様。お姉様も早く、こちらにいらして。これからはずっと一緒に……」
「……嫌です」
香蕾が負わせた怪我のせいで本調子ではないのか、心なしか青ざめた顔で、姉はきっぱりと告げる。
鼻に皺を寄せた香蕾に、姉は信じられないような啖呵を切った。
「私は、皇都警邏官・劉 才恩の娘、翠旺です。そして私は、皇帝陛下の何でも屋、祓魔の女官。……傷ついた異国の女神の心をも利用して、人々を自分たちに都合の良いように操る。そんな人たちを、許せるはずがない!」
「──ッ!」
憤激に顔を歪め、香蕾は込み上げる破壊衝動のままに、めちゃくちゃに手を振り回す。彼女の指先から迸ったどす黒い光が、姉を、姉を誑かした祓魔たちを容赦なく襲った。
穢れの女神の放つ邪気そのものに殴り飛ばされ、切り刻まれ、男たちは無様に地面に転がる。
「清顕……!」
男たちの中心に立っていた祓魔の統括官の名を、姉が悲痛な声で叫んだ。
自身も香蕾の腕──そこから放たれる黒い影に、全身が軋むほどの力で捕らえられているのに、彼女の頭にあるのは、幼なじみだというその男のことばかり。
偽りの名前、偽りの関係、偽りの情。
反吐が出る。
愛らしい顔を般若のように顰めた香蕾は、怒りのままに腕を引き、姉の身体を昊極殿の壁に叩き付けた。
「あぅ……ッ、ぐ、ぁあ……!」
昨晩負傷した左肩を強打したのか、姉は肩を抑えて悲鳴を上げた。昊極殿の白木の床板に、細く小さなその手のひらに、赤黒い血潮がじわじわと広がる。
香蕾は一転、表情を殺して彼女に歩み寄り、肩を抑える右手を蹴り飛ばす。
そして、血の滲む姉の左肩を、沓の踵で容赦なく踏み抜いた。
「……ぁぁあぁぁ──ッ!!」
「翠旺ーっ!」
痛みにのたうち回る姉の偽りの名を呼び、祓魔の統括官が血相を変えて跳ね起きた。怒りで蒼白になった顔を引き攣らせ、彼はこちらに突っ込んでくる。破邪のような間接的な技ではなく、こちらの生命を明確に狙って放たれる直接的な攻撃に、さしもの香蕾も──女神も咄嗟に、身を庇わざるを得ない。
彼女を守ろうと立ち上がった寿天教徒の側近たちも、勢い任せの突風に吹き飛ばされ、鉛玉のような水の礫に手足を貫れ、悲鳴を上げて倒れ込む。
瞬間、無防備になった香蕾の耳元に、荒い吐息が囁いた。
「──つかまえた」
華奢な腕が背後から香蕾の首に右腕を回し、掠れた声が楽しげに嘯く。香蕾は顔を歪めた。
「彩華……!」
「誰のことでしょう? 私は、劉 翠旺です」
姉の左腕はもはや使い物にならないのか、だらりと垂れ下がっている。右腕で香蕾の急所に刀を突き付け、自分を翠旺だと名乗った女は、歯噛みする香蕾にニンマリと笑いかけた。
「女神様。……少し、お話しませんか? 貴女が待ち望んだ人の魂を、見付けましたよ」
その刹那、怒涛のように膨れ上がった女神の意識が、香蕾の自我を弾き飛ばした。




