20.朝月夜に君を想う(4)
「翠旺ちゃん! 怪我したって聞いたけど、大丈夫? 無理すんなよ」
つい先ほどまで、邪神だ、国家転覆だ、反撃だ、などと深刻な話題ばかりだったところに、楊次官の軽い雰囲気は、良い意味で翠旺を脱力させた。清顕が眉間に盛大に皺を寄せる。
「劉女官だろう。楊次官」
「はははっ! 陛下はいらっしゃらないんだし、良いじゃないですか」
彼は祓魔の上層部の中で、清顕の唯一の同世代であり、部下である翠旺にも気安く接してくれる。清顕は顔を顰めるが、楊次官──楊 泰成はどこ吹く風と笑っている。
そんな彼が一瞬だけ驚いた表情をしたのは、翠旺がいつもの化粧をしていないせいだろうか。思えば、素顔で彼に会うのは初めてだった。
彼も姿を消す術を自身に掛けている。翠旺たちを認知出来るのは、孫妃や邪神・寿天を除けば、よほど力を持った術師だけだろう。
翠旺は、ヘラリと笑う楊次官の肩を叩いた。
「行きますよ、楊次官」
「ほいほーい。……そんなに睨まないでくださいよ、統括官。翠旺ちゃんは俺がしっかり守りますから」
清顕はじっとりと湿った目で副官を見つめていたが、やがて溜め息を吐いて二人を送り出した。
広大な後宮には、あたこちに霊廟や小さな道観がある。ただ、それらの地下に皇宮の外に繋がる道があったことを、翠旺はこの日初めて知った。
その時のやり取りを思い出し、翠旺は思わず苦い表情になる。
「皇宮に外敵が侵入することは、予測される出来事だからな。女たちを血腥い諍いに巻き込まぬよう、外に出られる道がある。代々の皇后にしか知らされぬ通路で、万が一話が漏れた際には別の経路が造られる」
皇帝は悪戯っぽく笑って言ったが、隣で話を聞かされていた清顕は、頬を引き攣らせた。重大な情報を知ってしまい、緊張を隠せない彼に、皇帝は何とも楽しそうな目を向けていた。苦笑する翠旺にも物言いたげな目線を寄越した皇帝は、「くれぐれも内密にな」と念を押した。
さて、後宮の外、北西の門の手前に、その地下道の入り口はあった。
真夏の湿気に饐えた匂いを発する道を、翠旺は楊次官と共にゆっくりと進んで行く。二人並んで歩くのが精一杯の広さの通路で、楊次官は時折足を止めて様子を伺った。土をならした簡素な地面には所々に木の板が敷かれ、不規則な足音を響かせる。
前後左右に警戒を向けながら、楊次官はふと口を開いた。
「劉女官。……先ほどはふざけて言ったが、本当に無茶はするなよ」
常の陽気さが嘘のような真剣なその声に、翠旺は思わず目を丸くする。肩の怪我は痛み止めで誤魔化しているが、未だ本調子ではない翠旺の様子を、彼はひと目で見抜いたようだった。
楊次官は真っ直ぐに前を見据えながら、言葉を続けた。
「あんまり、統括官を心配させないでやってくれ。……まあ、統括官もお前に散々心配を掛けただろうから、お互い様なんだがな」
「楊次官……」
「お互いを大切に思うなら、自分のことも大切にしろ。どれほど悔やんでも、取り返しのつかないことはあまりにも多いんだぞ」
彼はかつて、将来を誓った恋人を不慮の事故で亡くしている。街歩きの最中、些細な喧嘩の末にはぐれた直後のことだったそうだ。その言葉はあまりにも重い。
先月の事件で多くの部下を失った清顕も、そのことをひどく悔やんでいたと聞く。遠因となる報告を行った自分自身を、翠旺は責めることしか出来なかった。
(──人の生命は、儚い)
神妙な面持ちになった彼女の頭を、楊次官は小さく笑って軽く叩く。翠旺が顔を上げると、彼はふと瞬きをして周囲を見回した。
「……おっと、抜け道だ。この辺?」
「あ、多分。その道を十歩ほど進んだら行き止まりで、そこから上に出られるんだとか。霊廟の地下の、秘密の空間に繋がってるみたいです」
碧霞元君を祀る小さな廟の地下にあたる空間だそうだ。ちなみに、地上の碧霞元君の廟の隣には、西王母を祀る大きな霊廟がある。
行き止まりの先、錆びつきかけた扉を引くと、軋みながらゆっくりと開いた。現れたのは、成人男性の肩幅にはギリギリの空間で、壁には梯子のようなものが打ち付けられている。
楊次官はその梯子を一息に登り切り、天井をコツコツと叩いた。
「土天井に偽装されてるが、木の扉だな。……俺が良いと言うまで待ってなよ」
軽快に告げた楊次官が天井の扉を押し開け、注意深く周囲を伺う。
「……大丈夫そうだ。上がってきて」
天井の上に出た楊次官に促され、翠旺も梯子に手を掛けた。左肩を庇いながら登っていくと、楊次官が手を伸ばして引き上げてくれる。
そこは、皇帝に話を聞いていた通り、木の壁と床の、質素な空間だった。部屋の片隅には、女性が腰を屈めるほどの低い階段が上に伸びている。
長身の楊次官が、「腰やりそう……」と苦笑して、その先を見上げた。
「……ほんじゃまあ、もうひと頑張りといきますか。陛下の仰る秘密の場所は、西王母の廟の裏だよな?」
「そうですね。遷都の際、土地神を祀る地下廟が、その地下にあるって言われました」
「また地下なのね……」
楊次官はまだ二十五歳だというのに、どこか爺むさい仕草で腰を叩いて嘆いた。
「……統括官。後宮に散っていた寿天教徒が、一部を除いて昊極殿に集まっています」
「分かった。警戒を続けろ」
部下の報告を受け、清顕は眦を険しくして目の前の建物──皇帝の住まいである昊極殿を見上げる。見張りを命じた部下たちは、音もなく持ち場に戻っていった。
女神の弱点となりうる、かつての恋人の魂を探すため、翠旺たちが後宮に向かってから、清顕はずっと昊極殿に張り付いていた。
邪と聖、二つの面を持つ女神は、何かが混ざり合う時間にもっとも強さを持つ。それは孫氏が儀式を行った夕刻と夜のあわい、次は朝と夜が重なる明け方だろう。それまでに、翠旺たちが戻ってきてくれれば良いが。
(あんな怪我を負ったあいつに、頼らざるを得ないとは……)
清顕は胸中に渦巻く苛立ちに、自身の拳を握り締める。
本当は寝台に縛り付けてでも、休ませたかった。結界の中に閉じ込めて、傷ついた心身に誰も触れさせたくなかった。
小さな身体からあんなに血を流して、精神的な衝撃を受けて──
(──双子の、姉妹)
翠旺には「考えるな」と告げたが、どうしても、彼の思考は孫氏の側近となった宦官の言葉をなぞってしまう。
奴らは、翠旺の何を知っているというのか。孫 香蕾とは何者なのか。
孫氏が翠旺を見る瞳には、どこか狂的な光があった。穢れを好む神の贄とするためだろう、血が繋がっているという姉に躊躇いなく刃を突き立て、その一方で陶酔したように彼女を見つめていた孫氏。
邪神を降ろし、この国を掌握して、孫氏が次に求めるものは。
(これ以上、翠旺には近付けさせない。……誰にも渡さない)
国の行く末を左右する重大な局面で、私的な思いに囚われていることを恥じる余裕もないほど、清顕は幼なじみを傷つけられた怒りに全身を燃やしていた。その思いは蒼い炎のように彼に纏わりつき、感覚を鋭敏に研ぎ澄ませていく。
「沙慈、孝良。夜が明けるにつれて、邪神は力を増していく。……逆を言えば、夜が深い今、もっとも力が弱まっているはず。今のうちに、昊極殿一帯に破邪の術を仕込むぞ」
背後に控えた部下たちは、清顕を驚いたように見つめた。彼はそんな部下を真っ直ぐに見つめ、ひとつ頷いてみせる。
「神を殺すわけにはいかない。だから、争いを好み、人を傷つけ喜ぶ邪の部分を、弱らせる」
「で、ですが、相手に気付かれれば……!」
「だからお前たちを呼んだんだ」
二人がハッと息を飲む。
この場にいるのは、清顕にはまだ馴染みの薄い部下たちだ。幾つもの死線を共にくぐり抜けた部下は、先日の事件で、彼が守りきれずに無惨に死なせてしまった。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
彼らは、攻撃の力よりも、守る力に長けた術士だった。
「いざとなれば、何よりも自分と陛下、後宮の妃嬪様方を守ることを優先しろ。……破邪の術の準備は、沙慈、手伝ってくれ。孝良は俺たちの姿を敵から隠し通せ。術の発動は、翠旺たちが例の魂を携えて戻って来たら。あまり準備の時間はない。
──やるぞ」
清顕は二人の配下を見つめ、力強く言った。
「……しっかし、よくもまぁ、こんなに溜め込んでたものですねぇ」
祓魔の長官・杜 綜哲は、鋭い三白眼を細めて笑った。
ここは昊極殿の離れ、普段、翠旺たちとの密談の際に使う小部屋だった。
側近たちの目すら欺いて、皇帝自身が部屋のあちこちに隠していた数々の書籍に、御庭番の精鋭宦官たちが目を丸くしている。
小部屋には皇帝・董 獅英のほか、彼の「何でも屋」たる祓魔の杜長官とその副官、御庭番の宦官でぎゅうぎゅう詰めになっていた。入り切らない残りの御庭番たちは、闇夜に紛れて周囲を警戒している。
獅英は開き直るように言ってのけた。
「……官僚たちは俺のことを、ろくな後ろ盾も持たない腑抜けの皇帝と甘く見ていたからな。証拠集めは容易かったぞ。民の救済を口実に不正は働くわ、邪教復活を支援するわ、散々だ。……さすがに目に余る者は、さっさと裁いたがな」
「恐ろしいお方だことで」
彼の父帝は、高官や宦官の不正を許さず、自身の威光を損ねるものに容赦がなかった。
祖父帝も政治に熱心とは言えなかったが、彼が大切にする国や文化を汚す者は、躊躇なく罰していた。
だが、彼らはいずれも有力な后妃の子として生まれ、絶対的な権力を持っていた。父の跡を継いだ義兄たちは、奸臣たちの見極めを受ける前に、病や事故で相次いで生命を落とした。
中級妃の子である獅英だけが、即位前も即位後も、軽視され続けてきたのだ。
(高官たちも、寿天教徒たちも。馬鹿にするのならすれば良い。……最後に勝つのは、この国を守るのは、俺だ)
獅英は獰猛に笑い、呼び寄せた者たちを前に不敵に告げる。
「昊極殿を不当に占拠した寿天教徒は、高統括官が警戒している。奴らを抑え込む要となるものは、劉女官が捜索に向かった。
俺たちは、夜明けと共に、皇宮間近に迫った逆賊どもを叩く」
「……お手持ちの戦力は、いかほどで?」
皇帝の言葉に怯祓魔の官や、御庭番の宦官たちの中、既に作戦を聞かされていた杜長官だけは平然として尋ねた。獅英は肩を竦めて、傲然と笑う。
「杜長官が掌握している祓魔は、信用して良いな? あとは、ここに集まった御庭番と、外廷との狭間で立ち往生している武官三十名だな。
外廷の高官どもは、どちらに転がるか、高みの見物を決め込んでいる」
ざわつく周囲をものともしない獅英に、杜長官もよく似た獣の笑みを浮かべて答えた。
「なるほど? 全ては、陛下の弁舌にかかっているわけですな」
「ただの筋肉馬鹿じゃないことを、存分に見せ付けてやる。……頼りにしているぞ」
獅英の言葉に、祓魔と御庭番、普段は互いにぶつかりがちな両組織の者たちが、額を突き合わせて作戦会議を始める。その様をじっと見つめながら、杜長官がふと、獅英の耳元で囁いた。
「陛下。高統括官も劉女官も、優秀な自慢の部下です。……ただ、あまり買いかぶり過ぎぬよう。彼らが間に合わないことも、まるで歯が立たないことも、十分に有り得ます」
冷静な壮年の男の声音に、しかし、獅英は鷹揚に頷く。
「分かっている。もしもの時は、せいぜい無様に足掻くさ。──その際は、こいつらのことを頼むぞ。斃れるのは俺一人で良い」
「ご冗談を」
間髪入れずに答え、杜長官は目を細めて笑った。
「貴方様という太陽がお隠れになるのなら、私の目も、翌日の朝陽を映すことはございませんよ」
その言葉に、獅英は微かにたじろいで彼を見やる。強かな祓魔の長官は、まだ若い皇帝を真っ直ぐに見据えて続けた。
「参りましょう、陛下。──勝利を掴みに」
翠旺は、焦りのあまり冷や汗をかいていた。
(なんで……!?)
土地神を祀ったという地下廟、入り組んだその脇の小部屋には、確かに「何か」が隠されていた跡があった。
だが今、そこには何の存在も感じられず、がらんとした闇が広がるばかり。
楊次官は翠旺を落ち着かせるように、彼女の肩を軽く叩いた。
「落ち着いて、翠旺ちゃん。『何か』はいたんだよな? その気配は追えない?」
「試してみたんですけど……。無理です。何も残ってない。もしかして、幽丞帝が封印場所を変えたのかも……」
思わず唇を噛んだ翠旺は、瞬間、襲いかかった目眩に足元をふらつかせた。薬の効果が切れかかっているのか、左肩に熱いような鋭い痛みが走る。
慌てた楊次官に支えられつつ、翠旺は目まぐるしく思考を巡らせた。
「でも、隠すなんてどこに? 後宮で、ここ以上に安全な場所なんてない……」
「陛下が仰るには、時折、地下道は作り直されるんだよな? もしかして五十年前、道自体が変えられたのかもしれない」
冷静な楊次官の指摘に、翠旺は勢いよく顔を上げる。思いがけず近い距離にお互いの鼻先があり、楊次官が上体を大きく仰け反らせた。
「うおっと! 高統括官に殺される!」
「……はい?」
翠旺は訝しむが、楊次官は「なんでもない」と首を振る。翠旺の背から手を離し、不意に彼は真顔に戻って言葉を続けた。
「──で、どう思う? 地下道の存在を知るのは、歴代の皇帝陛下と皇后陛下だけなんだよな? それなら、大掛かりな工事は出来ないし、ここまでの道のどこかに、分岐があるかも知れない」
「怪しいのは、ここに繋がる道と分かれて伸びていた、あそこですよね……」
翠旺は顔を顰めつつ答えた。
時間の余裕がない。事前に話し合った作戦では、皇帝は夜明けに行動を起こすと言っていた。あまりあちこちを探し回っていては、間に合わなくなる。
「幽丞帝……」
ふと楊次官が呟き、翠旺は「え?」と首を傾げた。彼は普段の軽薄な印象から一転、真剣な眼差しで宙を睨んでいる。
「基本的には芸術保護に熱心で、それ故に、邪教を許さない苛烈さを持った皇帝。その後宮では騒動も多かった。……その方が、もっとも寵愛した相手は」
「……夏静嬪」
翠旺も目を見開く。
上級妃付きの侍女でありながら、皇帝に寵愛されたために周囲の嫌がらせを受け、心を病み、自ら生命を絶った女性。
幽丞帝はなぜ、どこで彼女を見初めたのか。
その主たる上級妃の宮の近くに、頻繁に出向くことがあったからではないか。
「彼女が仕えたのは、後宮の東に住まう賢妃です。……そちら方面に伸びる地下道があれば!」
勢い込んで声を弾ませる翠旺に、楊次官も頷く。
「可能性は高い。……さっきの道、位置関係から考えて、東側に伸びていた」
「行きましょう!」
顔を輝かせた翠旺に、楊次官は何故か顔を引き攣らせ、顎に手を添えた。
「翠旺ちゃんに無理させるのと、おぶって走るのと、どっちがましか……」
「……はあ?」
訳の分からないことを口走る上官に、翠旺は再び首を傾げた。




