19.朝月夜に君を想う(3)
翠旺は身体の土汚れを叩き落としながら、その場に集った人々の様子を伺っていた。
驚きに目を瞠る皇帝陛下。畏れ多くもその身体を取り押さえながら、こちらを愕然と見る寿天教徒たち。そして、いつもと変わらない笑みを浮かべた孫慧妃。
清顕がさりげなく前に出て、彼女を警戒している。翠旺は彼の肩越しに、その顔をじっと見つめた。
孫妃は穏やかな声で、翠旺に声を掛ける。
「よく出来た人形でしたのね。騙されましたわ。……脱出を支援したのは、誰かしら?」
「声真似が得意な人がいまして」
あの日の晩、着替えを届けに来たのは、祓魔の楊次官だった。
気配を殺して邪教徒の動向を伺っていた彼は、翠旺と清顕の監禁場所を突き止め、孫妃に命じられたふりで堂々と小部屋に近付いた。
彼が投げ落とした着替えの襟元や帯の裏には、幾枚もの呪符が仕込んであった。清顕はそれらを駆使して、自分たちの身代わりの人形を作り上げたのだ。その後、二人は楊次官の手引きで部屋を抜け出した。
即席の術でどれだけ誤魔化せるか、清顕は不安がったものの、焦って突っ込んで皇帝を危険に晒すことも出来ない。幸いと言っても良いものか、すぐに昊極殿で動きがあり、翠旺と清顕は皇帝救出に乗り出した。
今、塀の向こうには、祓魔の官たちがひしめいている。
孫妃はあくまで、おっとりとした微笑を崩さない。
その不気味さに翠旺は内心怯むが、強気を装ったまま啖呵をきった。
「あなたたちは包囲されています。武器を捨てて、大人しく投降してください」
彼女の言葉に顔色を変える寿天教徒たちの中、孫慧妃は妖しげに煌めく大きな瞳を細めて答えた。
「嫌と言ったら?」
「実力行使で、諦めていただきます」
「……そう」
小さく溜め息をついた孫妃は、次の瞬間、一転して大輪の花のように破顔した。
「記憶を無くしても、お姉様はやっぱりお姉様ね。──そういう迂闊なところ、大好きよ」
そう言うやいなや、孫妃は手にしていた短刀を腹の脇に構え、皇帝目掛けて駆け出した。清顕が皇帝を庇うように、素早く彼の前に走り込む。
だが、次の瞬間、孫妃はその場で急停止した。華奢な手に握り込んでいた刀を、大道芸のように勢いよく放り投げる。
空を切り裂いた刃に肩を貫かれ、翠旺は痛みに顔を歪めた。
「翠旺!」
「……うふふ、は、あはっ!」
清顕の叫び声と、孫妃の哄笑が夜空に混ざった。
翠旺の指先を伝い落ちた血潮は、微かな音と共に、彼女の足元に斑模様を描く。
血に汚れたその地面が、不意に不穏な音を立てて揺れた。
痛みに一瞬気を失っていた翠旺は、清顕の腕の中で意識を取り戻した。
「翠旺! 大丈夫か!?」
「せい、け、……あれ……」
彼女が震える指先で示したのは、禍々しい光に包まれた孫 香蕾だった。
皇帝を取り押さえていた寿天教徒たちは、その手を離し、恍惚として彼女を取り囲んでいる。皇帝も少し離れた先で、恐懼の目で自身の妃を見上げていた。いつの間にか塀を乗り越えて来ていた祓魔の同僚たちが、そんな彼を守るように立っている。
清顕は悔しげに顔を顰め、翠旺の耳元で呟いた。
「間に合わなかった。──寿天が、降りた」
「……ッ」
息を呑んだ翠旺に気付いたのか、孫妃がゆっくりと振り返る。大きな杏仁型の瞳は赤く染まり、艶やかな朱唇が歪んだ笑みを浮かべた。
『……久しぶりだな。我が声を聞く娘よ』
その声は確かに孫妃のもののはずであるのに、無邪気な子どものようにも、嗄れた老婆のようにも聞こえる。
翠旺は全身を恐怖に震わせながら、小さな身体で周囲を圧倒する女性を見上げた。
「何……を、言っているのか……」
『ほう? 我を忘れたか。二、三度、この娘の身体に降り立った時に、遊んでやったのだが。……まあ、この娘も当時は我のことを認識出来ておらなんだ。似た者姉妹ということか』
李の爺はこの娘を見付けた時、我の残滓に狂喜していたのだがな。
楽しげに呟くその存在に、翠旺は思わず声を荒らげた。
「姉妹って……、一体何のことですか!? 私は……」
「──貴女の名前は、王 彩華。我らが姫巫女、王 香蕾様の双子の姉君です」
静かな声で答えたのは、孫妃のすぐ側に立っていた宦官だ。その静かな声音に、翠旺は目を見開く。
皇帝付きとして、翠旺も何度か顔を合わせたことのあるその宦官は、敬虔な眼差しで孫妃を見ていた。彼らを取り巻く他の寿天教徒たちは、驚いたように目線を交わしており、彼が告げた内容は教団の中でも一握りの者しか知らなかったのだろう。
彼はそれ以上のことは口にせず、尊大に腕を組む孫妃──その身体に宿る神を恭しく促した。
「参りましょう。我らが偉大なる女神には、相応しき場で過ごしていただきたく」
『……何でも良い。腹が減った』
「ちょうど、夕餉の支度が出来たところです」
悠々と歩き出す彼らを、翠旺は咄嗟に呼び止めようと身体を起こした。しかし、左肩に走った激痛に、彼女は再び蹲ってしまう。
「……待て!」
清顕が翠旺を庇いながら、渾身の炎を解き放った。祓魔の官たちも後に続き、各々一斉に術や武器を放つ。
猛り狂う炎の龍は妃の周囲を取り囲み、瞬きの間に霧散した。
『……他愛ない』
振り返りもせず、つまらなそうに呟いた邪神は、ヒラヒラと片手を振る。
翠旺たちは、その背が放つ威圧感に飲まれ、呆然と見送ることしか出来なかった。
軟禁生活を送っていた皇帝と、怪我を負った翠旺は、すぐに医務室に運び込まれた。診察を終えた皇帝は、手当を受ける翠旺を案じるように、その顔を覗き込む。
「大丈夫か?」
「あ、はい。……遅くなり、申し訳ございませんでした」
頭を下げる翠旺に、皇帝はまるで自分が怪我をしたような、痛々しい表情を浮かべた。
彼はいつになく沈鬱な雰囲気を漂わせ、逞しい身体を丸めている。
「すまない、こんなことに巻き込んで……」
項垂れる彼の目線の先には、翠旺の襟元から覗く包帯がある。幸い、骨や神経に当たることはなかったが、それなりに深い傷跡となり、しばらく左腕は使えなさそうだった。
けれど、詫びなくてはならないのは、翠旺の方だ。
彼女は「皇帝の何でも屋」の祓魔の一員。彼が望む時に望む働きが出来ないのは、致命的だ。
翠旺は気丈に微笑み、胸に右手を当てて頭を下げた。
「こちらこそ、後手に回っており申し訳ございません。出遅れましたが、必ず、陛下の憂いは退けます」
「劉女官……」
いつもの重々しい雰囲気がすっかりなりを潜め、皇帝は苦悩の表情を滲ませている。翠旺は自身の胸の内に渦巻く思いを抑え、力強く頷きかけた。
彼がようやく微かに笑ったところで、医務室の扉越しに壮年の男性の声が響く。
「陛下、祓魔の杜と高が参りました。入ってもよろしいでしょうか?」
「……許可する」
医務室の扉には清顕が術を掛け、互いの声によるやり取りを経なければ開かないようになっている。寝台を降りた翠旺が、皇帝を庇うように立ったところで、扉がゆっくりと音を立てて開いた。
入れ違いに部屋を出ていく医官と会釈を交わし、杜長官と清顕が入ってきた。
彼らは皇帝に素早く頭を下げ、直言を許された杜氏が単刀直入に切り出す。
「奴らは、昊極殿に向かいました。邪神の力によるものか、強力な結界のようなものが殿舎全体を覆い、立ち入ることは容易ではなさそうです」
「外の寿天教徒たちに動きは?」
「今はまだ、何も。ですが、夜明けを迎えればどうなるか。『神の加護を得た』と、勢い付くことは想像に難くありません」
苦い表情の杜長官に、皇帝も深々と溜め息を吐く。重苦しい雰囲気に、束の間、その場の全員が押し黙った。
やがて、杜長官がヤケになったように笑う。
「いっそのこと、憑代となった孫 香蕾ごと、破魔弓で狙いますか」
「長官、それは……」
清顕が窘めるように顔を顰め、長官も「冗談だ」と返した。
不謹慎ではあるが、皇帝に反旗を翻し、その身を傷付けようとしたことは大罪である。邪教とされる寿天教徒の扇動という罪も加えると、彼女の死刑は決定的だった。
だが、今の状況でそれをするのは、かえって火に油を注ぐようなものだ。神をその身に宿した彼女に破魔弓が届くかも分からず、そもそも邪神であっても、神殺しは禁忌の行為。
八方塞がりだ。
翠旺はふと、首を傾げて杜長官を見上げた。
「……長官。寿天は元々は、異国の神だったんですよね? 無理矢理この地に連れて来られたと聞きましたが、一体、何があったんでしょうか」
唐突な翠旺の言葉に、杜長官も清顕も、皇帝も怪訝そうな表情を浮かべている。彼らは目線を交わし、清顕が代表して口を開いた。
「数百年前、権力争いに敗れて破門された高僧がそれを恨み、復讐のために禁断の儀式を行ったらしい。彼は道教に造詣が深く、異国の宗教にも通じていた。それがばれて、異端扱いされたのが破門のきっかけだったらしい。……その彼に捕らえられてしまったのが、自国での神々の争いに敗れ、異国を彷徨っていた寿天だった」
弱った身体では逃げ出すこともままならず、かの女神は屈辱に耐えながら、その僧侶の復讐に協力させられていた。
だが、やがて、女神の心からに変化が現れる。彼女は、高僧の取り巻きの一人と禁断の恋に落ちたのだ。
「その取り巻きも、破門僧が寺院を追い出された際、無理矢理連れて来た弟子の一人だった。……神と人。共に生きることは難しいと分かってはいたが、彼らは手に手を取りあって、逃げ出そうとしたらしい」
だが、神の力を得て、人ならざる者になりかけていた僧侶は、それを許さなかった。弟子の男を殺し、その魂を人質に、女神に協力を強制した。
「ひどい……」
ポツリと呟いた翠旺に沈痛な面持ちで頷き、清顕は話を締めた。
「男の魂は厳重に隠され、高僧が処刑されて数百年経っても、その所在は分からない。神に対する非道を恥じ、時の権力者たちも一連の騒動には口を噤んだ。時代は巡り、国号が李寧と改まった今、ようやくかの女神の来歴が明かされたんだ。
……もともと邪の一面を持っていた寿天は、愛する男を失った悲しみで聖性を保てず、今は邪神となって彼女を慕う一派に力を貸している」
長い語りを終えた清顕が、小さく咳払いをした。
翠旺はじっと顎に手を添え、考えを巡らせる。知らず知らずのうちに推測が口から零れ落ちていたが、彼女は気付かず、自分の思考に没頭していた。
「弱っているとはいえ、相手は神。それを旗印に掲げた集団を、幽丞帝は糾弾に成功している。
……もしかして、女神の恋人の魂の所在を知っていた?」
皇帝がハッと息を呑み、杜長官は無表情で翠旺を見つめる。清顕が上官から庇うように、翠旺の前に立った。
現帝の祖父は、男の魂が眠る場所を突き止めたのではないだろうか。だから、信仰を得て力を取り戻しつつあった女神を封印できた。
……例えば、男の魂を人質に取って。
翠旺の推測は妄想に近く、口にすれば、不敬罪に問われても仕方のない内容だった。
それでも翠旺はある確信を持って、清顕の肩越しに皇帝と杜長官を見上げた。
「寿天教徒が後宮内で騒動を起こし、一帯を占拠したのは、そこに、女神の源──愛する男の魂が眠っていると推測したからではないでしょうか?」
皇帝が目を見開き、翠旺をじっと見下ろした。彼は震える声で、翠旺に答える。
「……もし、女神がそれを知らないのならば。いや、例え知っていたとしても、こちらが先に見つけてやれば」
翠旺は、皇帝に頷き返した。
「女神の未練は解放され、この地に留まる理由がなくなる。──寿天教徒は、旗頭を失います」
顔色を明るくした皇帝に、杜長官が小さく肩を竦める。だが、彼はすぐにその場に跪き、真っ直ぐに皇帝を見上げた。
「……陛下。我らが祓魔に、後宮捜索の権限をお与えください。もっとも、寿天教徒たちも、それらしき場所は既に探しているでしょう。ごく一部の方のみがご存知である秘所、そうしたものがあれば、委細漏らさずご教示賜りたい」
それは、後宮の主たる皇帝、皇后に比する権限を要求する行為だった。清顕の背中に緊張が走り、翠旺も自分が始めた話ではあるものの、思わず息を詰める。
皇帝はしばし無言で杜長官を見下ろした後、おむろに頷いた。
「許可する。……ただし、大挙して押し寄せられるのは困る。捜索は劉常在と、せいぜいあと一、二名ほどに留めてくれ。お前なら、厳重に隠された魂も見つけることも出来るだろう。
高統括官は、昊極殿で奴らを監視しろ。何か動きがあれば女神を牽制し、劉常在の不在を気取らせるな。
杜長官、お前は俺の補佐だ。準備に付き合え」
「補佐……とは?」
目を瞬いた杜長官に、皇帝は獰猛に笑った。
「寿天を帰したところで、その信徒たちが残っている。奴らを引かせるには、ある程度交渉の余地を作らねばならんだろう」
「まさか……、奴らの主張をお飲みになるのですか?」
表情を険しくした清顕に、皇帝はニヤリと笑い掛ける。先ほどまで途方に暮れ、俯いていた弱気な姿は完全になりを潜め、常の堂々とした偉丈夫がそこにいた。
目に光を宿し、彼は笑う。
「一部だけはな。俺とてこの二年、周囲に遠慮して、縮こまってばかりいた訳じゃない。いつか真に皇帝としての実力をつけた時、佞臣を排し、政道を正せるよう、準備はしていた。
……長年、不正で私腹を肥やしてきた奴らに、密かに寿天の信徒名簿に名を連ねる者がいたというだけだ」
逆境の中、虎視眈々と牙を研いでいた若き皇帝は、その名に相応しい、獅子のように力強い目で昊極殿を振り返った。
「行くぞ。──反撃開始だ」
「……はっ!」
祓魔の一団は声を揃えて応え、その場で頭を垂れた。
翠旺はこのまま捜索に向かうことになり、清顕は楊次官を同行させることを決めた。清顕に次ぐ手練の道士で、機転の利く彼ならば翠旺も心強い。清顕はすぐに呪を唱え、楊次官に指示を飛ばした。
清顕の術によって姿を消しつつ、まだ痛みのある肩を庇いながら、翠旺は医務室を出ようとした。
皇帝から聞かされた後宮の秘所、その侵入経路は意外な場所にある。土地勘のない楊次官とは、この医務室の前で待ち合わせだ。
彼女に続いて部屋を出た清顕が、ふと周囲を憚るように見やったあと、翠旺の顔を覗き込んだ。
「……大丈夫か?」
労るような幼なじみの声に、ここまで懸命に保っていた翠旺の緊張の糸が不意に緩む。彼の声は、肩の負傷を案じたものだけではない。
翠旺は小さく息を吸って、隣に立った彼の袖口を握り締めた。
「──王 彩華って、誰……? 孫 香蕾って、私の何なの……?」
目先の任務に集中し、誤魔化してきた動揺が、今になって彼女を襲う。
孫妃に影のように張り付いていた宦官、彼が口にした台詞がずっと心に引っかかっていた。
翠旺には、幼少期の記憶がない。怨霊が常に近くにいたこと、二胡を嗜んできたことだけは、朧気に覚えている。ただ、親の顔も、自分の本名や年齢すらも、何も分からない。
彼女に残された最初の記憶は、あばら家で襲いかかって来た怨霊の姿越しに見た、十三歳の清顕の姿だ。
あの日、師と共に彼女を救い、その後もずっと傍で見守ってくれていた幼なじみは、微かな躊躇いの後、そっと彼女の頭を抱き寄せた。もう一方の腕が、力強く翠旺の背に回る。
「今は考えるな。……それに、俺にとってお前は、『劉 翠旺』だ。皇都警邏官・劉 才恩の溺愛する娘で、俺の大切な幼なじみの」
髪を撫でる彼の手は、ひたすらに優しく、暖かい。
染み入るようなその声に、翠旺の揺らぎかけた自我がゆっくりと安定を取り戻していく。
彼女は小さく鼻を啜り、キュッと唇を噛んで頷いた。
「うん。──ありがとう、清顕」




