18.朝月夜に君を想う(2)
董 獅英は壁に頭を打ち付け、重い息を吐いた。
皇帝の住まいたる昊極殿は広い。何に使うつもりで造ったのか分からないような離れや、客間がいくつも存在している。その離れの一つに押し込められ、獅英は身動きが取れなくなっていた。
日の出入りや食事の回数から数えて、あれから五日ほどが経っているだろう。賊は獅英を害するつもりはないのか、食事や着替え、湯浴みさえ許した。もちろん、傍につくのは寿天教徒と思しき官民だったのだが。
孫慧妃はあの日以来、姿を見せなかった。彼らが決起した直後は、蜂の巣をつついたような騒ぎだった後宮も、今は不気味なほどに静まり返っている。
(……何を企んでいる)
孫 香蕾は、「寿天を降り立たせる」と言っていた。少なくとも彼らは、神を概念ではなく、実在する存在だと捉えている。
神を降ろすためには、何らかの犠牲が必要となる。
明日には新月となる。
世界を塗り替える儀式を行うには、最適の日。
彼らは何を、あるいは誰を、神に差し出す気なのだろうか。
獅英は無力だった。
普段は至高の存在と崇められ、大勢の民に傅かれていても、この身一つでは何も出来ない。敵の真意を探ることも、自らの力で窮地を脱することも。
清潔で豪奢な牢獄の中で一人、獅英は膝に顔を押し当てて俯いていた。
「──姫巫女様」
後宮と外廷の狭間、皇帝の住まいである皇極殿の一室。ゆったりと寛いでいた孫 香蕾は、密やかに自分を呼ぶ男の声に、顔を上げた。
彼は尊崇すべき寿天教祖の右腕で、今回、後宮での決起を率いる香蕾の補佐となるべく、事前に皇宮に遣わされていた青年だ。数多いる皇帝付き宦官の一人として、地道に仕え、今回の蜂起の地ならしを行ってきた。
案じるようにこちらを見上げる彼に、香蕾は苦笑気味に言った。
「……だめね。まだ、私自身に力が足りていないみたい」
皇都の、国の縮図である後宮には、彼女たちが崇拝する女神の好む、穢れの空気に満ちている。
ただ、器たる香蕾自身に、穢れが足りていない。
神を宿してしばらくすると、猛烈な飢餓感に襲われ、神は陰の気を求めて彼女の身体を離れてしまう。
香蕾は溜め息を零し、夜空に浮かぶ繊月を見上げた。
「皇帝? それとも、身内? 寿天様は、どちらの血をよりお喜びになるかしら……?」
夢見るような表情の彼女を、宦官の青年はじっと無言で見つめている。彼を下がらせ、しばし一人で黙考したのち、彼女はポンと手のひらを打ち合わせた。
(迷っても仕方ない。手っ取り早い方を、贄にするしかないわね)
彼女には物心ついた時から、神降ろしの才があった。
神や仏に仕える一族の出でもなければ、道術とも縁がない。地方貴族の娘として生まれた彼女に備わった異例の力に、周囲は畏怖と崇拝の眼差しを向けた。
もっとも、その身に受け入れるまで、香蕾には神と言葉を交わすことは出来ない。
自分の意に反して身体の自由を奪われる恐怖に、幼い彼女はいつも怯えていた。
その力を制御する術を教えてくれたのは、教祖である李氏だった。
彼は、幽丞帝による寿天教徒粛清の生き残りだ。
国に同胞を売った裏切り者や、寿天の名を利用して私腹を肥やした不届き者を時間をかけて排し、救世済民を願う教団という本来の姿を取り戻させた英雄だった。そして、十一年前のあの日、香蕾を見出し、育ててくれた恩人でもある。
修行の果て、彼女はついに、自分の意志で神をその身に宿すことが出来るようになった。李氏は香蕾の身体に寿天を降ろし、苦境に喘ぐ民を神の力で救うことを願うようになった。
祖父のように慕う李氏の役に立ちたい。民を救いたい。
長じるにつれ、香蕾はそう強く願うようになった。
神の降臨を叶えるためならば、皇帝だろうと、姉だろうと、手に掛けることは厭わない。
「蓮児! いる?」
香蕾は華やいだ声で、侍女の名を呼ぶ。
彼女付きの筆頭侍女は、香蕾が寿天の信徒だと知るやいなや、神を冒涜する言葉を吐いて逃げ出そうとしたため、始末した。故郷から伴ってきた媚晶は、迂闊な言動で教団を危険に晒した罰としてちょっとした折檻を受け、療養中である。今は彼女が、香蕾の筆頭侍女だった。
蓮児は、有能な侍女だ。ただ、「美しくない」という理由だけで周囲に虐げられ、苦渋を舐めてきた。彼女に寿天の教えを説いたのは香蕾であり、今や蓮児は敬虔な教徒となっている。
自身を陶酔の眼差しで見上げる侍女を、香蕾は笑顔で見下ろした。
「皇帝陛下を、広間の前庭にお連れして。それから、劉常在もね。……彼女と一緒に閉じ込めている祓魔は、どうでも良いわ」
生真面目に応じ、弾む足取りで部屋を出ていく蓮児を見送って、香蕾は愛らしい大きな目を細めた。
「国を二分する大河を流れる水は、翡翠色。その色を名に持つ翠旺様。……いいえ、彩華お姉様」
(十一年間、片時も忘れたことなどなかった、大切なお姉様。まさか、こんなところで再会するなんて)
清水に囚われた怨霊に託した愛を、彼女は理解してくれただろうか。いや、理解してくれていなくても構わない。愛する家族ならば、きっと、言葉などなくても分かり合えるはず。
寿天様の素晴らしさを理解し、喜んで礎になってくれるだろう。
六つの時に生き別れになった、双子の姉。その現在の姿を脳裏に浮かべ、香蕾は熱く湿った吐息を漏らした。
首に巻き付けられた縄を引かれ、獅英は屈辱を噛み締めながら、ノロノロと歩を進めた。
(……まるで狗だな)
自嘲の笑みを浮かべるも、周りを寿天教徒に囲まれ、逃げ出すことは出来ない。昊極殿に仕える者たちは全員捕らえられており、この姿を目撃されずに済んだことだけが救いか。
連れて来られたのは、彼の私的な謁見場の前に設えられた小庭だ。日没から間もない、月の隠れた夜。小さく焚かれた篝火に照らされ、我が物顔で寛いでいた孫 香蕾が顔を上げる。
「ごきげんよう、陛下」
まるでいつかの夜、伽の相手に指名した時のように艶やかに微笑む孫妃に、獅英の背筋を冷たい汗が伝った。彼女を崇拝するように見上げた男たちが、獅英の首の縄を引き、彼をその場に跪かせる。
「乱暴にしないで。こんなことで怪我をされたら困るわ」
「姫巫女様……。申し訳ございません」
眉を顰めた彼女に、周囲の男たちが慌てて応じる。小さく息を吐いて首を振った香蕾は、近付いてきた賑やかな声にパッと顔を上げた。
寿天教徒に取り囲まれ歩いてきたのは、劉常在と高統括官だった。腕を捻上げられ、悪態をついていた彼女は、その場の状況に目を丸くする。
その様を見た孫妃が、血相を変えて叫んだ。
「……何をしているの! 手を離しなさい!」
彼女の剣幕に、全員が驚いて息を呑む。咄嗟に男たちが劉常在から手を離し、香蕾がホッと大きく息を吐いた。
彼女は劉常在を見つめ、ふと瞬く。
嫌な予感が走り、獅英は思わず息を詰めた。
「……よく、いらしてくれたわ」
香蕾は静かな足取りで劉常在に近付き、
──背後に隠していた右手に握っていた小刀を、劉常在の首元で横薙ぎに払った。
「翠旺……ッ!」
蒼白な顔で叫び、獅英は駆け出そうとした。周囲の寿天教徒が彼の身体に飛びかかり、獅英はその場に膝を着く。
恐怖と絶望に震える彼の目の前で、首を搔き切られ、血を噴き出した劉常在が、ゆっくりと崩れ落ちた。
……そして、そのまま姿を消す。
呆然とする獅英たちをよそに、ただ一人、孫慧妃は肩を竦めていた。
「……バレちゃいましたか」
あっけらかんとした声が塀越しに響き、ふわりとした影が降ってきた。
黒衣を纏ったそれらの影は、一つは難なく着地したが、もう一つは音を立てて無様に地に落ちる。
盛大な溜め息を零した影に助け起こされたその人物は、顔を上げ、晴れ晴れと微笑んだ。
「こんばんは。皇帝陛下、孫慧妃」
「……劉常在」
苦い表情の高 清顕を従え、先ほど凶刃に倒れたはずの劉 翠旺が、いつも通りに能天気に笑っていた。




