第3話 暗く迷えるその夜空、私が照らそう
(風が……気持ちいい……そうだ、私は輸送竜から落ちて。でも、この風は上がってて……)
落下しているはずなのに、頬を撫でる風はどこか優しかった。重力が消え、空に抱かれているような、不思議な浮遊感。
朦朧とした意識の中、ルーシェの思考が徐々に鮮明になっていく。落ちていたはずなのに、なぜ風が下から上に吹いているのか。
答えはすぐに、視界に飛び込んできた。
闇のような濃紺の鱗。広げられた巨大な翼。
「はっ……!」
ルーシェは弾かれたように目を見開いた。
自分は、落ちていない。落ちていたはずの身体は、何か硬く、温かいものの上に乗せられていた。竜の背中。先ほどまでの輸送竜とは比べ物にならない、しなやかで力強い別の竜の背。
「む、気がついたか。落ちていく君を見つけた時は驚いたが、間に合って本当に良かった」
涼やかな声が降ってきた。
ルーシェの視線が、声の主を追う。
そこに映ったのは、長い髪を風になびかせる少女だった。ルーシェより数歳上だろうか。手に持つ剣の先には、淡い光がまだ収まりきらずに揺らめいている。
その表情は冷静で、緊張の最中にあるとは思えないほど落ち着いていた。ただ、瞳の奥には、ルーシェに向けられた確かな安堵の色があった。
「あの、あなたは……?」
掠れた声で、ルーシェは問いかけた。
「ああ、私はアリステラ・アカデミーのヴァレンタリア。そして、今私達を乗せて飛んでいるのが私のバディ、ミスティークだ」
ヴァレンタリアと名乗った少女は、自分の足元——竜の背——を軽く撫でた。
途端、竜の方からも声がした。
「よろしくね〜 可愛いお嬢さん♡」
艶やかな、大人の女性の声音だった。ミスティークは飛行を維持したまま、首をわずかにルーシェの方へ向けた。深い色の瞳が、優しく細められる。
ルーシェは咄嗟に返事ができなかった。
(これが……竜約術を会得した魔女と、契約した竜の姿……私の、目指すべき場所)
「そしてすまない、君をコンテナに降ろす時間がないんだ。少し、我慢していてくれ」
ヴァレンタリアが視線を上空に戻した。その横顔から、先ほどの安堵は消え、戦闘者の鋭さが戻っていた。
ルーシェは振り返り、自分が落ちてきた方向を見上げた。
そこには、悪夢のような光景が広がっていた。
輸送竜の周囲を、五人ほどの竜人が取り囲んでいた。
先ほどルーシェが対峙したのと同じ、革質の翼を持つ存在たち。だがその数は、先ほどよりも明らかに増えている。新たな増援が来たらしい。
「魔女だ。 単騎だが、速いぞ……!」
竜人の一人が、ヴァレンタリアたちを睨みながら叫んだ。すぐに他の竜人たちも反応し、ミスティークを目で追い始める。
「取り囲め! 数ならこちらが上だ、チームワークで!」
竜人たちが声を掛け合いながら、ミスティークを囲むように展開していく。五対一。明らかに圧倒的な数の優位。
ルーシェは思わず息を呑んだ。だが、ミスティークの背に立つヴァレンタリアの表情には、焦りも怯えもない。
「厄介だな、ミスティーク」
「はいは〜い」
ヴァレンタリアの呟きに、ミスティークが艶やかに応じた。次の瞬間、その口が大きく開かれる。
吐き出されたのは、濃密な、紫黒の靄。ブレスと呼ぶには異質な、空気そのものを覆い尽くしていく闇の流体。ミスティークの口から噴き出されたそれは、瞬く間に囲んでいた竜人たちごと周囲の空を呑み込んだ。
「な……何だ!? 急に暗く、何も見えねぇ!」
闇の中から、竜人たちの混乱した声が響く。陣形が乱れ、互いに見失っているのが声の調子で分かる。
ルーシェの目には、その闇が透き通って見えていた。あるいは、ミスティークの背に乗っているからか。闇の内側で右往左往する竜人たちの姿が、はっきりと視認できた。
ヴァレンタリアが剣を構えた。
剣の先端に、純白の光が宿り始める。先ほど助けられた時に見た淡い光とは、比較にならない強さ。ルーシェは目を細めねばならなかった。
「暗く迷えるその夜空、私が照らそう」
ヴァレンタリアの詠唱が、静かに、しかし確信を込めて響いた。
光が、収束する。次の瞬間、それは爆発的に解き放たれた。
「ホーリー・ノヴァ!」
無数の光の線が、闇の中へと飛び込んでいった。
闇の壁の内側で、光の閃きが連続する。ミスティークの闇が竜人たちの視界を奪い、ヴァレンタリアの光がその一人一人を正確に貫いていく。視界を奪われた敵に対する、精密な制圧。
「ぐあぁぁぁぁーー!!」
竜人たちの悲鳴が、闇の中から次々と上がった。
ルーシェはただ、目の前で繰り広げられる光景に圧倒されていた。
先ほど自分が必死で一人の動きを乱すのが精一杯だった敵を、ヴァレンタリアとミスティークは五人まとめて、一瞬で。これが、本物の魔女の戦い。これが、空を駆ける者の力。
(すごい……こんなにも……)
胸の奥が、震えていた。
このまま、自分もいつかこうなれるだろうか。あんな風に、空を自由に飛び、人を守れる存在に。
ヴァレンタリアが剣を降ろした。光が収まり、ミスティークの闇も徐々に薄れていく。
晴れた空に残されたのは、撃墜され地へ落ちていく竜人たちの影だけだった。
その光景を、雲の上から見下ろしている影があった。
雲海の天蓋に身を隠すように、巨大な翼を畳んだ存在たち。
「情けねぇ、つーか護衛は居ないって話じゃなかったのかよ」
最も体格の大きい一人が、舌打ち混じりに呟いた。他の竜人たちより、明らかに一回り大きい。翼にも装飾的な意匠が刻まれ、纏う装束も簡素ではない。
「それがレインライン様、奴ら並の魔女では無いようで……」
控えた竜人が、慎重に答えた。眼下で次々に撃墜されていく仲間を見つめる視線には、明らかな動揺がある。
レインラインと呼ばれた竜人が、雲海の縁に立った。
「ちょっと遊んでやるか。俺がアイツを引き剥がす、お前達はブツを回収してここで待て」
短く、決定的な指示。
「欲を出すなよ」
最後の一言には、刃のような重みがあった。控えていた竜人たちが、揃って一礼する。
「了解」
レインラインが、雲を割って降下を始めた。畳んでいた翼が、ゆっくりと、しかし力強く広げられていく。
ミスティークが、警戒の唸りを上げた。
「あら〜、面倒なのが来たわよリア」
声の艶やかさはそのままに、その下には緊張が滲んでいた。
ヴァレンタリアの視線が、上空へ向く。
降りてくる影は、これまでの竜人たちとは明らかに異質だった。大きさ、纏う気配、空気の重さ。全てが、一段違う。
レインラインは、ミスティークと向き合う位置にゆったりと舞い降りた。空中で翼を一打ちし、悠然とそこに浮かぶ。剥き出しの腕は太く、装飾された装束の下には鍛え抜かれた筋肉が見える。整った顔立ちには、薄い笑みすら浮かんでいた。
「やぁ、お嬢さん達。少し僕とお話しないかい?」
優しく、それでいて獲物を見定める猟師のような声音。
「気を付けてリア、この男強いわ」
ミスティークの声から、いつもの艶っぽさが消えていた。
「分かっている。攻撃が輸送竜に当たらぬよう、引き付けながら戦うぞ」
ヴァレンタリアが剣を構え直した。先ほどの戦闘とは違う、より深く腰を落とした構え。本気の構え。
ルーシェはミスティークの背にしがみつき、邪魔にならないように身を縮める。
「おっと残念だ、所詮は旧人類。我々竜人と語る言葉を持ち合わせていないか!」
レインラインが大袈裟に肩を竦めてみせた。だがその笑みの裏には、明らかに高揚した戦意が見えた。
次の瞬間、彼が動いた。
風が裂ける音と共に、レインラインが突進してくる。先ほどの竜人達とは比較にならない速度。だがそれでも、ヴァレンタリアの反応の方が早かった。
「ミスティーク!」
ミスティークが急旋回する。ルーシェは思わず鱗にしがみついた。世界が回転し、視界が流れる中、ヴァレンタリアの剣から光の刃が連続して放たれるのが見えた。
光の刃。鋭く、速く、しかし無駄なくレインラインを狙い撃つ。レインラインは翼を盾にして弾き、腕で逸らし、そのいくつかは紙一重で躱した。
それでも、数撃が彼の腕や脚に浅い傷を刻んだ。
戦闘は、明らかにヴァレンタリアが有利に進めていた。光の刃の射程と速度、ミスティークの機動力、二人の連携。レインラインは防戦に回り、傷を増やしていく。
だが——レインラインの表情から、笑みは消えなかった。
「いいねぇ! その角、その翼を千切って飾りたい!」
「悪趣味な男……」
「……貴様達は、空脈に沿って島が地上に近づくタイミングでしかこちらへ降りられない筈だ」
ヴァレンタリアが、戦闘の合間に告げた。光の刃を放ちながら、余裕そうな姿勢を崩さないレインラインに疑問をぶつける。
「そして今はその時期ではない。帰路を捨てたのか?何が目的だ?」
それは地上の人々が知る空の世界への認識。竜人たちが地上に降りられる時は限られている。空を流れる空脈が彼らの島を地上から遠ざけている間は、空脈に阻まれ空へ帰る事ができない。次に島が接近するまで、敵対する地上で潜伏するのは極めて危険な行為だ。
レインラインは笑いながら答えた。
「よく知っている。だがそれには例外があってね」
その身体が、変わり始める。
肌の表面に、鱗が走った。腕が太く、長く伸びていく。剥き出しになっていた背中の筋肉が盛り上がり、何かが内側から押し上げてくる。骨の音、肉の音、空気が裂ける音。
それは、変化だった。
人型から——別の形態への、変化。
「俺のように人の姿を捨て完全なる竜へと変化出来る者は、空脈に逆らい、空を自由に飛び回れる訳さ!」
言葉の最後には、もはや人型の時とはかけ離れた声をしていた。
ルーシェの目の前で、レインラインは完全な竜となった。
翼は元の数倍に広がり、暗い赤と黒の入り交じった鱗が、巨大な躯体を覆っていた。地上の竜たちとは違う、より荒々しく、原始的な姿。同じ竜であるミスティークをも大きく上回る大きさの、別の次元の存在。
「竜に……なった……」
ルーシェの口から、絞り出すような声が漏れた。
ヴァレンタリアでさえ、一瞬、攻撃の手を止めていた。
その隙を、レインラインは逃さなかった。
巨大な翼が一打ちされ、強烈な風圧がミスティークごとルーシェたちを吹き飛ばす。だが、目的は攻撃ではなかった。
レインラインは、二人を吹き飛ばした勢いのまま旋回した。
「俺の名前はレインライン。 目的は既に達成した。次はもっと激しくやり合おうぜ」
巨大な竜の喉から、なお人の言葉が紡がれた。低く、響く、嘲笑混じりの声。
ヴァレンタリアの表情が、初めてはっきりと歪んだ。
「何っ……輸送竜の方か……!」
すでに、別の竜人たちが輸送竜の運んでいた積荷の方のコンテナを確保し上空へと上がっていた。
レインラインは大きな翼を羽ばたかせ、彼らとコンテナを引っ張り雲の上へと消えていった。
ヴァレンタリアは剣を握りしめたまま、悔しさを滲ませる。
それは、後ろに居たルーシェにもはっきりと伝わってきた。




