第16話 私には、翼がありますから
アカデミーの門を発って、川に沿って南へ。空から見下ろせばひと息の距離だったのに、地面に降りてしまえば話は別だった。
ヴァレンタリアが描いてくれた地図を両手で広げたまま、ルーシェは同じ角をまた曲がる。
「うむむ……話だとこの辺のはずなんだけど」
「似たような建物ばかりだな、人間はこれを判別しているのか?」
ディアナが、川沿いに並んだ家を順に眺めていく。白い壁も、赤い屋根も、腰の高さの生垣も、どれもよく似ていた。地図の線は、この道に入った時点で役目を終えている。
背後から遠慮がちな声がかかったのは、その時だった。
「あの……その制服、あなたアリステラの子だよね?」
振り返ると、生垣の切れ目に女の人が立っていた。歳はルーシェより少し上に見えた。水差しを胸に抱えたまま、こちらの星章をじっと見ている。
「はい!一つ星のルーシェです! あの、この辺りに住んでいるシャーリーさんを探しているんですけど、知りませんか?」
名乗りと用件を一息で言い切ると、相手は目を丸くした。それから、口元がゆっくりとほころんでいく。
「それは幸運ね、シャーリーは私よ」
「なんと!?」
広げたままの地図が、手の中で音を立てて折れ曲がった。
「ふふ……魔女のお客さんなんて久しぶりね、入って来て。お話ししましょう」
シャーリーの目が、ルーシェの隣へ移る。銀色の髪から覗く小さな角と、背に垂れた鱗の尻尾を順にたどって、それきり何も聞かずに門の戸を開けた。
通されたのは、川に面した小さな居間だった。窓辺の椅子には毛布が畳んで置かれていて、そこだけ日向の匂いがする。シャーリーは水差しからコップに水を注ぐと、二人の前へ並べてから、自分も向かいに腰を下ろした。
ルーシェが相棒の名を告げると、シャーリーはそっと微笑んでくれた。
「それで、休学中の私に何か用?」
「シャーリーさんが箱庭で親しくしていた竜、ジェイリーンの事なんですけど」
「あの子、ジェイリーンって言うのね。優しい子でしょ?」
名前を確かめるシャーリーの声が、ふっと柔らかくなった。
ルーシェの隣で、ディアナがコップに手をつけないまま口を開く。
「君がジェイリーンの前に姿を現さなくなってから、彼女は変わってしまったよ。裏切られたんだと、人間に敵意を向けるようにまでなってしまった」
「そんな…………それは、当然よね。 自分の事に手一杯で考えられなかった。酷い事をしたのね、私」
柔らかくなりかけていたものが、みるみる萎んでいった。シャーリーは膝の上で指を組み、そこから目を上げなくなる。
「そんな事ないです! 誰も悪くない、ちょっとしたすれ違いだったんです。 それに、今からだってまだやり直せます!」
身を乗り出したルーシェに、シャーリーは曖昧に笑い返しただけだった。
「シャーリー、今の君は回復したと聞いているが、未だ復学しない理由があるのか?」
「そうね。 恥ずかしい話なんだけど、少し疲れちゃったの。 魔女に憧れて、空に憧れて入学したあの時の気持ちもどこかへ行ってしまったわ」
シャーリーは窓の外へ目をやった。とっくに片付いてしまった話をしている横顔だった。
「そういう事か、了解した。 ではジェイリーンには私から伝えておこう。シャーリーとはもう二度と会う事はないと」
ディアナが、あっさりと頷いた。
「え……ええ。そうしてもらえると助かるわ。 あの子も、新しいパートナーを見つけてくれればいいんだけど……」
ルーシェは相棒を見た。ディアナはこちらを見返しもしない。テーブルの下で、ルーシェはその袖を掴んだ。
「ちょっと待ってよ! そんな、そんなのって悲しいですよ……せめて、最後に一度ぐらい直接会って」
「今更、どんな顔で会えばいいか分からないわ……だからこれでいいの」
「おねえちゃぁ〜ん!!」
廊下を駆けてくる足音がして、居間の戸が勢いよく開いた。飛び込んできた小さな影が、まっすぐシャーリーの膝へ突っ込む。
「どうしたのティナ。そんなに泣いてしまって」
「ペンダント……鳥に取られちゃったー!!」
顔を上げたティナが、開いた両手を姉へ突き出した。そこには何もない。
シャーリーは妹の髪を撫でながら、ゆっくりと言い聞かせる。
「あらあら。 それは、悲しい出来事ね。でもね、それは運命で、受け入れなければいけないのよ」
「だって……あのペンダントは……お母さんの」
気がつくと、ルーシェの手は自分の胸元を握っていた。
「そうね。 だからきっと、お母さんがあなたを守ったのよ」
「取り返してきて!」
「そうは言ってもねぇ。 お姉ちゃんに翼でもあれば行ってくるんだけど……」
困り顔で笑って、シャーリーは肩をすくめる。
その言葉が終わりきる前に、ルーシェは椅子を鳴らして立ち上がっていた。
「あの! なら私たちがペンダント取り返しに行きますよ」
「ルーシェちゃん……そんな、悪いわ」
「気にしないでください。 私には、翼がありますから」
ティナのしゃくり上げる声が止まった。シャーリーがゆっくりと顔を上げる。
「……そうね。じゃあ、お願いしようかしら」
ルーシェは勢いそのままに相棒の方を向くと、彼女はそっと頷いた。
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箱庭の草地を、スカーレットは一人で歩いていた。朝からいくつのエリアを回ったか、あまり考えないようにしている。
「さてと、竜学は十分理解したけど、どうしたもんかね……」
教本の分類なら、目を閉じても並べられる。火を吐く竜、雷をまとう竜、鉱石を食む竜。頁はすべて頭に入っているのに、そこから先へ一歩も進まなかった。
「スカーレット」
名を呼ばれて振り返る。木立の切れ目に、無口な少女が立っていた。その隣では、小さな角と鱗の尾を持つ相棒が、退屈そうに草を蹴っている。
「っと。フリルと、ミザリィだったか。二人とも悪いな、待たせちまって」
「全くだ!寛大なボク達にもっと感謝して欲しいね」
ミザリィが腰に手を当て、これ見よがしに胸を反らす。フリルはその横で、いつもと変わらない顔をしていた。
「気にしないで」
「それで、どんな竜と契約したいかイメージはできてるんだろうね?」
この竜は、遠慮というものを持ち合わせていない。スカーレットは頭の後ろを掻いた。
「いやー、まだ何ともだな。これだけ広いとまだ会ってない竜もたくさんいるし……」
「やれやれ、これは長くなりそうだね。 慎重すぎる性格も考え物だ」
これには流石のスカーレットも苦笑いを浮かべる。
「飛んでみたら……掴めるかも」
ぽつりと落とされた声に、スカーレットは顔を上げた。
「……? それってどういう」
「ボクにスカーレットを乗せて飛べって言うのかい!?」
「うん、お願い」
フリルはそれきり、説明を足そうとしなかった。ミザリィが大袈裟に天を仰ぐ。
「いいのか?」
「ハァ……今回だけ特別だからね」
言うが早いか、ミザリィの輪郭が光に飲まれた。膨れ上がった影が草を薙ぎ、風が下から吹き上げてくる。腕をどけた時には、翼を広げた竜がスカーレットを見下ろしていた。
フリルが一歩下がって、行っておいで、とでも言うように顎を引く。
鱗の隆起を掴んで背に跨った。次の瞬間、腹の底だけが地面に置き去りにされた。
草地が落ちていく。木立が緑の斑になり、湖が一枚の板に変わる。風は思っていたよりも重く、髪も襟も後ろへ引きずっていった。
「くっ……これが、空……!」
声が風に削られて、自分の耳にも半分しか届かない。
「どうだいスカーレット? この状態で敵と戦うイメージをするんだ」
言われるまま、腰の魔導銃を抜く。両手で構え、正面の雲を的に見立てた。
定まらない。ミザリィが羽ばたくたびに背が沈み、また押し上げられる。そのたびに銃口が的の上を滑って外れていく。膝で締めても、腹で耐えても、揺れは腕の先で増幅されるばかりだった。
「ミザリィ、アタシの武器は新式の魔導銃だ。これじゃ狙いが付けられない」
「じゃあそれが課題だね。もっとも、空中で全く動かず停止できる奴なんて居るとは思えないけど」
今更、自身の武器が空での戦いと相性が悪いと気づいて、スカーレットは眉を寄せた。
「今から杖に持ち替えるか?いや、砲身さえ固定出来れば……」
スカーレットは必死に頭を回した。これまでと同じ、きっと最後には答えに辿り着けると信じて。
「少しは先に進めそうかい?」
「ああ、助かったぜミザリィ。 見えたよ、アタシに必要な相棒の条件が」
礼を言いながら、スカーレットは不敵に笑う。遠くを見据えるその眼には一頭の竜が写っていた。




