第11話 私、魔女になったんだ
雪原に、二人の影が降り立った。
ルーシェがディアナの背から滑り降りると、足元で新雪がきゅ、と鳴った。戦いの熱が引いていくにつれ、極寒の空気が肌に染みてくる。それでも、胸の奥はまだ熱かった。
振り返ると、ディアナが静かにこちらを見ていた。銀色の鱗に、雪明かりが淡く映っている。改めて正面から向き合うと、この竜が背に乗せてくれていたのだという実感が、じわりと湧いた。
「えへへ……なんだか、変な感じ。ちょっと前まで、声しか知らなかったのに」
《ああ、確かにな》
ディアナの声に、かすかな笑いが混じる。それから、彼女はゆっくりと翼を畳んだ。
《さて——先ほどは結果次第、と言ったが》
ルーシェの背筋が、ぴんと伸びた。バディになるかどうかは、この後の結果次第。戦いの前に言われた言葉。
《君は、既に空を恐れていなかった。ジェイリーンの前でも臆せず、魔法も的確だった。 だが……私が惹かれたのはそこではない》
ディアナの瞳が、まっすぐにルーシェを捉える。
《意図していないと思うが、君の行動は多くの者に影響を与え救っている。学生の少女やミザリィ、グローサ、ジェイリーン、勿論私もそうだ。……君の進む道は、きっと大きな使命を持っていると思ったんだ》
「わ、私は……ただ自分がやれる事をやろうとしただけで」
ルーシェは、少し照れくさくなって目を伏せた。彼女にとって特別なことをしたつもりはなかった。
《ああ。だから——私は君を乗せて飛びたいと思った。 その果てを共に見たいと思った。 君の、バディとして》
風が、雪の粒を静かに舞い上げた。
ルーシェが顔を上げる。ディアナは、変わらず涼しい目をしていたが、その言葉に迷いはなかった。
「ほんとに!? やった、やったぁ! えへへ、ディアナ、これからよろしくね!」
《ただ——契約の前に、聞いてほしい話がある》
飛び跳ねかけたルーシェが、ぴたりと止まる。
《あの夜、私は言った。君を待っていた、と。その理由だ》
ディアナは、雪原の彼方へ目をやった。白い大地と、暮れ始めた空の境を見つめながら、静かに語り出す。
《私の母は——ミラドーナという》
「えっ……」
ルーシェは息を呑んだ。その名は、ついさっき、灼熱の空で聞いたばかりだった。英雄ミラドーナ。ジェイリーンとグローサが、その名を巡って争っていた。
《そうだ。君も知っているだろう。15年前の竜人の大侵攻の折、数多の竜人を退け、人間も竜も救い英雄となった竜だ》
ディアナの口調は、淡々としていた。誇るでもなく、懐かしむでもなく。
《だがミラドーナ……母はその後行方知れずになった。どこへ行ったのか、生きているのかさえ、誰も知らない》
「そんな……」
《といっても、これは全部、周りの竜たちから聞いた話だ。私は、母の声も姿も知らない。その頃の私は、まだ卵の中だったからな》
ルーシェにはディアナの気持ちが分かっていた。
自分と同じ、行方の分からない母に会いたいという気持ちが。
《だから正直、皆が語る英雄譚というやつが、あまり好きではない。私にとっては……ただ、私を置いていった母親の話でしかない》
ディアナは、小さく息を吐いた。
《そして、ここからが君にも関わる話になる。 母は私にたった一つだけ伝言を残していた》
ディアナが、視線をルーシェに戻した。
《『ルーシェ・アイオライトを待て』——それだけだ。理由も、君が何者なのかも、他には何も聞かされていない。幼い私は、ある日仲間の竜からそれを聞かされ箱庭に連れてこられた》
雪原の静寂の中、ルーシェは立ち尽くしていた。
どうして、ディアナの母が、自分の名前を。頭の隅で、何かが引っかかる。だが、その糸口を掴むには、ルーシェの中には情報が足りなかった。
分からないことだらけだった。それでも——たった一つ、はっきりと分かることがあった。
「……ディアナも、私と同じなんだね」
《……どういう事だ?》
「私のお母さんはね、魔女だったの。それで、私が生まれた頃に……果ての空に行くって言って、それっきりなんだ」
今度は、ディアナが目を見開く番だった。
「私も、その話は後から聞いただけ。周りの人はすごい魔女だったって言うけど、私にとっては、ずっと会いたい、お母さんで……」
ルーシェは、ぎゅっと胸元を握った。そこには、母の形見のペンダントがある。
「だからね、ディアナの気持ち、ちょっとだけ分かる気がする。英雄だって言われても、そうじゃなくて、ただ会いたいんだよね。……寂しい、んだよね」
《…………》
ディアナは、何も言わなかった。ただ、その藍色の瞳が、わずかに揺れた。
ルーシェは、一歩、前へ出た。
「ねえ、ディアナ。どうしてディアナのお母さんが私を待たせたのか、私にも全然分かんない。でもさ、やるべき事は分かるよ」
《……やるべき事?》
「うん! ディアナのお母さんのことも、私のお母さんのことも、世界の謎も、全部! この果ての空に答えがあるんだよ」
ルーシェは、右手を差し出した。真っ直ぐに、迷いなく。
「私たちなら必ず辿り着ける。だってバディ、なんだから!」
差し出された小さな手を、ディアナはじっと見つめた。
伝言だから待った。母が残した、唯一の手がかりだから仕方なく。そのはずだった。だが今、目の前の少女は、今までの不安も憂いも全て吹き飛ばすように手を伸ばしている。
《……ふ。母の伝言など、もう関係ないな》
ディアナが、静かに前へ出た。
《これは私が、私の意思で決めたんだ。 ルーシェ——私は、君の翼になる》
ディアナの前足が、そっと持ち上がり、ルーシェの手のひらに重ねられた。
その瞬間。
触れ合った場所から、淡い光が零れた。ルーシェの内から溢れる暖かな魔力と、ディアナの内から流れ出す冷たく澄んだ魔力。二つの流れが混ざり合い、絡み合い、二人の足元へと広がっていく。
「わ、わわ……!」
雪の上に、光の紋様が描かれていく。幾重にも円を重ね、巨大な魔法陣が二人を包み込んだ。それは、どちらか一方の力ではない。人と竜、二つの魔力が合わさって初めて生まれる、契約の証。
光が、ディアナの身体を包んだ。
銀色の鱗が輝きに溶け、大きな翼が光の中で形を変えていく。竜の輪郭が、ゆっくりと、小さく――人の形へと、編み直されていく。
やがて、光が静かに晴れた。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
雪明かりの中、銀色の髪が揺れている。ルーシェと同じ年頃の、涼しげな目元の少女。頭の両側からは小さな角が覗き、背後では、鱗に覆われた尻尾がゆらりと揺れていた。竜であった証を残したまま、少女は、まっすぐにルーシェを見ている。
「わぁ……」
ルーシェは、言葉を失った。
「わぁぁ……! ディアナ、なの……!? すごい、女の子だ! かわいい!」
「……契約した竜は、人の言葉を話し、人の姿を取れる。授業で習わなかったのか」
少女――ディアナが、聞き慣れたクールな声で、素っ気なく答えた。姿は変わっても、口調も、涼しい目も、何一つ変わらない。
「習ったけど! 習ったけど、実際に見るのは初めてだもん! えへへ、角もしっぽもあるんだね! 触っていい!?」
「それはまだ許可できない」
ディアナがふいと顔を背ける。その頬が、寒さのせいだけではなく、ほんのり赤い。
ルーシェは、こらえきれずに笑い出した。つられたように、ディアナの口元も、わずかに緩む。
雪原に、二人の影が並んで立っていた。
母の元へ、果ての空へ、ルーシェはその為の大きな一歩を踏み出した。
「私、魔女になったんだ。ディアナと一緒に」
暮れゆく雪原の空に、契約の光の名残が、星屑のように瞬いて消えた。




