第6話 告白
【瑛視点】
放課後の演劇部部室は、特有の埃っぽさと、古い小道具の塗料の匂いが立ち込めていた。
俺はパイプ椅子に腰掛け、裏方作業として大道具の修繕を行いながら、部員たちの騒がしい会話をBGM代わりに聞いていた。
「ねえ、聞いた?サッカー部の舘先輩、昼休みに購買のメガ盛り焼きそばパンを一人で食いきろうとして、ぶっ倒れちゃったらしいよ」
「マジで!?あの三キロもある一万円のやつ!?どんだけチャレンジャーなのよ!」
「いや、結局完食できずに途中で保健室送りになったんだって。倒れる寸前に『俺はまだ……次のステージに……』ってうわ言みたいに呟いてたらしいよ」
「何それ、ちょっとうけるんだけど!」
部員たちの呆れ混じりの噂話が飛び込んできて、俺は衣装整理する手を止め、思わず天井を仰いだ。
(あいつ……昼休みに言ってた『次のステージ』って、そういうことかよ……)
哲人の爽やかな笑顔と、「俺は一足先に、次のステージへ行くぜ」というあの意味深なセリフが脳裏をよぎる。
てっきり、難関大学を受けるとかプロサッカーの世界を目指すとかの深い意味合いかと思いきや、ただのフードファイトへの宣誓だったとは。
「まぁ、それでこそ哲人だけどな……」
思わず口から漏れた呆れ声は、部員たちの笑い声にかき消された。
作業が一段落つき、俺は備品を探すために部室の奥の棚をあさっていた。雑多に積まれた小道具の山をかき分けると、一番奥から色褪せた一冊の台本が目に留まった。
表紙には達筆な文字で『縮緬情話浮名乃滝』と書かれている。
「お……」
それは昨日、家族と一緒に苔柿座で観劇したばかりの演目だった。江戸時代にこの町で実際に起きたとされる無理心中事件を元にした、狂気に満ちた愛憎劇。
俺は吸い寄せられるようにその台本を手に取り、パラパラとページを捲った。
昨日見た舞台の情景が、鮮明に脳裏に蘇る。ちりめん問屋の若旦那・伊之助と、遊女の夕顔。
伊之助の狂気じみた眼差し。心の底から絞り出すような、低く重い声。
俺は誰もいない部室の隅で、台本に書かれた伊之助のセリフに視線を落とした。
「他の男の腕に抱かれるくらいなら……いっそ、来世で結ばれてやる!」
周囲に人がいないことを確認し、俺はほんの少しだけ演技を交え、声色を変えてそのセリフを口の中で転がしてみた。
低く、執念深く。腹の底から情念を響かせるように。
「……違うな。もっとこう、絶望に黒く染まりきった感じというか」
自分の中に眠る『憑依型』のスイッチを探るように、息遣いと視線を調整する。
何度か呟いてみるうちに、ふっと役の感情が自分の中に入り込んでくる感覚があった。背筋が粟立つような、冷たい熱。
男役の感情表現は難しい。だが、途方もなく面白い。
いつか自分も、あの舞台の中心で、観客の心を鷲掴みにするような演技がしてみたい。
密かに湧き上がる熱い思いを胸にしまい込み、俺は静かに台本を閉じた。
+++
放課後の下校時。
「ね!私の言った通りだったでしょ!三キロのメガ盛り焼きそばパン、本当にあったっしょ!」
小夜嵐川の蔵通りは、夕日に赤く染まっていた。白壁の土蔵と柳並木が、長く濃い影を石畳に落としている。
俺の隣を歩く幼馴染の萌真は、それはもう上機嫌だった。
「ああ。まさか哲人があんなアホなことに挑戦してぶっ倒れるとは思わなかったけどな」
「あはは!哲人くん、保健室のベッドでうなされてたらしいよ。ウケる!」
萌真は明るい茶髪のハーフアップを揺らし、ケンケンパをするように跳ねながら前を歩く。
「どうよ!私の情報網、ガチだったでしょ!」
得意げに振り返る彼女の顔は、夕日を浴びてキラキラと輝いていた。
「はいはい、恐れ入りましたよ。たまには本当のことも言うんだな」
「たまにはって何よ失礼な!私だってガチの時はガチなの!」
プクッと頬を膨らませた後、彼女は悪戯っぽく目を細めた。
その高いテンションのまま、彼女は突然、俺に向かってビシッと人差し指を突きつけてきた。
「じゃあ、これも信じる?……私、瑛が好き!ガチで!」
…………?
どういうつもりだ?あまりにも唐突すぎる告白。
いつもだと「庭から石油が出た」だの「UFOにさらわれた」だのと同じ、彼女の即興のフかしとして、「はいはい、うっそーん、だろ?」と笑って流すところだ。
だが、その時の俺は、なぜかそうしなかった。
夕日に照らされた彼女の瞳が、冗談を言う時特有の悪びれた色ではなく、ほんの少しだけ緊張で揺れているように見えたからだ。
巨大焼きそばパンの情報が「ガチ」だったという流れ。そして、その勢いに任せて飛び出した言葉。
俺は立ち止まり、萌真を真っ直ぐに見つめ返した。
「……俺は」
「え?」
「俺は……萌真といて楽しいし、華やぐし。これって……俺も、好きってことかも」
静かな声で、しかしはっきりとした口調で伝えた。
冗談でもなんでもない、俺の素直な本心だった。俺は彼女の言葉を真剣に受け止めて、うれしくて、同じ気持ちであることを伝えた。
その瞬間、萌真の動きがピタリと止まった。
ぱっちりとした大きな瞳が、極限まで見開かれる。そして、カッと音を立てるように、彼女の顔が耳まで真っ赤に染まっていった。
「えっ、あ、えっと、その、え?」
口をパクパクさせ、オーバーヒートを起こしているようだ。
彼女の純情で打たれ弱い部分が、完全に限界を突破したのがわかった。
気まずい沈黙が数秒流れる。どうしていいかわからず、視線を激しく泳がせる萌真。
そして彼女の口から飛び出したのは、これこそ思いもしない返答だった。
「う、うっそーんw」
ひきつった笑い声。
「なーんてね!冗談に決まってるじゃん!あははは、引っかかったー!」
言うが早いか、彼女はくるりと背を向けた。
「あ、先帰るね!ばいばーい!」
特技の全力疾走。バドミントン部で鍛えた瞬発力で、彼女はあっという間に紅葉坂を駆け上がり、俺をその場に置き去りにして姿を消してしまった。
残された俺は、夕暮れの風の中、ただ一人立ち尽くしていた。
「……マジかよ」
柳の葉が風に揺れ、カサカサと乾いた音を立てる。
頭の中で、先ほど部室で読んだ『縮緬情話浮名乃滝』の台本がフラッシュバックした。
『どうして……わっちを……!』
夕顔に拒絶され、裏切られたと感じた伊之助の、あの暗く重い絶望。
せっかく俺は真剣に答えたのに。
元々冗談だったのか、途中で変えてしまったのか。
恐らくあれはただの照れ隠しで、逃げ出しただけだ。長年の付き合いである俺には、感づいていた。
だから、許してやるべきだ。いつものことじゃないか。
そう頭では理解しているのに。
勇気を出して伝えた真摯な思いを、「うっそーんw」といういつもの茶番のフォーマットで切り捨てられた感覚。
その事実が、心をひどく冷たくさせた。
まるで、大切に差し出したものを、笑いながら泥水の中に蹴り落とされたような気分だった。
(大げさだな、俺も……あいつの不器用さなんて、百も承知のくせに)
自嘲するように息を吐き出すが、胸の奥に生まれた微かな冷たいしこりは、なかなか溶けてくれない。
俺は重い足取りで、坂道を歩き始めた。
あいつは明日、どんな顔をして俺の前に現れるのだろう。
そして俺は、どんな顔をしてあいつに会えばいいのだろう。
いつも通りノリを合わせて、笑って「騙された」と言ってやれる自信が、今の俺には全くなかった。




