第44話 パニック
【瑛視点】
「……ん?」
俺は違和感を覚え、萌真に近づけようとしていた顔を止めた。
萌真も俺の胸に顔を埋めたまま、「どうしたの?」というように顔を上げる。
「なんか……急に、静かすぎない?」
「ああ。エアコン、止まったのか?」
俺が壁に掛かったエアコンの本体を見上げようとした、その瞬間。
『……ふふ』
女の笑い声が聞こえた。
「え?」
萌真が素っ頓狂な声を上げる。俺も怪訝な顔をして、声がした方――部屋の隅の、クローゼットの影になって少し薄暗くなっている空間へと視線を向けた。
俺でもない。萌真でもない。
そして、一階にいるはずの萌真の妹、眞美の声でも、絶対にない。
それは、どこか時代がかった、艶やかで、それでいてひどく冷たい女の声だった。
「……今の、何?」
「き、気のせいだろ。外から聞こえたんじゃ……」
俺が論理的な説明を探そうと口を開きかけた、まさにその時。
静寂に包まれた部屋の隅から、今度ははっきりと、艶やかな女の声と、低く掠れた男の声が重なって響き渡ったのだ。
『……ふふ、お前さんたち、ずいぶんと仲が良いことでござりんすねぇ』
背筋に、氷の刃を突き立てられたような悪寒が走った。
間違いなく、部屋の中から聞こえている。しかも、その声色は、先ほどまで俺たちが台本で読んでいた、花魁の夕顔そのものだった。
そして、女の声に続くようにして。
今度は、地の底から響いてくるような、低く掠れた男の声が空間を震わせた。
『全くだ。しかし、オイラたちをこれ以上コケにすんじゃねぇぞ』
「…………っっっ」
ドンッ、と。
目に見えない重圧が、部屋全体にのしかかったような気がした。
空気が一気に冷たくなり、真夏だというのに、俺は全身に鳥肌が立つのを感じた。
俺と萌真は、抱き合った体勢のまま、ピキッと完全に凍りついた。
指先一本、動かすことができない。
呼吸すら忘れて、二人とも目を見開いたまま、声がした部屋の隅の暗がりを凝視している。
そこには誰もいない。何も見えない。
だが、『何か』が確実にそこにいるという圧倒的な気配だけが、私たちの肌をビリビリと刺していた。
「あ……ぁ……」
萌真の口から、微かな空気が漏れる。
俺たちは、恐る恐る、本当にスローモーションのように、ギギギ……と首を動かして顔を見合わせた。
お互いの顔から、血の気が一瞬で引いているのがわかる。萌真の顔面は蒼白で、その大きな瞳には極限の恐怖が浮かんでいた。
「……え、瑛?」
萌真が、俺のTシャツの胸元をガタガタと震える手で強く握りしめ、消え入りそうな声で尋ねてきた。
「今の、瑛が言った?」
男の声を、俺が腹話術か何かで出したのではないか。
そう信じたいという、藁にもすがるような目だった。
だが、俺はそんな冗談を言えるような状態ではなかった。俺自身の心臓も、恐怖で破裂しそうなほどバクバクと暴れ狂っている。
俺は顔面蒼白のまま、引きつった声で答えるしかなかった。
「……い、言ってない……」
その言葉が発せられた瞬間。
俺の口から『俺ではない』という事実が確定した瞬間。
二人の脳内で、絶望的な答え合わせが完了した。
霊なんていない。オカルトなんて作り話だ。
そうやって俺たちが笑い飛ばし、さらには彼らの伝説を元にした台本でふざけて心中ごっこまでしていたこと。
それは、当事者である『本物』たちの逆鱗に触れるには、十分すぎる行為だったのだ。
『……あの世まで、一緒に来てもらいんしょうか』
部屋の隅から、再び女の艶やかな声が響いた。
同時に、部屋の照明がチカチカと不気味に点滅を始める。
「~~~~っっっ!!!」
俺と萌真の中で、耐えきれない恐怖が限界を突破した。
「ぎゃあああああ本物出たぁぁぁ!」
俺たちは、互いに抱き合ったまま、部屋中に響き渡るような絶叫を上げた。
もう、かっこつける余裕なんて一ミリもない。
俺は萌真の手をガシッと掴むと、半狂乱になりながらベッドの横をすり抜け、ドアへと突進した。
「早く!早く開けろ!」
「開かない!手が震えて鍵がぁぁぁっ!」
俺たちがガチャガチャとドアノブを乱暴に回すと、バンッ!と勢いよくドアが開いた。
俺たちはそのまま、もつれるようにして部屋を飛び出し、廊下へとドタバタと転がり出た。
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「ひぃぃぃぃっ!ごめんなさい!もう二度とふざけませんからぁぁっ!」
「許してくれ!俺たちはただのバカップルなんだぁぁっ!」
俺たちは廊下を這いつくばるようにして走りながら、背後の部屋に向かって泣き叫んだ。
しかし、パニックになっていた俺たちは、廊下の先から歩いてくる人影に全く気づいていなかった。
ドンッ!!
「うおっ!?」
「きゃっ!」
曲がり角のところで、俺たちはその人影に思い切り激突した。
俺と萌真は床に尻餅をつき、「ついに捕まった!」と恐怖のあまり互いに抱き合って震え上がった。
「ちょっと、何なのよ」
頭上から、ひどく冷ややかな、そして聞き慣れた声が降ってきた。
恐る恐る顔を上げると、そこには、手に洗濯物のカゴを持った、萌真の妹・桃芽眞美が立っていた。
彼女は、黒髪のショートボブを微かに揺らし、眉間に深い皺を寄せて俺たちを見下ろしていた。
「ま、眞美……っ!」
萌真が涙目で妹の足元にすがりつく。
「た、助けて眞美!私の部屋に!私の部屋に、本物の伊之助と夕顔が出たの!男の人の声と女の人の声で、コケにするなって怒られて……っ!」
「そ、そうだぞ眞美!俺たち、本物の幽霊にあの世に連れて行かれそうで……っ!」
俺も萌真と一緒に、ガタガタと本気で震えながら必死に訴えかけた。
普段の俺なら絶対にこんな情けない姿は見せないが、あの密室で響いた『本物』の声の恐怖は、それほどまでに圧倒的だったのだ。
俺たちが涙目で震え、半狂乱になっている様子を見て、眞美は一瞬だけ怪訝そうな顔をして私たちの背後――開け放たれた萌真の部屋のドアの方へと視線を向けた。
いつもなら「またやってるの」と冷たく吐き捨てて通り過ぎるはずの眞美が、なぜか持っていた洗濯カゴをゆっくりと床に置いた。その知的な瞳には、かつてないほどの真剣な光が宿っている。
「……とうとう現れたのね」
「えっ?」
眞美の口から漏れた予想外の言葉に、俺と萌真は呆然と顔を見合わせた。




