第43話 アドリブキス
【萌真視点】
ドンッ、と壁に押し付けられた背中。
そして、目の前には私の右手首をガッチリとホールドし、熱を帯びた瞳で見下ろしてくる相生瑛の姿。
(か、かっこいい……じゃなくて!これ、演技の練習だよね!?)
演劇部で鍛えた彼のスイッチが入った状態は、普段の面倒見が良くて少し意地悪な幼馴染とは完全に別人のようだった。狂気すら感じる伊之助の執念に当てられ、私の心臓はうるさいくらいにバクバクと高鳴っている。
頭の中で、さっき読んだ台本の続きを必死に思い出す。
『どうしてわっちを道連れにするんでござりんすか!やめておくんなし!』
そう。ここで夕顔は、泣き叫んで必死に抵抗するはずなのだ。私もその通りに、大げさにジタバタと暴れてみせるのが正解なのだろう。
でも。
(だめ、かっこよすぎる……っ!こんなの、抵抗する台詞なんて絶対に出てこない。……だって私、本心では瑛とどこまでも一緒にいたいんだもん!)
私は心の中でこっそりと悪巧みをし、抵抗するふりをしてキュッと身体を縮ませた。
そして、そのままスッと瑛の胸元へと身を寄せ、彼に体重を預けるようにして色っぽくしなだれかかったのだ。
「……ん?」
不意の動きに、瑛が微かに眉を動かす。
私は瑛の服の胸元にそっと左手を添え、上目遣いで彼をじっと見つめ上げた。そして、できる限り甘く、艶やかな声を絞り出す。
「あちきも……若旦那様と一緒なら、地獄の果てまでお供しとうござりんす……」
完全に台本を無視した、私なりの一世一代の色仕掛けアドリブだった。
さあ、これにはさすがの瑛も「お、おい!台本と違うだろ!」と焦って照れまくるに違いない。そう期待して、私は彼が動揺する瞬間を今か今かと待ち構えた。
――しかし。
「……そうか」
瑛はタジタジになるどころか、狂気を孕んだ伊之助の表情のまま、フッと妖艶に口角を上げたのだ。
えっ?と私が首を傾げた次の瞬間。
「ならば……あの世へ旅立つ前に、契りを交わそう」
瑛は壁についていた左手をスッと下ろすと、人差し指と親指で私の顎を捉え、クイッと上へ持ち上げたのだ。
「ひゃうっ!?」
完璧すぎる『顎クイ』。
私の顔が強制的に上を向かされ、瑛の顔がゆっくりと、確実に近づいてくる。
吐息が交じり合うほどの至近距離。瑛の切れ長の瞳が、私を完全に捕食者のような目で見据えている。
(ま、待って待って待って!瑛が全然動じてない!むしろ悪化してる!)
予想外すぎる反撃に、私の頭は完全に真っ白になった。
瑛の顔がさらに近づき、彼の唇が私の唇を塞ごうとする。
ここでキスされたら、ただでさえバクバクしている私の心臓が、本当に破裂してしまう!
「ちょ、ちょっとストップぅぅぅ!!」
私は完全に素の『桃芽萌真』に戻り、瑛の胸を両手でバンバンと叩いてジタバタと抵抗を始めた。
「設定が濃すぎて心臓持たない!アドリブだったの!台本無視してごめんなさいだから、一旦離れ……っ!」
パニックになって叫ぶ私に対し、瑛は顎を掴んだ手を離そうとしない。
それどころか、彼は伊之助の狂気からフッといつもの『意地悪な瑛』の顔に戻り、楽しそうに目を細めた。
「花魁、あの世に行く前に口づけを拒むのか?」
「だから花魁じゃないってば!萌真だよ!バカ、んっ!」
私が文句を言い終わるよりも早く。
瑛は私の顎を少しだけ強く引き寄せ、ジタバタと暴れる私の唇を、自分の唇でピタリと塞いだのだ。
「んっ……ぁ……っ」
驚いて漏れた私の声は、瑛の熱い吐息の中に吸い込まれていった。
先ほどまでの狂気じみた演技の空気から一転、それは、彼氏としての甘くて優しい、とろけるような口づけだった。
壁と瑛の身体に挟まれ、逃げ場はない。けれど、もう逃げる理由もなかった。
私はぎゅっと目を閉じ、彼の胸元を掴んでいた手の力を抜いて、その甘いキスを素直に受け入れた。
ちゅっ、と微かな水音が響き、唇が離れる。
瑛は至近距離で私を見つめ、満足そうに微笑んでいた。
【瑛視点】
壁際に追い詰めた桃芽萌真の唇を塞いだ後、俺はゆっくりと顔を離した。
ちゅっ、と微かな水音が響き、二人をつないでいた銀色の糸が切れる。
「んっ……ぁ……」
萌真は顔を真っ赤に染め、とろけたような瞳で俺を見つめ返してきた。
俺は満足して微笑み、彼女の頭をポンポンと優しく撫でる。
パサッ。
俺の手からすべり落ちた『縮緬情話浮名乃滝』の台本が、床に落ちた。
俺たちはその小さな音にハッとして顔を見合わせ、どちらからともなく照れくさそうに笑い合った。
「……あーあ。台詞合わせ、全然進まなかったね」
「お前がふざけるからだろ。まあ、今日はこれくらいにしといてやるか」
俺は萌真から一歩距離を取り、軽く肩をすくめた。
先ほどまでの伊之助の狂気じみた演技の熱がすっと引き、部屋の空気はいつもの穏やかなものへと戻っていく。エアコンの微かな駆動音が、心地よい冷気と共に部屋を循環していた。
萌真はベッドの縁に腰を下ろすと、俺の胸に顔を埋めるようにしてすり寄ってきた。俺は自然な動作で彼女の背中に腕を回し、その柔らかい体温を受け止める。
「……ねぇ、瑛」
「ん?なんだ?」
「私たち、あの心中塚のドタバタ騒動があって、結局こういう関係になれたじゃない?」
萌真は俺のTシャツの胸元を指先でツンツンと突きながら、少しだけ照れたように上目遣いで俺を見た。
「あのさ、心霊スポットの言い伝えで私たち結ばれたけど、あんなの信じる人いないよね」
「ああ、あの心中伝説のことか。伊之助と夕顔が無理心中したってやつ」
「そうそう。私が男の霊のフリして、瑛が女の霊のフリして……本当にバカみたいだったよね」
萌真は思い出し笑いをするように、クスクスと肩を揺らした。
俺も彼女の髪を撫でながら、鼻で笑って同意する。
「全くだ。あんな作り話を本気にするのはバカだけだ。そもそも、霊なんているわけないだろ。あんなのは全部、人間の思い込みか、ただの自然現象の勘違いに過ぎない」
「だよねー。菜乃ちゃんはいつも大真面目にオカルト語ってるけど、結局私たち、本物の霊なんて一度も見てないもんね」
俺たちは完全にオカルトを否定し、心中伝説をただの『きっかけ』として笑い飛ばしていた。
今はただ、こうして触れ合っているお互いの体温だけが確かな現実だ。
俺は萌真の額に軽くキスを落とし、彼女をさらに強く抱きしめた。
「まあ、霊がいようがいまいが、関係ないさ。俺たちは俺たちの意志で結ばれたんだからな。……なんなら、もう一回キスするか?」
「えっ、ちょ、ば、バカ瑛!まださっきのドキドキが収まってないのに……っ」
顔を赤くして俺の胸をポカポカと叩く萌真。
そんな彼女の反応が可愛くて、俺は意地悪く笑いながら再び顔を近づけようとした。
+++
――その時だった。
ふっと、部屋の中が不自然なほど静まり返った。
いや、静まり返ったという生易しいものではない。まるで、空間そのものが真空パックされてしまったかのように、全ての音が『消失』したのだ。
さっきまで聞こえていたエアコンの駆動音も、窓の外でやかましく鳴いていた蝉の声も、遠くを通る車のエンジン音すらも。
全てが、パツンと途絶えた。




