第42話 台詞合わせ
【萌真視点】
「ねぇ瑛。それ、何の本?」
夏休みの午後。エアコンの冷風が心地よく回る私の部屋で、相生瑛は床のクッションに座り、さっきから真剣な顔で一冊の古びた小冊子に目を通していた。
私がベッドの上から身を乗り出して尋ねると、瑛は顔を上げ、その冊子の表紙をこちらに向けて見せた。
達筆な筆文字で『縮緬情話浮名乃滝』と書かれている。
「これ、演劇部の部室から借りてきた台本。秋の公演で、急遽俺が若旦那役をやることになりそうでさ。悪いんだけど、ちょっと立ち稽古の台詞合わせに付き合ってくれないか?」
「えっ、台詞合わせ?いいけど……って、ちょっと待って。そのタイトル、どこかで聞いたことあるような……」
私が記憶の糸をたぐり寄せていると、瑛は意地悪く口角を上げた。
「お前が俺に墓ドンしながら、『逃げ場はないぜ、オイラと恋仲になれ!』って叫んだ、あの心中塚伝説の元になった舞台だよ」
「〜〜〜〜っっっ!」
私は顔から火が出そうになり、両手でバンバンとベッドのマットレスを叩いた。
「わーーっ!ストップ!その黒歴史はもう封印したはずでしょ!」
「確かに、思い返せばあの夜はカオスだったよな。お前が男の霊のフリをして迫ってきたかと思えば、俺も悪ノリして『どうしてわっちを道連れにしたんでござりんすか』なんて、女の霊のフリをしてやり返したし」
瑛はクスクスと笑いながら、あの夜のドタバタ劇を振り返る。
あの時は本当に必死だったのだ。後輩の利良流ララちゃんに瑛を取られまいと、オカルト研究部の菜乃ちゃんにアドバイスをもらって決行した『迫真の悪霊演技』。でも、冷静になって考えてみれば、ちりめん問屋の若旦那と花魁の心中伝説なのに、見事に男女の配役が逆転していたのだ。
「……はぁ、本当に私たち、バカみたいなことやってたよね」
「全くだ。だからこそ、今回は俺が伊之助、お前が夕顔で、ちゃんと男女正しく配役して再現してみようぜ」
瑛が台本をパラパラとめくりながら提案してくる。
面白そう。どうせ暇を持て余していたし、瑛の演劇部仕込みの演技を間近で見られるチャンスでもある。
私は「いいよ!任せて!」と胸を張り、ベッドから降りて瑛の前に立った。
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「じゃあ、夕顔の台詞からな。ここから読んでみて」
瑛から渡された台本のページを指差され、私はコホンと咳払いをして姿勢を正した。
花魁の役なんてやったことはないけれど、ドラマや漫画で見た知識を総動員して、できるだけ艶やかな声を作ってみる。
「……わっちは、わっちはまだ、死にとうありんしゅ……っ」
「ぶっ」
私が渾身の演技を披露した瞬間、目の前で台詞を聞いていた瑛が、盛大に吹き出した。
「ちょ、ちょっと!なんで笑うの!」
「いや……『ありんしゅ』ってなんだよ。花魁どころか、ただ噛みまくってる赤ちゃんじゃねぇか」
「むぅ……!だって、花魁言葉なんて普段使わないもん!難しいんだよ!」
「じゃあ、もう一回。感情込めてな」
瑛にからかわれ、私は悔しくなって台本を睨みつけた。
「わっちは……あちきは……えっと、自分のこと何て呼ぶんだっけ?」
「台本には『わっち』って書いてあるだろ。文字読めないのか?」
「読めるもん!もう、瑛がプレッシャーかけるから噛んじゃうの!」
その後も、「でござりんす」を「でごじゃる」と噛んだり、悲痛なシーンなのに瑛の顔を見たらなぜか笑いが込み上げてしまったりして、NGを連発した。
その度に瑛は「ははっ、全然ダメだな」と呆れながらも楽しそうに笑っている。
部屋の中には、バカップル全開の、穏やかで平和な空気が流れていた。
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「よし。じゃあ、いきなりだけどクライマックスの心中の場面、いってみるか」
何度目かのNGの後、瑛が台本をパタンと閉じて床に置いた。
私もそれに倣って台本を置き、深く息を吐き出す。
「心中のシーンって、若旦那が無理やり花魁を小夜嵐川の滝壺へ連れて行くところだよね」
「ああ。俺から行くから、お前は抵抗する夕顔のつもりでいてくれ」
瑛がそう言った直後。
彼の纏う空気が、ガラリと変わった。
先ほどまで私をからかって笑っていた面倒見の良い幼馴染の顔は消え去り、そこにあったのは、純情ゆえに情念を拗らせ、狂気に憑りつかれた男――伊之助の顔だった。
「……っ」
あまりの迫力に、私は思わず息を呑んだ。
瑛はゆっくりと立ち上がると、伏せていた目をすっと上げ、私を射抜くような鋭い視線で捉えた。
「おい花魁。オイラはお前に惚れちまったんだ……」
肚の底から響くような、低くて、でもどこか甘く切ないイケボ。
背筋がゾクッとするほどの完成度の高さに、私は一瞬、自分が演技の練習中であることを忘れてしまいそうになった。
「あの世まで、一緒に来てくれ」
瑛はそう告げると同時に、ズンッと力強い一歩を踏み出し、私の右手首をガシッと掴んだ。
「ひゃっ……!?」
逃げる間もなく、私はそのまま強引に引っ張られ、部屋の壁際へと押し込まれた。
ドンッ。
私の背中が壁にぶつかると同時に、瑛の空いている方の手が、私の顔のすぐ横の壁をドンッと叩いた。
壁ドンだ。
「え、瑛……っ」
至近距離で私を見下ろす瑛の瞳は、演技だとわかっていても、本当に私をあの世まで連れ去ってしまいそうなほど、強烈な独占欲と熱を帯びていた。
心臓が、耳の奥でドクン、ドクンと早鐘を打ち始める。
遊びの延長だったはずの心中ごっこが、瑛の迫真の演技のせいで、一気に甘くて危険な空気に染め上げられてしまったのだ。




