第32話 吸血
【萌真視点】
私が抗議する間もなく、瑛は私の首筋から鎖骨のあたりへと、わざとらしく顔を埋めてきた。
彼の少し長めの前髪が、私の敏感な肌をくすぐる。
「ひゃっ……!え、瑛、ストップ!くすぐったいってば!」
「動くなよ。ドラキュラ様がお食事中だぞ」
「だから日本にドラキュラはいないの!もー、離し……っ!」
私が肩をよじって逃れようとした、まさにその時だった。
チュッ、と。
首筋の、脈打つほど熱くなっている部分に、瑛の柔らかい唇が触れた。
そして次の瞬間、ちくりとした微かな刺激と共に、彼が私の肌を甘噛みしてきたのだ。
「んぁっ……!?」
思わず、自分でも聞いたことがないような甘い声が漏れてしまった。
瑛の唇の感触と、首筋を這う熱い吐息。それは、普段の面倒見が良くて冷静な彼からは想像もつかないほど、色気と独占欲に満ちていた。
「どうした?血を吸われるのが怖くなったか?」
「こ、怖くなんか……っ、あ、んっ……瑛ぇ……っ」
最初は呆れてツッコミを入れていた私だったけれど、首筋から鎖骨へと執拗に繰り返される甘噛みと、耳元で囁かれる低く甘い声に、次第に頭の芯がドロドロに溶かされていくのを感じた。
抵抗しようとシーツを握りしめていた指先から、すーっと力が抜けていく。瑛の吐息と感触の前に、私はすっかり腰を砕かされてしまったのだ。
(だ、だめ……こんなの、反則すぎる……っ)
瑛の顔がゆっくりと上がり、至近距離で私の目を見つめてくる。
その切れ長の瞳には、私の反応を面白がるような悪戯っぽい光と、隠しきれない熱情が入り混じっていた。
こんな瞳で見つめられたら、もう抗えるわけがない。
「……降参、か?」
瑛が意地悪く微笑む。
私は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、コクコクと頷くしかなかった。
そして、シーツを掴んでいた両手をゆっくりと持ち上げると、涙目になりながら、私から自発的に瑛の首へと腕を回したのだ。
瑛の身体が、ビクッとわずかに強張るのがわかった。
「……もう」
私は瑛の首に抱きついたまま、彼の耳元で甘く、そして少しだけ拗ねたように呟いた。
「その霊、いつ成仏するの……?」
私のその言葉を聞いた瞬間、瑛の瞳から「悪霊の演技」という余裕が完全に消え去った。
コメディじみたドラキュラごっこは終わりだ。ここから先は、彼氏と彼女としての、本当の時間。
「……当分、成仏するつもりはない!」
「え……んっ!」
瑛の顔が近づき、今度は首筋ではなく、私の唇を真っ直ぐに塞いできた。
最初は優しく触れるだけの小鳥さんキス。けれど、私が彼の首に回した腕にギュッと力を込めると、瑛はそれに応えるように、私の後頭部に手を添えて角度を変えた。
「んっ……ぁ……っ」
少しだけ開いた私の唇の隙間から、瑛の舌が滑り込んでくる。
びくりと背筋が跳ねた。舌と舌が熱く絡み合う、深く、濃密なキス。
互いの唾液が混ざり合う水音と、荒くなった呼吸の音だけが、静かな部屋に響き渡る。
瑛の舌が私の口内の柔らかな粘膜を撫で、逃げようとする私の舌を絡め取るようにして深く味わい尽くしていく。
「ふぁ……瑛、んっ……っ」
「……萌真」
息継ぎのためにわずかに唇を離すたび、銀色の糸が切れてはまた繋がる。
頭の中が真っ白になって、もう何も考えられない。ただ、瑛の熱と、彼から香る汗の匂い、そして私を求める強烈な独占欲だけが、私の全神経を支配していた。
(瑛……好き、大好き……っ)
私たちはベッドの上で完全に身体を密着させ、お互いの熱を確かめ合うように、何度も何度も舌を絡ませて深くキスを交わし続けた。
クーラーの効いた部屋のはずなのに、私の身体は芯から燃えるように熱かった。
このまま、瑛に全部溶かされてしまってもいい。そう本気で思い始めていた――まさにその絶頂のタイミングだった。
『ガチャッ』
一階の方から、玄関のドアが開く無慈悲な音が響いた。
「ただいまー。あー、外あっつい!」
一階の廊下から響き渡ったのは、現実主義で辛口な私の妹、眞美の声だった。
「「……っっ!!??」」
私と瑛は、ベッドの上で舌を絡ませ合っていた体勢のまま、雷に撃たれたように完全にフリーズした。
コンマ数秒の硬直の後。
「ひゃあああっ!?」
「うおっ、ま、まずい!」
私たちはバネ仕掛けのおもちゃのように弾け飛び、慌ててベッドから転がり落ちた。
私は乱れた前髪を必死に手ぐしで整え、ベッドのシーツのシワをバシバシと叩いて伸ばす。瑛は瑛で、めくれ上がったTシャツの裾を猛スピードで直し、床に落ちていた文庫本を逆さまのまま拾い上げて正座した。
「お姉ちゃーん、スイカアイス買ってきたよー。早く食べないと溶けるよー」
パタパタと階段を上がってくる足音。
そして、ノックもなしに私の部屋のドアがガチャリと開かれた。
「ちょっと、クーラー効かせすぎじゃない?……って」
ドアの前に立った眞美は、部屋の中の光景を見るなり、その知的な目つきをスッと細めた。
部屋の真ん中で不自然に直立不動になっている私と、壁際で逆さまの文庫本を真剣な顔で読んでいる(フリをしている)瑛。
私たちの顔は、先ほどまでの熱情と現在のパニックが入り混じり、スイカアイスのように真っ赤に染まっていた。おまけに、二人の呼吸は肩でぜぇぜぇと荒い息を吐いている。
「あ、お、おかえり眞美!早かったね!お母さんたちは!?」
「お母さんたちは雑貨店寄ってくるから、私だけ先帰ってきたんだけど」
眞美は呆れ果てたように深くため息をつき、腕を組んだ。
「……ねぇ。二人して顔真っ赤にして息切らして、何やってたの?まさかまた、家中でおかしな設定のイチャイチャごっこでもしてたわけ?」
「ち、違うの!これは瑛にドラキュラの霊が憑りついたから、私が必死に抵抗してて……!」
「俺は悪霊と戦ってたんだ!決して邪な気持ちがあったわけじゃ……!」
パニックになった私たちは、もはや自分でも何を言っているのかわからない言い訳を並べ立てた。
しかし、私の嘘を0.1秒で見破るリアリストの妹に、そんな苦しい茶番が通用するはずがなかった。
「……ふーん。ドラキュラねぇ。瑛くん、本逆さまだけど。それに……お姉ちゃん、口の周り、リップはみ出てるよ」
「ひっ!?」
私は慌てて自分の口元を手で覆った。
眞美は「やれやれ」と肩をすくめると、ゴミでも見るかのような冷ややかな視線を私たちに投げかけた。
「本当にバカップルなんだから。……とりあえず、アイス溶けるから早く下に降りてきてよね。あと、次からはちゃんとドアの鍵閉めなよ」
バタンッ!と、少し強めにドアを閉めて、眞美は一階へと降りていった。
残された部屋の中には、気まずすぎる沈黙と、クーラーの冷たい風だけが吹き抜けていた。
「……あー」
「……うぅ」
瑛が頭を抱えて床にうずくまり、私はベッドの端にへたり込んで顔を両手で覆った。
またしても、絶妙なタイミングで妹に決定的な場面を見られてしまった。
「瑛のバカーッ!ドラキュラごっこなんてするからぁ!」
「俺のせいかよ!お前が『いつ成仏するの』なんて煽るからだろ!」
真っ赤な顔で文句を言い合いながらも、私の唇には、まだ瑛の深く熱いキスの感触が、甘く痺れるように残っていた。




