第3話 絶交宣言
翌日の朝。
俺はいつものように、石畳が続く風情ある紅葉坂の途中で足を止めた。俺と桃芽萌真の家はご近所同士で、昔から一緒に登校するのが当たり前の日課になっている。
白壁の蔵が並ぶ静かな住宅街に、朝の涼しい風が吹き抜ける。ポケットに手を入れてぼんやり待っていると、ガチャリと聞き慣れた玄関の扉が開く音がした。
「お、来たな。おはよ――」
「瑛!どうして昨日一人で帰ったのよ!」
挨拶を遮るように響いたのは、いつもの能天気な声ではなく、棘のある怒声だった。
明るい茶髪のハーフアップを揺らしながら、萌真がズンズンと大きな足音を立ててこちらへ向かってくる。そのぱっちりとした大きな瞳は、吊り上がって俺をキツく睨みつけていた。
「え……?」
「自分勝手なそういうところホントに良くない!もう、絶交だからね!」
ビシッと人差し指を突きつけられ、俺は思わずたじろいだ。
昨日の放課後、俺は図書委員の仕事と演劇部の裏方作業が長引いてしまったのだ。
作業を終えた後、萌真が所属するバドミントン部の体育館を覗きに行ったが、すでに彼女の姿はなかった。だから仕方なく一人で先に帰宅したのだが、どうやら彼女はどこかで俺を待っていたらしい。
「ごめんっ。探したけどいなかったからさ」
「言い訳なんて聞きたくない!絶交って言ったら絶交!今日から赤の他人ですー!」
「いや、だから悪かったって。放課後、購買のパン奢るから機嫌直せよ」
「パンなんかで釣られると思ったら大間違いなんだからねっ!」
プイッとそっぽを向いてしまう萌真。
幼馴染とはいえ、女の子を待たせてしまった俺に非がある。どうやって謝るべきか、必死に言葉を探して口を開きかけた――その瞬間だった。
「うっそーんw」
突然、怒っていたはずの萌真が吹き出し、ケラケラと悪戯っぽく笑い始めたのだ。
狐につままれたような顔をしている俺を見て、彼女は満足そうにお腹を抱えている。
「何とも思ってない〜♪でもちょっと寂しかったのはホント〜♪」
またやられた。
いつもと全く変わらず、子供の時のまま精神の成長が止まったかのような彼女。
しかし、俺は聞き逃さなかった。
「ちょっと寂しかったのはホント」と言った瞬間、彼女の視線が微かに泳ぎ、その声がいつになく、ほんの少しだけ震えていたことを。
天真爛漫な笑顔の裏に隠された、ピュアで打たれ弱い彼女の本当の気持ち。幼馴染の俺だからこそ気づけるその微細なサインに、俺は少しだけ胸がチクリと痛んだ。
「お前なぁ……本気で焦っただろ。冗談でも絶交なんて言うなよ」
「あはは、瑛の困った顔、面白かったー!大成功!」
無理に明るく振る舞おうとする彼女の頭に、俺は軽くチョップを落とした。
+++
「朝からうるさいよ、お姉ちゃん」
俺たちがいつものようにじゃれ合っていると、呆れたような冷ややかな声が横から飛んできた。
萌真の家の玄関から出てきたのは、黒髪のショートボブを揺らした萌真の妹、眞美だった。
俺たちが通う苔柿高校の近くにある、掛古木中学校に通う三年生だ。
「あ、眞美。おはよう」
「おはよう、瑛くん」
眞美は俺に軽く会釈をすると、すぐに姉の方へと鋭い視線を向けた。
姉の萌真とはよく似た整った顔立ちをしているが、その知的な目つきは姉とは対照的で、常に冷静なリアリストの空気を纏っている。
「お姉ちゃん、またバカなことやって……そのうち後悔するよ」
「むっ、バカなこととは心外だなー!これは瑛との大切な朝のコミュニケーションなの!」
「自分で言った嘘を『うっそーん』で誤魔化すのが?小学生じゃないんだからさ」
眞美の辛口な指摘に、萌真は「うぐっ」と喉を詰まらせた。
眞美は昔から、姉のこの『うっそーんw』という癖を冷ややかな目で見ている。
幼い頃、姉の突拍子もないおふざけや嘘に巻き込まれて何度も恥をかいたトラウマがあるらしく、その反動で極端な現実主義者になってしまったのだ。
「あのね、お姉ちゃん。本音を隠すために嘘でコーティングしてたら、いつか本当に伝えたいことが相手に伝わらなくなるよ」
「だ、大丈夫だもん!瑛は私がどんな嘘ついても、ちゃんと分かってくれるし!」
萌真は俺の腕をギュッと掴み、助けを求めるように上目遣いで見てきた。
「んねっ、瑛?」
「俺を巻き込むなよ。眞美の言う通り、お前のそのお調子者な態度はいつか痛い目を見るぞ」
「ほら、瑛くんもそう言ってる。……お姉ちゃんの嘘なんて0.1秒で見破れるけど、相手がいつも許してくれるとは限らないんだからね」
眞美の論理的で容赦のない言葉は、いつも的確だ。
だけど、俺は知っている。眞美がこうやって口うるさく忠告するのは、姉妹の絆が深く、不器用な姉のことを誰よりも心配しているからだということを。
「もー、眞美は心配性だなぁ!私の嘘は平和の象徴なんだから、ノープロブレム!」
萌真は反省する素振りもなく、えっへんと胸を張ってみせる。
その天真爛漫な姿に、眞美は深くため息をついた。
「……知らない。本当に取り返しのつかないことになって、泣きついてきても慰めないからね」
「泣きつかないもん!ほら瑛、私たちも早く行こ!遅刻しちゃう!」
「おい、引っ張るなよ」
萌真は強引に俺の腕を引いて、坂道を駆け下り始めた。
後ろを振り返ると、眞美が腕を組みながら、呆れたような、でも少しだけ心配そうな目でこちらを見送っていた。
『そのうち後悔するよ』
眞美が残したその言葉が、やけに重く耳に残っていた。




