第26話 猫霊
【萌真視点】
きっかけは、数日前の昼休みのことだった。
私が購買で新作パンを買って教室に戻ろうとした時、廊下の隅で、利良流ララちゃんが男子生徒数人に囲まれているのを目撃してしまったのだ。
ララちゃんは、持ち前のゆるふわウェーブのツインテールを揺らしながら、両手をグーにして顔の横に持っていく、いわゆる『猫ポーズ』を炸裂させていた。
「もー、先輩たち意地悪言わないでくださいよぉ!ララ、怒っちゃいますよ?にゃんにゃんっ♡」
上目遣いと、計算し尽くされたあざとい甘え声。
それを見た男子たちは「ぐふっ」「可愛すぎるだろ……」と完全に骨抜きにされ、デレデレとだらしない顔を晒していた。
私は壁の陰からその光景を覗き見ながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。
あんなの、あざとすぎる!
でも……心のどこかで、ちょっとだけ羨ましいと思ってしまった自分がいるのも事実だった。
私と相生瑛は、あの心中塚のドタバタ騒動を経て、無事に恋人同士になった。
だけど、いざ付き合い始めてみると、瑛の方からはスキンシップをとってくれるのに、私の方からは恥ずかしくて全く甘えることができていないのだ。
私だって、ララちゃんみたいに瑛に思いっきり甘えてみたい。瑛をデレデレにしてみたい!
でも、普段からすぐ照れ隠しで嘘をついてしまう私が、急に「にゃんにゃん♡」なんてやったら、絶対に途中で恥ずかしくて自爆するに決まっている。
どうすれば、恥じらいを捨てて瑛に甘えることができるのか。
悩みに悩んだ末、私の中に天才的な閃きが舞い降りた。
(そうだ……心中塚の時みたいに、また『霊のせい』にすればいいんだ!)
あの時はちりめん問屋の若旦那の悪霊のフリをして失敗したけれど、今回は『可愛い動物霊』に憑りつかれた設定にすればいい。
そうすれば、「これは私が甘えてるんじゃなくて、猫霊のせいなんだからね!」という無敵の言い訳ができる。
私は固く決意し、実行のタイミングを見計らうことにした。
+++
そして迎えた、休日の午後。
絶好のチャンスが到来した。瑛の両親は二人揃って苔柿座へ歌舞伎の舞台鑑賞に出かけており、瑛の家には私と瑛の二人きりしかいなかったのだ。
瑛の部屋は、男の子らしくすっきりと片付いている。
エアコンの冷気が心地よく流れる中、瑛は壁に背中を預けるようにしてベッドの上に座り、趣味の読書に没頭していた。黒髪のナチュラルマッシュが、本に向かって静かに傾いている。
休日のリラックスタイムということで、瑛はシンプルな白いゆったりとしたTシャツに黒のスウェットハーフパンツという気取らない格好だ。一方の私は、少しだけ彼を意識して、涼しげなミントグリーンのノースリーブワンピースに白い薄手のカーディガンを羽織るという、ちょっとだけ気合いを入れたお出かけスタイルで決めていた。
私は床のクッションに座り、持参した少女漫画を開いていたが、内容は全く頭に入ってこなかった。
(やるなら今しかない……!誰もいない、絶好のシチュエーション!)
私はゴクリと唾を飲み込み、漫画を床に置いた。
心臓が耳の奥でうるさいくらいにドクドクと鳴っている。
恥ずかしい。でも、私だって瑛の彼女なんだから、たまには思いっきり甘えたい。
私は自分に「私は猫、私は猫霊……」と暗示をかけながら、クッションからそっと身を乗り出した。
四つん這いの体勢になり、ベッドで本を読んでいる瑛の足元へと、じりじりと距離を詰める。
「……ん?萌真、どうした?」
気配に気づいた瑛が、文庫本から顔を上げて私を見た。切れ長の瞳が不思議そうに瞬きをする。
私は瑛の足元でピタリと止まり、覚悟を決めて、精一杯の甘い声を出した。
「にゃーん……この体に憑りついた猫霊だにゃ……」
自分で言っていて、顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。
でも、もう後戻りはできない。
私はそのままベッドの縁に手をかけ、瑛の膝の上によじ登った。
「はっ!?お、おい萌真!?お前、急に何やって……」
「萌真じゃないにゃ。猫霊だにゃ。可愛い猫ちゃんだから、優しくしてほしいにゃ……」
私は瑛の膝の上に跨るような形で座り込むと、そのまま彼の胸元にすりすりと自分の頭を擦り付けた。
瑛の着ているゆったりとしたTシャツから、彼特有の石鹸のような清潔な香りがふわりと鼻をかすめる。
「ちょっ……お、お前、また変な悪霊のフリか!?心中塚で懲りたんじゃなかったのかよ!」
「悪霊じゃないって言ってるにゃ。人懐っこい猫ちゃんだにゃん」
私は瑛のTシャツの裾を両手でぎゅっと握りしめ、上目遣いで彼をじっと見つめた。
ぱっちりと目を開けて、できる限りあざとく、可愛く見える角度をキープする。
「にゃーん。構ってくれないと、イタズラしちゃうにゃ……」
言いながら、私は瑛の胸元にさらに身を寄せた。
普段の恥ずかしがり屋でピュアな私なら、こんな至近距離で甘えるなんて絶対に無理だ。でも、今は『猫霊がやっている』という最強のシールドがある。
恥じらいを捨てて連発する私のベタ甘なスキンシップに、瑛の余裕がみるみるうちに崩れていくのがわかった。
「お、おい……萌真、近すぎるって。ってか、その『にゃん』って語尾、めちゃくちゃ破壊力あるからやめろ……っ」
瑛は文庫本をベッドに放り投げ、私の肩を押し返そうとするが、その手には全く力が入っていなかった。
顔は耳まで真っ赤に染まり、視線が激しく泳いでいる。
鼻血が出そうなのを必死に堪えているのが、手に取るようにわかった。
(やった!大成功!瑛がめちゃくちゃ動揺してる!)
私は心の中でガッツポーズをキメた。
いつも私をからかって、余裕ぶっている幼馴染のこんな顔、初めて見た。
嬉しくなった私は、さらに調子に乗って猫霊の演技を続けることにした。
「にゃふふ……照れてるにゃ?瑛くんは、猫ちゃんに甘えられるのが弱いにゃ?」
私が瑛の鼻先に自分の鼻をすり寄せようとした、その時だった。
「……っ、この、お調子者が……」
瑛は小さく息を吐き出すと、ふっと視線を鋭くした。
そして、ベッドの脇のサイドテーブルに置いてあった、自分のハンカチをスッと手に取ったのだ。
何をする気だろうと私が首を傾げていると、瑛はそのハンカチを私の目の前でヒラヒラとさせ、そのままベッドから床の空いているスペースへと投げ落とした。
そして、床の少し上を這わせるように、ハンカチの端を掴んで左右に素早く振り始めたのだ。
シュッ、シュッ、と布が風を切る音がする。
「ほら。猫霊なら、これが気になるだろ?」
瑛がニヤリと意地悪な笑みを浮かべて私を見た。
ハンカチの動きは、完全に猫じゃらしで猫を遊ばせる時のそれだった。
(な、なにそれ!?)
私は内心で抗議しようとしたが、ハッと気づいた。
私は今、『猫霊』に憑りつかれている設定なのだ。
目の前でヒラヒラと動く布切れを無視してしまったら、猫霊という設定が崩壊してしまう!
「……っ、にゃ、にゃーんっ!」
私は瑛の膝の上から慌てて床へと飛び降り、四つん這いのまま、左右に振られるハンカチを追いかけて両手をバタバタとさせた。
私が猫手を作って右へ飛びつけば、瑛はハンカチを左へスッと躱す。左へ飛びつけば、今度は上へとヒラリと逃がす。
「にゃっ!捕まらないにゃ!まてぇーっ!」
「ははっ、ほらほら、猫ちゃん。こっちだぞ」
瑛はベッドに座ったまま、完全に面白がってハンカチを振り続けている。
私は床の上で右へ左へと翻弄されながら、必死にハンカチを追いかけた。
甘い空気で瑛を骨抜きにするはずだったのに、気づけば私は、床を這いつくばって本気で布切れを追いかけるという、とてつもなく無様な状況に陥っていたのだ。
(ち、違う!私がやりたかったのはこんな遊びじゃないのにぃぃぃ!)
私は心の中で涙を流しながらも、猫霊のプライド(?)を懸けて、瑛の手の中にあるハンカチに向かって「にゃーっ!」と猫パンチを繰り出し続けた。




