第16話 帰り道
【萌真視点】
「瑛を返して……!私の、大切な瑛を返してよぉ……っ!」
「……っ、おい、ストップ!もうやめろってば!」
私がなりふり構わずバシバシと肩を叩き続けていると、突然、瑛が私の手首をガシッと掴んだ。
その力強さは、先ほどまでのなよやかな『女の霊』のものではなく、見慣れた幼馴染の男の子の力だった。
「え……?」
「はっ……!?」
瑛は大きく目を見開き、まるで今さっき長い夢から覚めたかのように、息を吸い込んだ。
そして、自分の手のひらを見つめ、キョロキョロと周囲の竹林を見回す。
「……あれ?俺、どうしたんだ?なんでこんな泥だらけで……」
「え、瑛……?元の瑛に、戻ったの……?」
「元の?なんだよそれ。……あー、なんか急に頭が真っ白になって、すげぇ怖い夢を見てたような気がする……。お前、なんでそんな泣いた顔してんだよ」
瑛は不思議そうに首を傾げながら、いつものぶっきらぼうな口調で尋ねてきた。
その様子を見て、私は腰から一気に力が抜け、その場にへたり込んでしまった。
(よかった……!出て行ってくれたんだ!)
きっと私が本気で泣き叫んで揺さぶったおかげで、彼岸の狭間に引きずり込まれそうになっていた瑛の魂が、こちらの世界に引き戻されたのに違いない。
安堵のあまり、またポロポロと涙がこぼれてきた。
「よかったぁ……瑛が、あの世に連れて行かれなくて、本当によかったぁ……っ」
「おいおい、大げさだな。まあ、ちょっと寒気がしたくらいで、別に何ともねぇよ。……ほら、立てるか?」
瑛が私に手を差し伸べてくれる。
私はその手を取り、泥だらけの服をパンパンと払いながら立ち上がった。
ああ、いつもの優しい瑛だ。やっぱり私の大好きな幼馴染だ。
そう安心しきっていた、次の瞬間だった。
「それにしても、お前さん……えらく取り乱していたようでござりんすねぇ」
「……え?」
私の背筋に、冷たい氷柱を差し込まれたような悪寒が走った。
今、瑛はなんと言った?
『お前さん』?『ござりんす』?
私が恐る恐る顔を上げると、瑛は口元に手を当て、どこか色っぽい流し目で私を見下ろしていた。
「え、あ、あの……瑛?」
「ん?どうした?早く帰らねぇと、親に心配されるだろ」
瞬時にいつもの表情に戻り、平然と歩き出す瑛。
私は完全にパニックに陥った。
今の言い回し、絶対に気のせいじゃない。確かに女の霊の口調だった。
ということは……。
(ひぃぃぃ!まだ瑛の体内に、あの花魁の霊が残ってるんだ!)
私が強引に揺さぶったせいで、霊は一時的に奥へ引っ込んだだけなのだ。
瑛本人は無自覚なまま、霊に身体を少しずつ蝕まれているに違いない。
私は自分のしでかした事の重大さに、再び深い絶望の淵に突き落とされた。
「ほら、今日はもう帰ろう萌真」
「……そ、そうね」
気まずい空気の中、私たちは暗い竹林を抜け、心中塚を後にした。
+++
心中塚から紅葉坂の住宅街へ続く夜道。
私たちはお互いに無言のまま、一定の距離を保って歩いていた。
普段なら、私のくだらない嘘に瑛がツッコミを入れたりして、賑やかに歩く道だ。
でも今は、少しでも瑛の中の霊を刺激したら、またあの恐ろしい狂乱状態に戻ってしまうかもしれないという恐怖で、私は息をするのさえ躊躇っていた。
「……」
「……」
瑛の横顔をチラチラと盗み見る。
暗がりの中を歩く彼は、一見いつも通りに見える。
けれど、時折ふっと空を見上げる仕草や、ため息をつくタイミングが、どこか艶めかしくて、やっぱり変なのだ。
やがて、見慣れた私の家の門扉が見えてきた。
今日ほど、家に着くのが待ち遠しかった日はない。
玄関の明かりを見た瞬間、私は飛び上がるほどホッとした。
「あの、瑛。今日は、その……ごめんね。色々と……」
門の前で立ち止まり、私は瑛に向かって深く頭を下げた。
全ては私のくだらない茶番から始まったことだ。
瑛は私の言葉に、少しだけ目を丸くした後、優しく微笑んでくれた。
「気にするな。俺も……色々とお前に言わなきゃならないことがあったしな」
ああ、やっぱり瑛は優しい。
私は胸を撫で下ろし、「じゃあ、おやすみ!」と振り返って門を開けようとした。
「――おさらばえ~」
背後から、不意にそんな声が降ってきた。
ビクッと肩を震わせ、私はゆっくりと後ろを振り返る。
瑛は、門灯に照らされた顔にニヤリと不敵な笑みを浮かべ、艶やかな手つきで小さく手を振っていた。
「ひっ……!」
全身の毛穴という毛穴が開き、心臓が爆発しそうに跳ね上がった。
間違いない。完全に憑りつかれている。
私は悲鳴を飲み込み、逃げるように門をくぐり、玄関のドアに飛びついた。
+++
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
ガチャリとドアの鍵を閉め、私は土間にへたり込んだ。
心臓が耳の奥でうるさいほどバクバクと鳴っている。
「……何、その泥だらけの格好。それに、酷い顔」
不意に頭上から冷ややかな声が降ってきた。
見上げると、廊下に妹の眞美が腕を組んで立っていた。
彼女は、ボロボロになった私の姿をジロリと眺め、呆れたようにため息をついた。
「泣いて帰ってきたってことは、また自爆したんでしょ。だから忠告したのに」
「ち、違うの眞美!大変なの!」
「何が大変なのよ。瑛くんにまたしょうもない嘘ついて、怒られたんでしょ」
「違うってば!嘘なんかじゃないの!瑛が……瑛が、本物の女の霊に身体を乗っ取られちゃったの!」
私は藁にもすがる思いで、眞美の足元にすがりついた。
瑛がどれほど恐ろしい声で話し、白目を剥いて苦しんでいたか。そして別れ際の『おさらばえ〜』の恐怖。
それらを必死に身振り手振りで説明した。
「本当にヤバいの!私のせいなの!このままだと、瑛があの世に連れて行かれちゃう!」
「……はいはい。また新しい設定の嘘ね」
眞美は私の必死の訴えを、まるで路傍の石でも見るかのような冷たい目で見下ろした。
「そんな見え透いた嘘、0.1秒で見破れるっていつも言ってるでしょ。瑛くんが女の霊に乗っ取られるわけないじゃない。どうせまた、瑛くんの気を惹くためのくだらない茶番なんでしょ」
「嘘じゃないもん!ガチなんだってば!本当に瑛の中に花魁が……!」
「もういいから、お風呂入って寝なよ。泥だらけで床汚さないでよね」
眞美はピシャリと言い捨てると、くるりと背を向けてリビングへ戻ってしまった。
「うぅ……信じてくれない……」
私は土間に残され、一人でポロポロと泣き言をこぼした。
誰も信じてくれない。
でも、私だけはわかっている。瑛の身体は、今この瞬間も悪霊に蝕まれているのだ。
(私がなんとかしなくちゃ……私の大切な瑛なんだから!)
明日だ。
明日学校へ行ったら、真っ先にオカルト研究部の菜乃ちゃんのところへ行こう。
そして、彼女ならきっと何かいい手を教えてくれる。
瑛を救えるのは、私しかいないのだから。
私は固く決意し、泥だらけの拳をぎゅっと握りしめた。




