第15話 花魁の霊
【萌真視点】
「……お前、本当にバカだな」
静まり返った竹林の底。
雲の切れ間から差し込む月明かりが、私の目の前にいる相生瑛の顔を青白く照らし出していた。
服は泥だらけで、髪には枯れ葉が絡まっている。
それでも、彼の切れ長の瞳はひどく優しくて、温かくて。
「え、瑛……っ」
ぽろぽろと零れ落ちる涙を拭うことも忘れて、私は瑛の胸にすがりついた。
伝わった。
私の、嘘偽りのない本当の気持ち。
今まで散々くだらない嘘をついて、照れ隠しで逃げ回って、彼を傷つけてしまったのに。瑛は呆れながらも、私を正面から受け止めてくれたのだ。
張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、私は心の底から安堵の息を吐き出した。
これでもう、大丈夫。ララちゃんに瑛を取られることもない。私たちはまた、あの心地よい幼馴染の関係から、今度は『特別な二人』として歩き出せるんだ。
瑛が笑いながら、大きな手で私の頭をぽんぽんと撫でてくれる。
――そう、信じて疑わなかった。
しかし、数秒が経っても、瑛の手は私の頭には伸びてこなかった。
それどころか、先ほどまで私の身体を支えてくれていたはずの腕が、するりと解けていくのがわかった。
「……瑛?」
不思議に思って顔を上げると、瑛は深くうつむき、微動だにせず立ち尽くしていた。
顔は前髪の影に隠れて見えない。
だが、彼の肩が小刻みに震えているのだけは、はっきりとわかった。
「ちょ、ちょっと、大丈夫!?どこか痛むの!?さっき斜面から落ちた時に――」
慌てて彼の身体を気遣おうと手を伸ばした、その時だった。
「……どうして」
裏声にしてひどく低く、地の底から這い上がってくるような声が、静寂の竹林に響いた。
「え……?」
「どうして……どうしてわっちを道連れにしたんでござりんすか!!」
瑛がバッと顔を上げた。
その瞬間、私は自分の心臓がヒュッと縮み上がるのを感じた。
月明かりに照らされた瑛の目は、私がよく知っている面倒見の良い幼馴染のそれじゃなかった。
虚ろで、狂気に満ちていて、どこまでも冷たい。
そして何より――彼の口から発せられたその声は、普段の瑛の声ではなく、艶やかで、恨みがましい『女の声色』だったのだ。
「え……あ、瑛……?何、言って……」
私は完全に思考が停止し、後ずさりしようとした。
だが、瑛は私を逃がさないとばかりに、ギリッと歯を食いしばりながら一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
その身のこなしは、いつもの瑛の歩き方とは明らかに違っていた。引きずるような足取り、なよやかながらも執念深さを感じさせる手の動き。
『あまり長居すると、本物の霊が寄って来るから気を付けてね』
昼休み、オカルト研究部の丹野根菜乃ちゃんが、薄暗い部室で怪しげに呟いた言葉が、私の脳内に鮮烈にフラッシュバックした。
ここは心中塚。
江戸時代に、ちりめん問屋の若旦那と花魁が無理心中を図った伝説の地。
そして今、目の前にいる瑛は、明らかに『男』ではなく『女』の言葉で、私に向かって恨み言を投げかけている。
「ひっ……う、嘘でしょ……?」
血の気が一気に引き、指先から急速に体温が奪われていくのがわかった。
私が、馬鹿みたいな悪霊のフリをして瑛を驚かせ、こんな曰く付きの場所で『あの世まで道連れだーっ!』なんて叫びながら斜面を転げ落ちたせいだ。
私のくだらない茶番のせいで、瑛に本物の『心中された側の女の霊』が取り憑いてしまったんだ!
「あんたが憎い……!若旦那、どうしてあんたがわっちの命を奪うんでござりんすか!」
「い、いやああぁぁっ!来ないでぇ!」
迫真の狂気を孕んだ瑛――いや、瑛の身体を乗っ取った『花魁の霊』が、ギリギリと私に迫る。
私は腰が抜け、泥だらけの地面にへたり込んでしまった。
いくら演劇部であっても、これほどまでに鬼気迫る姿は本当に霊が憑依しているとしか考えられない。私は、完全に絶望の淵に突き落とされていた。
「どうかわっちを解放しておくんなし!どうか!あっ、どうか!」
突如として、瑛が自分の喉をかきむしるように両手を当て、苦しげに呻き声を上げ始めた。
白目を剥きそうな勢いで天を仰ぎ、身体をくの字に曲げて悶え苦しむ。
「え、瑛!?」
「苦しい……!此岸と彼岸の狭間……熱い、熱いでありんす……!」
その苦しみ方は、異常だった。
私には、霊が瑛の魂を内側から引き裂こうとしているようにしか見えなかった。
怖い。恐ろしい。今すぐ逃げ出したい。
でも、ここで逃げたら、瑛は本当に『あちら側』に連れて行かれてしまう。
私が彼を、こんな目に遭わせてしまったのだから。
「ごめんなさい……!私のせいだ……!私のバカな茶番のせいだぁぁぁ!」
私は恐怖をかなぐり捨て、絶叫しながら瑛の身体に飛びついた。
「瑛を解放して!お願いだから出ていって!瑛は関係ないの!悪いのは全部私だからぁぁぁ!」
「がああぁぁっ!離れろ、離しておくんなし!」
「離さない!絶対に離さないもん!」
私は瑛の肩をバシバシと必死に叩き、両腕を掴んでガクガクと激しく揺さぶった。
「出てけ、出てけーっ!悪霊退散!アブラカタブラー!ナムアミダブツ!じゅげむじゅげむ!なんでもいいから早く成仏してぇぇぇ!」
もうパニックだった。
私にできるのは、泣き喚きながら物理的な衝撃を与えて、霊を追い出そうとすることだけだった。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を瑛の胸に押し付け、私はただひたすらに号泣し続けた。
「瑛を返して……!私の、大切な瑛を返してよぉ……っ!」
夜の竹林に、私の情けない絶叫が、ただ虚しく響き渡っていた。




