2 穏やかな生活からの地獄 2
神無月本家の奥深く、重苦しい静寂に包まれた和室。月明かりだけが障子越しに差し込む薄暗い部屋で、菊人の双子の妹・綾は華奢な布団に沈み込むようにして横たわっていた。
長患いですっかりやせ細り、雪のように白い肌をした綾の命の火が、今まさに消えようとしていることは、あまり頻繁に行くことを許されていない菊人にも痛いほど分かっていた。
浅い呼吸を繰り返す綾の傍には、彼女が一度も袖を通すことのない鮮やかな真紅の引き摺りが衣桁に掛けられている。
「……お兄ちゃん……」
掠れた、ひび割れたガラス細工のような声がその静寂を破った。菊人は黙って、妹の様子を部屋の入り口から眺めていた。
「なんで……一緒に産まれたんに、うちの身体、こんなにあかんのん?ズルいわ……お兄ちゃんは……っ、げほっ……げほっ!」
「……」
「……嫌だぁ……」
綾は血の気の失せた唇を震わせて、その瞳からポロポロと涙を溢した。
親の期待を一身に背負いながら、病弱ゆえに踊れない綾。
そして誰よりも天才的な才能を持ちながら、女ではないというだけで日陰に追いやられていた菊人。綾は兄の天賦の才に嫉妬しながらも、誰よりもその美しい舞に焦がれていた。
「……お、お願いや……ちょっとでええから、そん着物着て……うちの代わりに……舞って見せてくれんか?……」
それは、死の淵に立つ妹の執念にも似た最期の願いだったかもしれない。決して仲の良い兄妹では無かった。ほとんど一緒に過ごしたことのない兄と妹……。
菊人は躊躇した。普段から、綾の物には触ることを両親は極端に嫌った。綾の着物を着て踊ることなど、両親に見つかればどれ程の折檻を受けるか分からない。本番用の高額の絹の着物……。
何度も懇願する綾を暫く見ていた菊人は……意を決して、衣桁からその真紅の着物を外した。
少年の華奢な肩に、ヒンヤリとした重い正絹が乗る。着付けなど時間をかけることもまともにできない為、ただ羽織って帯を結んだだけの不格好な姿だった。
しかし、月明かりに照らされたそのいで立ちを見た瞬間、布団の中の綾はほうっと熱い吐息を漏らした。
菊人は、無音の空間の中で静かに舞い始めた。三味線も鼓もない。あるのは綾の微かな呼吸音と、畳の上を擦れる美しい真紅の絹の音だけだった。
それは、親の厳しい監視下でやらされてきた「稽古」とは全く違う。褒められることもなく、怒られないように、完璧を演じる為でもない。
ただ、目の前で命を散らそうとしている、半身の魂を慰めるための純粋な祈りの舞だった。
細く白い指先が、闇の中で弧を描く。真紅の裾が月明かりを孕んで翻る。
哀しいほどに妖艶で、神懸かり的な美しさだった。性別も年齢も超えた、圧倒的な「芸」の結晶が、その暗い和室でひっそりと開花していた。
綾は、涙で頬を濡らしながら、夢見るようにその舞を見つめていた。
「……綺麗や……お兄ちゃん、とっても綺麗……」
綾の口元に、満足げな、しかしどこか寂しげな微笑みが浮かんだ。
この瞬間だけは、菊人も綾も、親の呪縛から解き放たれていた。真紅の着物は、間違いなく二人の魂を強く結びつける、世界で一番美しい衣だったのだ。
―――廊下を走る、複数の荒々しい足音と、乱暴に襖が開けられる音が響くまでは。
昔々のキャラで、なかなか書けなかったエピソードです。




