3 すれ違いの修羅場 1
月明かりの下、真紅の衣を翻して無音で舞う菊人の姿は、この世のものとは思えないほど妖艶で美しかった。しかし、その神懸かり的な美しさが、凡人の心に醜い嫉妬心と悪意を呼び覚ますことなど、その時の菊人には知る由もなかった。
「……信じられまへんな。なんという忌まわしさ……」
庭に面した縁側の陰で、障子の隙間からその様子を覗き見ていた一門の若い弟子の顔が、嫌悪に歪んだ。
彼の目には、純粋な兄妹の祈りの舞など映ってはいない。ただ『瀕死の妹の部屋で、妹の大切な着物を奪って、まるで彼女の死を待ちわびて次の主役に躍り出ようと勝ち誇って踊っている日陰者の兄』という不敬でおぞましい光景にしか見えなかったのだ。
弟子は足音を忍ばせてその場を離れると、当主の屋敷のの別棟へ向かって駆け出した。
その夜、神無月家の絶対的な権力者であり、菊人の才能を唯一保護する立場にあった祖母・志野は、舞台の都合で遠方に滞在しており本家を留守にしていた。菊人を庇う盾は、この広大な屋敷のどこにも存在していなかった。
――――ダンンンンッッ!!
静寂を切り裂く凄まじい音と共に、和室の襖が乱暴に開けられた。
「っ……!」
舞の途中で息を呑み、菊人が動きを止めた瞬間、怒りに目を血走らせた父親が土足のまま畳に踏み込んできた。
「こんの、薄汚い畜生腹めえッ!」
父親の分厚い拳が、菊人の頬を容赦なく打ち据えた。
「あぐっ……!」
華奢な身体が宙を飛び、真紅の着物ごと畳に激しく叩きつけられる。口の中に鉄の味が広がり、火花が散る視界の中で、今度はヒステリックな悲鳴を上げながら母親が飛びかかってきた。
「何するんやっ!なんで、あんたが綾の着物着とるんやッ!!」
母親は菊人の上に馬乗りになると、狂ったように真紅の絹地を掴み、引きはがそうと爪を立てた。
「あんさん、綾が死ぬのを喜んでんだろ?綾が死んで、自分だけが舞台に出られる思うて、勝ち誇って踊ってたんやね!ああ、悪魔!出来損ないの分際で!綾の大事な着物を汚すんじゃないわ!!」
「違うっ……!お母はん、違う……っ!綾が、……綾が見たいって言うて……!」
「黙れっ!!」
弁明しようとした菊人の腹を、父親の足袋の先が力任せに蹴り上げた。内臓が破裂するかと思うほどの激痛に、菊人は息を詰まらせ、エビのように丸まって床を転げ回った。
「……ああ、可哀そうな綾!苦しいのに、こんな忌まわしいものを見せつけられよってに……」
母親が泣き叫びながら、菊人の髪をわしづかみにして床に何度も叩きつける。
(違う、違う、違う。うちはただ、綾に笑って欲しかっただけやのに。願いを叶えてやりたかっただけやのに……)
痛みと恐怖で視界がぐらぐらと揺れる中、菊人の目に、布団から必死に這いだそうとする妹の姿が映った。
「止め……お母はん、お父はん、……やめてぇなっ!!」
綾は、残された僅かな命の火を振り絞るように、血の気の失せた顏で泣き叫んでいた。
「うちがお願いしたんや!……お兄ちゃんを……叩かんといてぇな!……違うっ……違うんや」
「綾!起き上がっちゃダメや!寝てなはれ……可哀そうに怖い思いさせたなぁ……」
しかし、両親の耳には綾の真実さえ全く届いてはいなかった。
彼らは「怯えた娘が、必死に兄の暴挙から逃れようとしている……あるいは、優しい妹が無理して兄を庇っている」と完全に思い違いをしていた。自分たちの『愛すべき娘を守る』という狂信的な正義に酔いしれて、聞く耳を全く持たなかったのだ。
言葉が見つからない。語彙力が欲しい……。




