1 穏やかな生活からの地獄 1
浜崎 剛 が作った少し不格好なオムライスを前に、二十一歳になったはずの青年は、スプーンの背でケチャップを熱心に塗りたくって嬉しそうに遊んでいる。
「コラッ、菊ッ!!……遊んでいないで、早く食べろっ。ほら、あーんして」
この光景を見ると、普通の人なら(……あ、可哀そうに。障がいかな?)と同情するかもしれない。しかし浜崎 剛にとっては、これが日常になりつつあった。
彼が呆れたように、スプーンを奪い取り、黄色い卵をすくって口元へ運ぶと、神無月 菊人は壊れた人形のように無防備な、それでいて酷く愛らしい笑みを浮かべて素直に口を開いた。
あの雨上がりのゴミ捨て場で、泥と薬物にまみれた菊人を拾ってから半年は経っていた。
菊人を恐怖と薬で支配し、廃人寸前まで追い詰めていた志野の側近・瀬戸は、剛と志野の冷徹な手回しによって今や警察の分厚い壁の向こうにいる。物理的な脅威は去り、志野が用意してくれたこの小綺麗なマンションで、二人の穏やかな暮らしが続いていた。
しかし瀬戸という毒が抜けた後の菊人は、まるで空白だった。不幸な幼少期を猛烈な勢いでやり直すかのように、すっかり幼児へと退行してしまっていた。
風呂から上がれば、濡れた長い髪のまま、部屋のあちこちをぼーっとウロウロ歩き回り、後ろから剛がバスタオルを持って追いかけることになる。夜になれば、自分の部屋があるにも関わらず、一人で寝ることを頑なに拒み、剛のベッドに潜り込んでは、パジャマの服を小さな子供のようにギュっと握りしめて、心音を確かめるようにして、眠りにつく。衣食住の全てにおいて、菊人は完全に剛に頼り切っていた。
剛にとって、これは従来の恋愛感情とは全く異なるものだった。多くの兄弟の面倒を見てきた頼れるアニキ肌の剛にとって。菊人は「放っておけない命」であり、いつかは自分の足で立たせ、一人の男として自立させなければならない対象だった。焦らず、急がず、一歩ずつ、壊れた心をパズルのように組み立て直す。その半年間の歩みは、薄氷を踏むように繊細で、しかし確かに前へ進んでいたはずだった。
あの、大きな段ボールが届くまでは。
「おい、荷物だぞ、菊。送り主は……神無月 雫?」
嫌な予感がした。菊人の母親の名前……菊人の肩はびくりと跳ねた。何気なく剛がカッターでテープを切り、箱の蓋を開けた、その瞬間だった。
中から現れたのは、高級和紙の包みが厳重に入っており、それを開くとあの「真紅」が飛び込んできた。
息を呑むほどに鮮烈な燃え盛る『真紅の引き摺り』。途端に穏やかな菊人の表情が一変した。
「あ、……ああっ」
菊人の喉から、ひゅっと空気が漏れる音がした。みるみるうちに顔面から血の気が引き、同行が恐怖に大きく見開かれる。
「菊?おい、どうした、おい!」
剛が駆け寄るのも間に合わない。菊人は自分の頭を毟り取るように両手で抱え込み、床に倒れ込んでガタガタと激しく震えだした。
視界に飛び込んできた真紅の絹地が、菊人の脳内で封印されていた凄惨な記憶の扉をこじ開けていた。
生まれつき病弱で、一度も激しく舞うことの叶わなかった双子の妹 神無月 綾。
『お兄ちゃんはズルいんや。ものごっつう上手に踊れる。うちの身体では、そんなん出来へん』
嫉妬の裏で、誰よりも兄の天才的な舞を愛していた妹。その綾が死の間際、菊人に縋りついて涙ながらに乞うたのだ。
『こん真紅の着物で……うちに舞を見せて……踊って欲しいんや……』
普通なら菊人は絶対に舞うことはしなかった。両親の関心を一手に集め、自分をないがしろにしてきた妹。
……しかし、彼はもう一つの現実も知っていた。綾の命の火が静かに消えていこうとしていることを。
両親の目を盗み、妹のお気に入りの着物をこっそり羽織って、病床の傍らで静かに舞ったあの夜。それは兄妹の魂が唯一、純粋に通じ合った瞬間だった。




