藍色の声
この作品には自死表現が含まれます。
苦手な方はお控えください。
十月も半ばになった。
昼間はまだ少し暖かさが残るが、朝夕はすっかり肌寒いくらいになった。衣替えも段々と馴染んでくる頃だ。
教室の窓から吹き込む風が、カーテンをゆっくり揺らしていた。
響は頬杖をつきながら、何となく窓の外を眺める。
空が高い。
秋の空だった。
ふと視線を戻す。
教室の中央。
いちこの席が目に入った。
今日も空いている。
先月からずっとだ。
先生は体調不良だと言っていた。
でも響にはそれは違うと分かっていた。
あの日。
公園で抱き合って泣いたから。
丈への気持ちに気付いてしまった彼女が、どれだけ苦しんでいるのか、少しだけ想像できてしまうから。
スマホを取り出し、トーク画面を開く。
【大丈夫?】
三日前に送ったメッセージに既読は付いていない。
文字を打ちかけて、やめた。
何を送ればいいのか分からない。
頑張れなんて言えない。
大丈夫じゃないのも分かっている。
響はため息を吐いてスマホを伏せた。
丈ならどうしただろう。
たぶん。
何も考えず家まで行く。
そして。
『いちこー!生きてるー!?』
とか叫ぶ。
絶対やる。
あいつ馬鹿だから。
思わず少し笑ってしまった。
でも。
その笑顔はすぐに消えた。
そんな馬鹿はもういない。
放課後。
響は一人で駅前へ向かっていた。
肩にはバイオリンケース。
小学生の頃から背負い続けている重たい荷物だった。
自動ドアが開く。
音楽教室特有の独特な香りと空気がまとわりついてくる。
受付の先生が笑顔で会釈をしてくれた。
「こんにちは」
「こんにちは、宮原さん」
いつものやり取り。
いつもの景色。
いつもの場所。
なのに。
今日はやけに息苦しかった。
レッスン室。
課題の演奏を終える。
先生が満足そうに頷いた。
「うん、良くなってる」
響は曖昧に笑う。
「来月のコンクールも期待してるからね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し重くなった。
まただ。
期待。
努力。
結果。
賞。
小さい頃から何度も聞いてきた言葉だった。
帰宅すると母が待っていた。
「先生から聞いたわよ」
嬉しそうな顔だった。
「来月のコンクール、期待されてるんですって?」
響は鞄を置く。
何も答えない。
母は気にせず続けた。
「響ならもっと上を目指せるわ」
もっと。
もっと。
もっと。
その言葉を聞くたびに。
自分がどこか遠くへ押し流されていく気がした。
夕食の時間。
父も母もいる。
テレビもついている。
いつも通りの家族だった。
でも。
響だけが息苦しかった。
「大学も音楽系を考えてみたら?」
母が何気なく言った。
箸が止まる。
心臓が少しだけ強く鳴った。
その瞬間だった。
丈の顔が浮かんだ。
夏休み前。丈がまだ居たとき。
五人で帰った日のこと。
『響ってさ』
コンビニで買ったアイスを食べながら。
丈は何気なく言った。
『何か言いたそうなのに言わないよな』
響は笑って誤魔化した。
『別に〜 言いたいことなんてないよ!』
すると丈は笑った。
『もったいねー』
ただそれだけ。
でも今なら分かる。
あいつは気付いていた。
私がずっと逃げていたことに。
本当の気持ちから。
親から。
自分自身から。
胸の奥で何かが弾けた。
「私、」
自分でも驚くくらい大きな声だった。
父と母が同時に顔を上げる。
響は震えていた。
怖い。
でも、止まりたくなかった。
「私……」
深く息を吸う。
「バイオリン好きじゃない」
静まり返る食卓。
テレビの音だけが遠く聞こえる。
「一度も好きだったことない」
声が震える。
「言えなかっただけ」
母の表情が固まる。
「期待してくれてるのも分かってる」
涙が滲む。
「でも」
ずっと。
ずっと言いたかった。
「私は私の人生を生きたい」
沈黙が落ちる。
母は何も言わない。
父も黙ったままだった。
それでも。
不思議だった。
怖いはずなのに。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
息がしやすかった。
部屋を出る。
二階へ向かう階段を上りながら、響は窓の外を見た。
夕焼けが終わりかけていた。
空は青と夜の境目。
深い藍色に染まり始めている。
丈。
お前さ。
いなくなった後まで、人の背中押してくるの反則だろ。
響は小さく笑った。
藍色の空の向こうで。
あの馬鹿がまた、
『やっと言ったじゃん』
と笑っている気がした。




