黒い棘
この作品には自死表現が含まれます。
苦手な方はお控えください。
丈の部屋から帰った日から、その紙切れが頭から離れなくなった。
たった二行だった。たったそれだけだったのに。
机に向かって問題集を開いても、参考書のページをめくっても、気が付けば視線は同じ場所を何度も往復していて、問題文の内容はほとんどが頭に残っていなかった。
母さんには幸せでいてほしい
その言葉だけが、まるで喉に刺さった小骨みたいに取れない。
丈は母親の話をしなかったし、話したがらなかった。
だからみんなはそれを察して聞かなかった。
聞いてはいけないことなんだと思っていた。
でも今になって思う。
あいつは本当は誰かに聞いてほしかったんじゃないか。
誰かに気付いてほしかったんじゃないか。
そんな考えが浮かんでは消えていく。
答えなんて分かるはずがないのに。
昼休み。
教室はいつも通り騒がしかった。
晃平が購買から戻ってきて、戦利品の焼きそばパンを掲げながら大袈裟に勝利宣言をしている。
響はそんな晃平にはいはい、と、いなしながらも嬉しそうである。
クラスメイト達もそれにつられて笑っている。
平和な昼休みだった。
何も変わらない。
何も。
変わっていないように見える。
でも。
丈の席の場所はもうない。机ごと。穴の空いた空間のようになっていた。
いちこの席も空いていた。
ぽっかり空いた場所と空席を見ていると、何かが少しずつ欠けていっている気がした。
「大輝?」
顔を上げると晃平だった。
「んあー?」
「最近さ」
焼きそばパンをかじりながらこちらを見ている。
「元気なくね?」
心臓が一度だけ大きく鳴った。
「別に」
「嘘つけ」
即答だった。
「お前、分かりやすいぞ」
「そうか?」
「そうだよ」
晃平は笑った。
何の疑いもなく。
いつも通りに。
その顔を見た瞬間。
胸の奥が少し痛んだ。
何も知らないんだ。
あの日。
丈の部屋で見た紙のことも。
母親のことも。
何も。
知らない。
知らないまま笑っている。
それが少し羨ましかった。
そして。
少しだけ腹が立った。
そんな感情を抱いた自分に驚く。
晃平は何も悪くない。
響だってそうだ。
いちこだって。
誰も悪くない。
なのに。
どうして俺だけがこんなものを見てしまったんだろう。
放課後になっても、その考えは消えなかった。
校門を出ると、風が頬を撫でた。
少し冷たくなった秋の風だった。
ポケットの中で何かが指先に触れる。
あの日受け取ったキーホルダーだった。
小さなバスケットボール。
五人分。
丈の親父さんから受け取ったそれを、まだ誰にもに渡せていない。
大輝はそれを握り締める。自分の分はいつもひとつだけ持ち歩いていた。
夕暮れの空は綺麗な茜色で、少し秋が深まっていくのを感じさせる。
「何で俺なんだよ」
誰もいない帰り道で呟く。
声は風に消えた。
「何で俺に見つけさせたんだよ」
返事はない。あるはずがない。
それでも。
「なあ、ジョー」
茜色の空に反して、俺の心は静かに、確実に暗い方へ沈んでいくのを実感した。黒い感情が自分の中を占めてしまっている。
そんな気がした。




