青い沈黙
この作品には自死表現が含まれます。
苦手な方はお控えください。
九月下旬になった。
朝晩は涼しさが増していく中でも、昼間はまだ夏の名残を引きずっている。
窓の外では蝉が鳴いていた。
その声を聞きながら、大輝はぼんやりと教科書を眺めていた。
文字は目に入る。
けれど頭には入ってこない。
黒板の数式も、先生の説明も、何一つ残らなかった。
ふと前を見る。
窓際から二列目。
いちこの席だ。
今日も空いていた。
先週の金曜日から学校へ来ていない。
体調不良。
先生はそう言っていた。
けれど本当は違うことくらい、おそらくみんな分かっていた。
丈の机がなくなった日から、いちこは学校へ来なくなった。
誰もその話題を口にしない。
触れてはいけない気がしていた。
気が付けば昼休みだった。
教室が急に騒がしくなる。
晃平は購買へ向かいながら、
「今日こそ焼きそばパン勝ち取ってくるわ」
なんて言っていた。
響は呆れた顔をしていたけれど、結局一緒に行っている。
教室を出る直前、響が空席をちらりと見た。
ほんの一瞬だけ。
心配そうな顔をした気がした。
けれど何も言わずに晃平の後を追いかけていった。
二人のやり取りはいつも通りだった。
いつも通り。
その言葉が最近やけに苦しい。
丈がいなくなって二ヶ月以上経った。
なのに。
ふとした瞬間に、
「あ、あいつに話そう」
と思ってしまう。
そして次の瞬間。
もういないことを思い出す。
その繰り返しだった。
「沢村」
不意に名前を呼ばれた。
顔を上げる。
木村先生だった。
「ちょっといいか」
珍しい。
そう思いながら立ち上がる。
職員室へ向かう廊下は妙に静かだった。
窓から差し込む光だけが白く床を照らしている。
先生は前を歩いていた。
何も話さない。
俺も聞かなかった。
嫌な予感がした。
職員室ではなく、その隣の空き教室へ案内される。
ドアが開く。
そして。
俺は足を止めた。
そこにいたのは。
丈の父親だった。
二ヶ月前の葬儀で見た姿より、ずっと痩せていた。
頬は少しこけている。
目の下には濃い隈。
それでも俺に気付くと、申し訳なさそうに頭を下げた。
「急に呼び出してしまって、ごめんね」
「いえ」
それしか言えなかった。
丈の父親は膝の上に置いていた紙袋を手に取る。
少し色褪せた紙袋だった。
「これ」
差し出されたものを受け取る。
驚くほど軽い。
「丈の部屋を片付けてたら出てきてね」
中を覗く。
小さなバスケットボールのキーホルダー。
五個。
並んで入っていた。
俺はしばらく意味が分からなかった。
丈の父親が苦笑する。
「高校に入学したしばらくあとに買ったらしいんだ」
「五人いるから五個必要なんだって」
思わず息が漏れた。
あいつらしい。
本当に。
どうしようもなく。
「渡しそびれちゃったみたいでね」
その言葉が胸に刺さる。
五個ある。
ちゃんと。
五個。
なのに。
もう五人ではない。
「……ありがとうございます」
声が少し掠れた。
丈の父親は小さく頷いた。
そして。
少し迷うように言った。
「もしよかったら」
「丈の部屋、見ていく?」
一瞬ちょっと考えた。
本当は見たくなかった。
でも。
見なければいけない気もした。
「お邪魔してもいいでしょうか」
そう答えると、丈の父親は少しだけ安心したように笑った。
「ありがとう」
そして少し間を置いて続ける。
「今日は難しいかな?」
「え?」
「急に呼び出しちゃったしね。放課後でも、別の日でも大丈夫だから」
俺は首を横に振った。
「いえ。今日、伺います」
「そうか」
丈の父親は静かに頷いた。
「じゃあ学校が終わったら家に来てくれるかな」
放課後。
西日が傾き始めた頃。
俺は丈の家へ向かっていた。
何となくひとりで向かったほうがいい気がして晃平と響は誘わなかった。
もうすぐ十月になるというのに、自転車に乗っていても少し汗ばむ。
この道は何度も通った道だった。
駅前のコンビニ。
丈が新作アイスを見つける度に、
「大輝!見ろ!絶対これ当たりだって!」
と言いながら飛び込んでいった場所。
横断歩道。
信号が点滅しているのに全力で走り出して、
「危ねぇから待てって!」
と何度注意しても聞かなかった場所。
公園の前を通る。
フェンス越しにバスケットゴールが見えた。
夕陽を浴びたリングは。
あの日と同じ色をしていた。
ペダルを踏む足が止まりそうになる。
でも止まれなかった。
丈の家が見えてくる。
インターホンを押す。
「はい」
聞き慣れた声じゃない。
当たり前なのに。
胸が少し痛んだ。
玄関のドアが開く。
「来てくれてありがとう」
丈の父親が出迎えてくれた。
「お邪魔します」
その言葉が妙に重かった。
丈の部屋は二階にあった。
ドアが開く。その瞬間。
丈の匂いがした気がした。
もちろん気のせいだ。
それでも。
そう感じた。
部屋は驚くほど普通だった。
読みかけの漫画。
積み上がった参考書。
床に脱ぎ捨てられたジャージ。
壁に貼られたバスケ選手のポスター。
全部、丈だった。
「四十九日も過ぎて、そろそろ片付けなきゃいけないんだけどね」
丈の父親が苦笑する。
「……なかなか手が付かなくて」
俺は何も言えなかった。
机へ近付く。
ノートが開いたままになっている。
数学の問題集。
シャーペン。
消しゴム。
まるで昨日まで使っていたみたいだった。
本人だけがいない。
胸の奥が重くなる。
視線を逸らした時だった。
机の隅に黒い手帳が見えた。
学校では見たことがない。
何気なく手に取る。
ひらり。
床へ白い紙が落ちた。
何だろうと思い拾い上げる。
丈の字だった。
『ごめんね』
その一言だけ。
呼吸が止まる。
紙を裏返す。
そこには。
『母さんには幸せでいてほしい』
と書かれていた。
心臓が大きく脈打つ。
母さん。
丈は母親の話をしなかった。
いや、正確には。
話したがらなかった。
だからみんな聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
なのに。
どうして。
指先が震える。
紙の続きが気になった。
でも。
読んではいけない気がした。
これは。
丈が残したものだ。
俺たちに向けたものじゃない。
そっと紙を元の場所へ戻した。
帰り道、空は夕暮れどきで青みがかっていた。
腹が立つくらい。
綺麗な青だった。
スマホが震える。
晃平からだった。
【今日ヒマ?】
いつも通りの文面。
何も知らない。
俺だけが知ってしまった。
画面を見つめる。
指が止まる。
【今日はやめとく】
送信。
数秒後。
【了解ー】
それだけ返ってきた。
スマホをポケットへしまう。
そして空を見上げた。
青かった。
どこまでも静かで。
残酷なくらい、青かった。




