藤色の決意
この作品には自死表現が含まれます。
苦手な方はお控えください。
十一月にすっかり溶け込んだ世間。
朝、自転車を漕ぐと吐く息が少し白い。
制服の袖から入ってくる風も冷たくなっていて、季節が秋から冬へ向かい始めているのを感じた。
教室の窓から見える空は高かった。
夏の頃よりずっと、どこまでも。
届きそうにないくらい高かった。
大輝は頬杖をつきながら、その空をぼんやり眺めていた。
「沢村ー、聞いてるかー」
先生の声で我に返る。
「あ、はい」
教室に小さな笑いが起こった。
「珍しいな」
「寝不足か?」
クラスメイトの声が飛ぶ。
大輝は曖昧に笑った。
最近、こんなことが増えた。
考え事をしているつもりもないのに、気付けば意識がどこかへ飛んでいる。
そしてその先にはいつも丈がいた。
丈が笑っている。
丈がバスケをしている。
丈がくだらないことを言っている。
そんな記憶ばかりだった。
昼休み。
晃平が机を叩いた。
「聞け」
妙に得意げな顔だった。
「嫌な予感しかしない」
「聞けって」
響といちこもこちらを見る。
晃平は咳払いをした。
「父さんにギター教わることにした」
一瞬、静かになった。
「え?」
響が真っ先に反応する。
「マジで?」
「マジ」
「へぇ……」
いちこも少し驚いている。
晃平は照れ臭そうに頭を掻いた。
「なんかさ」
少しだけ視線を落とす。
「もう少し上手くなりたいなって」
大輝は思わず晃平を見た。
その言葉は少し前の晃平なら絶対に言わなかった。
上手くなりたい。
もっとやりたい。
そんな欲を表に出す人間じゃなかった。
平々凡々でいい。
目立たなくていい。
それが晃平だった。
なのに変わろうとしている、自分から。
ちゃんと。
「いいじゃん」
大輝はそう言った。
すると晃平が少し笑った。
「だろ?」
本当に嬉しそうにしている。
少し前を向いている顔だった。
放課後。
大輝はひとりで公園へ向かった。
誰かと約束したわけではない。
ただ、気付けば自転車のハンドルをそちらへ向けていた。
フェンス越しに見えるバスケットゴールは夕暮れの光を浴びて静かに立っている。
丈が好きだった場所。
五人で何度も集まった場所。
ベンチに腰を下ろすと、冷たかった。
見上げた空は薄い紫色だった。
青とも違う、夕焼けの赤とも違う、昼と夜の境目みたいな色だった。
風が吹く。
木の葉が擦れる音が聞こえた。
大輝はポケットに手を入れると指先が触れた。
小さなキーホルダー。
バスケットボール。
丈の父親から預かったものだった。
取り出して掌に乗せる。
あの日からずっと持っている。
みんなに渡そうと思いながら。
渡せなかった。
「なぁ」
誰に向けるでもなく呟く。
返事はない。
それでも続ける。
「お前さ」
苦笑が漏れた。
「勝手なんだよ」
丈の顔が浮かぶ。
何も知らないみたいに笑う顔。
実際には。
きっと色んなものを抱えていたのに。
誰にも見せなかった顔。
「相談しろよ」
声が風に溶ける。
「俺らに」
沈黙。
風だけが吹いていた。
遠くで犬の鳴き声が聞こえる。
夕暮れの公園は静かだった。
「……でも」
大輝は空を見上げた。
薄紫色の空。
その向こうに小さな星がひとつ見えた。
「俺も同じか」
思わず笑う。
丈を責められない。
自分だって誰にも話していない。
丈の部屋で見た紙のこと。
胸の奥に刺さったままの言葉。
ずっと抱え込んでいる。ひとりで。
ずっと。
抱えたまま。
気付けば、晃平も、響も、いちこも。
それぞれ苦しみながら前へ進もうとしていた。
なのに自分だけが足を止めている。
そんな気がした。
キーホルダーを握ると小さな感触だった。
でも不思議と温かかった。
「渡さないとな」
自然と口から出た。
みんなに渡そう。ちゃんと。
丈が残したものを。
丈が渡したかったものを。
それはきっと自分にしかできないことだから。
大輝はスマホを取り出してグループトークを開く。
少しだけ迷う。
それから、短く打ち込んだ。
【今度の土曜、公園来れるか?】
送信。
数秒後。
【行けるー】
晃平。
【私も】
いちこ。
【たこ焼き持参で?】
響。
思わず吹き出した。
こんな時でも、こいつはこいつだった。
大輝はスマホを握りしめる。
空を見上げる。
夕暮れは終わりかけていた。
青と赤が混ざり合った藤色の空が、静かに広がっている。
その色はどこか曖昧で、まだ迷いを残していて。
それでも確かに夜へ向かって進んでいた。
大輝は小さく息を吐く。
そしてポケットの中のキーホルダーを握った。
今度は少しだけ前を向ける気がした。




