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第2話 暴虐令嬢、馬車の中で震える


 馬車の車輪が、霧に濡れた街道をゆっくりと進んでいく。


 ごとり。


 ごとり。


 木製の車輪が、石と土の混じった道を踏むたびに、馬車の床がわずかに揺れた。


 ルミエラ辺境領の朝霧は、屋敷を離れてもなお濃かった。


 白く薄い靄が道の両側に広がる森を包み、遠くの木々は影絵のように滲んでいる。馬車の窓硝子には細かな水滴がつき、外の景色は淡くぼやけていた。


 道はまだ、王都へ続く中央街道ほど整っていない。


 石畳はところどころ欠け、土の道には馬車の車輪の跡が深く残っている。霧の奥からは、時折、鳥の声とも魔獣の鳴き声ともつかない音が聞こえた。


 ここは、魔界領域ネフィルガルドに近い辺境。


 人間の国でありながら、空気の中に薄く魔力が混ざっている。


 霧はただの水気ではない。


 森の奥に眠る古い魔力脈から滲み出した気配を含んでいる。


 澄んでいるのに重い空気。


 美しいのに、どこか底が見えない森。


 朝なのに、夜の名残を手放さない道。


 けれど、リリアーナにとっては生まれ育った場所の匂いだった。


 湿った土。


 冷たい霧。


 黒い森。


 小さな村。


 遠くに見える古い風車。


 それらすべてが、彼女の知っている世界だった。


 その世界が、馬車の窓の向こうで少しずつ遠ざかっていく。


「……」


 リリアーナ・フォン・エヴァルディアは、馬車の座席で小さくなっていた。


 出発した。


 ついに出発してしまった。


 もう屋敷にはいない。


 父の穏やかな声も。


 母の優しい手も。


 妹の笑顔も。


 使用人たちの温かな見送りも。


 領民たちがくれた拍手も。


 すべて馬車の後方に置いてきてしまった。


 いや、もちろん帰ることはできる。


 王都へ着く前に「やっぱり無理です」と言えば、きっと父は迎えに来てくれる。


 母は抱きしめてくれる。


 ルシェリアは泣きながら「お姉さま、おかえりなさい」と言ってくれる。


 アイリスは無表情のまま、何事もなかったかのように紅茶を淹れてくれるだろう。


 そしてヴァルゼリオンは、たぶんこう言う。


 ――だから最初から王都など燃やせばよかったのだ。


 それは困る。


 非常に困る。


 けれど。


 それ以上に、リリアーナは分かっていた。


 逃げ帰れば、たしかに安心できる。


 屋敷の部屋へ戻り、毛布をかぶり、ルシェリアと一緒に眠り、セレフィーナに髪を撫でてもらえば、怖さは少し薄れる。


 だが、それでは何も変わらない。


 暴虐令嬢。


 黒焔の怪物。


 魔王の血。


 世界が自分に貼った名札は、そのままだ。


 自分がどれだけ違うと言いたくても、屋敷の中で震えているだけでは、誰にも届かない。


 怖い。


 怖いけれど。


 変わりたい。


 その気持ちだけが、今のリリアーナを馬車の座席に繋ぎ止めていた。


 リリアーナは、膝の上で両手を握った。


「……王都」


 ぽつりと呟く。


 その二文字だけで、胃のあたりがきゅっと縮む。


「……学園」


 続けて呟く。


 胸が苦しくなる。


「……入学試験」


 その瞬間、リリアーナの顔色がさらに悪くなった。


「や、やっぱり、私……今からでも帰った方が……。いえ、でも帰ったらお父さまに心配をかけますし、お母さまにも無理をさせますし、ルシェリアも泣いてしまうかもしれませんし、マリアベルが準備してくれた荷物も無駄になりますし、アルヴェインが作ってくれた会話想定集も無駄に……でも、試験官の方に睨まれたら私、たぶん気絶しますし……」


「お嬢様」


 向かいに座るアイリス・ノクティアが、静かに声をかけた。


 漆黒の長髪。


 蒼灰色の瞳。


 整った姿勢。


 馬車の揺れの中でも、一切崩れない所作。


 彼女はリリアーナの専属侍女であり、護衛であり、親友であり、時には保護者のような存在でもある。


「はい……」


「出発してから、まだ三十分も経っておりません」


「もう三十分も経ったのですか……?」


「まだ、です」


「私には三日くらいに感じます……」


「お嬢様の体感時間は、緊張すると非常に伸びますね」


「それは褒めていますか……?」


「観察結果です」


「やっぱり褒めていません……」


 リリアーナはしょんぼりと肩を落とした。


 アイリスは淡々としている。


 けれど、その視線は常にリリアーナの顔色を見ていた。


 唇の色。


 指先の震え。


 呼吸の浅さ。


 目元の潤み。


 今にも泣くのか。


 まだ耐えられるのか。


 馬車酔いではなく緊張によるものか。


 アイリスは、そうした細かな変化を見逃さない。


 それは侍女としての技術でもあり、護衛としての習慣でもあり、何より、リリアーナを大切に思っているからこその癖だった。


「お嬢様」


「はい……」


「逃げたいですか?」


 直球だった。


 リリアーナはびくっとした。


「え、えっと……」


「正直に」


「……逃げたいです」


「そうですか」


「で、でも、逃げたいだけではなくて……行きたい気持ちも、少しだけあります。怖いです。でも、王都がどんな場所なのか知りたい気持ちもあります。学園の図書室も見てみたいですし、王都のお花屋さんも気になりますし……それに、その……」


「その?」


「……もし、私を怖がらない人が、一人くらいいたら」


 言ってから、リリアーナの顔が赤くなった。


「い、いえ、今のは忘れてください……! そんな都合のいいこと、あるはずがないので……!」


 アイリスはしばらくリリアーナを見ていた。


 そして、わずかに目を細める。


「お嬢様」


「はい……」


「その希望は、忘れなくてよいと思います」


「え……?」


「怖がられたくない。誰かに普通に見てほしい。そう願うことは、恥ずかしいことではありません」


 リリアーナは、言葉を失った。


 アイリスの声はいつも通り淡々としている。


 けれど、そこには不思議と温度があった。


「お嬢様は、自分の望みを小さく扱いすぎます。誰かに理解されたいと思うことは、贅沢ではありません。友人が欲しいと思うことも、恋をしたいと思うことも、普通の令嬢なら当たり前の願いです」


「こ、恋はまだ言っていません……!」


「言っていませんが、可能性として」


「アイリスはすぐ恋の話にします……!」


「お嬢様が顔を赤くされるので」


「からかっていますよね……?」


「少しだけ」


「やっぱり……!」


 リリアーナは頬を押さえて俯いた。


 そんな彼女を見て、アイリスは小さな木箱を取り出した。


 ふたを開けると、甘い香りが馬車の中に広がる。


 蜂蜜。


 小麦。


 焼きたての香ばしさ。


 出発前にパン屋のミーナから渡された、蜂蜜入りの焼き菓子だった。


「お嬢様。少し召し上がりますか」


「それ……」


「領民の方から頂いたものです。マリアベル様が包装を確認済みです」


「……はい」


 リリアーナは、両手で大切そうに焼き菓子を受け取った。


 包みはもう温かくはない。


 けれど、手に取ると、出発前の門の光景が蘇る。


 緊張した顔で包みを差し出してくれたミーナ。


 不器用な手で木彫りの鳥をくれたエリック。


 リナが束ねてくれた白と薄紫の花。


 薬草畑のエマがくれた香草包み。


 鍛冶屋のグランの無骨な励まし。


 市場のトマスの大きな声。


 孤児院のニコが震えながら渡してくれた白い花。


 ヴァルゼリオンの暴虐めいた代弁に、恐怖ではなく笑い声を返してくれた人々。


 その温かさが、まだ胸に残っている。


「……皆さん、怖かったはずなのに」


 リリアーナは焼き菓子を見つめたまま呟いた。


「それでも、見送りに来てくださいました。私、ずっと……領民の皆さんにも怖がられているだけだと思っていました。もちろん、怖がられていることは分かっています。私を見る時、少し距離を取る人もいます。子供が泣いてしまうこともあります。私が声をかけると、緊張されることもあります」


 声が少し沈む。


「でも、完全に嫌われているわけでは……なかったのでしょうか」


 アイリスは、すぐには答えなかった。


 馬車の揺れに合わせて、茶器の中の紅茶が微かに揺れる。


 外では、霧の向こうに森が流れていく。


 やがて、アイリスは静かに言った。


「恐怖と感謝は、同時に存在します」


「同時に……」


「はい。お嬢様の力を怖いと思う者はいます。ですが、お嬢様に守られた者もいます。魔獣被害の時、盗賊が出た時、呪霧が村へ流れ込んだ時。お嬢様は、直接覚えていないことも含めて、何度もルミエラを守っています」


「それは……私というより、ヴァル様が……」


「それでも、お嬢様が守ろうとしたことに変わりはありません」


 アイリスの声は淡々としている。


 けれど、その言葉には確かな重みがあった。


「人は、怖いものを怖いまま感謝することもあります。完全に理解できなくても、助けられた事実を覚えていることもあります。ルミエラの領民たちは、お嬢様を単純な怪物とは思っていません」


「……そう、でしょうか」


「はい」


 アイリスは、少しだけ目元を和らげた。


「少なくとも、焼き菓子は本物です」


 リリアーナは、手の中の焼き菓子を見つめた。


 そして、小さく頷いた。


「……いただきます」


 そっと一口かじる。


 甘い。


 蜂蜜のやさしい甘さが、口の中に広がった。


 ほろりと崩れる生地。


 ほんの少し入った木の実の香ばしさ。


 王都の菓子のように華やかではない。


 けれど、懐かしくて、温かい味だった。


「……おいしいです」


 リリアーナは思わず微笑んだ。


 その笑みは、とても小さい。


 だが、馬車の中の空気を少しだけ柔らかくした。


 その瞬間。


 座席の斜め後ろ。


 影のように揺らめく黒い気配が、低く呟いた。


『毒見は済んでいるのか』


「ヴァル様……!」


 リリアーナは慌てて顔を上げた。


 黒い外套。


 深紅の瞳。


 長い黒髪。


 守護霊となった始祖魔王ヴァルゼリオンが、不機嫌そうに焼き菓子を見ている。


 霊であるはずなのに、彼がそこにいるだけで馬車の空気が重くなる。


 窓硝子に残る水滴が、ほんのわずかに震えた。


『食物とは油断ならん。甘味に毒を仕込むなど、人間の貴族が好みそうな手だ』


「これはミーナさんがくださったものです!」


『善意を装う者ほど危険だ』


「皆さんを疑いたくありません……!」


『疑うことと警戒することは違う』


 ヴァルゼリオンの声は冷たい。


 だが、その奥にあるのは不信ではなく、過保護だった。


 彼にとって、世界は信用できない。


 かつて愛した者を世界に奪われた魔王にとって、善意も笑顔も、いつ裏切りへ変わるか分からないものなのだ。


 手を差し伸べる者が、次の瞬間には刃を握っていることを彼は知っている。


 祈りの言葉を口にする者が、平然と処刑を命じることを彼は知っている。


 愛を祝福すると言った世界が、彼の愛した女を殺したことを、彼は忘れていない。


 リリアーナは、そのことを少しだけ理解している。


 だから強く怒れない。


 けれど、譲れないものもあった。


「ヴァル様」


『なんだ』


「私は、全部を疑う生き方はしたくありません」


 声は震えていた。


 それでも、リリアーナは焼き菓子を両手で包むように持った。


「もちろん、私は弱いですし、すぐ怖がりますし、危ないことにも気付けないかもしれません。だから、アイリスやヴァル様が警戒してくださるのは、とてもありがたいです。でも……それでも、誰かが勇気を出してくれた気持ちまで、最初から怖いものとして見たくないんです」


『……』


「だって、私も怖いですから。怖くても、少しだけ信じてもらえたら嬉しいって、知っていますから」


 ヴァルゼリオンは黙った。


 その深紅の瞳が、リリアーナを見つめる。


 臆病で。


 泣き虫で。


 それでも、誰かの善意を信じたいと震えながら言う少女。


 その姿は、遠い昔に失った人間の女性を思わせた。


 エレオノーラ。


 世界がどれだけ敵意を向けても、それでも誰かを信じようとした女。


 愚かだと思った。


 危ういと思った。


 だから失ったのだと、何度も自分に言い聞かせた。


 けれど。


 その愚かさに救われたのも、自分だった。


『……勝手にしろ』


 ヴァルゼリオンは不機嫌そうに視線を逸らした。


『ただし、次からは一口目を食う前にアイリスへ確認させろ』


「はい」


「お嬢様」


 アイリスが静かに口を挟む。


「私は既に確認済みです」


「さすがアイリス……!」


「香り、魔力反応、包装紙、菓子の表面、全て確認しました。問題ありません」


「そこまで……」


「当然です。お嬢様が口にされるものですので」


『侍女にしては上出来だ』


「お褒めに預かり光栄です、始祖様」


『褒めてはおらぬ』


「では記録には残しません」


『残すな』


 リリアーナは、焼き菓子を持ったまま小さく笑った。


 胸の中の不安は消えない。


 けれど、こうして誰かに守られていると感じるたびに、ほんの少しだけ息がしやすくなる。


 馬車は霧の街道を進んでいく。


 ルミエラの森は深い。


 木々は黒々としていて、幹には淡く青い苔が光っている。魔力を含んだ植物は、王都近くでは見られないものだ。


 道の左右には、時折、石で作られた古い標が立っていた。


 魔力嵐の避難場所を示すもの。


 魔獣の出やすい谷を避ける道を示すもの。


 かつての戦争で崩れた砦の跡を示すもの。


 その一つ一つが、ルミエラという土地の厳しさを物語っていた。


 けれどリリアーナは、その厳しさの中で育った。


 怖い森も。


 深い霧も。


 魔獣の遠吠えも。


 王都の人が聞けば逃げ出すような夜の音も。


 彼女にとっては、家の外にあるいつもの世界だった。


「王都に近づくと、景色も変わるのでしょうか」


「はい」


 アイリスが答える。


「道は整い、霧は薄くなり、商隊も増えます。王都周辺は魔力濃度が低く、魔獣の数も少ないと聞いております」


「魔獣が少ない……」


「ただし、人間は増えます」


「それはそれで怖いです……」


『魔獣の方が分かりやすい』


 ヴァルゼリオンが低く言った。


『敵意があれば牙を剥く。腹が減れば襲う。縄張りに入れば威嚇する。人間よりよほど単純だ』


「ヴァル様、人間への評価が低すぎます……」


『余は経験で語っている』


「また経験談……」


『人間は笑いながら刃を隠す。祈りながら火を放つ。正義を掲げながら弱者を踏む。魔獣の牙の方がまだ誠実だ』


 その言葉は、冗談めいていなかった。


 リリアーナは、少しだけ表情を曇らせた。


 ヴァルゼリオンが人間を嫌う理由。


 それは、ただ魔王だからではない。


 彼が人間に裏切られたから。


 世界に愛を奪われたから。


 その傷は、千年経っても消えていない。


「でも……」


 リリアーナは、小さく言った。


「それでも、優しい人もいます」


『いるだろうな』


 意外にも、ヴァルゼリオンは否定しなかった。


 リリアーナは目を瞬かせる。


『だが、優しい者ほど傷付きやすい。踏まれやすい。壊されやすい。だから余は、優しさなど信用しない』


「……ヴァル様」


『だが』


 ヴァルゼリオンの視線が、リリアーナへ向く。


『貴様がそれを捨てぬと言うなら、余はその愚かさごと守る』


 リリアーナの胸が、どきりとした。


 言葉は乱暴だ。


 優しい言い方ではない。


 けれど、その中に確かな守護があった。


「……ありがとうございます」


『礼など言うな。調子が狂う』


「でも、嬉しかったので……」


『……勝手にしろ』


 ヴァルゼリオンは再び視線を逸らした。


 耳が赤いわけではない。


 そもそも霊体なので、そういう変化はない。


 けれど、リリアーナには少しだけ分かった。


 ヴァルゼリオンは照れている。


 たぶん。


 きっと。


 そう思うと、怖いはずの守護霊が、ほんの少しだけ可愛く見えてしまった。


「……ふふ」


『何を笑っている』


「い、いえ、何でもありません」


『嘘だな』


「本当に何でも……」


『リリア』


「はい……」


『余を可愛いなどと思ったら燃やすぞ』


「思っていません! 少ししか!」


『思ったのだな』


「ひゃあっ……!」


 アイリスが静かに紅茶を差し出す。


「お嬢様、始祖様を可愛いと思うのは危険です」


「アイリスまで……!」


「ですが、お気持ちは少し分かります」


『侍女』


「失礼しました」


 馬車の中に、少しだけ穏やかな空気が戻った。


 リリアーナは紅茶を飲み、窓の外を見る。


 森が流れていく。


 霧が薄くなっていく。


 自分の知る世界から、知らない世界へ。


 その変化は怖い。


 けれど、胸の奥にほんの少し、まだ名前のつかない期待が生まれていた。



 その頃。


 同じ街道の少し先を、一台の荷馬車が進んでいた。


 荷馬車の側面には、簡素な木の看板が吊られている。


 メルク商会。


 商会といっても、大きな店を構えているわけではない。


 ベルカ村を拠点に、周辺の村々を回る小さな行商だった。


 荷台には、乾燥させた薬草の束、干し果実、麻布、針、糸、木製の食器、小さな香草袋などが積まれている。


 どれも高価な品ではない。


 けれど、辺境で暮らす人々にとっては必要なものばかりだった。


 御者台に座る男の名は、ダリオ・メルク。


 三十八歳。


 日に焼けた顔。


 少し伸びた無精髭。


 大きな商会の商人のような華やかさはない。


 だが、荷物を扱う手つきは丁寧で、馬へかける声は優しかった。


 彼は慎重な男だった。


 危険な道を避け、天気を読み、魔獣の出やすい時間帯を避ける。


 それでも、今日は少し無理をした。


 隣に座る娘へ、少しでも早く王都近くの景色を見せたかったからだ。


「お父さん、王都って、ほんとうに白いの?」


 女の子が、膝の上の布人形を抱きしめながら尋ねた。


 赤いリボンを結んだ、七歳の少女。


 リッカ・メルク。


 ダリオの一人娘だった。


「ああ。白いらしいぞ。城壁も、塔も、道も、きらきらしているそうだ」


「お母さんも、見たことある?」


 その言葉に、ダリオの胸が一瞬だけ痛んだ。


 亡き妻。


 リッカの母。


 彼女は王都を見たことがない。


 体が弱く、遠出もできず、それでもいつか娘に広い世界を見せたいと笑っていた。


「ああ……きっと、見たかっただろうな」


「じゃあ、リッカが見てくる。あとで、お母さんにお話する」


 リッカは、布人形をぎゅっと抱きしめた。


 その人形は、亡き母が縫ったものだ。


 もう布は薄くなり、片目の刺繍も少しほつれている。


 けれどリッカは、どこへ行くにもその人形を手放さない。


 ダリオは、娘の頭をそっと撫でた。


「そうだな。たくさん見て、たくさん覚えて、帰ったらお母さんに話してやろう」


「うん」


 リッカは笑った。


 その笑顔を見て、ダリオは胸の奥で静かに誓う。


 守る。


 何があっても、この子だけは守る。


 商人としての荷物など失ってもいい。


 馬車も金も失っていい。


 だが、この子だけは失えない。


 そう思った、その時だった。


 霧の奥で、馬が怯えたように嘶いた。


「……?」


 ダリオは手綱を引いた。


 霧が濃い。


 妙に音が遠い。


 そして、鼻先を冷たいものが撫でたような感覚があった。


 ただの霧ではない。


 黒い。


 霧の底が、黒く濁っている。


 護衛の一人が声を上げた。


「ダリオさん、止まってください」


「どうした?」


「霧の匂いが変です」


 その瞬間。


 荷馬車の右手の茂みが、大きく揺れた。


 灰黒色の影が飛び出す。


 境界狼。


 グレイヴ・ウルフ。


 濁った金色の瞳。


 背を走る黒い棘。


 額の魔石突起。


 口元から吐き出される黒い霧。


 それが、一体ではなかった。


 二体。


 三体。


 四体。


 霧の中に、複数の影がいた。


「境界狼だ!」


 護衛が叫んだ。


 馬が暴れ、荷馬車が大きく傾く。


 木箱が落ちる。


 薬草の束が散る。


 リッカが悲鳴を上げた。


「お父さん!」


「リッカ、俺の後ろへ!」


 ダリオは娘を抱き寄せた。


 腰に下げていた短い護身用ナイフを抜く。


 手が震えた。


 剣の訓練など、若い頃に少し受けただけだ。


 魔獣相手にまともに戦えるはずがない。


 護衛たちが前に出る。


 だが、境界狼は賢い。


 一体が正面から唸り、護衛の注意を引く。


 別の一体が馬車の影に沈むように回り込む。


 さらに一体が、霧に紛れて姿を消す。


 そして最後の一体が、ダリオとリッカを見た。


 正確には。


 震えているリッカを。


 恐怖嗅ぎ。


 境界狼は、怯えた者を嗅ぎ分ける。


 弱い獲物。


 守られる側。


 逃げ遅れた子供。


 それを優先して狙う。


 ダリオは、娘を背に庇った。


「来るな……!」


 声は情けないほど震えていた。


 だが、逃げなかった。


「来るな……来るな……! この子には、指一本触れさせない……!」


「お父さん……」


「大丈夫だ、リッカ。大丈夫だ。お父さんがいる。お父さんが、守る」


 嘘だった。


 守れる保証などなかった。


 足は震えている。


 手の中のナイフは頼りない。


 喉は乾き、呼吸は浅い。


 それでも、父親として嘘をついた。


 大丈夫だと。


 守ると。


 そう言わなければ、自分の心まで折れてしまいそうだったからだ。


 その時。


 別の馬車の音が聞こえた。


 護衛の叫び。


 誰かがこちらを見ている気配。


 しかしダリオは、助けを呼ぶ余裕すらなかった。


 境界狼の一体が、護衛の横を抜けた。


 灰黒色の影が、霧を裂いて迫る。


 牙。


 黒い霧。


 濁った金色の瞳。


 リッカが泣いた。


 その泣き声が、霧の街道に響いた。



 その泣き声が、リリアーナの耳にも届いた。


「……子供」


 リリアーナの唇が震える。


 泣き声。


 それは、彼女の中に深く刻まれている音だった。


 幼いルシェリアの泣き声。


 自分が守れなかったらどうしようと、心臓を掴まれたあの夜の記憶。


 黒焔。


 壊れた部屋。


 怯える人々。


 父の腕。


 母の涙。


 そのすべてが、一瞬で胸の奥へ押し寄せる。


 アイリスはすぐに判断した。


「護衛騎士が対応します。お嬢様は馬車の中へ」


「でも……」


「お嬢様」


 アイリスの声が強くなる。


「ここでお嬢様が出れば、騒ぎになります」


「……分かっています」


 分かっている。


 自分が出れば、皆が怖がる。


 黒焔を見れば、商人たちは助けられたことより先に恐怖するかもしれない。


 暴虐令嬢だと気付かれるかもしれない。


 王都へ着く前から、また噂が増えるかもしれない。


 分かっている。


 分かっているのに。


 女の子の泣き声が、胸に刺さる。


「……泣いています」


 リリアーナが、小さく言った。


 アイリスの瞳が揺れた。


「お嬢様」


「誰かが泣いています」


 声は震えている。


 顔色も悪い。


 今にも泣きそうなのはリリアーナ自身だ。


 けれど、その目は窓の外を見ていた。


 ヴァルゼリオンが低く言った。


『捨て置け』


「ヴァル様……」


『貴様が出る必要はない。護衛がいる。商人にも護衛がいる。あれは貴様の責任ではない』


「……はい」


『外へ出れば、人目につく。黒焔を使えば噂になる。貴様は王都へ向かう途中だ。余計な厄介事を背負う必要はない』


「……はい」


『貴様は今、ただでさえ震えている。王都へ着く前に心を削るな。見ず知らずの商人より、自分の身を守れ』


 ヴァルゼリオンの声は冷たかった。


 だが、それはリリアーナを傷付けるための冷たさではない。


 彼は本当に、リリアーナを守りたいだけなのだ。


 自分にとって大切なもの以外、切り捨てる。


 それが暴虐魔王の生き方だった。


 リリアーナは頷いた。


 理屈は分かる。


 ヴァルゼリオンは間違っていない。


 アイリスも間違っていない。


 自分が動かない方がいい。


 それが一番安全だ。


 それでも。


 境界狼の一体が、護衛の横を抜けた。


 ダリオが娘を背に庇う。


 リッカの赤いリボンが霧の中で揺れる。


 泣き声が、もう一度響いた。


「……っ」


 リリアーナの身体は、考えるより先に動いていた。


「お嬢様!?」


 アイリスの制止より早く。


 リリアーナは馬車の扉を開け、外へ飛び降りた。


 足元がぬかるんでいた。


 靴が泥に沈む。


 膝が震える。


 馬車から降りた瞬間、冷たい霧が全身を包み込んだ。


 怖い。


 怖い。


 怖い。


 境界狼の牙が見える。


 濁った金色の瞳が見える。


 黒い霧を吐く口が見える。


 恐怖で息が止まりそうになる。


 足がぶるぶると震えた。


 膝が笑う。


 今にもその場に崩れ落ちそうだった。


 それでも、リリアーナは走った。


 いや、走ったというより、よろめきながら前へ出た。


「だ、だめです……!」


 声はか細い。


 震えている。


 けれど、確かに叫んだ。


 ダリオとリッカの前へ。


 境界狼の牙の前へ。


 リリアーナは飛び出した。


「お、お嬢様、危険です!」


 護衛騎士の声が背後から響く。


 アイリスが馬車から飛び降りる気配がする。


 それでも、間に合わない。


 リリアーナは、ダリオとリッカの前で大の字になった。


 両手を広げる。


 身体は小さい。


 華奢で、細くて、頼りない。


 盾になれるような身体ではない。


 足はガタガタ震えている。


 顔は半泣きだ。


 唇も震えている。


 今にも気絶しそうだった。


 それでも。


 彼女は逃げなかった。


「こ、この人たちに……」


 リリアーナは、涙目で境界狼を見た。


「近づかないでください……!」


 ダリオは、呆然とした。


 目の前に立つ少女。


 白銀の髪。


 深紅の瞳。


 エヴァルディア家の紋章。


 暴虐令嬢。


 噂は知っていた。


 だが、今の彼女は噂と違った。


 恐ろしい怪物ではない。


 震えている。


 泣きそうになっている。


 それでも、娘の前に立っている。


「お、お嬢様……!」


 ダリオが声を上げる。


「危険です! お下がりください!」


「い、嫌です……!」


 リリアーナは泣きそうな声で答えた。


「私、怖いです……! すごく怖いです……! でも、あなたたちの方がもっと怖いはずです……!」


 リッカが、涙で濡れた顔を上げる。


 赤いリボンが震える。


「お姉ちゃん……」


 その声を聞いた瞬間、リリアーナの胸が締め付けられた。


 境界狼が唸る。


 恐怖の匂いに反応し、興奮したのだ。


 灰黒色の影が、地を蹴った。


 まっすぐにリリアーナへ飛びかかる。


 牙が迫る。


 リリアーナは目を閉じた。


 怖い。


 でも。


 逃げない。


 両手に魔力を集める。


 震える指先から、白い花弁のような光が零れた。


 その外側に、黒い羽のような影が重なる。


 まだ未完成。


 まだ不安定。


 魔力は恐怖に揺れ、術式線は細かく震えている。


 けれど。


 リリアーナは叫んだ。


「白花黒羽の守護幕アルバ・ノクス・ヴェール……!」


 リリアーナの前方に、白花と黒羽が重なった魔法障壁が展開した。


 花弁のように開く白い防御層。


 その背後を包む黒い羽根の結界。


 美しい。


 けれど、脆い。


 恐怖で魔力が乱れ、障壁の端が震えている。


 境界狼の牙が、そこへ激突した。


 甲高い音が響く。


 障壁に亀裂が走った。


「っ……!」


 リリアーナの身体が、後ろへ押される。


 足元の泥が滑る。


 腕が痺れる。


 息が詰まる。


 怖い。


 無理。


 割れる。


 そう思った瞬間。


 背後で、空気が鋭く裂けた。


「お嬢様の背後を取るとは」


 静かな声。


 アイリスだった。


 リリアーナの左後方。


 霧に紛れて回り込んでいた別の境界狼が、低く身を沈めていた。


 リリアーナが正面に意識を奪われた一瞬を狙い、背後から喉笛へ飛びかかろうとしていたのだ。


 だが。


 その牙は、届かなかった。


 アイリス・ノクティアが、既にそこに立っていた。


 侍女服の裾が、霧の中で静かに揺れる。


 その立ち姿は、普段と変わらない。


 優雅で。


 無駄がなく。


 静か。


 けれど、その足元だけが違った。


 泥を踏む足の角度。


 重心の落とし方。


 肩の脱力。


 拳の位置。


 それは侍女の所作ではない。


 戦う者の構えだった。


 境界狼が跳んだ。


 灰黒色の巨体が、低く、速く、霧を裂く。


 人間の目では追いきれない速度。


 普通の護衛なら、剣を抜く前に喉を裂かれていただろう。


 だが、アイリスは動揺しなかった。


 一歩。


 ただ一歩、半身をずらす。


 境界狼の牙が空を噛む。


 次の瞬間。


 アイリスの右拳が、境界狼の胸骨下――魔核へ繋がる神経束の手前へ、深く沈み込んだ。


 鈍い音がした。


 重い。


 だが、鋭い。


 殺すための一撃ではない。


 呼吸と魔力循環を一瞬だけ断ち、身体の自由を奪うための一撃。


 境界狼の目が見開かれる。


 牙を剥いたまま、身体だけが硬直した。


 アイリスはそのまま、左手で首筋の毛を掴み、流れるように地面へ落とした。


 叩きつけたのではない。


 落とした。


 それだけなのに、境界狼の巨体は泥に沈み、四肢を痙攣させたまま動けなくなった。


「息の根は止めておりません」


 アイリスは静かに言った。


「ただし、しばらく動けません」


 リリアーナは、障壁を支えながら目を見開いた。


「ア、アイリス……!」


「お嬢様」


 アイリスは一切息を乱さず、横目だけでリリアーナを見る。


「お嬢様が守るなら、私はその隙を守ります」


 その言葉に、リリアーナの胸が熱くなった。


 怖い。


 まだ怖い。


 でも、一人ではない。


 そう思えた瞬間。


 リリアーナの影が、濃く広がった。


『よく立った、リリア』


 低い声が響く。


 それはリリアーナの内側から聞こえた。


 次の瞬間、未完成だった障壁の外側に、禍々しい漆黒の魔力が重なった。


 白花黒羽の守護幕が、黒焔を帯びる。


 花弁は黒い炎をまとい。


 羽根は夜のように深くなり。


 リリアーナの震える防御魔法は、暴虐魔王の黒焔によって補強された。


 境界狼の牙が砕ける。


 巨体が弾き飛ばされた。


 リリアーナの深紅の瞳が、さらに深い紅へ染まった。


 暴虐魔王ヴァルゼリオン。


 守護霊が、リリアーナの身体へ重なった。


 リリアーナの身体が、すっと姿勢を正す。


 先ほどまで震えていた足が止まる。


 涙で濡れていた瞳に、魔王の威厳が宿る。


 空気が変わった。


 霧が怯えたように割れる。


 境界狼たちが、本能的に後ずさる。


 彼らは魔獣だ。


 人間の言葉は理解しない。


 だが、強者の気配は理解する。


 目の前にいるものが、獲物ではなく災厄だと知った。


『だが、遅い』


 リリアーナの姿をしたヴァルゼリオンが、静かに呟いた。


『余のリリアに牙を向けたな』


 黒焔が揺れる。


 護衛騎士たちが息を呑む。


 ダリオは娘を抱きしめたまま動けない。


 リッカは、布人形を握りしめたまま、震える目でリリアーナを見ていた。


 ヴァルゼリオンは、一歩前へ出た。


 その動きは静かだった。


 けれど、境界狼たちには逃げる暇すらなかった。


 一体目が横から飛びかかる。


 ヴァルゼリオンは振り向きもしない。


 ただ、手刀を横へ払った。


 黒い線が走った。


 次の瞬間、境界狼の額の魔石突起だけが砕け散った。


 魔獣の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。


 首をはねたのではない。


 命を奪ったのでもない。


 魔獣の暴走を支える魔核だけを、正確に断ち切ったのだ。


 二体目が背後へ回り込もうとした。


 だが、その前にアイリスが動いた。


 剣は抜かない。


 魔法も使わない。


 ただ、踏み込む。


 境界狼の爪が振るわれる直前、アイリスの足が泥を蹴った。


 彼女の身体が、狼の懐へ滑り込む。


 肘。


 膝。


 掌底。


 三つの打撃が、ほとんど同時に入った。


 前脚の関節。


 肋骨下の魔力節。


 顎下の神経点。


 境界狼の身体がぐらりと傾く。


 アイリスはその首元を掴み、流れるように地面へ伏せた。


 動きだけ見れば、まるで舞のようだった。


 だが、その一つ一つは正確な制圧技である。


「殺しません」


 アイリスは淡々と言った。


「お嬢様がお望みではありませんので」


『侍女』


 ヴァルゼリオンが、わずかに目を細める。


『動けるではないか』


「護衛ですので」


『ふん。悪くない』


「光栄です」


 そんなやり取りをしている間にも、三体目が黒い霧に溶け、影から跳ぶ。


 境界跳躍。


 境界狼の狩りの技だった。


 だが、相手が悪すぎた。


『影を使うか』


 ヴァルゼリオンの口元がわずかに歪む。


『余の前で』


 足元の影が牙を剥いた。


 漆黒の鎖が地面から伸び、境界狼を空中で捕らえる。


 そのまま地面へ叩き落とした。


 四体目。


 群れの中で最も大きな個体が、低く唸る。


 背の棘が逆立ち、黒い霧が濃くなる。


 おそらく群れの長だ。


 濁った金色の瞳が、憎悪と恐怖に濡れていた。


『まだ向かうか』


 ヴァルゼリオンは、静かに手を上げた。


 その手に、黒焔が集まる。


 ほんの一瞬。


 殺意が形になりかけた。


 リリアーナの意識が、奥で叫ぶ。


(だめです……!)


 その声は小さかった。


 けれど、ヴァルゼリオンには届いた。


(殺さないで……!)


『……面倒な娘だ』


 ヴァルゼリオンは低く呟いた。


 そして、黒焔の形が変わる。


 刃ではなく、鎖へ。


 断罪ではなく、拘束へ。


黒焔蝶縛ノクス・バインド


 黒い炎が、蝶の群れのように舞った。


 それは美しく。


 同時に、禍々しかった。


 蝶の羽が境界狼の足元へ落ちる。


 黒焔の輪が広がる。


 地面に紋様が刻まれる。


 群れの長の四肢が、ぴたりと止まった。


 牙がリリアーナに届く寸前。


 境界狼は、完全に拘束された。


 ヴァルゼリオンは、境界狼を見下ろした。


『命拾いしたな』


 声は冷たい。


『リリアに感謝しろ』


 境界狼は低く唸ったが、もはや動けない。


 護衛騎士たちが駆け寄り、残った魔獣たちを拘束していく。


 街道に、静寂が落ちた。


 ヴァルゼリオンの気配が、リリアーナの身体からふっと薄れる。


 瞳の色が戻る。


 背筋が少し丸まる。


 足の震えが戻ってくる。


 そして、リリアーナ本人が我に返った。


「……あ、あれ?」


 彼女は周囲を見回した。


 倒れている境界狼。


 砕かれた牙。


 拘束された群れの長。


 呆然とする護衛騎士たち。


 青ざめたダリオ。


 涙目のリッカ。


 そして、泥に汚れた自分の靴。


「わ、私……馬車から……降りて……?」


 次の瞬間、全身から力が抜けた。


「お嬢様」


 アイリスがすぐに支える。


「大丈夫ですか」


「だ、大丈夫……では、ないかもしれません……。足が……足が、まだ震えています……」


「最初から震えていました」


「そうでした……」


 リリアーナは、自分の手を見る。


「魔獣……死んでいませんか……?」


「はい。魔核破壊、拘束、打撃による戦闘不能です。殺傷は最小限です」


「よかった……」


 リリアーナは心底ほっとしたように息を吐いた。


 それから、はっとしてアイリスを見る。


「アイリス……怪我はありませんか?」


「ありません」


「で、でも、境界狼が……」


「問題ありません」


「すごく、速かったです……」


「境界狼は直線的に急所を狙う習性があります。動きさえ読めれば対応可能です」


「対応可能……?」


 リリアーナは呆然とした。


 自分にはまったく見えなかった。


 なのにアイリスは、まるで予定通りだったかのように境界狼を止めた。


 しかも殺さずに。


「アイリスは、やっぱりすごいです……」


「お嬢様をお守りするために必要な技能です」


 アイリスは淡々と答えた。


「お嬢様が前へ出る方なら、私はその後ろと横を守ります」


 その言葉に、リリアーナの胸が小さく震えた。


 自分が無謀に飛び出したことを、責めない。


 ただ、その先を守ると言ってくれる。


 そのことが、苦しいほど嬉しかった。


「……ありがとうございます、アイリス」


「はい」


 その背後で、ヴァルゼリオンが不満げに言う。


『甘い』


「ヴァル様……」


『だが、貴様が望んだのなら、それでよい』


 リリアーナは目を瞬かせた。


『よく立った』


「……え?」


『怖いのに逃げなかった。なら、それだけは褒めてやる』


 その言葉に、リリアーナの胸が小さく震えた。


 ヴァルゼリオンが自分を褒めることは少ない。


 しかも、今の言葉は本当に褒めてくれている気がした。


「……ありがとうございます」


『礼など要らん』


「でも、嬉しかったです」


『……勝手にしろ』


 ヴァルゼリオンは影へ沈むように姿を薄くした。


 その時。


 ダリオが、リッカを抱きしめたまま近づいてきた。


 馬車の紋章を見る。


 リリアーナの顔を見る。


 彼の表情には、恐怖があった。


 当然だ。


 目の前で、リリアーナの身体を借りた何かが魔獣を一瞬で無力化したのだ。


 さらに、その侍女まで境界狼を素手で沈めた。


 怖くないはずがない。


 リリアーナは、無意識に身を縮めた。


「ご、ごめんなさい……」


 謝る必要などないはずなのに、言葉が出てしまう。


「怖がらせて、しまいましたか……?」


 ダリオは、はっとしたように顔を上げた。


 彼は何か言おうとして、言葉に詰まった。


 その時。


 リッカが父の腕から少しだけ顔を出した。


 赤いリボンは泥で汚れている。


 布人形も汚れている。


 それでも、彼女は小さな足で一歩前へ出た。


「リッカ……!」


 ダリオが止めようとする。


 けれどリッカは、リリアーナを見上げた。


 リリアーナの心臓が跳ねる。


 泣かれるだろうか。


 怖がられるだろうか。


 逃げられるだろうか。


 だが、女の子は涙で濡れた顔のまま、ぺこりと頭を下げた。


「ありがとう……ございます」


 リリアーナは、息を呑んだ。


「……え?」


「助けてくれて、ありがとう」


 その言葉は、小さかった。


 けれど、確かにリリアーナへ届いた。


 胸の奥が、きゅっと熱くなる。


 目頭が痛くなる。


「あ……」


 言葉が出ない。


 ありがとう。


 その一言だけで、こんなに胸がいっぱいになるなんて知らなかった。


 リリアーナは、震える唇で何とか言葉を返した。


「け、怪我がなくて……よかったです」


 リッカは、少しだけ笑った。


 その笑顔を見て、リリアーナは泣きそうになった。


 ダリオも、ようやく深く頭を下げる。


「失礼いたしました。エヴァルディアのお嬢様。助けていただき、感謝いたします」


「い、いえ……私は、少しだけ……」


「少しではありません。娘を救っていただきました」


 ダリオの声には、まだ緊張があった。


 恐怖が完全に消えたわけではない。


 けれど、そこには感謝もあった。


「私は、ダリオ・メルクと申します。ベルカ村の行商人です。この子は娘のリッカ。妻を亡くしてから、私に残された、ただ一人の家族です」


 ダリオは、声を震わせながら続けた。


「私は商人です。魔獣と戦う腕などありません。それでも、娘だけは守ろうと思いました。ですが……正直、もう駄目だと思いました」


 彼はリリアーナを見た。


 まだ、少し怖そうに。


 けれど、逃げずに。


「あなたは、震えておられました」


「う……」


「それでも、娘の前に立ってくださいました」


 リリアーナの瞳が揺れる。


「私……怖かったです」


「はい」


 ダリオは静かに頷いた。


「だからこそ、忘れません」


「え……?」


「怖くない者が前に立つのは、強さかもしれません。ですが、怖いのに前へ出るのは……それ以上の何かです」


 ダリオは、もう一度頭を下げた。


「ありがとうございました、リリアーナお嬢様。そして、侍女様も」


 アイリスは静かに一礼した。


「私は、お嬢様の護衛として当然のことをしたまでです」


 ダリオは首を横に振った。


「当然と思えることを、当然にできる人ばかりではありません」


 アイリスは少しだけ沈黙した。


 そして、普段と変わらない声で答えた。


「……お嬢様が前へ出られたので」


 その一言だけだった。


 だが、リリアーナには分かった。


 アイリスは、自分の無謀さを否定していない。


 それどころか、その勇気を守ってくれた。


 リッカが、泥で汚れた布人形を抱きしめながら言った。


「お姉ちゃん、こわかった?」


「……はい。すごく怖かったです」


「リッカも、こわかった」


「はい……」


「でも、お姉ちゃんが前に立ってくれたから、ちょっとだけ怖くなくなった」


 リリアーナは、とうとう涙をこぼした。


「ありがとう……ございます」


 助けたのは自分のはずなのに、なぜか礼を言っていた。


 リッカは不思議そうに首を傾げ、それから小さく笑った。


「お姉ちゃん、泣き虫?」


「は、はい……たぶん……」


「リッカも泣き虫」


「一緒ですね……」


 リリアーナが涙を拭いながら笑うと、リッカも笑った。


 その笑顔は、小さくて、柔らかくて。


 リリアーナの胸に、深く残った。


 やがて、アイリスが静かに声をかける。


「お嬢様。そろそろ馬車へ」


「はい……」


 リリアーナはダリオとリッカへ頭を下げた。


「どうか、お気をつけて……」


「はい。お嬢様も、王都までどうかご無事で」


「ありがとうございます……」


 彼女はそう言って、そっと馬車へ戻った。


 馬車の中へ戻ると、足の力が完全に抜けそうになった。


 アイリスがすぐに支える。


「お嬢様」


「……怖かったです」


「はい」


「本当に、怖かったです……。魔獣も怖かったですし、飛び出した自分も怖かったですし、ヴァル様が出てきた時も心臓が止まるかと思いました……」


「はい」


「でも……ありがとうって、言ってもらえました」


「はい」


「私……怖がられたけど、ありがとうって……」


「はい」


 アイリスは静かに頷く。


「よくできました」


 その言葉に、リリアーナはとうとう涙をこぼした。


「泣きます」


「はい」


 アイリスは、即座にハンカチを差し出した。


「一枚目です」


「数えないでください……」


 泣きながらそう言うリリアーナに、アイリスはほんの少しだけ笑った。


 ヴァルゼリオンは、窓の外を見ていた。


 その表情は不機嫌そうで、いつもと変わらない。


 だが、深紅の瞳の奥にある炎は、少しだけ穏やかだった。



 エヴァルディア家の馬車が再び動き始めて、少し経った頃。


 その様子を、遠く離れた丘の上から見ている者たちがいた。


 黒い外套。


 王国特務監察院の監視者たち。


 一人が、望遠用の魔導具から目を離す。


「黒焔発現を確認」


 別の者が記録を取る。


「規模は中。殺傷性は限定的。対象は境界狼四体。効果は障壁、防御、魔核破壊、拘束」


「暴走ではないのか」


「現時点では、制御下にあると判断。ただし、発動直前に対象が馬車から飛び出し、商人父子を保護する行動を確認」


「守護霊反応は?」


「明確に確認。対象周辺に高密度魔力干渉。リリアーナ・フォン・エヴァルディアの身体反応に一時的な変化あり。暴虐魔王ヴァルゼリオンによる憑依、もしくは一時支配の可能性あり」


「侍女は?」


 記録係が羽ペンを止めた。


 監視者の一人が、低く答える。


「アイリス・ノクティア。素手による境界狼制圧を確認。打撃精度、体術、判断速度、いずれも高水準。護衛としての能力は上位騎士級と推定」


「侍女だろう?」


「侍女の服を着た護衛だ」


 短い沈黙が落ちた。


 やがて、監視者の一人が、低く呟いた。


「危険だな」


「殺していないぞ」


「だから危険なんだ」


 その言葉に、記録係が顔を上げる。


 監視者は、街道を進み始める馬車を見下ろした。


「力がある。制御もある。しかも、発動条件が他者保護だ。自分のためではなく、誰かを守るために動く。そういう者は、理屈では止めにくい」


「暴虐令嬢とは違うように見えたが」


「暴虐ではない。だが、だからこそ危険だ」


 監視者は冷たく告げた。


「自分のために力を振るう者は、欲で縛れる。権力で誘導できる。恐怖で止められる。だが、誰かを守るために震えながら前へ出る者は、読みづらい」


「報告にはどう書く」


「そのまま書け」


 監視者は羽ペンを持つ部下へ言った。


「対象リリアーナ・フォン・エヴァルディア。境界狼襲撃事案に介入。商人父子を保護。白花黒羽系防御術式を展開後、黒焔干渉により補強。守護霊ヴァルゼリオンらしき憑依反応あり。境界狼四体を殺害せず戦闘不能化。同行侍女アイリス・ノクティアは格闘術により境界狼を非殺傷制圧。危険度評価は据え置き。ただし、対象性格に関する報告を修正」


「どのように」


「臆病、内向的、争いを嫌う傾向あり」


 監視者は、少しだけ沈黙した。


 そして続ける。


「加えて、他者保護時に自己保存を後回しにする傾向あり」


 記録係が羽ペンを走らせる。


 霧の街道の向こうへ、エヴァルディア家の馬車が遠ざかっていく。


 監視者は、それを見送りながら呟いた。


「暴虐令嬢か」


 その声には、わずかな疑問が混じっていた。


「報告書の印象とは、ずいぶん違うな」


 もう一人の監視者が、低く問う。


「この件、どこまで上げる?」


「特務監察院には正式報告」


「教会は?」


 沈黙が落ちた。


 黒外套の男は、しばらく霧の先を見ていた。


 そして、冷えた声で言った。


「聖封院にも共有する」


「……封印対象としてか?」


「まだだ」


 男はゆっくりと首を振った。


「だが、観察対象からは外せない」


 記録係の羽ペンが、最後の一文を刻む。


 ――聖封院、注意喚起対象。


 霧の中で、その文字だけが、やけに黒く滲んで見えた。



 馬車は再び街道を進み始めた。


 商人の一行は護衛騎士の助けを借り、荷物を直している。


 リリアーナは窓の外を見ながら、まだ少し泣いていた。


「……やっぱり、怖がられました」


「はい」


 アイリスは否定しない。


 だからこそ、リリアーナは少しだけ安心する。


「でも、ありがとうって言ってもらえました」


「はい」


「……怖がられたことと、感謝されたことは、同時にあるのですね」


「はい」


「難しいです」


「人の心は、単純ではありませんので」


 リリアーナはハンカチを握りしめた。


「私、王都でも……ああいうふうにできるでしょうか。怖がられても、全部が駄目だと思わずに、少しだけでも……」


「できます」


 アイリスは即答した。


 リリアーナが驚いて顔を上げる。


「アイリス……」


「お嬢様は、今日できました。なら、次もできる可能性があります」


「可能性……」


「はい。ただし、無理はしないでください。無理をすると倒れます」


「最後に現実が来ます……」


『倒れたら余が運ぶ』


 ヴァルゼリオンが言った。


 リリアーナは涙目で振り返る。


「ヴァル様が運ぶと、周囲がさらに怖がります……」


『ならば周囲を消す』


「消さないでください!」


『注文が多い』


「常識の範囲内です!」


 アイリスが静かに紅茶を注ぐ。


「お嬢様、王都までまだ距離があります。少しお休みください」


「眠れるでしょうか……」


「眠れない場合は、睡眠用香草があります」


「準備が完璧すぎます……」


「マリアベル様の指示です」


「納得しました……」


 リリアーナは座席にもたれた。


 馬車の揺れは、先ほどより少しだけ優しく感じる。


 窓の外の霧は薄くなりつつあった。


 森の密度も少しずつ減り、道幅が広くなっている。


 辺境の道から、王都へ続く街道へ。


 世界が変わり始めていた。


 しばらく進むと、遠くに白い影が見えた。


 最初は雲かと思った。


 けれど違った。


 霧の向こう。


 丘の先。


 白い城壁が、朝の光を受けて輝いている。


 いくつもの塔。


 高い尖塔。


 空へ伸びる王宮の屋根。


 王都アストラディア。


 王国の中心。


 貴族たちの都。


 学園のある場所。


 リリアーナは、思わず息を呑んだ。


「……あれが」


 喉が震える。


「あれが、王都……」


 美しい。


 怖い。


 眩しい。


 遠い。


 それは、リリアーナが生まれて初めて見る、自分の知らない世界だった。


 胸が高鳴る。


 同時に、足元が冷たくなる。


 あの中に、自分を恐れる人々がいる。


 自分を監視する者たちがいる。


 自分を異端と見る者たちがいる。


 そして。


 まだ知らない誰かもいる。


 暴虐令嬢ではなく、リリアーナを見てくれるかもしれない誰か。


 リリアーナは、胸元のブローチを握った。


 黒翼と白花。


 家族がくれた勇気。


 領民がくれた焼き菓子。


 リッカがくれた「ありがとう」。


 怖いのに前へ出た自分を、ヴァルゼリオンが褒めてくれたこと。


 そして。


 自分が守ろうとした隙を、アイリスが守ってくれたこと。


 それらを胸に抱きしめるようにして、彼女は小さく呟いた。


「……怖いです」


 アイリスが答える。


「はい」


「でも……少しだけ、行ってみます」


「はい」


 ヴァルゼリオンが、深紅の瞳を細めた。


『それでよい』


 馬車は、白い王都へ向かって進んでいく。


 世界に恐れられた暴虐令嬢は、まだ震えている。


 けれどその手は、ほんの少しだけ前を向いていた。


 その白い都が。


 彼女にとって檻になるのか。


 それとも、新しい居場所になるのか。


 リリアーナには、まだ分からなかった。

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