第2話 暴虐令嬢、馬車の中で震える
馬車の車輪が、霧に濡れた街道をゆっくりと進んでいく。
ごとり。
ごとり。
木製の車輪が、石と土の混じった道を踏むたびに、馬車の床がわずかに揺れた。
ルミエラ辺境領の朝霧は、屋敷を離れてもなお濃かった。
白く薄い靄が道の両側に広がる森を包み、遠くの木々は影絵のように滲んでいる。馬車の窓硝子には細かな水滴がつき、外の景色は淡くぼやけていた。
道はまだ、王都へ続く中央街道ほど整っていない。
石畳はところどころ欠け、土の道には馬車の車輪の跡が深く残っている。霧の奥からは、時折、鳥の声とも魔獣の鳴き声ともつかない音が聞こえた。
ここは、魔界領域ネフィルガルドに近い辺境。
人間の国でありながら、空気の中に薄く魔力が混ざっている。
霧はただの水気ではない。
森の奥に眠る古い魔力脈から滲み出した気配を含んでいる。
澄んでいるのに重い空気。
美しいのに、どこか底が見えない森。
朝なのに、夜の名残を手放さない道。
けれど、リリアーナにとっては生まれ育った場所の匂いだった。
湿った土。
冷たい霧。
黒い森。
小さな村。
遠くに見える古い風車。
それらすべてが、彼女の知っている世界だった。
その世界が、馬車の窓の向こうで少しずつ遠ざかっていく。
「……」
リリアーナ・フォン・エヴァルディアは、馬車の座席で小さくなっていた。
出発した。
ついに出発してしまった。
もう屋敷にはいない。
父の穏やかな声も。
母の優しい手も。
妹の笑顔も。
使用人たちの温かな見送りも。
領民たちがくれた拍手も。
すべて馬車の後方に置いてきてしまった。
いや、もちろん帰ることはできる。
王都へ着く前に「やっぱり無理です」と言えば、きっと父は迎えに来てくれる。
母は抱きしめてくれる。
ルシェリアは泣きながら「お姉さま、おかえりなさい」と言ってくれる。
アイリスは無表情のまま、何事もなかったかのように紅茶を淹れてくれるだろう。
そしてヴァルゼリオンは、たぶんこう言う。
――だから最初から王都など燃やせばよかったのだ。
それは困る。
非常に困る。
けれど。
それ以上に、リリアーナは分かっていた。
逃げ帰れば、たしかに安心できる。
屋敷の部屋へ戻り、毛布をかぶり、ルシェリアと一緒に眠り、セレフィーナに髪を撫でてもらえば、怖さは少し薄れる。
だが、それでは何も変わらない。
暴虐令嬢。
黒焔の怪物。
魔王の血。
世界が自分に貼った名札は、そのままだ。
自分がどれだけ違うと言いたくても、屋敷の中で震えているだけでは、誰にも届かない。
怖い。
怖いけれど。
変わりたい。
その気持ちだけが、今のリリアーナを馬車の座席に繋ぎ止めていた。
リリアーナは、膝の上で両手を握った。
「……王都」
ぽつりと呟く。
その二文字だけで、胃のあたりがきゅっと縮む。
「……学園」
続けて呟く。
胸が苦しくなる。
「……入学試験」
その瞬間、リリアーナの顔色がさらに悪くなった。
「や、やっぱり、私……今からでも帰った方が……。いえ、でも帰ったらお父さまに心配をかけますし、お母さまにも無理をさせますし、ルシェリアも泣いてしまうかもしれませんし、マリアベルが準備してくれた荷物も無駄になりますし、アルヴェインが作ってくれた会話想定集も無駄に……でも、試験官の方に睨まれたら私、たぶん気絶しますし……」
「お嬢様」
向かいに座るアイリス・ノクティアが、静かに声をかけた。
漆黒の長髪。
蒼灰色の瞳。
整った姿勢。
馬車の揺れの中でも、一切崩れない所作。
彼女はリリアーナの専属侍女であり、護衛であり、親友であり、時には保護者のような存在でもある。
「はい……」
「出発してから、まだ三十分も経っておりません」
「もう三十分も経ったのですか……?」
「まだ、です」
「私には三日くらいに感じます……」
「お嬢様の体感時間は、緊張すると非常に伸びますね」
「それは褒めていますか……?」
「観察結果です」
「やっぱり褒めていません……」
リリアーナはしょんぼりと肩を落とした。
アイリスは淡々としている。
けれど、その視線は常にリリアーナの顔色を見ていた。
唇の色。
指先の震え。
呼吸の浅さ。
目元の潤み。
今にも泣くのか。
まだ耐えられるのか。
馬車酔いではなく緊張によるものか。
アイリスは、そうした細かな変化を見逃さない。
それは侍女としての技術でもあり、護衛としての習慣でもあり、何より、リリアーナを大切に思っているからこその癖だった。
「お嬢様」
「はい……」
「逃げたいですか?」
直球だった。
リリアーナはびくっとした。
「え、えっと……」
「正直に」
「……逃げたいです」
「そうですか」
「で、でも、逃げたいだけではなくて……行きたい気持ちも、少しだけあります。怖いです。でも、王都がどんな場所なのか知りたい気持ちもあります。学園の図書室も見てみたいですし、王都のお花屋さんも気になりますし……それに、その……」
「その?」
「……もし、私を怖がらない人が、一人くらいいたら」
言ってから、リリアーナの顔が赤くなった。
「い、いえ、今のは忘れてください……! そんな都合のいいこと、あるはずがないので……!」
アイリスはしばらくリリアーナを見ていた。
そして、わずかに目を細める。
「お嬢様」
「はい……」
「その希望は、忘れなくてよいと思います」
「え……?」
「怖がられたくない。誰かに普通に見てほしい。そう願うことは、恥ずかしいことではありません」
リリアーナは、言葉を失った。
アイリスの声はいつも通り淡々としている。
けれど、そこには不思議と温度があった。
「お嬢様は、自分の望みを小さく扱いすぎます。誰かに理解されたいと思うことは、贅沢ではありません。友人が欲しいと思うことも、恋をしたいと思うことも、普通の令嬢なら当たり前の願いです」
「こ、恋はまだ言っていません……!」
「言っていませんが、可能性として」
「アイリスはすぐ恋の話にします……!」
「お嬢様が顔を赤くされるので」
「からかっていますよね……?」
「少しだけ」
「やっぱり……!」
リリアーナは頬を押さえて俯いた。
そんな彼女を見て、アイリスは小さな木箱を取り出した。
ふたを開けると、甘い香りが馬車の中に広がる。
蜂蜜。
小麦。
焼きたての香ばしさ。
出発前にパン屋のミーナから渡された、蜂蜜入りの焼き菓子だった。
「お嬢様。少し召し上がりますか」
「それ……」
「領民の方から頂いたものです。マリアベル様が包装を確認済みです」
「……はい」
リリアーナは、両手で大切そうに焼き菓子を受け取った。
包みはもう温かくはない。
けれど、手に取ると、出発前の門の光景が蘇る。
緊張した顔で包みを差し出してくれたミーナ。
不器用な手で木彫りの鳥をくれたエリック。
リナが束ねてくれた白と薄紫の花。
薬草畑のエマがくれた香草包み。
鍛冶屋のグランの無骨な励まし。
市場のトマスの大きな声。
孤児院のニコが震えながら渡してくれた白い花。
ヴァルゼリオンの暴虐めいた代弁に、恐怖ではなく笑い声を返してくれた人々。
その温かさが、まだ胸に残っている。
「……皆さん、怖かったはずなのに」
リリアーナは焼き菓子を見つめたまま呟いた。
「それでも、見送りに来てくださいました。私、ずっと……領民の皆さんにも怖がられているだけだと思っていました。もちろん、怖がられていることは分かっています。私を見る時、少し距離を取る人もいます。子供が泣いてしまうこともあります。私が声をかけると、緊張されることもあります」
声が少し沈む。
「でも、完全に嫌われているわけでは……なかったのでしょうか」
アイリスは、すぐには答えなかった。
馬車の揺れに合わせて、茶器の中の紅茶が微かに揺れる。
外では、霧の向こうに森が流れていく。
やがて、アイリスは静かに言った。
「恐怖と感謝は、同時に存在します」
「同時に……」
「はい。お嬢様の力を怖いと思う者はいます。ですが、お嬢様に守られた者もいます。魔獣被害の時、盗賊が出た時、呪霧が村へ流れ込んだ時。お嬢様は、直接覚えていないことも含めて、何度もルミエラを守っています」
「それは……私というより、ヴァル様が……」
「それでも、お嬢様が守ろうとしたことに変わりはありません」
アイリスの声は淡々としている。
けれど、その言葉には確かな重みがあった。
「人は、怖いものを怖いまま感謝することもあります。完全に理解できなくても、助けられた事実を覚えていることもあります。ルミエラの領民たちは、お嬢様を単純な怪物とは思っていません」
「……そう、でしょうか」
「はい」
アイリスは、少しだけ目元を和らげた。
「少なくとも、焼き菓子は本物です」
リリアーナは、手の中の焼き菓子を見つめた。
そして、小さく頷いた。
「……いただきます」
そっと一口かじる。
甘い。
蜂蜜のやさしい甘さが、口の中に広がった。
ほろりと崩れる生地。
ほんの少し入った木の実の香ばしさ。
王都の菓子のように華やかではない。
けれど、懐かしくて、温かい味だった。
「……おいしいです」
リリアーナは思わず微笑んだ。
その笑みは、とても小さい。
だが、馬車の中の空気を少しだけ柔らかくした。
その瞬間。
座席の斜め後ろ。
影のように揺らめく黒い気配が、低く呟いた。
『毒見は済んでいるのか』
「ヴァル様……!」
リリアーナは慌てて顔を上げた。
黒い外套。
深紅の瞳。
長い黒髪。
守護霊となった始祖魔王ヴァルゼリオンが、不機嫌そうに焼き菓子を見ている。
霊であるはずなのに、彼がそこにいるだけで馬車の空気が重くなる。
窓硝子に残る水滴が、ほんのわずかに震えた。
『食物とは油断ならん。甘味に毒を仕込むなど、人間の貴族が好みそうな手だ』
「これはミーナさんがくださったものです!」
『善意を装う者ほど危険だ』
「皆さんを疑いたくありません……!」
『疑うことと警戒することは違う』
ヴァルゼリオンの声は冷たい。
だが、その奥にあるのは不信ではなく、過保護だった。
彼にとって、世界は信用できない。
かつて愛した者を世界に奪われた魔王にとって、善意も笑顔も、いつ裏切りへ変わるか分からないものなのだ。
手を差し伸べる者が、次の瞬間には刃を握っていることを彼は知っている。
祈りの言葉を口にする者が、平然と処刑を命じることを彼は知っている。
愛を祝福すると言った世界が、彼の愛した女を殺したことを、彼は忘れていない。
リリアーナは、そのことを少しだけ理解している。
だから強く怒れない。
けれど、譲れないものもあった。
「ヴァル様」
『なんだ』
「私は、全部を疑う生き方はしたくありません」
声は震えていた。
それでも、リリアーナは焼き菓子を両手で包むように持った。
「もちろん、私は弱いですし、すぐ怖がりますし、危ないことにも気付けないかもしれません。だから、アイリスやヴァル様が警戒してくださるのは、とてもありがたいです。でも……それでも、誰かが勇気を出してくれた気持ちまで、最初から怖いものとして見たくないんです」
『……』
「だって、私も怖いですから。怖くても、少しだけ信じてもらえたら嬉しいって、知っていますから」
ヴァルゼリオンは黙った。
その深紅の瞳が、リリアーナを見つめる。
臆病で。
泣き虫で。
それでも、誰かの善意を信じたいと震えながら言う少女。
その姿は、遠い昔に失った人間の女性を思わせた。
エレオノーラ。
世界がどれだけ敵意を向けても、それでも誰かを信じようとした女。
愚かだと思った。
危ういと思った。
だから失ったのだと、何度も自分に言い聞かせた。
けれど。
その愚かさに救われたのも、自分だった。
『……勝手にしろ』
ヴァルゼリオンは不機嫌そうに視線を逸らした。
『ただし、次からは一口目を食う前にアイリスへ確認させろ』
「はい」
「お嬢様」
アイリスが静かに口を挟む。
「私は既に確認済みです」
「さすがアイリス……!」
「香り、魔力反応、包装紙、菓子の表面、全て確認しました。問題ありません」
「そこまで……」
「当然です。お嬢様が口にされるものですので」
『侍女にしては上出来だ』
「お褒めに預かり光栄です、始祖様」
『褒めてはおらぬ』
「では記録には残しません」
『残すな』
リリアーナは、焼き菓子を持ったまま小さく笑った。
胸の中の不安は消えない。
けれど、こうして誰かに守られていると感じるたびに、ほんの少しだけ息がしやすくなる。
馬車は霧の街道を進んでいく。
ルミエラの森は深い。
木々は黒々としていて、幹には淡く青い苔が光っている。魔力を含んだ植物は、王都近くでは見られないものだ。
道の左右には、時折、石で作られた古い標が立っていた。
魔力嵐の避難場所を示すもの。
魔獣の出やすい谷を避ける道を示すもの。
かつての戦争で崩れた砦の跡を示すもの。
その一つ一つが、ルミエラという土地の厳しさを物語っていた。
けれどリリアーナは、その厳しさの中で育った。
怖い森も。
深い霧も。
魔獣の遠吠えも。
王都の人が聞けば逃げ出すような夜の音も。
彼女にとっては、家の外にあるいつもの世界だった。
「王都に近づくと、景色も変わるのでしょうか」
「はい」
アイリスが答える。
「道は整い、霧は薄くなり、商隊も増えます。王都周辺は魔力濃度が低く、魔獣の数も少ないと聞いております」
「魔獣が少ない……」
「ただし、人間は増えます」
「それはそれで怖いです……」
『魔獣の方が分かりやすい』
ヴァルゼリオンが低く言った。
『敵意があれば牙を剥く。腹が減れば襲う。縄張りに入れば威嚇する。人間よりよほど単純だ』
「ヴァル様、人間への評価が低すぎます……」
『余は経験で語っている』
「また経験談……」
『人間は笑いながら刃を隠す。祈りながら火を放つ。正義を掲げながら弱者を踏む。魔獣の牙の方がまだ誠実だ』
その言葉は、冗談めいていなかった。
リリアーナは、少しだけ表情を曇らせた。
ヴァルゼリオンが人間を嫌う理由。
それは、ただ魔王だからではない。
彼が人間に裏切られたから。
世界に愛を奪われたから。
その傷は、千年経っても消えていない。
「でも……」
リリアーナは、小さく言った。
「それでも、優しい人もいます」
『いるだろうな』
意外にも、ヴァルゼリオンは否定しなかった。
リリアーナは目を瞬かせる。
『だが、優しい者ほど傷付きやすい。踏まれやすい。壊されやすい。だから余は、優しさなど信用しない』
「……ヴァル様」
『だが』
ヴァルゼリオンの視線が、リリアーナへ向く。
『貴様がそれを捨てぬと言うなら、余はその愚かさごと守る』
リリアーナの胸が、どきりとした。
言葉は乱暴だ。
優しい言い方ではない。
けれど、その中に確かな守護があった。
「……ありがとうございます」
『礼など言うな。調子が狂う』
「でも、嬉しかったので……」
『……勝手にしろ』
ヴァルゼリオンは再び視線を逸らした。
耳が赤いわけではない。
そもそも霊体なので、そういう変化はない。
けれど、リリアーナには少しだけ分かった。
ヴァルゼリオンは照れている。
たぶん。
きっと。
そう思うと、怖いはずの守護霊が、ほんの少しだけ可愛く見えてしまった。
「……ふふ」
『何を笑っている』
「い、いえ、何でもありません」
『嘘だな』
「本当に何でも……」
『リリア』
「はい……」
『余を可愛いなどと思ったら燃やすぞ』
「思っていません! 少ししか!」
『思ったのだな』
「ひゃあっ……!」
アイリスが静かに紅茶を差し出す。
「お嬢様、始祖様を可愛いと思うのは危険です」
「アイリスまで……!」
「ですが、お気持ちは少し分かります」
『侍女』
「失礼しました」
馬車の中に、少しだけ穏やかな空気が戻った。
リリアーナは紅茶を飲み、窓の外を見る。
森が流れていく。
霧が薄くなっていく。
自分の知る世界から、知らない世界へ。
その変化は怖い。
けれど、胸の奥にほんの少し、まだ名前のつかない期待が生まれていた。
その頃。
同じ街道の少し先を、一台の荷馬車が進んでいた。
荷馬車の側面には、簡素な木の看板が吊られている。
メルク商会。
商会といっても、大きな店を構えているわけではない。
ベルカ村を拠点に、周辺の村々を回る小さな行商だった。
荷台には、乾燥させた薬草の束、干し果実、麻布、針、糸、木製の食器、小さな香草袋などが積まれている。
どれも高価な品ではない。
けれど、辺境で暮らす人々にとっては必要なものばかりだった。
御者台に座る男の名は、ダリオ・メルク。
三十八歳。
日に焼けた顔。
少し伸びた無精髭。
大きな商会の商人のような華やかさはない。
だが、荷物を扱う手つきは丁寧で、馬へかける声は優しかった。
彼は慎重な男だった。
危険な道を避け、天気を読み、魔獣の出やすい時間帯を避ける。
それでも、今日は少し無理をした。
隣に座る娘へ、少しでも早く王都近くの景色を見せたかったからだ。
「お父さん、王都って、ほんとうに白いの?」
女の子が、膝の上の布人形を抱きしめながら尋ねた。
赤いリボンを結んだ、七歳の少女。
リッカ・メルク。
ダリオの一人娘だった。
「ああ。白いらしいぞ。城壁も、塔も、道も、きらきらしているそうだ」
「お母さんも、見たことある?」
その言葉に、ダリオの胸が一瞬だけ痛んだ。
亡き妻。
リッカの母。
彼女は王都を見たことがない。
体が弱く、遠出もできず、それでもいつか娘に広い世界を見せたいと笑っていた。
「ああ……きっと、見たかっただろうな」
「じゃあ、リッカが見てくる。あとで、お母さんにお話する」
リッカは、布人形をぎゅっと抱きしめた。
その人形は、亡き母が縫ったものだ。
もう布は薄くなり、片目の刺繍も少しほつれている。
けれどリッカは、どこへ行くにもその人形を手放さない。
ダリオは、娘の頭をそっと撫でた。
「そうだな。たくさん見て、たくさん覚えて、帰ったらお母さんに話してやろう」
「うん」
リッカは笑った。
その笑顔を見て、ダリオは胸の奥で静かに誓う。
守る。
何があっても、この子だけは守る。
商人としての荷物など失ってもいい。
馬車も金も失っていい。
だが、この子だけは失えない。
そう思った、その時だった。
霧の奥で、馬が怯えたように嘶いた。
「……?」
ダリオは手綱を引いた。
霧が濃い。
妙に音が遠い。
そして、鼻先を冷たいものが撫でたような感覚があった。
ただの霧ではない。
黒い。
霧の底が、黒く濁っている。
護衛の一人が声を上げた。
「ダリオさん、止まってください」
「どうした?」
「霧の匂いが変です」
その瞬間。
荷馬車の右手の茂みが、大きく揺れた。
灰黒色の影が飛び出す。
境界狼。
グレイヴ・ウルフ。
濁った金色の瞳。
背を走る黒い棘。
額の魔石突起。
口元から吐き出される黒い霧。
それが、一体ではなかった。
二体。
三体。
四体。
霧の中に、複数の影がいた。
「境界狼だ!」
護衛が叫んだ。
馬が暴れ、荷馬車が大きく傾く。
木箱が落ちる。
薬草の束が散る。
リッカが悲鳴を上げた。
「お父さん!」
「リッカ、俺の後ろへ!」
ダリオは娘を抱き寄せた。
腰に下げていた短い護身用ナイフを抜く。
手が震えた。
剣の訓練など、若い頃に少し受けただけだ。
魔獣相手にまともに戦えるはずがない。
護衛たちが前に出る。
だが、境界狼は賢い。
一体が正面から唸り、護衛の注意を引く。
別の一体が馬車の影に沈むように回り込む。
さらに一体が、霧に紛れて姿を消す。
そして最後の一体が、ダリオとリッカを見た。
正確には。
震えているリッカを。
恐怖嗅ぎ。
境界狼は、怯えた者を嗅ぎ分ける。
弱い獲物。
守られる側。
逃げ遅れた子供。
それを優先して狙う。
ダリオは、娘を背に庇った。
「来るな……!」
声は情けないほど震えていた。
だが、逃げなかった。
「来るな……来るな……! この子には、指一本触れさせない……!」
「お父さん……」
「大丈夫だ、リッカ。大丈夫だ。お父さんがいる。お父さんが、守る」
嘘だった。
守れる保証などなかった。
足は震えている。
手の中のナイフは頼りない。
喉は乾き、呼吸は浅い。
それでも、父親として嘘をついた。
大丈夫だと。
守ると。
そう言わなければ、自分の心まで折れてしまいそうだったからだ。
その時。
別の馬車の音が聞こえた。
護衛の叫び。
誰かがこちらを見ている気配。
しかしダリオは、助けを呼ぶ余裕すらなかった。
境界狼の一体が、護衛の横を抜けた。
灰黒色の影が、霧を裂いて迫る。
牙。
黒い霧。
濁った金色の瞳。
リッカが泣いた。
その泣き声が、霧の街道に響いた。
その泣き声が、リリアーナの耳にも届いた。
「……子供」
リリアーナの唇が震える。
泣き声。
それは、彼女の中に深く刻まれている音だった。
幼いルシェリアの泣き声。
自分が守れなかったらどうしようと、心臓を掴まれたあの夜の記憶。
黒焔。
壊れた部屋。
怯える人々。
父の腕。
母の涙。
そのすべてが、一瞬で胸の奥へ押し寄せる。
アイリスはすぐに判断した。
「護衛騎士が対応します。お嬢様は馬車の中へ」
「でも……」
「お嬢様」
アイリスの声が強くなる。
「ここでお嬢様が出れば、騒ぎになります」
「……分かっています」
分かっている。
自分が出れば、皆が怖がる。
黒焔を見れば、商人たちは助けられたことより先に恐怖するかもしれない。
暴虐令嬢だと気付かれるかもしれない。
王都へ着く前から、また噂が増えるかもしれない。
分かっている。
分かっているのに。
女の子の泣き声が、胸に刺さる。
「……泣いています」
リリアーナが、小さく言った。
アイリスの瞳が揺れた。
「お嬢様」
「誰かが泣いています」
声は震えている。
顔色も悪い。
今にも泣きそうなのはリリアーナ自身だ。
けれど、その目は窓の外を見ていた。
ヴァルゼリオンが低く言った。
『捨て置け』
「ヴァル様……」
『貴様が出る必要はない。護衛がいる。商人にも護衛がいる。あれは貴様の責任ではない』
「……はい」
『外へ出れば、人目につく。黒焔を使えば噂になる。貴様は王都へ向かう途中だ。余計な厄介事を背負う必要はない』
「……はい」
『貴様は今、ただでさえ震えている。王都へ着く前に心を削るな。見ず知らずの商人より、自分の身を守れ』
ヴァルゼリオンの声は冷たかった。
だが、それはリリアーナを傷付けるための冷たさではない。
彼は本当に、リリアーナを守りたいだけなのだ。
自分にとって大切なもの以外、切り捨てる。
それが暴虐魔王の生き方だった。
リリアーナは頷いた。
理屈は分かる。
ヴァルゼリオンは間違っていない。
アイリスも間違っていない。
自分が動かない方がいい。
それが一番安全だ。
それでも。
境界狼の一体が、護衛の横を抜けた。
ダリオが娘を背に庇う。
リッカの赤いリボンが霧の中で揺れる。
泣き声が、もう一度響いた。
「……っ」
リリアーナの身体は、考えるより先に動いていた。
「お嬢様!?」
アイリスの制止より早く。
リリアーナは馬車の扉を開け、外へ飛び降りた。
足元がぬかるんでいた。
靴が泥に沈む。
膝が震える。
馬車から降りた瞬間、冷たい霧が全身を包み込んだ。
怖い。
怖い。
怖い。
境界狼の牙が見える。
濁った金色の瞳が見える。
黒い霧を吐く口が見える。
恐怖で息が止まりそうになる。
足がぶるぶると震えた。
膝が笑う。
今にもその場に崩れ落ちそうだった。
それでも、リリアーナは走った。
いや、走ったというより、よろめきながら前へ出た。
「だ、だめです……!」
声はか細い。
震えている。
けれど、確かに叫んだ。
ダリオとリッカの前へ。
境界狼の牙の前へ。
リリアーナは飛び出した。
「お、お嬢様、危険です!」
護衛騎士の声が背後から響く。
アイリスが馬車から飛び降りる気配がする。
それでも、間に合わない。
リリアーナは、ダリオとリッカの前で大の字になった。
両手を広げる。
身体は小さい。
華奢で、細くて、頼りない。
盾になれるような身体ではない。
足はガタガタ震えている。
顔は半泣きだ。
唇も震えている。
今にも気絶しそうだった。
それでも。
彼女は逃げなかった。
「こ、この人たちに……」
リリアーナは、涙目で境界狼を見た。
「近づかないでください……!」
ダリオは、呆然とした。
目の前に立つ少女。
白銀の髪。
深紅の瞳。
エヴァルディア家の紋章。
暴虐令嬢。
噂は知っていた。
だが、今の彼女は噂と違った。
恐ろしい怪物ではない。
震えている。
泣きそうになっている。
それでも、娘の前に立っている。
「お、お嬢様……!」
ダリオが声を上げる。
「危険です! お下がりください!」
「い、嫌です……!」
リリアーナは泣きそうな声で答えた。
「私、怖いです……! すごく怖いです……! でも、あなたたちの方がもっと怖いはずです……!」
リッカが、涙で濡れた顔を上げる。
赤いリボンが震える。
「お姉ちゃん……」
その声を聞いた瞬間、リリアーナの胸が締め付けられた。
境界狼が唸る。
恐怖の匂いに反応し、興奮したのだ。
灰黒色の影が、地を蹴った。
まっすぐにリリアーナへ飛びかかる。
牙が迫る。
リリアーナは目を閉じた。
怖い。
でも。
逃げない。
両手に魔力を集める。
震える指先から、白い花弁のような光が零れた。
その外側に、黒い羽のような影が重なる。
まだ未完成。
まだ不安定。
魔力は恐怖に揺れ、術式線は細かく震えている。
けれど。
リリアーナは叫んだ。
「白花黒羽の守護幕……!」
リリアーナの前方に、白花と黒羽が重なった魔法障壁が展開した。
花弁のように開く白い防御層。
その背後を包む黒い羽根の結界。
美しい。
けれど、脆い。
恐怖で魔力が乱れ、障壁の端が震えている。
境界狼の牙が、そこへ激突した。
甲高い音が響く。
障壁に亀裂が走った。
「っ……!」
リリアーナの身体が、後ろへ押される。
足元の泥が滑る。
腕が痺れる。
息が詰まる。
怖い。
無理。
割れる。
そう思った瞬間。
背後で、空気が鋭く裂けた。
「お嬢様の背後を取るとは」
静かな声。
アイリスだった。
リリアーナの左後方。
霧に紛れて回り込んでいた別の境界狼が、低く身を沈めていた。
リリアーナが正面に意識を奪われた一瞬を狙い、背後から喉笛へ飛びかかろうとしていたのだ。
だが。
その牙は、届かなかった。
アイリス・ノクティアが、既にそこに立っていた。
侍女服の裾が、霧の中で静かに揺れる。
その立ち姿は、普段と変わらない。
優雅で。
無駄がなく。
静か。
けれど、その足元だけが違った。
泥を踏む足の角度。
重心の落とし方。
肩の脱力。
拳の位置。
それは侍女の所作ではない。
戦う者の構えだった。
境界狼が跳んだ。
灰黒色の巨体が、低く、速く、霧を裂く。
人間の目では追いきれない速度。
普通の護衛なら、剣を抜く前に喉を裂かれていただろう。
だが、アイリスは動揺しなかった。
一歩。
ただ一歩、半身をずらす。
境界狼の牙が空を噛む。
次の瞬間。
アイリスの右拳が、境界狼の胸骨下――魔核へ繋がる神経束の手前へ、深く沈み込んだ。
鈍い音がした。
重い。
だが、鋭い。
殺すための一撃ではない。
呼吸と魔力循環を一瞬だけ断ち、身体の自由を奪うための一撃。
境界狼の目が見開かれる。
牙を剥いたまま、身体だけが硬直した。
アイリスはそのまま、左手で首筋の毛を掴み、流れるように地面へ落とした。
叩きつけたのではない。
落とした。
それだけなのに、境界狼の巨体は泥に沈み、四肢を痙攣させたまま動けなくなった。
「息の根は止めておりません」
アイリスは静かに言った。
「ただし、しばらく動けません」
リリアーナは、障壁を支えながら目を見開いた。
「ア、アイリス……!」
「お嬢様」
アイリスは一切息を乱さず、横目だけでリリアーナを見る。
「お嬢様が守るなら、私はその隙を守ります」
その言葉に、リリアーナの胸が熱くなった。
怖い。
まだ怖い。
でも、一人ではない。
そう思えた瞬間。
リリアーナの影が、濃く広がった。
『よく立った、リリア』
低い声が響く。
それはリリアーナの内側から聞こえた。
次の瞬間、未完成だった障壁の外側に、禍々しい漆黒の魔力が重なった。
白花黒羽の守護幕が、黒焔を帯びる。
花弁は黒い炎をまとい。
羽根は夜のように深くなり。
リリアーナの震える防御魔法は、暴虐魔王の黒焔によって補強された。
境界狼の牙が砕ける。
巨体が弾き飛ばされた。
リリアーナの深紅の瞳が、さらに深い紅へ染まった。
暴虐魔王ヴァルゼリオン。
守護霊が、リリアーナの身体へ重なった。
リリアーナの身体が、すっと姿勢を正す。
先ほどまで震えていた足が止まる。
涙で濡れていた瞳に、魔王の威厳が宿る。
空気が変わった。
霧が怯えたように割れる。
境界狼たちが、本能的に後ずさる。
彼らは魔獣だ。
人間の言葉は理解しない。
だが、強者の気配は理解する。
目の前にいるものが、獲物ではなく災厄だと知った。
『だが、遅い』
リリアーナの姿をしたヴァルゼリオンが、静かに呟いた。
『余のリリアに牙を向けたな』
黒焔が揺れる。
護衛騎士たちが息を呑む。
ダリオは娘を抱きしめたまま動けない。
リッカは、布人形を握りしめたまま、震える目でリリアーナを見ていた。
ヴァルゼリオンは、一歩前へ出た。
その動きは静かだった。
けれど、境界狼たちには逃げる暇すらなかった。
一体目が横から飛びかかる。
ヴァルゼリオンは振り向きもしない。
ただ、手刀を横へ払った。
黒い線が走った。
次の瞬間、境界狼の額の魔石突起だけが砕け散った。
魔獣の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
首をはねたのではない。
命を奪ったのでもない。
魔獣の暴走を支える魔核だけを、正確に断ち切ったのだ。
二体目が背後へ回り込もうとした。
だが、その前にアイリスが動いた。
剣は抜かない。
魔法も使わない。
ただ、踏み込む。
境界狼の爪が振るわれる直前、アイリスの足が泥を蹴った。
彼女の身体が、狼の懐へ滑り込む。
肘。
膝。
掌底。
三つの打撃が、ほとんど同時に入った。
前脚の関節。
肋骨下の魔力節。
顎下の神経点。
境界狼の身体がぐらりと傾く。
アイリスはその首元を掴み、流れるように地面へ伏せた。
動きだけ見れば、まるで舞のようだった。
だが、その一つ一つは正確な制圧技である。
「殺しません」
アイリスは淡々と言った。
「お嬢様がお望みではありませんので」
『侍女』
ヴァルゼリオンが、わずかに目を細める。
『動けるではないか』
「護衛ですので」
『ふん。悪くない』
「光栄です」
そんなやり取りをしている間にも、三体目が黒い霧に溶け、影から跳ぶ。
境界跳躍。
境界狼の狩りの技だった。
だが、相手が悪すぎた。
『影を使うか』
ヴァルゼリオンの口元がわずかに歪む。
『余の前で』
足元の影が牙を剥いた。
漆黒の鎖が地面から伸び、境界狼を空中で捕らえる。
そのまま地面へ叩き落とした。
四体目。
群れの中で最も大きな個体が、低く唸る。
背の棘が逆立ち、黒い霧が濃くなる。
おそらく群れの長だ。
濁った金色の瞳が、憎悪と恐怖に濡れていた。
『まだ向かうか』
ヴァルゼリオンは、静かに手を上げた。
その手に、黒焔が集まる。
ほんの一瞬。
殺意が形になりかけた。
リリアーナの意識が、奥で叫ぶ。
(だめです……!)
その声は小さかった。
けれど、ヴァルゼリオンには届いた。
(殺さないで……!)
『……面倒な娘だ』
ヴァルゼリオンは低く呟いた。
そして、黒焔の形が変わる。
刃ではなく、鎖へ。
断罪ではなく、拘束へ。
『黒焔蝶縛』
黒い炎が、蝶の群れのように舞った。
それは美しく。
同時に、禍々しかった。
蝶の羽が境界狼の足元へ落ちる。
黒焔の輪が広がる。
地面に紋様が刻まれる。
群れの長の四肢が、ぴたりと止まった。
牙がリリアーナに届く寸前。
境界狼は、完全に拘束された。
ヴァルゼリオンは、境界狼を見下ろした。
『命拾いしたな』
声は冷たい。
『リリアに感謝しろ』
境界狼は低く唸ったが、もはや動けない。
護衛騎士たちが駆け寄り、残った魔獣たちを拘束していく。
街道に、静寂が落ちた。
ヴァルゼリオンの気配が、リリアーナの身体からふっと薄れる。
瞳の色が戻る。
背筋が少し丸まる。
足の震えが戻ってくる。
そして、リリアーナ本人が我に返った。
「……あ、あれ?」
彼女は周囲を見回した。
倒れている境界狼。
砕かれた牙。
拘束された群れの長。
呆然とする護衛騎士たち。
青ざめたダリオ。
涙目のリッカ。
そして、泥に汚れた自分の靴。
「わ、私……馬車から……降りて……?」
次の瞬間、全身から力が抜けた。
「お嬢様」
アイリスがすぐに支える。
「大丈夫ですか」
「だ、大丈夫……では、ないかもしれません……。足が……足が、まだ震えています……」
「最初から震えていました」
「そうでした……」
リリアーナは、自分の手を見る。
「魔獣……死んでいませんか……?」
「はい。魔核破壊、拘束、打撃による戦闘不能です。殺傷は最小限です」
「よかった……」
リリアーナは心底ほっとしたように息を吐いた。
それから、はっとしてアイリスを見る。
「アイリス……怪我はありませんか?」
「ありません」
「で、でも、境界狼が……」
「問題ありません」
「すごく、速かったです……」
「境界狼は直線的に急所を狙う習性があります。動きさえ読めれば対応可能です」
「対応可能……?」
リリアーナは呆然とした。
自分にはまったく見えなかった。
なのにアイリスは、まるで予定通りだったかのように境界狼を止めた。
しかも殺さずに。
「アイリスは、やっぱりすごいです……」
「お嬢様をお守りするために必要な技能です」
アイリスは淡々と答えた。
「お嬢様が前へ出る方なら、私はその後ろと横を守ります」
その言葉に、リリアーナの胸が小さく震えた。
自分が無謀に飛び出したことを、責めない。
ただ、その先を守ると言ってくれる。
そのことが、苦しいほど嬉しかった。
「……ありがとうございます、アイリス」
「はい」
その背後で、ヴァルゼリオンが不満げに言う。
『甘い』
「ヴァル様……」
『だが、貴様が望んだのなら、それでよい』
リリアーナは目を瞬かせた。
『よく立った』
「……え?」
『怖いのに逃げなかった。なら、それだけは褒めてやる』
その言葉に、リリアーナの胸が小さく震えた。
ヴァルゼリオンが自分を褒めることは少ない。
しかも、今の言葉は本当に褒めてくれている気がした。
「……ありがとうございます」
『礼など要らん』
「でも、嬉しかったです」
『……勝手にしろ』
ヴァルゼリオンは影へ沈むように姿を薄くした。
その時。
ダリオが、リッカを抱きしめたまま近づいてきた。
馬車の紋章を見る。
リリアーナの顔を見る。
彼の表情には、恐怖があった。
当然だ。
目の前で、リリアーナの身体を借りた何かが魔獣を一瞬で無力化したのだ。
さらに、その侍女まで境界狼を素手で沈めた。
怖くないはずがない。
リリアーナは、無意識に身を縮めた。
「ご、ごめんなさい……」
謝る必要などないはずなのに、言葉が出てしまう。
「怖がらせて、しまいましたか……?」
ダリオは、はっとしたように顔を上げた。
彼は何か言おうとして、言葉に詰まった。
その時。
リッカが父の腕から少しだけ顔を出した。
赤いリボンは泥で汚れている。
布人形も汚れている。
それでも、彼女は小さな足で一歩前へ出た。
「リッカ……!」
ダリオが止めようとする。
けれどリッカは、リリアーナを見上げた。
リリアーナの心臓が跳ねる。
泣かれるだろうか。
怖がられるだろうか。
逃げられるだろうか。
だが、女の子は涙で濡れた顔のまま、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとう……ございます」
リリアーナは、息を呑んだ。
「……え?」
「助けてくれて、ありがとう」
その言葉は、小さかった。
けれど、確かにリリアーナへ届いた。
胸の奥が、きゅっと熱くなる。
目頭が痛くなる。
「あ……」
言葉が出ない。
ありがとう。
その一言だけで、こんなに胸がいっぱいになるなんて知らなかった。
リリアーナは、震える唇で何とか言葉を返した。
「け、怪我がなくて……よかったです」
リッカは、少しだけ笑った。
その笑顔を見て、リリアーナは泣きそうになった。
ダリオも、ようやく深く頭を下げる。
「失礼いたしました。エヴァルディアのお嬢様。助けていただき、感謝いたします」
「い、いえ……私は、少しだけ……」
「少しではありません。娘を救っていただきました」
ダリオの声には、まだ緊張があった。
恐怖が完全に消えたわけではない。
けれど、そこには感謝もあった。
「私は、ダリオ・メルクと申します。ベルカ村の行商人です。この子は娘のリッカ。妻を亡くしてから、私に残された、ただ一人の家族です」
ダリオは、声を震わせながら続けた。
「私は商人です。魔獣と戦う腕などありません。それでも、娘だけは守ろうと思いました。ですが……正直、もう駄目だと思いました」
彼はリリアーナを見た。
まだ、少し怖そうに。
けれど、逃げずに。
「あなたは、震えておられました」
「う……」
「それでも、娘の前に立ってくださいました」
リリアーナの瞳が揺れる。
「私……怖かったです」
「はい」
ダリオは静かに頷いた。
「だからこそ、忘れません」
「え……?」
「怖くない者が前に立つのは、強さかもしれません。ですが、怖いのに前へ出るのは……それ以上の何かです」
ダリオは、もう一度頭を下げた。
「ありがとうございました、リリアーナお嬢様。そして、侍女様も」
アイリスは静かに一礼した。
「私は、お嬢様の護衛として当然のことをしたまでです」
ダリオは首を横に振った。
「当然と思えることを、当然にできる人ばかりではありません」
アイリスは少しだけ沈黙した。
そして、普段と変わらない声で答えた。
「……お嬢様が前へ出られたので」
その一言だけだった。
だが、リリアーナには分かった。
アイリスは、自分の無謀さを否定していない。
それどころか、その勇気を守ってくれた。
リッカが、泥で汚れた布人形を抱きしめながら言った。
「お姉ちゃん、こわかった?」
「……はい。すごく怖かったです」
「リッカも、こわかった」
「はい……」
「でも、お姉ちゃんが前に立ってくれたから、ちょっとだけ怖くなくなった」
リリアーナは、とうとう涙をこぼした。
「ありがとう……ございます」
助けたのは自分のはずなのに、なぜか礼を言っていた。
リッカは不思議そうに首を傾げ、それから小さく笑った。
「お姉ちゃん、泣き虫?」
「は、はい……たぶん……」
「リッカも泣き虫」
「一緒ですね……」
リリアーナが涙を拭いながら笑うと、リッカも笑った。
その笑顔は、小さくて、柔らかくて。
リリアーナの胸に、深く残った。
やがて、アイリスが静かに声をかける。
「お嬢様。そろそろ馬車へ」
「はい……」
リリアーナはダリオとリッカへ頭を下げた。
「どうか、お気をつけて……」
「はい。お嬢様も、王都までどうかご無事で」
「ありがとうございます……」
彼女はそう言って、そっと馬車へ戻った。
馬車の中へ戻ると、足の力が完全に抜けそうになった。
アイリスがすぐに支える。
「お嬢様」
「……怖かったです」
「はい」
「本当に、怖かったです……。魔獣も怖かったですし、飛び出した自分も怖かったですし、ヴァル様が出てきた時も心臓が止まるかと思いました……」
「はい」
「でも……ありがとうって、言ってもらえました」
「はい」
「私……怖がられたけど、ありがとうって……」
「はい」
アイリスは静かに頷く。
「よくできました」
その言葉に、リリアーナはとうとう涙をこぼした。
「泣きます」
「はい」
アイリスは、即座にハンカチを差し出した。
「一枚目です」
「数えないでください……」
泣きながらそう言うリリアーナに、アイリスはほんの少しだけ笑った。
ヴァルゼリオンは、窓の外を見ていた。
その表情は不機嫌そうで、いつもと変わらない。
だが、深紅の瞳の奥にある炎は、少しだけ穏やかだった。
エヴァルディア家の馬車が再び動き始めて、少し経った頃。
その様子を、遠く離れた丘の上から見ている者たちがいた。
黒い外套。
王国特務監察院の監視者たち。
一人が、望遠用の魔導具から目を離す。
「黒焔発現を確認」
別の者が記録を取る。
「規模は中。殺傷性は限定的。対象は境界狼四体。効果は障壁、防御、魔核破壊、拘束」
「暴走ではないのか」
「現時点では、制御下にあると判断。ただし、発動直前に対象が馬車から飛び出し、商人父子を保護する行動を確認」
「守護霊反応は?」
「明確に確認。対象周辺に高密度魔力干渉。リリアーナ・フォン・エヴァルディアの身体反応に一時的な変化あり。暴虐魔王ヴァルゼリオンによる憑依、もしくは一時支配の可能性あり」
「侍女は?」
記録係が羽ペンを止めた。
監視者の一人が、低く答える。
「アイリス・ノクティア。素手による境界狼制圧を確認。打撃精度、体術、判断速度、いずれも高水準。護衛としての能力は上位騎士級と推定」
「侍女だろう?」
「侍女の服を着た護衛だ」
短い沈黙が落ちた。
やがて、監視者の一人が、低く呟いた。
「危険だな」
「殺していないぞ」
「だから危険なんだ」
その言葉に、記録係が顔を上げる。
監視者は、街道を進み始める馬車を見下ろした。
「力がある。制御もある。しかも、発動条件が他者保護だ。自分のためではなく、誰かを守るために動く。そういう者は、理屈では止めにくい」
「暴虐令嬢とは違うように見えたが」
「暴虐ではない。だが、だからこそ危険だ」
監視者は冷たく告げた。
「自分のために力を振るう者は、欲で縛れる。権力で誘導できる。恐怖で止められる。だが、誰かを守るために震えながら前へ出る者は、読みづらい」
「報告にはどう書く」
「そのまま書け」
監視者は羽ペンを持つ部下へ言った。
「対象リリアーナ・フォン・エヴァルディア。境界狼襲撃事案に介入。商人父子を保護。白花黒羽系防御術式を展開後、黒焔干渉により補強。守護霊ヴァルゼリオンらしき憑依反応あり。境界狼四体を殺害せず戦闘不能化。同行侍女アイリス・ノクティアは格闘術により境界狼を非殺傷制圧。危険度評価は据え置き。ただし、対象性格に関する報告を修正」
「どのように」
「臆病、内向的、争いを嫌う傾向あり」
監視者は、少しだけ沈黙した。
そして続ける。
「加えて、他者保護時に自己保存を後回しにする傾向あり」
記録係が羽ペンを走らせる。
霧の街道の向こうへ、エヴァルディア家の馬車が遠ざかっていく。
監視者は、それを見送りながら呟いた。
「暴虐令嬢か」
その声には、わずかな疑問が混じっていた。
「報告書の印象とは、ずいぶん違うな」
もう一人の監視者が、低く問う。
「この件、どこまで上げる?」
「特務監察院には正式報告」
「教会は?」
沈黙が落ちた。
黒外套の男は、しばらく霧の先を見ていた。
そして、冷えた声で言った。
「聖封院にも共有する」
「……封印対象としてか?」
「まだだ」
男はゆっくりと首を振った。
「だが、観察対象からは外せない」
記録係の羽ペンが、最後の一文を刻む。
――聖封院、注意喚起対象。
霧の中で、その文字だけが、やけに黒く滲んで見えた。
馬車は再び街道を進み始めた。
商人の一行は護衛騎士の助けを借り、荷物を直している。
リリアーナは窓の外を見ながら、まだ少し泣いていた。
「……やっぱり、怖がられました」
「はい」
アイリスは否定しない。
だからこそ、リリアーナは少しだけ安心する。
「でも、ありがとうって言ってもらえました」
「はい」
「……怖がられたことと、感謝されたことは、同時にあるのですね」
「はい」
「難しいです」
「人の心は、単純ではありませんので」
リリアーナはハンカチを握りしめた。
「私、王都でも……ああいうふうにできるでしょうか。怖がられても、全部が駄目だと思わずに、少しだけでも……」
「できます」
アイリスは即答した。
リリアーナが驚いて顔を上げる。
「アイリス……」
「お嬢様は、今日できました。なら、次もできる可能性があります」
「可能性……」
「はい。ただし、無理はしないでください。無理をすると倒れます」
「最後に現実が来ます……」
『倒れたら余が運ぶ』
ヴァルゼリオンが言った。
リリアーナは涙目で振り返る。
「ヴァル様が運ぶと、周囲がさらに怖がります……」
『ならば周囲を消す』
「消さないでください!」
『注文が多い』
「常識の範囲内です!」
アイリスが静かに紅茶を注ぐ。
「お嬢様、王都までまだ距離があります。少しお休みください」
「眠れるでしょうか……」
「眠れない場合は、睡眠用香草があります」
「準備が完璧すぎます……」
「マリアベル様の指示です」
「納得しました……」
リリアーナは座席にもたれた。
馬車の揺れは、先ほどより少しだけ優しく感じる。
窓の外の霧は薄くなりつつあった。
森の密度も少しずつ減り、道幅が広くなっている。
辺境の道から、王都へ続く街道へ。
世界が変わり始めていた。
しばらく進むと、遠くに白い影が見えた。
最初は雲かと思った。
けれど違った。
霧の向こう。
丘の先。
白い城壁が、朝の光を受けて輝いている。
いくつもの塔。
高い尖塔。
空へ伸びる王宮の屋根。
王都アストラディア。
王国の中心。
貴族たちの都。
学園のある場所。
リリアーナは、思わず息を呑んだ。
「……あれが」
喉が震える。
「あれが、王都……」
美しい。
怖い。
眩しい。
遠い。
それは、リリアーナが生まれて初めて見る、自分の知らない世界だった。
胸が高鳴る。
同時に、足元が冷たくなる。
あの中に、自分を恐れる人々がいる。
自分を監視する者たちがいる。
自分を異端と見る者たちがいる。
そして。
まだ知らない誰かもいる。
暴虐令嬢ではなく、リリアーナを見てくれるかもしれない誰か。
リリアーナは、胸元のブローチを握った。
黒翼と白花。
家族がくれた勇気。
領民がくれた焼き菓子。
リッカがくれた「ありがとう」。
怖いのに前へ出た自分を、ヴァルゼリオンが褒めてくれたこと。
そして。
自分が守ろうとした隙を、アイリスが守ってくれたこと。
それらを胸に抱きしめるようにして、彼女は小さく呟いた。
「……怖いです」
アイリスが答える。
「はい」
「でも……少しだけ、行ってみます」
「はい」
ヴァルゼリオンが、深紅の瞳を細めた。
『それでよい』
馬車は、白い王都へ向かって進んでいく。
世界に恐れられた暴虐令嬢は、まだ震えている。
けれどその手は、ほんの少しだけ前を向いていた。
その白い都が。
彼女にとって檻になるのか。
それとも、新しい居場所になるのか。
リリアーナには、まだ分からなかった。




