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第1話 暴虐令嬢、出発前から震える


 ルミエラ辺境領の朝は、王都の朝より少しだけ遅い。


 太陽が昇っても、霧はすぐには晴れない。


 森から流れてくる白い靄が、古い屋敷の庭を薄く包み、石畳の小道を淡く濡らしている。夜の冷気を含んだ空気は、まだ肌に少し痛いほど澄んでいて、吐く息はほんのり白かった。


 古いエヴァルディア邸の窓には、朝露が細かな粒になって張り付き、そこへ差し込む光が、控えめにきらめいていた。


 王都の貴族屋敷のように、金細工の門があるわけではない。


 白大理石の柱が並んでいるわけでもない。


 広大な薔薇園を何人もの庭師が整えているわけでもない。


 だが、この屋敷には長い時間を生きてきた石壁があり、何度も修繕された木の扉があり、冬の風に耐えてきた庭木があり、そして、そこに暮らす人々の温もりがあった。


 厨房からは、焼きたてのパンの香りが流れてくる。


 小麦とバターの甘い匂い。


 温められたミルク。


 野菜を煮込んだスープ。


 蜂蜜を混ぜた紅茶。


 それは、王都の貴族たちが好む豪奢な朝食ではない。


 珍しい南国の果実もなければ、銀皿に飾られた高級菓子もない。


 だが、そこには辺境の屋敷らしい、質素で温かな生活の匂いがあった。


 その日。


 エヴァルディア家の食堂には、いつもより少しだけ緊張した空気が流れていた。


 長い食卓。


 白いクロス。


 磨かれた銀食器。


 壁には、黒翼と白花を組み合わせたエヴァルディア家の紋章。


 その紋章は、魔王の黒翼と人間の白花を表している。


 恐怖と愛。


 暴虐と守護。


 呪われた血と、受け継がれた優しさ。


 相反する二つを抱えた、エヴァルディア家の歴史そのものだった。


 食卓には、家族が揃っていた。


 エヴァルディア辺境伯家現当主、レオルド・フォン・エヴァルディア。


 穏やかな灰色の瞳をした、優しげな男。


 痩せ気味で、威圧感はなく、王都の貴族たちが好むような強い権力者の風格はない。むしろ、学者か教師のような雰囲気を持つ人物だった。


 だが、その眼差しだけは揺るがない。


 娘を見る時の目は、いつも真っ直ぐだった。


 今日も彼は、いつもと同じように娘たちへ微笑んでいた。


 けれど、食器へ添えられた指先は、ほんのわずかに硬い。


 父親として、娘の門出を祝いたい。


 だが同時に、世界へ送り出すことが怖い。


 その二つの感情が、彼の胸の中で静かにぶつかっていた。


 隣に座るのは、妻であるセレフィーナ・フォン・エヴァルディア。


 淡金色の髪を柔らかく結い、蒼い瞳に穏やかな光を宿した女性。


 病弱な身体ではあるものの、今日は娘のために食堂へ姿を見せていた。


 白い指先は少し冷たそうで、頬の色も薄い。


 それでも彼女は、リリアーナが不安にならないよう、いつもより丁寧に微笑んでいた。


 その微笑みは、少しだけ無理をしている。


 だが、母親として娘を送り出す朝に、弱い姿を見せたくなかったのだ。


 そして、次女ルシェリア・フォン・エヴァルディア。


 朝から元気いっぱいで、焼きたてのパンを見つめる目がきらきらしている。


 淡金色の髪が肩で揺れ、蒼い瞳は朝露のように澄んでいた。


 彼女がいるだけで、食堂の空気は少し明るくなる。


 辺境の領民たちが“小さな太陽”と呼ぶのも、決して大げさではなかった。


 その向かい側で。


 長女リリアーナ・フォン・エヴァルディアは、パンを小さくちぎっていた。


 ちぎって。


 さらに小さくちぎって。


 それをまた半分にして。


 皿の上に、食べるためではなく、緊張の痕跡のようなパンくずの山を作っていた。


「……」


 リリアーナの顔色は、朝食前からすでに悪い。


 白銀の長い髪は丁寧に整えられている。


 深紅の瞳も、いつものように美しい。


 白い肌も、儚げな表情も、黙っていれば冷たい美貌の令嬢に見えた。


 王都の貴族たちが噂する“暴虐令嬢”という名にも、見た目だけなら妙な説得力がある。


 神秘的な美貌。


 近寄りがたい雰囲気。


 魔王の血を思わせる赤い瞳。


 だが、今の彼女は完全に小動物だった。


 視線は皿の上。


 肩は縮こまり。


 口元は震え。


 時折、ちらちらと食堂の隅に置かれた旅行鞄へ目を向けては、青ざめる。


 その鞄が、まるで恐ろしい魔獣にでも見えているようだった。


「お姉さま」


 ルシェリアが、心配そうに首を傾げた。


「パン、そんなに細かくしたら、鳥さんのご飯みたいです」


「ひゃっ……」


 リリアーナはびくっと肩を跳ねさせた。


「あ、ご、ごめんなさい……。私、食べます……ちゃんと食べますから……。食べ物を粗末にするつもりではなくて、その、指が勝手に……」


「指が勝手にパンを解体しているんですか?」


「解体……」


 リリアーナは皿の上を見た。


 そこには、見事に細かくなったパンがある。


「……本当ですね。解体されています……」


「お姉さまがやりました」


「私、朝からパンにひどいことを……」


 リリアーナは震える手でパンの欠片をつまんだ。


 けれど口元まで運んだところで、ぴたりと止まった。


「……王都」


 小さく呟く。


「……学園」


 さらに小さく呟く。


「……入学試験」


 その瞬間、リリアーナの指からパンが落ちた。


「や、やっぱり無理です……!」


 食堂に沈黙が落ちる。


 ルシェリアが「あ」と声を上げる。


 セレフィーナが困ったように微笑む。


 レオルドは、娘の様子を見て、少しだけ眉を下げた。


「リリアーナ」


「お、お父さま……」


「無理なら、少し延期してもいいんだよ」


 レオルドの声は、静かだった。


 責める色はない。


 急かす色もない。


「学園に入ることだけが全てではない。君が本当に辛いなら、私は王都へ手紙を書く。辺境の事情を説明して、受験時期を改めてもらうこともできるかもしれない」


「で、でも……」


「もちろん、簡単ではない。王都の貴族たちは、こちらの事情など都合よく聞いてはくれないだろう。けれど、君が壊れてまで行かなければならない場所ではないよ」


 その声は優しかった。


 どこまでも娘を案じている声だった。


 リリアーナの胸が、ぎゅっと締め付けられる。


 父はいつもそうだ。


 世界中が自分を恐れても、父だけは逃げない。


 黒焔が暴走した時も。


 噂が広がった時も。


 教会から監視が来た時も。


 王都の貴族たちが冷たい手紙を送ってきた時も。


 父は必ず、自分にこう言ってくれた。


 大丈夫だよ、と。


 君は怖い子じゃない、と。


 君は私の娘だ、と。


 だからこそ、リリアーナは首を横に振った。


「……いいえ」


 声は震えていた。


 けれど、確かに言葉にした。


「怖いです。すごく怖いです。王都も、学園も、試験も、貴族の方々も、先生も、同年代の令嬢の方々も、全部怖いです。きっと、私を見る前から、皆さん私のことを知っています。暴虐令嬢だって。黒焔の怪物だって。近づいたら焼かれるって。そう思われているかもしれません」


 リリアーナは、膝の上で手を握った。


 爪が手のひらに食い込む。


 それでも、彼女は言葉を止めなかった。


「本当は、屋敷から出たくありません。ここにいれば、お父さまも、お母さまも、ルシェリアも、アイリスも、マリアベルも、アルヴェインもいます。ここなら、私が怖がっても、皆さん笑ってくれます。ここなら、私が泣いても、誰も暴虐令嬢だなんて言いません」


 声が細くなる。


「でも……このまま、屋敷の中に隠れていたら、私はずっと暴虐令嬢のままです。私がどれだけ怖がっていても、どれだけ違うと言っても、誰にも届かないままです。怖がられるのが怖いから外に出ない。そうしていたら、きっと一生、誰にも本当の私を知ってもらえません」


 リリアーナは、少しだけ顔を上げた。


 涙で潤んだ深紅の瞳が、家族を見る。


「だから……少しだけでも、外へ出てみたいんです。怖いです。とても怖いです。でも、逃げるだけではなくて……ほんの少しでいいから、自分の足で歩いてみたいんです」


 レオルドは黙って娘を見つめた。


 その瞳には、誇らしさと不安が同時に浮かんでいた。


 娘が一歩踏み出そうとしている。


 父として、その勇気を喜びたい。


 だが同時に、父として、その先に待つ傷を恐れてもいた。


 王都は優しくない。


 貴族社会は、リリアーナのような少女に甘くない。


 彼女がどれほど臆病で優しくても、外の者たちはまず“暴虐令嬢”を見るだろう。


 父として、抱きしめて引き止めたい。


 領主として、送り出さなければならない。


 その二つの間で、レオルドの心は揺れていた。


 セレフィーナが、そっと口を開く。


「リリアーナ」


「はい、お母さま」


「怖くていいのよ」


 その言葉に、リリアーナは瞬きをした。


「怖くていいのですか……?」


「ええ。怖くないふりをしなくてもいいの。あなたは昔から、怖い時にちゃんと怖いと言える子だったわ。それは弱さではないのよ」


 セレフィーナは、穏やかに微笑んだ。


 その微笑みは、春の日差しのように柔らかい。


「怖いと言える子は、自分が何を大切にしているのか分かっている子よ。怖いのは、失いたくないものがあるから。傷付けたくない人がいるから。だから、怖がるあなたを、お母さまは弱いとは思わない」


「お母さま……」


「怖いのに、それでも誰かを守ろうとする。怖いのに、それでも前へ進もうとする。そういう子を、本当に強い子と言うのだと、お母さまは思うわ」


 リリアーナの瞳が潤む。


 ルシェリアが身を乗り出した。


「私もそう思います! お姉さまは世界で一番強いです!」


「ル、ルシェリア……」


「だって、私なら王都って聞いただけで泣きます!」


「私も泣きそうです……」


「でも、お姉さまは泣きそうなのに行こうとしてます! だから強いです! しかも、お姉さまは怖いのにちゃんと皆に優しくできます。私が転んだ時もすぐ来てくれますし、庭で虫が出た時は一緒に叫びながら逃げてくれますし、夜に怖い夢を見たら一緒に寝てくれますし」


「そ、それは強いのでしょうか……?」


「強いです!」


 ルシェリアはきっぱりと言い切った。


「お姉さまは、怖いのに優しいです。だから強いんです」


 真っ直ぐすぎる言葉に、リリアーナは思わず頬を赤くした。


「そ、そんなに褒めないでください……。嬉しいですけど、恥ずかしいです……。私、褒められるのに慣れていないので、どうすればいいのか分からなくなります……」


「では慣れてください!」


「褒められる訓練ですか……?」


「はい! お姉さまは可愛いです!」


「ひゃっ……!」


「優しいです!」


「ルシェリア……!」


「大好きです!」


「うぅ……」


 リリアーナは両手で顔を覆った。


 耳まで赤い。


 その姿は、王都で恐れられる“暴虐令嬢”とはかけ離れていた。


 その時。


 食堂の空気が、わずかに重くなった。


 暖炉の火が小さく揺れる。


 食堂の隅に、黒い影が滲む。


『理解できんな』


 低い声。


 魂を震わせるような声。


 暴虐魔王ヴァルゼリオン・エヴァルディアが、漆黒の外套を揺らして姿を現した。


 その深紅の瞳は、朝食の場に似合わないほど威圧的だった。


 彼が現れるだけで、空気が変わる。


 食堂の温かな朝の匂いの中に、戦場の気配が一滴落ちる。


 それほどまでに、ヴァルゼリオンという存在は重かった。


 だが、リリアーナはその威圧に怯えながらも、完全には逃げない。


 彼が怖い存在であると同時に、自分を守ってくれる存在だと知っているからだ。


『リリアが怯える必要などない。怯えるべきは向こうだ』


「ヴァル様……朝から物騒なことを言わないでください……」


『事実だ。貴族だろうが、教師だろうが、試験官だろうが、余のリリアへ無礼を働くならば焼けばよい』


「焼きません!」


『では凍らせるか』


「方向性が違うだけです!」


『ならば跪かせる』


「もっと悪役令嬢っぽくなるので駄目です!」


 リリアーナが涙目で叫ぶ。


 ヴァルゼリオンは心底不思議そうに眉を寄せた。


『何が問題だ。貴族社会とは、力と権威を見せつける場なのだろう? ならば最初に全員を黙らせればよい。余がいた時代ならば、それで大半の問題は片付いた』


「その時代と今は違います……!」


『大して変わらぬ。強者が弱者を見下し、血筋を誇り、相手の隙を探る。貴族というものは昔から面倒な虫だ』


「虫扱いしないでください……! 私も一応、貴族です……!」


『リリアは虫ではない』


「それはありがとうございます……?」


『貴様は余の血だ』


「それが怖がられている原因なのですが……!」


 レオルドは苦笑するしかなかった。


 セレフィーナは、少しだけ困った顔でヴァルゼリオンを見る。


「始祖様」


『なんだ、セレフィーナ』


「リリアーナは、できれば誰とも争わずに学園へ行きたいのです。どうか、最初から敵を焼く方向で励まさないであげてくださいませ」


『……敵であれば焼くのが道理だ』


「まだ敵と決まっておりません」


『リリアを泣かせれば敵だ』


「それは、少し分かりますけれど」


「お母さま!?」


 セレフィーナが本気で少しだけ頷いたため、リリアーナが驚愕する。


 ルシェリアは楽しそうに笑った。


「ヴァルおじさま、お姉さまは学園を燃やしに行くんじゃありませんよ」


『誰がおじさまだ』


「ヴァルおじさまです」


『……朝から貴様は容赦がないな、小娘』


「小娘じゃありません。ルシェリアです」


『知っている』


「なら名前で呼んでください」


『……ルシェリア』


「はい!」


 ルシェリアは満面の笑みを浮かべた。


 世界最凶の暴虐魔王が、十一歳の少女に普通に名前を呼ばされている。


 その光景に、レオルドは苦笑し、セレフィーナは口元に手を当てて微笑んだ。


 リリアーナも、少しだけ緊張が解ける。


 この光景は、外の人間が見れば信じないだろう。


 世界を滅ぼしかけた魔王。


 暴虐令嬢。


 黒焔の血族。


 そんな恐ろしい言葉の内側にあるものが、こんなにも温かな食卓だなんて、誰も知らない。


 その時、食堂の扉が静かに開いた。


「皆様、お食事中に失礼いたします」


 入ってきたのは、メイド長マリアベル・クローディアだった。


 銀髪を一分の乱れもなくまとめ、細縁眼鏡の奥の瞳は今日も鋭い。


 一切乱れのないメイド服。


 背筋の伸びた立ち姿。


 その姿は、食堂に入ってきただけで場を引き締める。


 その後ろには、執事長アルヴェイン・グランフォードが控えている。


 白髪の老紳士は、黒い燕尾服を完璧に着こなし、穏やかな微笑を浮かべていた。


 だが、その立ち姿に隙はない。


 二人の手には、明らかに分厚すぎる書類束と、荷物目録があった。


 リリアーナは、それを見た瞬間、背筋を震わせた。


「……あ、あの」


 マリアベルは淡々と言った。


「お嬢様。王都行きの荷物確認が完了いたしました」


「荷物……確認……」


「はい。衣装一式、礼服、試験用の制服、予備の靴、予備の手袋、予備の髪飾り、夜用の羽織、寒さ対策の外套、薬箱、手紙道具、裁縫道具、睡眠用香草、落ち着くための茶葉、非常用菓子、泣いた時用のハンカチ三十枚、泣きすぎた時用の予備ハンカチ二十枚」


「待ってください。ハンカチが多くありませんか……?」


「必要です」


「そんなに泣く前提なのですか……?」


「お嬢様ですので」


「否定できません……!」


 リリアーナは両手で顔を覆った。


 アルヴェインが静かに続ける。


「加えて、王都貴族との会話想定集、失礼な発言を受けた場合の返答例、教会関係者と遭遇した場合の沈黙時間の目安、試験官から過度な質問を受けた場合の回避文句、そして万が一、お嬢様が気を遠くされた場合の搬送手順をまとめた冊子もご用意いたしました」


「そこまで準備されているのですか……?」


「備えは大切でございます」


「屋敷中が私を倒れるものとして扱っています……」


「失礼ながら、お嬢様」


 アルヴェインは穏やかに微笑んだ。


「これまでの実績を鑑みますと、備えない方が不自然でございます」


「実績……」


「王都からの手紙を開封した際、一回。教会からの使者が来ると聞いた際、二回。学園案内を初めてご覧になった際、一回。合計四回ほど、気を遠くされかけております」


「数えないでください……!」


 アイリス・ノクティアが静かに紅茶を差し出した。


 漆黒の長髪。


 蒼灰色の瞳。


 隙のない侍女服姿。


 彼女は今日、リリアーナに同行する専属侍女として、いつもよりさらに無駄のない動きをしていた。


「お嬢様、落ち着いてください。万が一の場合は私が丁寧にお運びします」


「そこは安心していいのでしょうか……?」


「はい。落としません」


「落とす可能性の話だったのですか……?」


 マリアベルは、皿の上の細かくなったパンを見た。


「ところで、お嬢様」


「は、はい……」


「朝食をお召し上がりください」


「で、でも、緊張で……」


「緊張で食事を抜く方は、王都へ着く前に倒れます」


「うぅ……」


「試験当日にお腹が鳴れば、そちらの方がよほど目立ちます」


「そ、それは嫌です……!」


 リリアーナは慌ててスプーンを手に取った。


 スープを一口。


 温かい。


 やさしい味。


 野菜の甘みと、少しだけ塩気のあるスープが喉を通る。


 不思議と、胸の震えが少しだけ落ち着いた。


 マリアベルは厳しい。


 だが、その厳しさの奥にあるものを、リリアーナは知っている。


 自分を心配しているのだ。


 怖がっている自分を、ただ甘やかすのではなく、ちゃんと立たせようとしてくれている。


「……おいしいです」


 リリアーナが小さく言うと、マリアベルの表情がほんの少しだけ和らいだ。


「それはようございました。お嬢様がきちんと食べてくださるなら、厨房の者たちも安心いたします」


「厨房の皆さんも、心配しているのですか……?」


「当然です。今朝は、料理長のガストンがスープの塩加減を三度確認しておりました。パン係のミーナは、お嬢様が食べやすいように柔らかめに焼いております。菓子係のロッテは道中用の焼き菓子を、すでに三種類用意しております」


「三種類も……」


「どれも、お嬢様が泣いた時に食べやすいものです」


「泣く前提から離れられません……」


 アルヴェインも静かに頷く。


「本日は長旅になります。お嬢様のお身体が第一でございます」


「ありがとうございます、アルヴェイン」


「いえ。お嬢様が昨日より少しだけ前を向いておられる。それだけで、我々には十分でございます」


 その言葉に、リリアーナの胸が温かくなる。


 けれど同時に、鼻の奥がつんとした。


 泣きそうになる。


 すると、アイリスがすっとハンカチを差し出した。


「早速一枚目ですね」


「まだ泣いていません……!」


「では予備として」


「予備が早いです……」


 食堂に、小さな笑いが広がった。


 朝の緊張が、少しずつほぐれていく。


 リリアーナはスープを飲み、パンを食べ、蜂蜜を入れた紅茶を一口飲んだ。


 まだ怖い。


 王都は怖い。


 学園も怖い。


 けれど、この食卓の温かさを胸に入れておけば、少しだけ歩ける気がした。



 朝食の後、屋敷は一気に出発準備の空気へ変わった。


 玄関ホールには、旅行鞄が並ぶ。


 馬車の車輪が点検され、護衛騎士たちが装備を確認する。


 使用人たちは慌ただしく動きながらも、どこか寂しそうだった。


 誰も口にはしない。


 けれど皆、分かっていた。


 リリアーナが屋敷を離れる。


 それは、この家にとって大きな出来事だった。


 世界から恐れられる少女が、初めて本格的に王都へ向かう。


 その先で待つものが優しいものばかりではないと、誰もが理解していた。


 だからこそ、使用人たちの動きはいつも以上に丁寧だった。


 外套の留め具を何度も確認する者。


 馬車の座席へ柔らかな毛布を敷く者。


 茶葉の缶を追加しようとしてマリアベルに止められる者。


 護衛騎士に「お嬢様が泣いたらすぐ報告するように」と真顔で告げる者。


 屋敷全体が、リリアーナを送り出すために動いていた。



 リリアーナは、自室でアイリスに髪を整えられていた。


 白銀の髪を丁寧に梳かれ、淡い青のリボンで結ばれる。


 鏡の中の自分は、まるで知らない令嬢のようだった。


 落ち着いた旅装。


 控えめな刺繍。


 エヴァルディア家の紋章を小さく縫い込んだ外套。


 見た目だけなら、立派な貴族令嬢だ。


 けれど中身は、今にも逃げ出したい臆病者である。


「……アイリス」


「はい」


「私、変ではありませんか?」


「お綺麗です」


「そ、即答……!」


「事実ですので」


「でも、怖く見えませんか?」


 アイリスは鏡越しにリリアーナを見た。


 少しだけ目を細める。


「お嬢様」


「はい」


「怖く見えるかどうかは、見る側の心にもよります」


「見る側の心……」


「お嬢様がどれだけ優しくても、恐怖を見たい者は恐怖を見ます。黒焔を見たい者は黒焔を見ます。暴虐令嬢を見たい者は、そう見ます」


「……」


「ですが、私は違います」


 アイリスは静かに続けた。


「私は、お嬢様を知っています。臆病で、優しくて、すぐ泣いて、妹君のためなら震えながら前に出る方だと知っています。だから私は、お嬢様を怖いとは思いません」


「アイリス……」


「王都にも、いつかそういう人が現れます」


「……本当に?」


「はい」


 アイリスは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「少なくとも、一人くらいは」


「一人……」


「ええ。一人いれば、十分です」


 その言葉が、不思議と胸に残った。


 まだ見ぬ誰か。


 自分を暴虐令嬢ではなく、リリアーナとして見てくれる誰か。


 そんな人が本当にいるのだろうか。


 分からない。


 でも、もし一人でもいるのなら。


 少しだけ、会ってみたいと思った。


 その時、背後から低い声が響いた。


『そのような者が現れたとしても、余が認めるとは限らん』


「ヴァル様……」


『リリアを怖がらぬだけで合格など甘い。近づく者は全て審査する』


「審査……?」


『家柄、力量、精神、覚悟、忠誠、そしてリリアを泣かせぬかどうか』


「な、何の審査ですか……?」


『決まっている。リリアに近づく資格だ』


 リリアーナの顔が赤くなった。


「ち、近づくって、そんな……! 私、まだ誰かと仲良くなるかも分からないのに……!」


『だから先に排除基準を定める』


「排除しないでください!」


 アイリスが淡々と言う。


「始祖様。お嬢様が恋をする前から恋敵を滅ぼそうとしないでください」


「こ、恋……!?」


 リリアーナは真っ赤になって振り返った。


「アイリス、今、恋って言いましたか……!?」


「可能性の話です」


「可能性もありません! 私が恋なんて……そんな、恐れ多いです……! そもそも、私と目を合わせてくださる方がいるかどうかも分からないのに、恋なんて、そんな、物語の中の綺麗な令嬢がするもので……!」


『リリア』


「は、はい」


『男など大半が愚物だ』


「偏見が強いです……!」


『余は長く生きた。間違いない』


「経験談みたいに言わないでください……!」


『甘い言葉を囁く者ほど信用ならん。花を贈る者もだ。手を取ろうとする者は論外。距離が近い者は斬る』


「斬らないでください!」


「始祖様」


 アイリスが冷静に口を挟む。


「お嬢様が初対面の相手とまともに会話できる可能性の方が低いので、現時点では心配しすぎかと」


「アイリス、それはそれで傷付きます……!」


「失礼しました。ですが事実です」


「事実が痛いですぅ……」


 アイリスは無表情でリボンを結び終えた。


「お嬢様、完成です」


 リリアーナは鏡を見る。


 そこには、まだ少し不安そうではあるけれど、きちんと前を向こうとしている令嬢が映っていた。


 怖い。


 でも、行く。


 リリアーナはそっと胸元に手を当てた。


 そこに、家紋の小さなブローチがある。


 黒翼と白花。


 自分の家。


 自分の血。


 自分の居場所。


「……行ってきます」


 誰に向けた言葉か分からない。


 でも、その瞬間。


 背後のヴァルゼリオンが、少しだけ目を細めた。



 屋敷の正面玄関には、馬車が用意されていた。


 黒を基調にした、質素だが頑丈な馬車。


 扉にはエヴァルディア家の紋章が刻まれている。


 護衛騎士たちが周囲に控え、使用人たちが荷物を積み込んでいた。


 空は少しずつ明るくなっていた。


 霧の向こうに、王都へ続く街道が見える。


 その道は、リリアーナにとって未知そのものだった。


 玄関の階段を降りたリリアーナは、そこで足を止めた。


「……え?」


 門の外に、人が集まっていた。


 領民たちだった。


 パン屋のミーナ。


 鍛冶屋のグラン。


 薬草畑のエマ。


 市場のトマス。


 粉屋の息子エリック。


 孤児院の子供たち。


 魔獣被害の時にエヴァルディア家に助けられた家族。


 冬の炊き出しを一緒に手伝った老人たち。


 全員が、距離を取りながらも、屋敷の門の外に立っていた。


 近づきすぎてはいない。


 やはり、少し怖いのだろう。


 けれど、誰も逃げていない。


 誰も石を投げない。


 誰も罵らない。


 リリアーナは、胸が詰まった。


「あ、あの……」


 声をかけようとして、うまく言葉が出ない。


 すると、パン屋のミーナが一歩前へ出た。


 手には、小さな包みがある。


「リリアーナお嬢様」


「は、はい……! ミーナさん……!」


 リリアーナは反射的に背筋を伸ばした。


 パン屋の娘、ミーナ。


 幼い頃からリリアーナのために柔らかい白パンを焼いてくれた女性だ。


 小さい頃、リリアーナが屋敷の外へ出るのを怖がっていた時、ミーナはよく「お嬢様用です」と甘いパンを届けてくれた。


 リリアーナは、その味を覚えている。


 蜂蜜とバターの香り。


 それから、少し焦げた端の香ばしさ。


「これ、道中で召し上がってください。蜂蜜入りの焼き菓子です。甘いものは、緊張にいいって聞きましたので」


「わ、私に……?」


「はい。お嬢様に」


 リリアーナは恐る恐る受け取った。


 包みは温かかった。


 焼きたてなのだろう。


 その温もりが、手のひらから胸の奥へ伝わってくる。


「ありがとうございます、ミーナさん……。あの、いつも……私が怖がって外へ出られない時も、パンを届けてくださって……」


 ミーナは目を丸くした。


「覚えていてくださったんですか?」


「もちろんです……。ミーナさんの白パンは、少し甘くて……怖い日でも、食べられたので……」


 ミーナの目元が、少しだけ赤くなった。


「王都の食べ物が口に合わなかったら、これを思い出してください。ルミエラにも、お嬢様の帰る場所がありますから」


 リリアーナの喉が詰まる。


 泣きそうになった。


 鍛冶屋の老人が、咳払いをした。


「お嬢様」


「は、はい……! グランさん……!」


 リリアーナはまた顔を上げた。


 グラン。


 鍛冶屋の老人。


 無口で頑固で、屋敷の門の金具や馬具を何十年も見てきた職人だ。


 リリアーナが幼い頃、庭で転んで泣いた時、無言で小さな鈴付きの安全靴飾りを作ってくれたことがある。


 歩くたびにちりんと鳴るその飾りは、今もリリアーナの小物箱にしまってある。


「王都の連中は口が悪いと聞きます。もし何かあったら、これを」


 老人は小さな護身用短剣を差し出そうとした。


 その瞬間、アイリスがすっと間に入った。


「お気持ちだけ頂戴します。お嬢様に刃物は不要です」


「そ、そうか」


「はい。お嬢様が持つと、周囲が誤解します」


「確かに」


「確かになのですか……?」


 リリアーナは小さく肩を落とした。


 グランは不器用に口元を緩めた。


「まあ、刃物よりも、お嬢様の方がよほど強いでしょうがな」


「強くありません……!」


「強いですぞ。だが、怖がりなのも知っております」


「うぅ……」


「だからこそ、無理はなさらず。王都で嫌なことがあれば、帰ってきてください。金具の修理も、椅子の脚の調整も、いつものようにやっておきます」


「ありがとうございます、グランさん……」


 薬草畑の女性が、次に前へ出た。


 柔らかな緑の外套を着た女性だ。


「お嬢様」


「エマさん……」


 リリアーナの声が少しだけ柔らかくなる。


 エマは薬草畑を管理する女性で、リリアーナに薬草栽培を教えてくれた人物でもある。


 幼いリリアーナが「私でも育てられるでしょうか」と震えながら聞いた時、エマは「草花は怖がりませんよ」と笑ってくれた。


 その言葉を、リリアーナはずっと覚えている。


「眠れない夜に使える香草を包みました。王都の空気が合わなかったら、お茶にしてください」


「エマさん……ありがとうございます。あの、去年植えた白月草は……」


「ちゃんと育っていますよ。お嬢様が戻る頃には、花が咲いているでしょう」


「……見たいです」


「なら、必ず戻ってきてください」


「はい……」


 市場の商人が、声を張った。


「リリアーナお嬢様!」


「トマスさん……!」


 トマスは市場で雑貨と食料を扱う商人だった。


 王都との取引が細くなり、領地が苦しい時にも、何とか品を仕入れてくれていた男である。


「王都の菓子が口に合わなかったら、すぐ手紙をください! うちで仕入れます! なんなら、お嬢様用に新しい甘味を開発します!」


「そ、そこまでしなくても……!」


「します! お嬢様は甘いものを食べると少し顔色が良くなりますからな!」


「そんなに分かりやすいですか……?」


「分かりやすいです!」


 周囲から小さな笑いが起きる。


 リリアーナは顔を赤くした。


 その時、数人の若者たちが前へ出てきた。


 その中心にいる少年――いや、青年に近い年頃の少年を見て、リリアーナは少しだけ目を丸くした。


「エリック……?」


「おう、お嬢様」


 エリック・ハーヴェイ。


 粉屋の息子で、リリアーナと同じ年頃の幼馴染みのような存在だった。


 貴族と領民。


 本来なら距離があるはずの関係。


 けれど、ルミエラは辺境で、エヴァルディア家は王都貴族ほど堅苦しくない。


 幼い頃、リリアーナが屋敷の庭からこっそり外を覗いていた時、最初に声をかけたのがエリックだった。


 当時のリリアーナは、話しかけられただけで泣きそうになった。


 エリックは驚き、困り、そしてなぜか手に持っていた焼き芋を半分差し出した。


 それ以来、二人は奇妙な距離感のまま、長い付き合いになっていた。


 ただし、恋愛関係は一切ない。


 完全に、気心の知れた領民の友人。


 あるいは、遠慮の薄い幼馴染みのようなものだった。


 エリックには恋人もいる。


 リリアーナもその恋人――花屋の娘リナのことをよく知っていた。


「エリック、リナさんは……?」


「店番。あとで来たかったって言ってた。これ、リナから」


 エリックは、白い花と薄紫の花を束ねた小さな花束を差し出した。


「王都の部屋に飾ってくれってさ。押し花にしてもいいって」


「リナさんが……」


 リリアーナは花束を受け取った。


 柔らかな香りがする。


「綺麗……。ありがとうございます。リナさんにも、お礼を伝えてください」


「おう」


 エリックは少しだけ照れくさそうに頭をかいた。


「あと、俺からも一つ」


「え?」


「これ」


 差し出されたのは、小さな木彫りの鳥だった。


 少し不格好で、丸い。


 だが、どこか愛嬌がある。


「エリックが作ったのですか?」


「笑うなよ。昔、お嬢様が庭で鳥を見て、空を飛べるのはいいですねって言ってただろ。あれ、何となく覚えててさ」


「覚えていてくれたのですか……?」


「そりゃ覚えてる。お嬢様、あの時、めちゃくちゃ真剣な顔してたし」


「私、そんなことを……」


「言ってた。で、俺が『飛べなくても歩けばいいだろ』って言ったら、お嬢様、すごい顔で『歩くのも怖いです』って返してきた」


「……私らしいです」


「だろ?」


 エリックは笑った。


 その笑いは、遠慮がない。


 貴族に向ける丁重な笑みではない。


 昔から知っている相手への、自然な笑いだった。


「まあ、王都まで歩くわけじゃないし、馬車だし。怖くなったら、その鳥でも見て思い出してくれ。飛べなくても、歩けなくても、馬車なら進む」


「それは励ましなのでしょうか……?」


「たぶん」


「たぶん……」


 リリアーナは困ったように笑った。


 その笑顔は、屋敷の者たち以外にはなかなか見せない、少しだけ自然な笑顔だった。


 エリックはそれを見て、安心したように肩をすくめる。


「リナが言ってた。王都の連中が怖かったら、花の名前を一つずつ思い出せって。怖い顔の貴族より、花の名前の方が役に立つってさ」


「リナさんらしいです……」


「だろ。あと、リナが『お嬢様はちゃんと可愛いから大丈夫』って言ってた」


「リナさんまで……!」


 リリアーナは耳まで赤くなった。


 エリックはからから笑う。


「王都で変な男に引っかかるなよ」


「へ、変な男……!?」


「いるだろ、王都には。やたらキラキラしたやつとか、歯の浮くようなこと言うやつとか」


『排除だな』


 背後の影から低い声が漏れた。


 エリックはぴたりと固まった。


「……今の、始祖様か?」


「ヴァル様、出てこないでください……!」


『その平民の言う通りだ。妙な男に近づくな』


「ヴァル様まで……!」


 エリックは一瞬緊張したが、すぐに苦笑した。


「始祖様も相変わらずだな」


『貴様、余にその口か』


「す、すみません。でも、お嬢様が泣いたら困るのはこっちも同じなんで」


 ヴァルゼリオンの影がわずかに揺れる。


『……ふん』


 意外にも、それ以上は何も言わなかった。


 リリアーナは驚いたように目を丸くする。


「ヴァル様がエリックを燃やしませんでした……」


「燃やす前提だったのかよ、お嬢様」


「い、いえ、違います……! その……ヴァル様は、私の知り合いの男性に厳しいので……」


「まあ、俺にはリナがいるしな」


「そうですね……。リナさんを泣かせたら、私も怒ります」


「お嬢様が怒る方が怖いな」


「こ、怖くありません……!」


 エリックは笑った。


 リリアーナも、少しだけ笑った。


 領民たちは、そのやり取りを見て、静かに微笑んでいた。


 彼らは知っている。


 リリアーナが、領民の名前を覚えていることを。


 パン屋のミーナ。


 鍛冶屋のグラン。


 薬草畑のエマ。


 市場のトマス。


 粉屋の息子エリック。


 花屋の娘リナ。


 孤児院の子供たち。


 炊き出しを手伝う老人たち。


 魔獣被害で家を失った家族。


 彼女は、怖がりながらも、彼らを覚えている。


 貴族だから。


 領民だから。


 そんな線引きよりも先に、人として名前を呼ぼうとする。


 だからこそ、ルミエラの人々は彼女を恐れるだけでは終われないのだ。


 孤児院の子供たちが数人、恐る恐る前へ出た。


 一番小さな男の子が、両手で花を持っている。


 白い花。


 屋敷の庭にも咲いている花だった。


「お、お嬢様……」


「はい。ニコ……」


 リリアーナはしゃがみ込んだ。


 目線を合わせる。


 少年が少しだけびくっとした。


 その反応に胸が痛んだが、リリアーナはできるだけ優しく微笑んだ。


「お花、持ってきてくれたのですか?」


「う、うん……。リナ姉ちゃんが、これならお嬢様が好きだって……」


「ありがとうございます。大切にしますね」


 少年は、驚いたようにリリアーナを見た。


 そして、小さく頷いた。


「はい……!」


 その瞬間、リリアーナの目に涙が浮かんだ。


 領民たちは、自分を完全には怖がっていないわけではない。


 怖いのだ。


 きっと、今でも怖い。


 暴虐令嬢という噂も、黒焔の記憶も、消えていない。


 でもそれでも。


 見送りに来てくれた。


 焼き菓子をくれた。


 花をくれた。


 頑張って、と言ってくれた。


 それだけで、十分だった。



 その時、セレフィーナがゆっくりと歩み寄ってきた。


 彼女の手には、小さな白銀の箱があった。


「リリアーナ」


「はい、お母さま……?」


「出発の前に、あなたへ渡したいものがあります」


 セレフィーナの声は穏やかだった。


 だが、その響きには、いつもの柔らかさとは違う重みがあった。


 白銀の箱には、エヴァルディア家の紋章が刻まれている。


 黒翼と白花。


 その下に、古い魔王文字が細く彫られていた。


 リリアーナは思わず息を呑む。


「これは……」


 セレフィーナは箱を開いた。


 中に入っていたのは、ペンダントだった。


 細い銀鎖。


 中心には、深い夜色の宝石。


 黒に近い青。


 だが光を受けると、内側に淡い白い輝きが揺れる。


 まるで、夜空の奥に月光を閉じ込めたような石だった。


「これは《夜月の守護石》」


 セレフィーナは静かに言った。


「ヴァルゼリオン様が遺した秘宝の一つです」


「ヴァル様の……?」


 リリアーナは驚いて影を見る。


 ヴァルゼリオンはしばらく黙っていた。


 そして、不機嫌そうに目を細める。


『まだ残っていたか』


「始祖様、ご存じだったのですね」


『当然だ。余のものだ』


 セレフィーナは微笑む。


「この石は、持ち主の命に危険が迫った時、一度だけ強い守護結界を張ると言われています。ただ、これまで誰も完全には扱えませんでした」


「そんな大切なものを、私に……?」


「あなたに持っていてほしいの」


 セレフィーナは、ペンダントをそっとリリアーナの首にかけた。


 冷たいはずの宝石が、胸元で触れた瞬間、ほんのり温かくなった。


 リリアーナの魔力に反応するように、夜色の宝石の奥で白い光が揺れる。


「……光りました」


『ふん』


 ヴァルゼリオンが鼻を鳴らした。


『認めたか』


「認めた……?」


『その石は、臆病な者には反応せん。己の命だけを守ろうとする者にもな』


 リリアーナは目を瞬かせた。


『誰かを守りたいと願う者にだけ、力を貸す。厄介な石だ』


「ヴァル様の秘宝なのに、ずいぶん優しい条件ですね……」


『……昔の話だ』


 それ以上、ヴァルゼリオンは語らなかった。


 だが、リリアーナは何となく感じた。


 この石には、ただの力ではなく、遠い昔の誰かへの想いが込められているのだと。


 セレフィーナは、さらに小さな箱を取り出した。


 そこには二つの指輪が入っていた。


 一つは黒銀の指輪。


 表面には黒翼の意匠。


 もう一つは白銀の指輪。


 表面には白花の意匠。


「これは?」


「こちらも始祖様の秘宝です。名前は、《黒翼の環》と《白花の環》」


 レオルドが静かに説明する。


「長い間、エヴァルディア家で保管されてきた。だが、これまで誰も扱えなかった。強すぎる血と魔力を要求するからだ」


「そんなものを、私が……?」


「リリアーナ」


 レオルドは、娘を真っ直ぐ見た。


「力は怖いものだ。私も、それを否定しない。だが、怖いからこそ、正しく向き合う必要がある」


「……はい」


「この指輪が何をするものなのか、正確には分かっていない。古文書には、“黒翼は危機を退け、白花は心を繋ぐ”とだけ記されている」


「心を……繋ぐ……?」


「おそらく、片方は防御や魔力抑制、もう片方は治癒や精神安定に関わる秘宝だろう」


 リリアーナは指輪を見つめた。


 怖い。


 始祖の秘宝。


 自分に扱えるかもしれない未知の力。


 本来なら、持つだけで震えてしまう。


 けれど。


 父と母が、自分を信じて渡してくれている。


 それが、怖さよりも重かった。


「……私、壊したりしませんか?」


『壊せるものなら壊してみろ』


 ヴァルゼリオンが低く言った。


『余の秘宝だぞ』


「それはそれで怖いです……」


 セレフィーナは、リリアーナの手を取った。


「無理に使わなくていいの。ただ、お守りとして持っていて」


「お守り……」


「ええ。あなたが一人で怖くなった時、ここには家族がいると、少しでも思い出せるように」


 リリアーナの喉が詰まった。


 彼女は震える手で、二つの指輪を受け取った。


 胸元のペンダント。


 手の中の指輪。


 それらはただの魔道具ではなかった。


 父と母が、自分を送り出すために託してくれたもの。


 恐怖ではなく、信頼として渡してくれたものだった。


「ありがとうございます……。大切にします」


 セレフィーナは、そっと微笑んだ。


「あなたなら大丈夫よ」


 その言葉だけで、リリアーナは泣きそうになった。



「お姉さま!」


 今度は、ルシェリアが声を上げた。


「私からもあります!」


「ルシェリアからも……?」


「はい!」


 ルシェリアは両手を胸の前で組んだ。


 すると、彼女の足元に小さな魔法陣が浮かび上がる。


 淡い月色の光。


 その中心から、ふわりと小さな影が飛び出した。


「……鳥?」


 リリアーナは目を丸くした。


 そこにいたのは、手のひらほどの小さな鳥だった。


 丸い体。


 ふわふわした羽毛。


 色は淡い灰銀。


 尾羽だけが、夜の月光みたいに薄く光っている。


 目は小さな星のように金色で、首を傾げる仕草がとても可愛い。


 普通の小鳥ではない。


 けれど、神鳥のように大げさでもない。


 どちらかといえば、毛玉に羽が生えたような可愛らしさだった。


「この子は、月灯羽げっとううのシルフィンです!」


「月灯羽……?」


 ルシェリアは嬉しそうに説明した。


「夜でも迷わず飛べる小さな鳥さんです。人の魔力の匂いを覚えて、手紙を届けてくれるんです!」


「手紙を……」


「はい! お姉さまと私で同時に契約します!」


「同時に?」


「そうです! そうしたら、私がお手紙を書いたら、この子がお姉さまに届けてくれます。お姉さまがお手紙を書いたら、この子が私に届けてくれます。だから、離れていても大丈夫です!」


 ルシェリアの声は明るかった。


 けれど、その瞳の奥には寂しさがあった。


 姉が遠くへ行く。


 怖い王都へ行く。


 それを応援したい。


 でも、寂しい。


 その両方を抱えて、ルシェリアは笑っていた。


 リリアーナは胸が締め付けられた。


「ルシェリア……寂しくありませんか?」


「寂しいです!」


 ルシェリアは即答した。


「とっても寂しいです! でも、お姉さまが頑張るなら、私も頑張ります。だから、お手紙をください。怖かったことも、楽しかったことも、王都のお菓子の味も、変な人に会った話も、全部書いてください」


「変な人に会う前提なのですか……?」


「王都にはきっといます!」


『排除だな』


「ヴァル様は黙っていてください……!」


 リリアーナは涙目で言ったあと、小さな鳥を見た。


 シルフィンは、ぱたぱたと羽を動かし、リリアーナの肩へ止まった。


「ティル」


 小さく鳴く。


 その声は鈴のように澄んでいた。


 リリアーナの胸が、ふわっと温かくなる。


「可愛い……」


 思わず呟いていた。


 シルフィンは得意げに胸を張った。


 ルシェリアが笑う。


「お姉さま、この子、褒められるとすぐ調子に乗ります」


「誰かに似ていますね」


 アイリスが静かに言った。


「誰のことでしょうか……?」


「申し上げません」


「気になります……」


 ルシェリアは、リリアーナの手を握った。


「お姉さま。一緒に契約しましょう」


「はい」


 二人は向かい合い、小さなシルフィンへ手を伸ばした。


 リリアーナの白銀の魔力。


 ルシェリアの淡い金色の魔力。


 二つの光が、シルフィンの尾羽に触れる。


 月色の羽が、ふわりと輝いた。


「月灯羽シルフィン」


 ルシェリアが言う。


「私たちの手紙を届けてください」


 リリアーナも、震える声で続けた。


「私とルシェリアを……繋いでください」


「ティル!」


 シルフィンは元気よく鳴いた。


 その瞬間、リリアーナとルシェリアの手首に、小さな羽根の紋様が浮かび、すぐに消えた。


 契約は成立した。


 ルシェリアは満面の笑みを浮かべる。


「これで毎日お手紙できます!」


「毎日は、たぶん……」


「二日に一回!」


「が、頑張ります……」


「怖かった日は、一言でもいいです。“怖かったです”だけでもいいです」


「それなら毎日書いてしまいそうです……」


「では毎日ください!」


「誘導されました……!」


 リリアーナの声に、周囲からまた笑いが起きた。


 シルフィンはリリアーナの肩で丸くなり、ふわふわの羽を膨らませている。


 その温もりが、ひどく心強かった。



 レオルドがリリアーナの隣に立つ。


「リリアーナ」


「お父さま……」


「君が思っているより、領民たちは君を見ているよ。怖いと思う者もいる。けれど、それだけではない。君が守ってきたことを、ちゃんと覚えている者もいる」


「私……守れていたのでしょうか」


「守れていたよ」


 レオルドは、穏やかに言った。


「君はこの領地の娘だ。胸を張って行きなさい。震えていてもいい。泣きそうでもいい。だが、自分を恥じる必要はない」


 セレフィーナがリリアーナの髪をそっと撫でた。


「辛くなったら、帰ってきていいのよ」


「お母さま……」


「でも、少しでも楽しいことがあったら、お手紙で教えてちょうだい。友達ができたとか、美味しいお菓子を食べたとか、綺麗な花を見つけたとか。どんな小さなことでもいいの。あなたが見た世界を、お母さまにも少し分けてほしいわ」


「はい……」


 ルシェリアが、最後に思い切り抱きついてきた。


「お姉さま、絶対に帰ってきてくださいね!」


「はい。必ず」


「あと、王都で素敵な方に会ったら教えてくださいね!」


「ルシェリア!?」


「約束です!」


「そ、それは約束できません……!」


 リリアーナの顔が真っ赤になる。


 その様子を見て、周囲がまた笑った。


 ヴァルゼリオンの影が、リリアーナの背後で不穏に揺れる。


『やはり男など近づけるべきではない』


「ヴァル様も反応しないでください……!」


 アイリスが馬車の扉を開ける。


「お嬢様、お時間です」


「……はい」


 リリアーナは、もう一度だけ振り返った。


 家族。


 使用人。


 領民。


 霧深い庭。


 古い屋敷。


 自分の居場所。


 胸元には、母から託された夜色のペンダント。


 手の中には、父母から託された二つの指輪。


 肩には、ルシェリアと繋がる小さな月灯羽シルフィン。


 そして背後には、相変わらず物騒で過保護な守護霊。


 全部が、自分を送り出してくれている。


「行ってきます」


 今度は、はっきりと言えた。


 馬車の扉が閉まる。


 車輪がゆっくりと動き出す。


 屋敷が少しずつ遠ざかる。


 ルシェリアが大きく手を振っている。


 セレフィーナは微笑みながら涙を拭っている。


 レオルドは、まっすぐに娘を見送っている。


 領民たちは、いつまでも手を振っていた。


 リリアーナは窓に手を当てた。


 胸が痛い。


 怖い。


 寂しい。


 でも、少しだけ温かい。


 馬車の中で、アイリスが向かいに座る。


「お嬢様」


「はい……」


「出発できましたね」


「……はい」


「偉いです」


 その短い言葉に、リリアーナの涙腺が崩れそうになった。


「アイリス……」


「泣きますか?」


「もう少しだけ我慢します……」


「ではハンカチは温存します」


「本当にハンカチを数えているのですね……」


 リリアーナが小さく笑う。


 その笑顔を見て、アイリスもほんの少しだけ目を細めた。


 背後の影で、ヴァルゼリオンが鼻を鳴らす。


『悪くない見送りだった』


「ヴァル様のせいで心臓が止まるかと思いました……」


『止まっていない』


「そういう問題ではありません……!」


『だが、言いたいことは伝わっただろう』


「言い方が暴虐すぎます……」


『暴虐令嬢なのだろう?』


「私はなりたくてなったわけではありません……!」


 リリアーナは涙目で抗議した。


 けれど、その声に先ほどまでの沈みきった響きはなかった。


 領民たちの笑い声。


 行ってらっしゃいの声。


 シルフィンの小さな鳴き声。


 そのすべてが、まだ胸に残っている。


 馬車は霧の道を進む。


 王都へ。


 学園へ。


 リリアーナの知らない世界へ。


 そして。


 彼女を恐れる人々が待つ場所へ。


 ただ今は。


 焼き菓子の包みを胸に抱き、窓の外へ流れていく霧を見つめながら。


 リリアーナ・フォン・エヴァルディアは、小さく呟いた。


「……どうか、燃えませんように」


 向かいのアイリスが、真顔で答える。


「努力します」


「そこは断言してください……」


 背後の影で、ヴァルゼリオンが鼻を鳴らした。


『相手次第だ』


「やっぱり不安ですぅ……!」


「ティル」


 肩のシルフィンが、小さく鳴いた。


 まるで、大丈夫、と言っているようだった。


 リリアーナは、その小さな温もりをそっと撫でる。


「……はい。怖いですけど、行ってきます」


 こうして。


 世界に恐れられた暴虐令嬢は。


 震えながら、涙目になりながら、過保護な守護霊に怯えながら。


 けれど、家族と領民たちの温かな声に背中を押され。


 初めて、自分の知らない世界へ向かい始めた。


 その背中を押したのは、恐怖ではなかった。


 家族の愛と。


 領民たちの笑い声と。


 妹と繋がる小さな翼と。


 いつか帰る場所があるという、小さな勇気だった。

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