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プロローグ 世界が恐れた暴虐令嬢



 世界には、決して怒らせてはならない令嬢がいる。


 その名を、リリアーナ・フォン・エヴァルディア。


 世界は彼女を、こう呼ぶ。


 ――暴虐令嬢。


 けれど。


 本当の彼女を知る者は、あまりにも少ない。



 アストラディア王国北東部。


 霧深い森と魔獣の影に囲まれた、ルミエラ辺境領。


 その地を治める没落貴族、エヴァルディア辺境伯家の長女。


 貴族名鑑に記された彼女の肩書きは、それだけだった。


 辺境伯令嬢。


 没落貴族の娘。


 古き魔王の血を引く少女。


 だが、王都の貴族たちは、彼女を別の名で呼ぶ。


 暴虐令嬢。


 世界最凶の令嬢。


 黒焔の姫。


 災厄令嬢。


 魔王の愛し子。


 その名が社交界で囁かれる時、人々は決まって声を潜める。


 白亜の王都にある貴族サロン。


 香水の匂いが漂う夜会の片隅。


 薄い笑みを浮かべる令嬢たち。


 銀杯を傾ける貴族たち。


 彼らは楽しげに噂を交わす。


 けれど、エヴァルディアの名が出た瞬間だけ、空気が変わる。


 笑みが凍る。


 声が落ちる。


 視線が泳ぐ。


 まるで、その名を口にするだけで、どこか遠くにいる少女の深紅の瞳がこちらを見返してくるように。


 曰く。


 幼き頃、盗賊団を一夜で壊滅させた。


 曰く。


 魔獣の群れを黒い炎で焼き払った。


 曰く。


 泣き声ひとつで屋敷の窓が砕け、怯えた使用人たちが廊下に膝をついた。


 曰く。


 その紅い瞳を見た者は、魂を握り潰されるような恐怖を味わう。


 曰く。


 彼女の背後には、かつて世界を滅ぼしかけた暴虐魔王の影がある。


 王国は彼女を監視対象として見ていた。


 教会は彼女を異端の血として警戒していた。


 貴族たちは彼女を社交界に招きながらも、決して近づこうとはしなかった。


 子供たちは大人にこう言い聞かされる。


 悪いことをすると、黒焔の令嬢が迎えに来る、と。


 けれど。


 そんな少女の本当の姿は、あまりにも噂とかけ離れていた。



 ルミエラ辺境領。


 王都から遠く離れた、霧深い辺境の地。


 朝の空は白く霞み、森の奥から流れてくる冷たい風が、古い屋敷の石壁を撫でていた。


 エヴァルディア邸は、華やかな王都の貴族屋敷とはまるで違う。


 白大理石の柱もない。


 金細工の門もない。


 広大な庭園も、豪奢な噴水もない。


 あるのは、何代にも渡って人の手で守られてきた、古い石造りの屋敷。


 蔦の絡む壁。


 霧に濡れる小道。


 小さな花壇に咲く白い花。


 厨房から漂う焼きたてのパンの香り。


 廊下を磨く使用人の足音。


 遠くの厩舎から聞こえる馬の嘶き。


 薪がはぜる暖炉の音。


 古い木の床がきしむ音。


 そこには、確かに人の暮らしの温もりがあった。


 その屋敷の二階。


 南向きの一室。


 柔らかな朝光が、薄いカーテン越しに差し込んでいる。


 白い寝台。


 刺繍の施された枕。


 丸い小卓。


 湯気を立てる紅茶。


 壁際には本棚があり、薬草図鑑や詩集、歴史書、そして童話の本が丁寧に並んでいた。


 窓辺には、小さな花瓶が置かれている。


 そこに活けられているのは、白い花。


 母セレフィーナが好んで育てている花だった。


 そんな穏やかな部屋の中心で。


「む、無理です……」


 世界が恐れる暴虐令嬢は、寝台の上で毛布を頭までかぶって震えていた。


「絶対、無理です……私なんかが、王都の学園なんて……。む、無理です。無理に決まっています。だって、王都ですよ? 貴族の方がたくさんいて、先生もいて、試験官もいて、同年代の令嬢や令息がいて……みんな、私のことを知っているんです。暴虐令嬢だって。黒焔の怪物だって。きっと目が合っただけで逃げられます……。それで、私が慌てて謝ったら、きっと処刑宣告だと思われます……」


 声は小さい。


 今にも消えそうなほど弱々しい。


 毛布の端から覗く白銀の髪が、かすかに震えている。


 深紅の瞳は涙で潤み、細い肩は小動物のように縮こまっていた。


 そこに、暴虐の気配など一欠片もない。


 あるのはただ、怯えきった少女の姿だけだった。


 リリアーナ・フォン・エヴァルディア。


 十六歳。


 透き通るような白銀の長髪。


 深紅の瞳。


 儚げな白い肌。


 整った顔立ち。


 黙って立っていれば、冷たい美貌の令嬢に見える。


 だが、実際の彼女は違った。


 怒鳴り声が怖い。


 鋭い視線が怖い。


 人前で話すのが怖い。


 貴族の笑顔が怖い。


 社交界の噂が怖い。


 自分を見る人々の怯えた目が、何より怖い。


 怖がられることが怖い。


 嫌われることが怖い。


 自分の中にあるかもしれない“何か恐ろしいもの”が、誰かを傷付けてしまうことが、一番怖い。


 リリアーナはただ、普通に笑って生きたかった。


 誰かと普通に話したかった。


 怖がられずに、お茶を飲んで、花を見て、妹と笑っていたかった。


 けれど、世界は彼女をそう見てくれない。


 暴虐令嬢。


 その名は、いつも彼女より先に人々の心へ届いてしまう。


 寝台の横に立つ専属侍女アイリス・ノクティアは、いつもの無表情で静かにため息をついた。


 漆黒の長髪。


 蒼灰色の瞳。


 隙のない立ち姿。


 黒を基調とした侍女服。


 その姿は凛としていて、辺境の侍女というより、戦場に立つ護衛のようでもあった。


「お嬢様」


「は、はい……」


「王立学園の入学案内を見ただけで毛布へ逃げ込む令嬢は、王国広しといえど、お嬢様くらいです」


「ご、ごめんなさい……」


「謝る必要はありません。事実を申し上げただけです」


「それが一番痛いですぅ……」


「痛むのなら、少しは慣れてください。お嬢様はそろそろ、王都の貴族と同じ空気を吸うだけで死にそうな顔をなさる癖を直す必要があります」


「む、無理です……。王都の空気、きっと怖いです……」


「空気は怖くありません」


「王都の空気は怖い気がします……」


「では深呼吸の訓練から始めますか」


「ひぃっ、訓練……!」


 リリアーナは毛布の中でさらに小さくなった。


 アイリスは淡々としている。


 けれど、その瞳の奥には、ほんのわずかな柔らかさがあった。


 彼女は知っている。


 この少女が、どれほど怖がりなのか。


 どれほど優しいのか。


 どれほど自分の噂に傷付いているのか。


 世界はリリアーナを暴虐令嬢と呼ぶ。


 だがアイリスにとって、リリアーナは違う。


 臆病で。


 優しくて。


 すぐ泣いて。


 誰かを傷付けるくらいなら、自分が傷付く方を選んでしまう人。


 だからこそ、アイリスは彼女の隣に立つと決めた。


 血でも、運命でも、呪いでもなく。


 自分の意思で。


「お嬢様」


「な、なんでしょう……」


「逃げたい気持ちは理解します」


「アイリス……」


「ですが、毛布の中に王立学園はありません」


「うぅ……正論が痛いです……」


「そして、お嬢様が毛布の中で震えている間にも、入学案内の文字は消えません」


「消えてくれてもいいのですが……」


「消しません」


「アイリスは厳しいです……」


「お嬢様を甘やかす役は、すでに屋敷中におりますので」


 その時、部屋の隅からくすくすと笑い声が響いた。


「お姉さま、かわいいです」


 淡金色の髪を揺らしながら、妹のルシェリアが寝台へ駆け寄る。


 ルシェリア・フォン・エヴァルディア。


 リリアーナの五つ下の妹。


 淡金色の髪。


 澄んだ蒼い瞳。


 小柄で、笑うと部屋が明るくなるような少女。


 辺境では“小さな太陽”と呼ばれている。


 彼女が笑えば、使用人たちは頬を緩める。


 領民たちは手を振る。


 子供たちは駆け寄る。


 リリアーナとは、まるで正反対だった。


 けれど。


 誰よりもリリアーナを怖がらないのは、この妹だった。


「ル、ルシェリア……笑わないでください……」


「だって、お姉さま、王国中で一番怖い令嬢って言われているのに、今は毛布のお化けみたいです」


「うぅ……」


「でも、私は毛布のお化けなお姉さまも好きです」


「そ、それは褒めていますか……?」


「はい!」


「本当に……?」


「はい! 世界一かわいいです!」


 ルシェリアは満面の笑みでそう言った。


 そのあまりに真っ直ぐな言葉に、リリアーナの顔が赤くなる。


「ル、ルシェリア……そんなことを言われると、恥ずかしいです……」


「でも本当です。お姉さまは、怖くなんてありません。優しくて、あったかくて、泣き虫で、ちょっとだけ心配性で、すぐ私を抱きしめてくれて、お菓子を半分くれて、夜に怖い夢を見た時は一緒に寝てくれる、世界で一番大好きなお姉さまです」


 リリアーナの瞳が揺れた。


 胸の奥に、温かいものが広がる。


 けれど同時に、痛みも走る。


 ルシェリアの言葉は嬉しい。


 嬉しいからこそ、苦しい。


 こんなに自分を信じてくれる妹を、自分は本当に守れるのだろうか。


 自分の中にある黒焔は、いつかこの子まで傷付けてしまうのではないか。


「私、怖くなんてないです……」


 リリアーナは、小さく呟いた。


「むしろ、怖いのは私の方です……。私、いつも怖くて……。みんなの目が怖くて……。でも、みんなを怖がらせているのは私で……だから、どうしたらいいのか分からなくて……」


 言葉が震える。


 涙が浮かぶ。


「本当は、誰にも怖がられたくないんです。怒られたくもないし、嫌われたくもないし、誰かを傷付けたくもないんです。ただ……普通に挨拶して、普通に笑って、普通に友達を作って……そういうことが、できたらいいなって……思っているだけなのに……」


 その言葉は、長い間、胸の奥にしまっていた本音だった。


 アイリスは黙って聞いていた。


 ルシェリアはリリアーナの手をぎゅっと握った。


 その時。


 部屋の空気が、わずかに重くなった。


 暖炉の火が揺れた。


 窓の外を流れる霧が、一瞬だけ止まったように見えた。


『くだらぬ』


 低い声が響いた。


 それは人の声ではない。


 耳ではなく、魂の奥に直接落ちてくるような声。


 リリアーナの背後。


 窓から差し込む淡い朝光の中に、黒い影が揺らいだ。


 長い黒髪。


 深紅の瞳。


 漆黒の外套。


 背後に揺れる、黒翼のような魔力。


 かつて世界を恐怖に叩き落とした始祖魔王。


 暴虐魔王ヴァルゼリオン・エヴァルディア。


 今は守護霊として、リリアーナの傍に在る存在だった。


 彼の姿は、生者のようでありながら、生者ではない。


 影のように揺らぎながら、確かな存在感を持っている。


 そこに立つだけで、空気がひれ伏す。


 その瞳が動くだけで、霊も魔獣も逃げ出す。


 世界を滅ぼしかけた暴虐の王。


 けれど、その視線がリリアーナを見る時だけは、わずかに違っていた。


 不器用で。


 荒々しくて。


 けれど確かに、守ろうとする色があった。


『リリアを恐れる者など、捨て置け』


「捨て置けません……学園ですから……」


『ならば跪かせればよい。貴族だろうが教師だろうが王族だろうが関係ない。貴様を恐れるというのなら、その恐怖の理由を本物にしてやればよいだけだ』


「もっと駄目ですぅ……!」


 リリアーナは涙目で叫んだ。


「私は学園に入学したいのであって、学園を征服したいわけではありません……!」


『同じことではないのか』


「全然違います!」


『面倒な場所だな、学園とは』


「面倒でも燃やしませんからね?」


『まだ燃やすとは言っておらぬ』


「今、目が燃やす目でした!」


『失礼な。余は常にこの目だ』


 リリアーナはますます涙目になった。


 アイリスが淡々と紅茶を注ぐ。


「始祖様。お嬢様が怯えますので、朝から支配宣言をなさらないでください」


『支配ではない。教育だ』


「一般的には脅迫と呼びます」


『貴様、余に説教する気か』


「はい」


『……』


 世界最凶の暴虐魔王が、黙った。


 アイリスは顔色ひとつ変えない。


 リリアーナは慌てて毛布の中から顔を出す。


「あ、アイリス……! ヴァル様にそんな言い方をしたら……!」


「問題ありません。始祖様はお嬢様の前で私を燃やせません」


『燃やせぬのではない。燃やさぬだけだ』


「ありがとうございます」


『礼を言うな。腹立たしい』


 ルシェリアはにこにこと笑いながら、ヴァルゼリオンを見上げる。


「ヴァルおじさま、お姉さまを燃やさないでくださいね」


『誰がおじさまだ』


「ヴァルおじさまです」


『余はおじではない。始祖だ』


「じゃあ、ヴァルご先祖さま?」


『余計に老けたように聞こえる』


「では、ヴァル様?」


『……それでよい』


「でも、ヴァルおじさまの方が可愛いです」


『可愛いと言うな』


 ヴァルゼリオンは不機嫌そうに目を細めた。


 だが、ルシェリアへ向ける気配に殺気はない。


 むしろ、どこか扱いに困っているように見える。


 世界最凶の暴虐魔王が、十一歳の少女に言い負かされている。


 その光景に、リリアーナの胸から少しだけ緊張が抜けた。


 この屋敷の中だけは、世界が少し優しい。


 父がいる。


 母がいる。


 妹がいる。


 アイリスがいる。


 メイド長も、執事長も、古参の使用人たちもいる。


 そして、口は悪くて怖くてすぐ敵を滅ぼそうとするけれど、自分を守ってくれる守護霊がいる。


 ここだけが、リリアーナにとって本当の居場所だった。


 けれど。


 その居場所も、永遠ではない。


 王立学園への入学。


 それは、リリアーナが外の世界へ出るということ。


 つまり。


 暴虐令嬢として恐れられている自分が、王都の貴族たちの前に姿を現すということだった。


「……私、また怖がられますよね」


 ぽつりと漏れた声に、室内の空気が静かになった。


 ルシェリアがリリアーナの手を握る。


「私は怖くないです」


「ルシェリア……」


「お姉さまは、世界で一番優しいお姉さまです。だって、私、知っています。お姉さまは怖くても逃げません。泣いていても、私の前に立ってくれます。震えていても、手を伸ばしてくれます。だから、王都の人たちが何を言っても、私は絶対に信じません。お姉さまは、私の大好きなお姉さまです」


 その言葉に、リリアーナの瞳が揺れた。


 胸の奥が温かくなる。


 けれど同時に、痛くもなる。


 なぜなら。


 ルシェリアがそう言ってくれる理由を、リリアーナは知っているから。


 自分が暴虐令嬢と呼ばれるようになった、最初の日。


 その日、彼女は確かに妹を救った。


 けれど同時に。


 世界から恐れられる名前を得た。


 リリアーナは、目を伏せる。


 記憶の奥に沈めていた光景が、静かに浮かび上がる。


 黒い炎。


 砕ける窓。


 泣き声。


 血の匂い。


 そして。


 幼い自分の口から放たれた、決して自分のものではない声。


 あの日。


 リリアーナ・フォン・エヴァルディアは、ただの臆病な少女ではいられなくなった。



 それは、まだリリアーナが幼い頃のことだった。


 ルシェリアが生まれて間もない、冬の夜。


 ルミエラ辺境領には、重い雪が降っていた。


 空は暗く、風は鋭かった。


 白い雪が屋敷の屋根に積もり、窓の外では、裸の枝が風に揺れていた。


 暖炉の火だけが、部屋の中を橙色に照らしている。


 その夜、屋敷の中はいつもより静かだった。


 静かすぎた。


 今思えば、それは不自然な静けさだった。


 屋敷を囲む防衛結界の外縁に、小さな綻びが生まれていた。


 巡回騎士の交代時刻。


 雪と霧がもっとも濃くなる時間。


 父レオルドが執務室で領内の魔獣被害の報告を受けている夜。


 母セレフィーナが出産後の体調不良で寝室から動けない夜。


 赤子のルシェリアが、最も守りの薄い離れの育児室に移された夜。


 それらすべてが、偶然ではなかった。


 襲撃者たちは、知っていた。


 屋敷の構造を。


 見張りの交代を。


 魔力結界の配置を。


 セレフィーナが出産後で弱っていることを。


 そして、エヴァルディア家に“始祖の血を濃く継ぐ子”が生まれたことを。


 彼らはただの盗賊ではなかった。


 王都の裏で密かに動く、教会系秘密機関。


 聖封院。


 魔王血統、禁忌魔法、異端存在を監視し、封印し、時に処分する組織。


 表向きは王国と教会の秩序を守る影の番人。


 だが、その裏では、異端の血を調べ、利用し、都合が悪ければ消す。


 その聖封院の末端部隊が、闇組織《黒燭会》を通じて雇った者たち。


 元傭兵。


 禁呪使い。


 魔獣使い。


 暗殺者。


 表の世界に名を持たぬ、汚れ仕事専門の連中。


 彼らに与えられた命令は、単純だった。


 エヴァルディア家の血を確保せよ。


 可能ならば、生まれたばかりの赤子を連れ去れ。


 抵抗があれば、長女も回収せよ。


 回収不能ならば、始祖返りの兆候を確認せよ。


 必要ならば、屋敷ごと“事故”として処理して構わない。


 その命令を出した者が誰なのか。


 王都貴族か。


 教会上層部か。


 聖封院の独断か。


 その時のリリアーナには、分かるはずもなかった。


 分かる必要もなかった。


 幼い彼女に分かったのは、ただ一つ。


 怖い人たちが、妹を奪いに来た。


 それだけだった。



 母セレフィーナは出産後で体調を崩し、別室で休んでいた。


 父レオルドは領内で起きた魔獣被害の報告を受け、執事長アルヴェインと共に執務室にいた。


 メイド長マリアベルは使用人たちへ夜の指示を出し、屋敷の守りを確認していた。


 赤ん坊のルシェリアは揺り籠の中で眠っていた。


 小さな手。


 柔らかな頬。


 かすかな寝息。


 リリアーナはその横に座り、妹の顔をじっと見つめていた。


「……かわいい」


 幼いリリアーナは、まだ言葉も拙かった。


 けれど、妹を見つめる目だけは優しかった。


 この子は、自分より小さい。


 この子は、守ってあげないといけない。


 まだ、その感情を正しく言葉にはできなかった。


 けれど、胸の奥に確かにあった。


 守りたい。


 怖いものから遠ざけたい。


 泣かせたくない。


 リリアーナは、小さな手で揺り籠の端を握った。


「ルシェリア……リリアが、おねえさま……」


 そう呟いて、少し照れたように笑う。


 その瞬間だった。


 屋敷の外で、異変が起きた。


 最初は、犬の遠吠えのような音だった。


 次に、門番の叫び声。


 そして、金属がぶつかる音。


 屋敷が慌ただしくなる。


 使用人たちが走る。


 遠くで誰かが叫んだ。


「襲撃だ!」


「門が破られた!」


「魔獣を連れている!」


「奥様とお嬢様方を守れ!」


 幼いリリアーナは、意味が分からず震えた。


 怖い。


 怖い。


 怖い。


 胸が苦しくなる。


 手が冷たくなる。


 喉が詰まる。


 泣きたい。


 逃げたい。


 誰かに助けてほしい。


 けれど。


 リリアーナは揺り籠の前から動かなかった。


 ルシェリアがいる。


 妹が眠っている。


 自分が逃げたら、この子は一人になってしまう。


「だ、だいじょうぶ……」


 誰に向けた言葉かも分からない。


 妹に。


 自分に。


 それとも、誰かに。


「リリアが……まもる……」


 小さな声だった。


 震えた声だった。


 けれど、その言葉は確かに“願い”だった。


 扉が壊れた。


 大きな音と共に、部屋へ黒ずくめの男たちが踏み込んでくる。


 顔を布で覆い、手には刃。


 その背後には、鎖で繋がれた異形の魔獣がいた。


 獣のようで、獣ではない。


 背には黒い棘。


 口から漏れる濁った息。


 床に垂れる唾液。


 ただの魔獣ではなかった。


 魔力核に禁呪の杭を打ち込まれ、命令に従うだけの道具にされた哀れな怪物。


 聖封院が表では禁じているはずの、魔獣改造術式。


 その証である銀色の楔が、魔獣の首に埋め込まれていた。


 幼いリリアーナは、そんなことは分からない。


 ただ、その姿を見ただけで足が竦んだ。


 盗賊ではない。


 ただの略奪者ではない。


 誰かに命じられ、エヴァルディア家の血を狙ってきた者たち。


 幼いリリアーナには、詳しい事情など分からなかった。


 分かるのは、ただ一つ。


 怖い人たちが、妹へ近付いている。


「いたぞ」


「長女だ」


「赤子もいる」


「始祖の血だ。片方だけでも連れていけ」


「聖封院の連中は生かしたまま欲しがっていたが、暴れたら腕くらい落としても構わんだろう」


「赤子の方を優先しろ。血が濃い可能性がある」


「長女はどうする?」


「抵抗するなら眠らせろ。魔力反応が強ければ、そちらも器になる」


 男たちは、まるで物を選ぶように言った。


 その言葉の意味も、幼いリリアーナには分からない。


 けれど、声の冷たさは分かった。


 自分たちは、この人たちにとって人間ではないのだと。


 男の一人が揺り籠へ手を伸ばした。


 その瞬間。


 リリアーナの中で、何かが切れた。


「だめ……」


 声は震えていた。


 男は笑う。


「邪魔だ、化け物の娘」


 男の手が、リリアーナを払いのけようとした。


 幼い身体が床へ倒れる。


 痛い。


 怖い。


 涙が溢れる。


 床は冷たかった。


 頬が痛かった。


 息が詰まった。


 それでも。


 リリアーナは、妹へ伸びる手を見た。


 そして、心の奥で叫んだ。


 やめて。


 触らないで。


 私の妹に。


 触らないで。


 お願い。


 誰か。


 誰でもいいから。


 この子を。


 守って。


 その願いに、応えたものがいた。


 部屋の温度が、一瞬で消えた。


 暖炉の火が黒く染まる。


 窓硝子に霜が走る。


 盗賊たちの動きが止まった。


「……なんだ?」


 幼いリリアーナが、ゆっくりと立ち上がる。


 涙は頬に残っていた。


 小さな手は震えていた。


 けれど。


 その瞳だけが、変わっていた。


 深紅。


 血よりも濃く。


 炎よりも暗い。


 始祖魔王の瞳。


 リリアーナの口元が、幼い少女のものではない形に歪む。


 その小さな身体から、あり得ないほど重い魔力が溢れた。


 空気が軋む。


 壁が震える。


 魔獣が怯えたように後退る。


 男たちの顔から、血の気が引いていく。


 そして。


 彼女の口から、低い声が響いた。


『――虫が』


 盗賊たちの顔色が変わる。


 声が、幼女のものではなかった。


 それは王の声だった。


 戦場を踏み潰し、国を燃やし、世界を跪かせた者の声。


『誰の許しを得て、我が血へ触れた』


「な、なんだ、お前……!」


『答えよ』


 小さな少女の姿をした何かが、一歩踏み出す。


 その一歩で、床板が黒く焼けた。


『誰の許しを得て、我が家族へ手を伸ばした』


 黒焔が咲いた。


 花のように。


 翼のように。


 リリアーナの背後へ、漆黒の炎が広がる。


 それはただの炎ではない。


 赤くない。


 橙でもない。


 光を食らうような黒。


 魂の奥底まで焼き尽くすような炎。


 それなのに、不思議なほど美しかった。


 恐ろしいほど静かで。


 絶望的なほど神々しく。


 男の一人が震える手で懐から銀の札を取り出した。


 聖封院の封印札。


 魔族の血を抑えるために作られた対魔王血統用の禁具。


「封印しろ! こいつが本命だ!」


『封印?』


 ヴァルゼリオンは、幼いリリアーナの顔で笑った。


 その笑みだけで、男の膝が崩れた。


『余をか』


 黒焔が揺れる。


『二千年遅い』


 次の瞬間。


 封印札は、男の指ごと黒い火に包まれた。


 悲鳴は上がらなかった。


 叫び声すら、黒焔に焼かれたからだ。


 黒い炎は、刃を焼き、鎖を焼き、禁呪の杭を焼き、魔獣の咆哮すら焼き尽くした。


 ただし。


 揺り籠には、一切触れなかった。


 赤ん坊のルシェリアは、炎の中で眠っていた。


 守られるように。


 包まれるように。


 黒焔は敵だけを焼き、家族には触れなかった。


 リリアーナの身体を借りたヴァルゼリオンは、ゆっくりと男たちを見下ろした。


『死ぬ覚悟はできていたのだろうな』


 それが、その夜、屋敷中の者が聞いた言葉だった。


 悪役のような。


 暴君のような。


 魔王そのものの宣告。


 けれど、その奥にあったのは、怒りだけではなかった。


 守れなかった過去。


 失った愛。


 奪われた命。


 エレオノーラを失った夜。


 もう二度と失わないと誓った、遠い日の後悔。


 その全てが、黒焔となって燃えていた。


 やがて、すべてが終わった。


 部屋は半壊していた。


 壁は砕け、窓は割れ、床には黒い焼け跡が残っている。


 使用人たちは廊下で震え、騎士たちは剣を構えたまま動けなかった。


 誰もが見ていた。


 幼い令嬢の身体に降りた、世界最凶の魔王を。


 その中心で、リリアーナはゆっくりと瞬きをした。


 紅い瞳が揺れる。


 黒焔が消える。


 魔王の気配が薄れた。


「……あれ?」


 幼い声に戻る。


 リリアーナは周囲を見回した。


 壊れた部屋。


 怯える使用人。


 青ざめた騎士。


 そして、無事な妹。


「ルシェリア……」


 リリアーナはよろよろと揺り籠へ近付いた。


 赤ん坊のルシェリアが、目を覚まして泣き始める。


 その声を聞いた瞬間、リリアーナも泣いた。


「ご、ごめんなさい……」


 誰に謝っているのか分からなかった。


 妹に。


 使用人に。


 壊れた部屋に。


 それとも、自分を見て怯える人たちに。


「ごめんなさい……ごめんなさい……私、何か……何か、怖いこと、しましたか……? 私……私、悪い子ですか……?」


 その時。


 騎士の一人が、震える声で呟いた。


「暴虐……」


 誰かが息を呑む。


「まるで……暴虐魔王そのものだ……」


 その言葉が、屋敷の中に落ちた。


 小さな少女には、意味が分からなかった。


 けれど、空気だけは分かった。


 自分が怖がられている。


 自分が、何か恐ろしいものになってしまった。


 リリアーナは泣きながら、後ずさった。


 その時。


 父レオルドが部屋へ飛び込んできた。


 血相を変え、息を切らし、周囲の制止を振り切って。


「リリアーナ!」


「お、お父さま……」


 リリアーナは震えた。


 怒られると思った。


 怖がられると思った。


 逃げられると思った。


 けれど。


 レオルドは迷わず膝をつき、幼い娘を抱き締めた。


 黒焔の残滓がまだ空気に残っていた。


 床は焼け、壁は崩れ、魔力は危険なほど濃い。


 それでも、レオルドは怯えなかった。


 いや、怯えていなかったわけではない。


 怖かった。


 娘の中にある力が、あまりに大きいことも分かった。


 襲撃者たちが、ただの盗賊ではないことも分かった。


 エヴァルディア家の血が、王都の誰かに狙われていることも分かった。


 それでも。


 父親として、彼は一歩も引かなかった。


「怖かったね」


 その一言で、リリアーナの中に残っていた黒焔が静かに消えた。


「お父さま……私……私……」


「大丈夫だ」


 レオルドの声も震えていた。


 けれど、腕だけは離れなかった。


「君は、ルシェリアを守ったんだ。君は、妹を守ろうとした。怖かったのに、逃げなかった。泣いていたのに、立っていた。リリアーナ、私は見ていなくても分かる。君は誰かを傷付けたかったんじゃない。守りたかったんだ」


「でも……みんな、怖がって……」


「それでも、君は私の娘だ」


 レオルドは、幼いリリアーナを強く抱き締めた。


「世界中が何と言っても、私は君の父だ。君がどんな力を持っていても、君がどんな名で呼ばれても、私は君を見捨てない。リリアーナ、覚えていてくれ。怖い力を持っていることと、君自身が怖い子であることは違う」


 リリアーナは言葉を失った。


 その後ろで、病弱な身体を押して駆けつけたセレフィーナが、揺り籠のルシェリアを抱き上げた。


 顔色は悪い。


 足元も危うい。


 出産後の身体には、ここまで歩くことすら負担だったはずだ。


 けれど彼女は、赤ん坊を抱き、リリアーナを見て、涙を浮かべながら微笑んだ。


「ありがとう、リリアーナ」


「お母さま……?」


「妹を守ってくれて、ありがとう」


 その言葉は、裁きではなかった。


 恐怖でもなかった。


 感謝だった。


 セレフィーナはルシェリアを抱いたまま、レオルドに抱き締められているリリアーナへ手を伸ばす。


「あなたは怖い子じゃないわ。優しい子よ。怖かったのに、妹を守ったのね。偉かったわ。とても、とても偉かったわ」


「お母さま……私、怖くないですか……?」


「ええ」


 セレフィーナは涙を零しながら、首を振った。


「怖くないわ。あなたは、私の可愛い娘よ」


 リリアーナは、泣き崩れた。


 その日。


 屋敷を襲った者たちは消えた。


 赤ん坊のルシェリアは救われた。


 エヴァルディア家は守られた。


 けれど同時に。


 一つの噂が生まれた。


 エヴァルディア家の長女には、暴虐魔王が宿っている。


 幼くして黒焔を操り、敵を灰に変えた。


 赤子の妹へ手を伸ばした者へ、魔王の声で死を告げた。


 その噂は辺境から王都へ流れ。


 王都から教会へ届き。


 やがて世界へ広がっていった。


 リリアーナ・フォン・エヴァルディア。


 後に“暴虐令嬢”と呼ばれる少女。


 その始まりは。


 誰かを傷付けたかったからではない。


 世界を壊したかったからでもない。


 ただ。


 大切な妹を守りたかっただけだった。


 だが、その夜の真実は、まだ終わっていなかった。


 焼け跡の中から見つかった銀の封印札。


 禁呪で改造された魔獣の残骸。


 聖封院のものと思われる古い紋章。


 そして、襲撃者の一人が残した言葉。


 ――赤子の方を優先しろ。


 ――長女も器になる。


 その意味を、レオルドは忘れなかった。


 アイリスも忘れなかった。


 そして、ヴァルゼリオンも。


 あの夜から、彼はより深くリリアーナの影に宿るようになった。


 次こそ守る。


 かつて愛した人間の女性を守れなかった魔王は、最愛の末裔を守るために、もう一度この世界へ爪を立てたのだった。



 現在。


 ルミエラ辺境領の屋敷。


 リリアーナは、ルシェリアに握られた手を見つめていた。


「お姉さま?」


「……ううん」


 リリアーナは小さく首を振る。


「なんでもありません」


 声はまだ震えている。


 学園は怖い。


 王都は怖い。


 人の目は怖い。


 暴虐令嬢と呼ばれる自分が、怖い。


 けれど。


 ルシェリアの手は温かかった。


 アイリスは隣にいる。


 家族は見守ってくれている。


 そして背後には、相変わらず不機嫌そうな守護霊がいる。


『リリア』


 ヴァルゼリオンが低く呼んだ。


 リリアーナは振り返る。


『恐れるなとは言わぬ』


「……はい」


『震えるなとも言わぬ』


「……はい」


『だが、忘れるな』


 黒い魔王は、静かに告げた。


『貴様は一人ではない』


 その言葉に、リリアーナの瞳が揺れた。


 ヴァルゼリオンの声は、いつも怖い。


 低くて、重くて、少し怒っているように聞こえる。


 けれど今だけは、その奥にある不器用な優しさが分かった。


 怖い。


 それでも。


 少しだけ、前を向ける気がした。


「……ヴァル様」


『なんだ』


「私……やっぱり怖いです」


『知っている』


「きっと、王都でも失敗します」


『知っている』


「たぶん、誰かに怖がられて、泣きそうになります」


『それも知っている』


「……そこは、少しくらい否定してください……」


『事実を否定して何になる』


「うぅ……」


 リリアーナがしょんぼりすると、ルシェリアが慌てて抱きついた。


「大丈夫です! お姉さまは可愛いので!」


「可愛いだけでは学園で生きていけません……!」


「では、私がお手紙を毎日書きます!」


「ルシェリア……」


「それに、アイリスお姉さまもいます!」


「はい。お嬢様が倒れた場合、即座に回収いたします」


「倒れる前提ですか……?」


「備えは大切です」


 アイリスは真顔で言った。


 ヴァルゼリオンが鼻を鳴らす。


『倒れたなら、余が学園ごと持ち帰る』


「持ち帰らないでください!」


『では王都ごと』


「もっと駄目です!」


 リリアーナの悲鳴が、朝の部屋に響いた。


 ルシェリアは楽しそうに笑い、アイリスは紅茶を差し出し、ヴァルゼリオンは不服そうに腕を組む。


 その光景は、どう見ても世界を脅かす災厄の朝ではない。


 ただの、少し騒がしくて、少し過保護で、少し変わった家族の朝だった。


 リリアーナは毛布をそっと膝の上へ下ろす。


 そして、震える手で王立学園の入学案内を見た。


 紙には、美しい文字でこう記されている。


 王立アストラディア学園。


 入学試験案内。


 リリアーナの喉が鳴った。


 怖い。


 逃げたい。


 できるなら、この屋敷でずっと花を育てていたい。


 けれど。


 このままでは、何も変わらない。


 暴虐令嬢という名だけが一人歩きして、自分はずっと毛布の中で震え続けることになる。


 それは嫌だった。


 怖いけれど。


 少しだけでいい。


 変わりたい。


 リリアーナは、深く息を吸った。


「……が、頑張ります」


 小さな声だった。


 けれど、確かにそう言った。


 アイリスが静かに頷く。


 ルシェリアが嬉しそうに笑う。


 ヴァルゼリオンは鼻を鳴らした。


『無理ならば余が燃やす』


「燃やしません!」


 リリアーナの悲鳴が、朝の部屋に響いた。


 その声に、屋敷の外で小鳥が飛び立つ。


 霧深い辺境の朝。


 世界が恐れる暴虐令嬢は、今日も涙目で震えている。


 だが、まだ誰も知らない。


 この臆病で優しい少女が。


 やがて王国を揺らし。


 魔界を動かし。


 そして。


 自分を“暴虐令嬢”ではなく、一人の少女として見てくれる青年と出会うことを。


 そして、まだ誰も知らない。


 彼女が王都へ向かうことで。


 幼い日に彼女と妹を狙った者たちの影もまた、静かに動き始めることを。


 これは、世界に恐れられた少女の物語。


 最凶魔王に守られた、泣き虫な令嬢の物語。


 そして。


 恐怖ではなく信頼で、大切なものを守ろうとする少女が。


 少しずつ世界を変えていく物語である。

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