16、二人でね
十二月二十二日。平日の夜、結佳はバッティングセンターにいた。ジョルノと二人で来て以来、久しぶりだ。百二十キロの軟球のゲージに入りバットを振ったが、快音は響かない。
三十球、全て凡打だった。
「全然ダメだ…」
肩を落とし、うつむき加減でゲージを出た。すると間近から、意外な声が聞こえた。
「今日はどうしたんですか? 調子悪いですね」
顔を上げて声のする方をみた。その人物の顔を見た結佳は驚愕した。
「ジョッ、ジョルノ先生!」
結佳がジョルノに会うのは、DNA鑑定の日に暴言を吐いて以来だ。結佳は『私はどれほど軽蔑されているのだろう』と思った。すると体と表情がこわばり、身動きが取れなくなった。
ジョルノは普通の口調で言った。
「あのー、丈璃乃さん」
「はっ、はい!」
「そこ、どいてもらえます? ゲージに入れないんで」
「あ、すみません。…でも、ジョルノ先生」
「なんでしょうか?」
「このゲージ、百二十キロですよ?」
「あっ、バカにしてますね? 見ててくださいよ」
●
数十分後、二人はゲージから離れたベンチに座っていた。閉店時間が迫っている為、周囲に人はいなかった。結佳は自動販売機で買ってきた、水のペットボトルをジョルノに手渡した。ジョルノは笑顔で受け取った。
「ありがとうございます。またもらっちゃいましたね」
ジョルノは美味しそうに飲んだ。
結佳は言った。
「六十球でヒット性の当たり二十一本。三割バッターですね」
「それって『だりつ』って言うんですよね? 前より成績が良くなって嬉しいな」
「打率なんて言葉を覚えたのですか? それにどうして、そんなに上手くなったのですか?」
「練習しているんです。丈璃乃さんと来て以来、暇がある時に通ってるんです」
「だから、どうして練習しようと思ったのですか?」
「あのー、それ真面目に聞いてます? 言わないと分かりませんか?」
「分からないです」
「やれやれ…。鈍いですよね、丈璃乃さんって」
「ジョルノ先生に言われたくないですっ!」
「アハハ、冗談ですよ」
「私が今日、バッティングセンターに来るのを知っていたのですか?」
「まさか、知りませんよ。今言ったでしょ? 『暇ができたら通っている』って。それと、丈璃乃さんが来そうな時間帯も選んで来ていただけの事です」
「いや、だから! それじゃあ私に会いたいって事になっちゃいますけど…」
「さぁ、どうでしょう?」
ジョルノはおどけて答えをはぐらかした。
楽しそうに振舞うジョルノに、結佳は辛そうに聞いた。
「何故、そんなに普通なんですか?」
「普通って?」
「私はあんなに酷い事を言ったのに、どうして私と普通にいられるのですか?」
「あの時の言葉は、本気ではなかったと信じています。それに、乗り越えたいと思ったから」
「乗り越える?」
「これからも丈璃乃さんと一緒に過ごすなら、乗り越えなければいけないと思ったんです」
「いっ、一緒にって? 確かジョルノ先生は、もう日本を離れるんですよね?」
「あ、知っているんですね」
「はい、キクから聞きました。それにノミアちゃんの過去も。全て聞きました…」
「日本を離れるつもりでした。薬科研究もやめて・サッカーも忘れて・玖口やノミア、丈璃乃さんとの縁も無くして、静かに暮らすつもりでした。そんな時、あのニュースを聞いて…」
「ノミアちゃんの、サッカーの件ですか?」
「はい。世界的なビッグクラブのオファーを蹴って、日本のJFLチームに入った。しかも万年下位の弱いチーム。もう、驚きを通り越して、時間が止まった気がしました」
「それ、キクも同じような事を言ってました」
「テレビのサッカーコメンテーターが言ってましたよ。『野球で例えると、アメリカのメジャーリーグで四番を打てる選手が、日本の独立リーグのチームに入団するようなものだ』って」
「どうしてノミアちゃんは、そんな決断をしたんでしょうか?」
「生中継された会見でノミアは言ってましたね。『苦労しているチームの力になりたい』って」
「あっ、こうも言ってませんでした? 『私にサッカーを教えてくれたマエストロは、誰かの為に頑張るという人だった』と。『私は、その魂を引き継ぎたいんです』とね」
「ノミアの会見を聞いてショックを受けたというか、反省したんです。気付いたんです。僕のしようとしていた事は、逃げているだけでした」
「逃げる?」
「四年前、イタリアから日本に逃げてきましたが、周囲の人々に迷惑を掛けたくないという気持ちもありました。でも、今回は逃げているだけ。辛い事に向き合いもせず、逃げようとしていました。ここで逃げたら、その先でまた同じことを繰り返すかもしれません。また誰かを傷つけたかもしれない。だから、もう逃げません。表立って活動はできませんが、薬科研究に尽力して、病気で苦しんでいる人達の力になりたいです」
結佳は安心したような、柔らかい表情で言った。
「そうですか、良かったです。その方が、ジョルノ先生らしいから。じゃあ、今ならこれを渡せそうかな」
結佳はショルダーバックから、古びたA七サイズのノートを取り出すと、ジョルノに渡した。
「このノートは、僕のセプロラビィの解明ノート? どうしてこれを丈璃乃さんが?」
「キクに言われたんです。『このノートを、ジョルノに渡したいと思える時がきたら、渡してください』って。『そう思えなかったら、私に返してください』とね」
「どういう意味でしょうか?」
「キクの真意は分かりませんけどね。建前としては、『薬科業界の為に、ジョルノを引き止めに行ってきて』という意味だと思います」
「建前って? じゃあ本音は?」
結佳は顔を逸らして、照れくさそうに言った。
「そ、それを言うのは許してほしいです…。ともかく、薬科研究の気持ちが戻ったのなら、そのノートはジョルノ先生が持つべきです」
ジョルノはノートをカバンに入れると、照れた表情で言った。
「あの、丈璃乃さんの本音、分かっちゃったかもしれません。僕も同じだから」
結佳はジョルノを見て言った。
「えっ?」
「さっき言ったでしょ? 『もう逃げない』って。だから、『これからも一緒に過ごしたい・乗り越えたい』って思うようになったんです」
「あの、ジョルノ先生。御自分のおっしゃっている意味、分かってます?」
ジョルノはスッと立ち上がって言った。
「結佳さん」
結佳はジョルノに名前で呼ばれて驚き、甲高い声で返事をした。
「はっ、はい!」
そして釣られるようにして自分も立ち上がった。
「僕には、貴方が必要なんだと思っていました。研究者の僕を支えてくれるんじゃないかって。でもそれは、本当ですけど後付けです。自分で自分の背中を押す為の言い訳です」
「言い訳? じゃあ本音は?」
ジョルノは照れくさそうにしながら言った。
「それを言うのは許してください…と、言いたいところですが、僕は言います」
「いっ、言うんだ」
「素敵な女性だと思いました。家族の為に一生懸命で・苦しんでいる人を見捨てておけない優しさ・患者の力になりたいという献身的な想いを持っている」
「…そんな事を、私の目を見て大真面目に言わないでください。困ります…」
「そして---」
「まっ、まだ続くんですか?」
「綺麗な女性だなと思っています」
「こっ、困るって言っているでしょう? やっと終わった…」
「最後にもう一つあります」
「まだあるのですか?」
「僕は恋人になってくれる女性は、しっかりした年上が理想なんです」
「歳上…?」
結佳は期待をこらえて、ドキドキして話を聴いていた。
しかし歳の話をされて、一気に落ち込んだ。
「僕は研究に没頭する生活が主だったから、世間知が無いんです。だから恋人になってくれる女性には、僕の世間知らずな部分を正してくれるような人が理想なんです。
だから結佳さんは、僕にとって理想そのものの女性なんです」
「あの、ジョルノ先生。それって何歳くらい年上だったらの話ですか?」
「何歳? う~ん、五~六歳くらいでしょうか? 今の結佳さんです」
「…」
ジョルノは明らかに落胆している結佳を見て、申し訳なさそうに言った。
「すみません、女性に年齢の話なんてして。お気を悪くさせてごめんなさい。それに女性は、一般的に年下の男は好みませんよね」
「違うんです。気なんて悪くしていません。ジョルノ先生にそこまで言われて幸せです」
「本当ですか? じゃあ僕との交際を考えて---」
「それはできないんです」
「…理由を、伺ってもいいですか?」
「ジョルノ先生は、私の事を誤解なさっています。大きな誤解を二つ」
「二つも? …聴かせて頂けますか?」
「私の事を、『真摯な女』だと思ってません?」
「はい、思っています。というか、実際そうですし」
「そうじゃないです。私は仕事を完遂させる為なら、非道な手段も選ばない女なんです」
「それは以前伺いました。でも、賄賂は結佳さんの場合、私腹を肥やす為ではなくて--」
「賄賂の事ではありません。お金なんかどうでもいいんです」
結佳は目を伏せ、つぶやくように言った。
「ジョルノ先生、私は後悔しています。
あなたに出会うと分かっていたら、自分をこんな色に染めなかったのに…」
「え…?」
結佳はジョルノの目を見た。そして唇を震わせ、大粒の涙を流しながら言った。
「わっ、私は…、とっ、取引の為に、営業先の男と…寝た事があるんです」
ジョルノは言葉の意味が、ピンと来ていない様子だ。
「『寝た事がある』って…?」
「もうっ! 本当に世間知が無い子だなぁ。契約が欲しいが為に、相手の男とセックスをしたって言ってるの! しかも一度や二度じゃない! そういう女なんだよ! 私はね!」
「結佳さん…」
「だからもう、私に期待しないで。貴方が思っているような女じゃないんだから」
「は…い…」
ジョルノは青ざめた顔をして、視線を落とした。その様子を泣きながら見た結佳は、心臓を鷲づかみされたかのように、胸が痛んだ。もしかしたら・万が一にも、『そんな事は気にしない』と言ってくれるのではないか? そんな期待があったのかもしれない。
だが、その期待が吹き飛んだという事実は、ジョルノの顔を見れば明らかだった。
ジョルノは力無く言った。
「何故、僕に話したんです? 黙ってても良かったでしょう?」
「キクにも言われました。『絶対に言わないで』って。私も死ぬまで言う気はなかったです」
「…」
ジョルノと結佳は、二人とも視線を落とし、押し黙っていた。一分ほど経った頃、結佳は場の雰囲気に耐えられず、ここから離れようと思った。すると、ジョルノが顔を上げた。
清々しいというか、少し頬が緩んだ表情で言った。
「ありがとう」
ジョルノの意外な言葉に、結佳は不思議そうな表情で顔を上げて言った。
「え…? なにを言っているんですか?」
「お礼を言ったんです。辛い過去を話してくださって、ありがとう」
「い、いや、分からない。分からないです。何故、お礼を言うんですか?」
「分かったからです。結佳さんが僕の事を、男としてどう思っているかは分かりません。でも、真剣に・真摯に接しようとしてくれている。だからお礼を言ったんです」
「私はそんな誠実な女じゃありません。どうしてそう思うんです?」
「もう一度聞きます。どうして僕に話したんです? 僕と結佳さんが交際する・しない。どちらであっても、言わなくて良かった。でも話してくれた。それは何故ですか?」
「…キクに言われました。『世の中には言わなくていい事がある』って。私を心配して言ってくれて感謝しています。でも、私はこうも思うんです。『言わなければいけない事もある』と」
「この件が、そうだったと?」
「他の人なら言わなかったです。でもジョルノ先生には伝えたかった。貴方は、純粋で真っすぐな人だから」
「純粋? 僕がですか? 違いますよ」
「やっぱり自覚が無いみたいですね。ジョルノ先生は幼い頃から家計を助ける為に、新聞配達をしていましたね。そして盲目の少女の力になろうと、サッカー選手を諦めてまで尽力した。慕っていた師に裏切らても、誰も恨まなかった。それどころか、周囲に迷惑を掛けないように配慮し続けた。裏稼業で研究の依頼を受けても、お金は受け取らないし」
「いえ、それは違います。多額のお金を貰っています」
結佳はジョルノの言葉を無視して続けた。
「私、さらに調べたんです。そうしたら分かっちゃったんです。ジョルノ先生は確かに、法外な金額を個人だろうが会社だろうが請求する。そして仕事が終えて、相手が報酬を渡そうとすると受け取らない。はぐらかして、連絡を絶ってしまう。何故ですか?」
「…」
「ジョルノ先生は、確かめておきたかったんですよね? 依頼者の覚悟を。人生が傾いてしまうようなお金を失ってでも、医薬の研究を進めたい・患者を救いたいという覚悟が依頼者にあるのか。それさえ分かれば、報酬はいらなかった。無償で医薬界を…患者を支える。それがジョルノ先生が誓った贖罪だったんですね」
「いや、それは---」
「そんな人を『純粋』という言葉以外に、適した表現は無いです。ノミアちゃんも、貴方に憧れていたんですって」
「そうでしょうか…」
「だから、この事を黙っているなんて出来ませんでした。それは、騙しているのと同じだから。話さずに恋人になるよりも、話してフラれる方が、私は後悔がないんです。ジョルノ先生を騙すのは、私自身が一番許せないから」
「憧れと言うなら、それは結佳さんもでしょう?」
「私?」
「この間、ここで昴君の事を話してくれました。彼は貴方に憧れていたんですよね? 結佳さんは素敵な姉であり、素敵な女性です。忘れないでください」
「当時はそうだったかもしれません。でも、今は違います。天国で軽蔑してますよ。泣いていますよ。『僕の姉はこんな人じゃなかった』って」
「そんな」
「私は昴の事を想わない日は、一日もありません。でも『それ』以来、墓参りには一度も行っていません。昴に会うのが怖いんです。私にはもう、姉の資格なんてありません」
「…」
「じゃあ、私はこれで---」
結佳は別れを告げようとすると、途中でその言葉は止まった。ジョルノが結佳の方へ一歩踏み出し、両手で結佳の両腕をつかんだからだった。
結佳は驚いて言った。
「ジョ、ジョルノ先生?」
「結佳さん。その傷を癒すのは大変だと思います。もしかしたら、癒せないのかもしれない。それでも、その痛みを少しでも和らげたいんです」
「『癒す』って? 私を責める気持ちはないんですか?」
「結佳さんは被害者だと思っています。ずっと自分で自分を責めていたのですよね?」
「ありがとう、ジョルノ先生…。でも、お気持ちは受け取れないです」
「何故ですか?」
「貴方はまだ若いでしょう? 私のような過去が傷だらけの女を選ばなくて良いんです。わざわざイバラの道を歩かないでください。今の私の話を聞いて、平気でいられましたか?」
結佳にそう言われ、ジョルノは両手を離した。
そして視線を落として言った。
「いえ、平気ではいられないです。体中に、重りを付けているかのような感覚になりました」
「はい…」
ジョルノは視線を上げ、結佳の目を見て言った。
「でも、おかげで気付けました。僕は結佳さんが好きなんだって。大好きなんだって。大切な女性なんだって、気付けたんです」
「どうして? どうしてそんな気持ちになるの?」
「僕がこんなにも胸が締め付けられるのは、結佳さんが好きで大切だからです。そうでなければ、こんなに悩まなかったでしょう。大好きな女性だから、悩んでしまうんです」
「ジョルノ先生…!」
「結佳さんと歩むイバラの道。僕一人で歩く寂しい道。それならいっその事、結佳さんが一緒の方が幸せなんじゃないかって想えるんです」
ジョルノにそう言われ、結佳は少し吹き出した。
「フフッ、思い切った事をおっしゃいますね。学者の言葉とは思えませんよ」
「アハハ、僕なんて学者の端くれなんで」
お互いに笑みを浮かべた後、ジョルノは真剣な表情で言った。
「いきなり僕の恋人になってくれなくて良いんです。僕ともう少しの間、一緒に時間を過ごしてください。それが辛いだけでしたら、諦めますから」
「まさか! 辛いなんてありません! 感謝しかないんです。私の方こそ、今までご苦労なさってきたジョルノ先生に何ができるか、考えていきたいです」
「それじゃあ…?」
「はい。もうしばらく、私と一緒にいてくださいますか?」
「はいっ! 喜んで!」
二人は微笑み合った。安心したような表情になったジョルノが言った。
「さて、何処かで一休みしましょう。もし食事がまだでしたら、ご一緒しませんか?」
ジョルノはそう言いながら、服装を整えたりして、身支度を始めた。だが、結佳は動く様子が無い。
結佳は申し訳なそうに言った。
「あの…ジョルノ先生。誤解が二つあると言ったでしょう? もう一つを聞いてください」
ジョルノは慌てて、結佳に向き合った。
「すっ、すみません! そうでしたよね。伺います」
「もう一つは、年齢の事なんです」
「年齢…?」
「はい…。ジョルノ先生は、私の年齢を三十歳くらいだと思っているでしょう?」
「ええ」
「私、本当は…三十六歳なんです…」
「えっー! そうなんですか!」
「そうです。貴方より十二歳上なんです…」
二人が数秒押し黙ったあと、ジョルノは聞いた。
「…それで?」
「え?」
「続きは?」
「いえ、以上です」
「分かりました。ところで何処に行きます? 僕、とてもお腹が空ているんで---」
「ちょっとジョルノ先生!」
「なんでしょうか?」
「私、貴方より十二歳も年上なんです! 三十六歳なんですっ!」
「分かりましたってば。二回も言わなくて大丈夫です」
「気にならないんですか?」
「さっきも言ったように、僕には世間知が無いんです。年上のしっかりした女性が理想なんで、安心したぐらいですよ」
「そうはおっしゃっていましたけど…」
「もしかして『年齢を誤魔化していた』って思ってます? それはないですよ。そもそも五~六歳上だって勝手に解釈したのは僕ですから。結佳さんは、一度も年齢は言ってないですよ」
「そうですけど…。もっと現実的なお話をしましょうか?」
「え? はい」
「仮に・例えばですけど…。私とジョルノ先生が、何年後かに結婚したとします。でもその時、私は四十前後です。妊娠できないかもしれない。ジョルノ先生は、自分の子供ができないかもしれないんですよ? それでも大丈夫ですか? 良いと言えますか?」
「こっ、子供?」
子供の話をされ、ジョルノはかなり動揺した。
そして悩んでいる表情で言った。
「僕は人生設計のような事を、しっかり考えた事は無かったです。こうして結佳さんとお話ししていても、そこまで考えが至っていませんでした。だから子供が欲しいかどうかなんて、正直分かりません」
「はい…」
ジョルノは表情を引き締めて、力強く言った。
「でも、これだけはハッキリ言えます。その『子供』は、今・ここにいないんです。そして、生まれてくるかも分からない。その『子供』と結佳さんのどちらが大切かと聞かれたら、僕は迷いません。結佳さんです。僕は結佳さんが大切です」
「…」
「あの…、答えになっていないでしょうか?」
結佳は、大きな涙を頬に伝わせて言った。
「いいえ、十分です。十分過ぎますよ。ジョルノ先生、ありがとう」
●
二人は並んで夜道を歩いていた。たまに人とすれ違うぐらいで、人気はない。
結佳はジョルノの左腕に、右手を絡ませていた。
ジョルノは恥ずかしそうに言った。
「こっ、これは慣れないです」
「フフッ、慣れないでほしいかな」
「結佳さん、聞いていいですか?」
「なんでしょう?」
「セプロラビィノートの事です」
「ノート?」
「今日、僕達が会ったのは偶然ですが、結佳さんがノートを持っていたのも偶然ですか?」
「もし街中で会えたら渡せるんじゃないかと思って、持ち歩いていたんです。ただ…」
「ただ?」
「このノートを持っていたら、もしかするとジョルノ先生にお会いできるじゃないかと思っていたのかもしれません。一種のおまじないかもですね。自分でも分からないですけど」
ジョルノは照れた。
「あ、そうなんですね。お会いできて良かった。僕もおまじないとか信じてみようかな?」
「フフッ、いいですね。そういう素直なトコロ、可愛いと思いますよ」
「かっ、可愛い?」
ジョルノは照れを隠すようにしながら、違う話題を切り出した。
「あの、『赤毛のアン』の事なんですけど」
「あ、プレゼントしてくださった文庫本の?」
「サッカーのスタジアムでおっしゃってたでしょう? 『読んでない』って。もしかして、あまり興味がありませんでした?」
「いえっ! 違います! 興味ありますし、頂いて、とても嬉しかったんですよ!」
「そうなんですね、良かった。まだ読む時間が作れませんでした?」
「いえ、最近は定時で帰っているので、読まなかった理由は時間じゃないんです」
「他に理由が?」
「あの時、私達とジョルノ先生の縁って、切れかけていた…というよりは切れていましたよね。この状態で赤毛のアンを読み終えたら、何もかも終わっちゃう気がして怖かったんです」
「あ、そうなんだ。じゃあ、今はどうですか?」
「…うん、今なら読めそう…というか、読みたいですね。とても楽しみです」
「良かった。楽しんでくださいね。あともう一つ、聞きたいんですけど」
結佳は嬉しそうに言った。
「ええ、いくらでも」
「僕が『ジョルノ・ヴェロネージ』ではなく『北九条 颯真』だと、いつから気付いてました?」
「いつって…? 四人でやったDNA鑑定の日です。キクと同じですよ」
「たぶん違いますよね? ノミアが取り乱した時、玖口は驚いていました。でも、結佳さんは驚かなかった。まるで、こうなるのが分かってたように見えたんです」
「…うん、そうですね。確信は無かったけど、『もしかしたら?』程度には思ってました」
「やっぱり。じゃあ、いつから?」
「サッカーを観に行った日。試合後に食堂で、四人で話したでしょう? あの時です」
「ノミアに会った初日じゃないですか。なにかあったんですか?」
「『なにかあった』じゃないですよ。ジョルノ先生、貴方が失敗しちゃったんです」
「僕が? 分からないです」
「ノミアちゃんがホワイトボードに『北九条 颯真』と書いて、ジョルノ先生に読ませた。貴方は『にしくじょう』と読み間違えましたけど、あれはお芝居ですよね?」
「どうしてそう思うのですか? 本当に間違えたかもしれないでしょう?」
「『北』という漢字は、一般的には『きた』です。でも『にし』とも読めるんです。ごく限られた地方で使われています。昴の名前を考える時、漢字の勉強をトコトンしましたから、私はそれを知っていました。イタリア人のジョルノ先生なら、漢字の読み間違え自体は不思議じゃない。でも、自然に間違えるとしたら『ほく』ですよ。『にし』なんて読みを知っているのは、とても漢字に詳しい人です。以前、ジョルノ先生は『漢字に詳しくない』とおっしゃっていましたからね。おかしいと思ったんです」
「僕が『ワザと間違っているのかもしれない』と?」
「ええ。三月にノミアちゃんが来日したのを知ったジョルノ先生は、『いつか自分の名前について聞かれる機会があるのでは?』と考えた。でもジョルノ先生は、漢字は苦手。そこで自分の名前の漢字くらいは勉強しておこうと思った。今回の件みたいにトボける為にね。ところがジョルノ先生は学者だから、深く勉強し過ぎてしまった。それで『にし』なんていう特別な読み方も覚えちゃったんですよね?」
「はい、そうです」
「そういう事です。ノミアちゃんに食堂で読みを聞かれた時、『ほく』と言うべきだったんですけど、思わず、印象に残っていた『にし』を言っちゃったってトコロですよね? それで思ったんですよね。仮に、ワザと読み方を間違えたのだとしたら、それはもう…」
ジョルノは、恥ずかしそうに言った。
「参ったな…。僕の負けです。流石は昴君」
「えっ? どうして昴の手柄なんですか?」
「結佳さんが漢字博士になれたのは、昴君が生まれたからでしょう? 感謝しなくちゃ」
「あっ、本当だ! 姉孝行な弟なんです」
「アハハ、そうですね。良い弟さんだ」
「私からも、一つ聞いていいですか?」
「勿論です」
「さっき、バッティングセンターで言っていたでしょう? 『最近、バッティングセンターに通って練習している』って。理由はなんだったのですか?」
「あらら、本当に分かってないんだ」
「あーっ! バカにしてますね!」
「結佳さん、ちょっと考え過ぎですよ。とても単純な理由です」
「単純?」
「運動会でいたでしょ? 好きな女の子の前だと、競技を凄く頑張る男の子って」
「ええ」
「それと同じです。好きな可愛い女の子の前で、良い格好がしたかった。それだけです」
「かっ、可愛い女の子ぉ? 本当にもう、貴方ねぇ…」
結佳はジョルノの目の前に立ち、ジョルノの歩みを止めた。表情は少し険しい。
「ジョルノ先生。私はね、仕事でもプライベートでも、言われっぱなし・やられっぱなしなんて嫌なんです。許せないんです。やられた以上にやり返さないと、気が済まないの」
「結佳さん…? 目が怖いんですど…」
「今の私に対する甘い言葉。なにより、DNA鑑定の日にされた頬のキス。私だって、いつまでも黙っていませんからね」
「あ、あのキスに関しては、申し訳なかったと---」
「黙りなさい」
結佳は左手の親指と人差し指で、ジョルノのアゴを持った。そっと持つのではなく、かなり力強くて乱雑だった。
ジョルノの顔をグイッと上に向けると、優しく言った。
「これで少しは反省しなさい」
結佳は目をつむり、唇をジョルノの唇に重ねたのだった。
イラスト:migmag




