10、イタリアからの「Ti amo (ティアーモ)」
あれから三週間が過ぎ、十一月になった。結佳はスカウト部の業務を辞めて、事業開発部の仕事に専念するようになっていた。鞠子はこれまで通り、研究部門で研究に勤しんでいた。
昼休み。いつものカウンター席で、鞠子は結佳を待っていた。目の前に定食が置かれているが、手を付けていない。スマートフォンを両手で持っている。特に操作する訳でもなく、じっと画面を見ていた。
すると左横の椅子が引かれ、声がした。
「お待たせ、キク」
「あっ、ユイさん。お疲れ様です」
結佳は昼食の入ったコンビニ袋を、カウンターに置いて座った。鞠子はスマートフォンを白衣のポケットに入れた。
それを見た結佳は言った。
「なにかあったの?」
「えっ?」
「いや、スマホの画面を凝視してたからさ。キクは昼休みは、紙の研究資料を見ながら私を待っててくれるでしょ? 最近はずっとスマホだからさ。どうかしたのかなって。メールでも待ってるの?」
「いっ、いえ! 違います。偶然ですよ、ぐーぜん!」
「そっか」
「それよりユイさん、最近はどうです?」
「どうって?」
「スカウト部を辞めて、時間に余裕ができたんじゃないですか? ゆっくりできてます?」
「うん、定時に帰れる日もあるからね。なにか趣味でも始めようかなって思ってる」
「あー! いいですね! ユイさんだったら、スポーツ系がいいんじゃないですか?」
「う~んとね、とりあえず料理でも始めてみようかと思ってるの」
「料理? へぇ…」
「腕試しに林檎をむいたの。ぜんっぜん出来ないから、自分でもビックリした。アハハ!」
「…」
「キク、聞いてる? 今の笑いどころだよ?」
「え? アハハッ! もう~ユイさん、しっかりしてくださいよぉ!」
「フフッ、まともに作れるようになったら、キクに御馳走するからね」
「はいっ! 楽しみです。絶対ですよ!」
「キクは最近どう? 定時に帰れる日が増えたんでしょ? 有休も消化できてるみたいだし」
「ええ。私の場合は、少し働き方を見直してみたんです」
「見直し?」
「連日、深夜近くまで残業。土日の出勤なんて当たり前で、『休日出勤』という感覚すら無くしてましたからね。自分の生活を大切にしようと思ったんです。『ライフワークバランス』ってやつですね。仕事そのものの熱意を失った訳じゃあないんですよ」
「うん、良い事だね。じゃあキクこそ、なにか趣味を始めなよ。すでに何か始めたとか?」
「えーっと---」
「早く家に帰って、ボーッとしている訳じゃあないんでしょ?」
「もっ、勿論ですよ! あっ、そうだぁ。私もユイさんと料理を始めようかな」
「あっ、それ良いねぇ。一緒にやろうよ」
二人は談笑しながら、昼食を終えた。
結佳が言った。
「ねぇ、キク。今度の日曜日、空いてる?」
「えっ! 空いてますけど。空いてなくても、ユイさんとデートなら絶対行きますよ!」
「フフッ、ありがと。半分仕事なんだけど、そう言ってくれたら嬉しいな」
「仕事?」
「キク、ウチの会社がJリーグのメインスポンサーなのは知っているでしょ?」
「ええ。『セブアライブ大栄 (おおさか)』ですよね。私はサッカー好きですから知ってますよ。大学の頃は、勉強の息抜きで観に行ってました。就職してからは全然ですけど。それが何か?」
「私と、サッカーの試合を観戦してほしいの」
「ユイさんとサッカー観戦? 面白そう! 今期は2部リーグに落ちちゃってますけど、ユイさんと一緒なら観戦に気合が入る! …あれ? これがどうして仕事なんですか?」
「会社からの指示なの」
「あっ、社員大勢で観戦しに行くんですね?」
「ううん。私とキクの二人だけ」
「どういう事ですか? 分かんない」
「私も分からないの。でも、社長からの指示なの。私は課長から言われたのよね」
「しゃっ、社長の? 年始の全社員合同の挨拶でしか見た事無いですよ、私」
「私もだよ。直接会えるのは常務以上だからね。その社長の指示。と、いうか命令」
「なんだろう? なにか条件があるとか?」
「試合観戦以外の拘束は無し。観戦が終わったら、自由にしていいって。もちろんチケット代は会社持ち。休日手当もつくよ。しかも、通常の倍」
「なんですかそれ? 怖いぐらいですよ」
「なんだろうね。でも試合が終われば自由だからさ、何処か遊びに行こうね」
「はいっ! 楽しみです」
「私、サッカーなんて知らないから教えてよね」
「私が解説しますね。観には行けてませんが、勝敗やチームの状況はチェックしてましたからね。詳しいですよ」
「さっそくだけど、聞いていい? ウチのチーム名『セブアライブ』って変わった名前だけど、何か意味があるの?」
「ああ、それは簡単です。『Save a life (セーブ・ア・ライフ)』を文字ったんですって。ウチは医療関係の会社でしょう? だからじゃないですか」
「『命を救う』って意味か。本当にサッカー詳しいのね。頼りにしてるよ」
●
十一月九日の日曜日。二人はスタジアムを訪れ、座席に座っていた。結佳はグレーの長いタイトスカートで、上は薄い肌色の長袖カットソーを着ている。鞠子は青いシャツに黒のニットカーディガンを羽織っており、下は白のデニムだ。
鞠子の服装を見た結佳が言った。
「可愛い! 可愛いよキク!」
「エヘヘ、ありがとうございます」
「いつも思うんだけど、普段からそういう格好をしていればいいのに。普段の出勤の時と、落差があり過ぎるよ」
「あー、別に会社の人間…特に男連中になんて、どう思われてもいいですから。ユイさんとデートの時は、特別なんです」
「フフッ、ありがとう」
ピッチでは、選手がボールを使って練習をしている。試合はまだ始まっていない。
結佳は楽しそうに言った。
「へーっ、サッカーってこういう所でやるんだぁ」
「ここはメインスタンド側っていう席です。テレビでサッカー観るのと同じ視点なんで、観やすいですよ」
「グラウンドと距離が近いよね?」
「ええ。このスタジアムはサッカー専用なんですよ。だからピッチから座席の最前列まで、五~六メートルくらいしかないんです。だからボールが飛んできたり、選手を間近で見れる時もありますよ。まぁ、私達が座っているのは上段ですから、それはほとんど無いですけど」
「お客さんもたくさん入ってるよね。満員じゃない?」
「ここの収容人数は一万二千人なんですよ。今日はチケット完売だって」
「そうなの? 『2部リーグ』って聞いてたから、観客が少ないかと思ってた」
「確かに他の2部チームはそうです。でも、ウチは違うんですよ。その理由は---」
「理由は?」
「その時がきたら教えますよ。楽しみにしておいてくださいね」
「分かった。楽しみにしておくね」
結佳は物珍し気に、辺りを見渡していた。すると、ビールの売り子が目に入った。短いツバがある青いキャップに、青いポロシャツ。背中にはビールのサーバーを背負っている。
「キク、あれってビールの売り子さん?」
「そうですよ。男の売り子もいますけど、ほとんどが女の子。しかも可愛いんです」
「へぇ~、野球場みたいだね。サッカーでもいるんだ」
「そうですけど…。ユイさん、まさか?」
「アハハ…、試合開始まで、あと三十分くらいあるじゃない? ダメかな?」
「全然そんな事ないですよ! 嬉しいくらいです!」
「嬉しいって?」
「ユイさん、最近は全然飲みに誘ってくれないでしょ? 誘っても、あまりリアクション良くないし。ちょっと心配だったんで、嬉しいですよ。飲みましょう! ただし、一杯だけね」
「あら、厳しいな。とにかく飲むね。売り子さんって、どうやって呼べばいいの?」
「簡単ですよ。売り子さんに向かって手を上げて、少し大きめの声で言えば大丈夫です。売り子さんは常にお客さんを探しているから、すぐに気付いてくれますよ」
「分かったよ。すいませ~ん」
三メートルくらい前にいた売り子に結佳は言った。
売り子は結佳の声に気付き、こちらを向いて返事をした。
「はい! ありがとうございます!」
結佳は言った。
「あ、声が男だね。男の子だったんだ。帽子のツバで分からなかった」
「へぇ、男の子はレアですよ。もしかしたらイケメンかもですね。ちょっと楽しみ」
「アハハ、だといいね」
売り子は階段を上ってきて、結佳の横に到着した。
そして両膝を着いて笑顔で言った。
「ありがとうございます。七百円になります」
「じゃあ千円で—-」
結佳が千円札を渡そうとした時、売り子の顔を見て驚愕した。
ビールの売り子の格好をしている男は、ジョルノ・ヴェロネージだった。
「ジョッ、ジョルノ先生!」
結佳はジョルノの目を見たまま固まってしまった。
鞠子も同様に、ジョルノの姿に驚いていた。
「ジョルノ、お前…!」
ジョルノは千円札を持って固まったままの結佳に、笑顔で言った。
「あの、お客様。ビール買われます?」
「え? はっ、はい! 買います!」
「ありがとうございます。三百円のお釣りです。少々お待ちください」
ジョルノはお金が入っているウエストポーチに千円札を入れ、お釣りの三百円を取り出した。
「ジョルノ先生、なにをなさっているんですか?」
「ビールの売り子をしています。はい、お釣りです」
結佳の手に触れないように気を付け、両手で包むような形で丁寧に三百円を渡した。そして背負っているサーバーから、紙コップにビールを注ぎ始めた。
鞠子は不信感を隠さず、低い声で言った。
「お前、もしかして私達が来るの分かってて、こんな事やってんの?」
ジョルノはビールを注ぎながら、クスリと笑った。
「フフッ」
「なにがおかしいんだよ」
「そんな器用なマネできねぇよ。する意味も必要もないだろう? 驚いたのは俺が先だよ。俺達売り子は客席全体を見渡すからな。すぐに気付いたよ」
ジョルノは注ぎ終えたビールを、ニコリとした笑顔で、そっと結佳に渡しながら言った。
「ありがとうございました」
結佳は初めて見るジョルノの笑顔に照れながら、ビールを受け取った。
「私、ジョルノ先生の笑顔って初めて見ました」
「あれ? そうでしょうか?」
「少し笑みを浮かべる事はありましたけど、ハッキリした笑顔はこれが初めてです」
「笑顔というか、口角を上げているだけですよ。新人研修で教えられました」
「研修を受けた? ジョルノ先生が?」
結佳の問いに応えず、ジョルノは次に鞠子へ声をかけた。もちろん笑顔だった。
「で、そちら様はいかがされます?」
「なにがよ」
「ビール、ご入用ですか?」
「要らないね!」
「失礼いたしました」
ジョルノが腰を上げようとすると、結佳が言った。
「あの、要ります。もう一杯ください」
「ありがとうございます」
鞠子は結佳に言った。
「ユイさん! 要らないってば!」
「私が奢るんならいいでしょう?」
「お金の問題じゃないってば! もう!」
結佳は鞠子の不満を無視して、ジョルノにまた千円札を渡した。
「ありがとうございます。少々お待ちください」
ジョルノは再びお釣りを用意して渡し、ビールを注ぐ動作に入った。結佳は聞いてみたい事がたくさん浮かんでいたが、今のジョルノの格好を見ていると、声にならなかった。鞠子はソッポを向いていたが、聞き耳だけは立てていた。
結佳はふとジョルノの胸辺りを見た。名札をしている。平仮名で『そうま』と書かれていた。その右上に、小さな星が二つある。
疑問に思った結佳は聞いた。
「あの、お名前が『そうま』になっていますね」
「これですか? 本名を名乗ったらいけないらしいんです。だからですよ」
「『そうま』というのは?」
「会社から付けられました。自由に考えていいらしいんですが、
なぜか僕だけは決められていました。まぁいいですけどね、なんだって」
「名札にある星マークはなんですか? 二つありますね」
「これは売上ランクです。上位入賞者には星が付くんです」
「最大でいくつ付くのですか?」
「五つです」
「それなら、かなり順調なんですね」
「アハハ、ありがとうございます。貢献してくれて助かりますよ」
紙コップにビールを注ぎ終えると両手で持ち、笑顔で鞠子に向けて差し出した。
「お待たせいたしました、お客様」
鞠子は反対方向を向いたままで、ジョルノの方を向かない。
「お客様、ビールです」
二度言われ、鞠子は渋々ジョルノの方を向き、右手を差し出した。チラリとジョルノの顔を見ると、笑顔でビールを持っていた。結佳の言う通り、見たことが無いジョルノの笑顔。
鞠子は戸惑って、視線を逸らした。右手だけで受け取り、自分に引き寄せた。
「ありがとうございました。では---」
ジョルノが立ち去ろうとすると、鞠子が怒気を含んだ低い声で言った。
「おい」
「あ、なんでしょう? ビールに、頭を叩いて割れたお皿でも入っていましたでしょうか?」
「…笑えねぇんだよ」
「フフッ、だよな。で、なに?」
「お前、なにを企んでんの?」
「ビールを売ろうと企んでるよ。一杯につき、俺に三十円歩合でもらえるからね」
「ふざけんな。ムカつく奴だ」
鞠子はビールを座席のカップホルダーに置くと、プイッと顔をピッチに向けた。
結佳は聞いた。
「どうしてビールの売り子をしようと思ったのですか?」
「お二人に影響を受けたからですね」
「私達…ですか?」
「前にも言いましたが、お二人のおかげで、自分は『社会の事は何も知らないんだ』と分かりました。だから知りたいと思ったんです。自分にとって未知の世界を知りたかった」
「それがサッカースタジアムの売り子だったと?」
「医薬界以外なら、なんでも良かったんです。知らない世界を知る事ができたら、医薬研究にも良い影響があるんじゃないかと思いまして」
「ジョルノ先生の性格だと、接客業は大変ではないですか? 事務や工場の生産などは考えなかったのですか?」
「そうですよね。でも、思ったんです。未知の世界に飛び込むなら、いっそ自分が一番苦手な事に挑戦するのが良いんじゃないかと。それは丈璃乃さんから学びました」
「私ですか?」
「はい。弟さんの他界をキッカケに、全く畑違いの医薬界に飛び込んだ。そして大きく成長された。『挑戦』の大切さを、丈璃乃さんから学びました」
結佳は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「いえ、そんな…」
一呼吸置いて、結佳はジョルノに視線を戻して言った。
「お仕事はどうですか?」
「今は順調にいってます。でも、最初は大変でしたよ。不安だらけ・知らない事だらけでしたから。直接、人を相手にして働くって、本当に大変なんですね。普通の人でも大変なのに、偏屈な僕ではもっと大変でした。上司・同僚・お客さん。みんなに怒られ続けてます。後輩から注意されるのも当たり前ですしね。投げ出そうと、何度も思いましたよ。でも---」
「でも、投げ出さなかった?」
「はい。諦めたくなかったんです。諦めない事で、また新しい何かを知れるかもしれないと思ったんです。『諦めない』。これは玖口から学びました。まぁ玖口の上司との戦いに比べたら、僕のビール売りの苦労なんて知れてますけどね」
鞠子はピッチを見たまま、ボソリと言った。
「うるさいよ…」
「え?」
鞠子はジョルノを見て、大声で怒鳴った。
「うるせぇって言ってんだよ! お前の様な奴が、私やユイさんの事を語るんじゃねぇ!」
あまりの声の大きさに周囲がざわつき始めた。それに気付いた鞠子は、気まずそうにうつ向いた。
ジョルノは真剣な表情で、鞠子に言った。
「そうだよな。お前の言う通りだ。すまなかった」
「…」
鞠子はうつむいたまま、返事をしなかった。
結佳は場の雰囲気を変えたいかの様に、ジョルノに聞いた。
「今はもう、順調なのですよね?」
「はい。勉強と努力はずっと必要ですけどね。薬科研究も好きですけど、この仕事も良いですよ。人に直接なにかをする仕事って、良いものです。今では気に入ってますよ」
「でも接客・販売のお仕事って、たくさんあるでしょう? どうしてこのスタジアムの、ビールの売り子を選んだのですか?」
「このスタジアムの飲食部門から、熱心に勧誘をされていたからです」
「勧誘?」
「はい。八月の末辺りから、週に一回は勧誘のダイレクトメールが来るようになったんです。『何かの間違いだろう』と思って、ずっと無視していました。それで今、接客・販売の仕事を探そうとしていた時に『そういえば』と思い出しました。それで連絡を取ってみたんです。即・OKで採用されました」
結佳は不思議そうに聞いた。
「八月末って、私達と出会う一ヶ月ほど前ですね。ジョルノ先生が医薬研究者と知っていて、勧誘したのでしょうか?」
「さあ。働き始めても、そういう事は誰も聞いてこないから、知らないかもしれませんね。僕としてもあまり知られたくない事なので、聞かないようにしています」
結佳が考え込んでいると、ジョルノが結佳に聞いた。
「僕の近況はこんな感じです。お二人は最近はどうされてます? 好調なのでは?」
「えっ?」
「こうして、日曜日に二人でサッカー観戦にいらっしゃるなんてね。仕事に余裕ができてきたんじゃないですか?」
「あ、はい。私はスカウト部を辞めたんですよね。キクは---」
鞠子は不機嫌そうに、結佳の話を止めた。
「ユイさん! こっちの事は言わなくていいから!」
「あ、うん」
ジョルノは結佳に聞いた。
「お時間ができたのでしたら、お読みになりました?」
「読むって?」
「差し上げた『赤毛のアン』です」
「あ…読んでないです。ごめんなさい」
「いえ、別に謝る事ではありませんよ。余計な事を聞いてしまいましたね。さて、あまり話し込んでいると怒られるので、そろそろ---」
鞠子が怒気を込めた声で言った。
「よくもまぁ、そんな笑顔で私達と話せるよね。しかも機嫌も良い感じだし。なに考えてんの? もしかして嫌味? 気持ち悪いんだよ」
「それは考え過ぎだ。ビールを買ってくれるんなら、お客さんだからな。笑顔で接するよ。仕事なんだから。それに---」
「それに…なんだよ?」
「友達だったから」
「え?」
「ほんの数日。いや、数時間だな。少しの間だったけど、貴方達二人は友達だったから。昔の友達と会えたら嬉しいものだろ? 二人は俺を嫌悪してるだろうけど、俺は違うんだよ」
鞠子は押し黙ったが、結佳は否定した。
「嫌悪だなんてっ! そんな気持ちはありません!」
「あっ、否定してくれるんですね。嬉しいです。さて、これ以上話していると、本当に怒られるんで行きますね。丈璃乃さん、最後に一言だけいいですか?」
「えっ? は、はい」
「仕事に余裕ができたのならいいですけど、これからもご自愛ください。もう無理はしないでくださいよ。お酒も飲み過ぎないようにね」
「…はい」
「おい、玖口」
「なんだよ」
「お前もだからな。あまりムチャすんなよ。俺の言った『研究職はアスリートと同じ』って言葉。忘れんじゃあねぇぞ」
「うるさい! もう忘れた! さっさと行けっ!」
「アハハ、期待通りの答えだ。お前にしんみりされても気持ち悪いから良かったよ。じゃあ、これで…」
ジョルノは会釈をすると、階段を上って立ち去って行った。
ジョルノが去ってしばらく、二人は黙っていた。
結佳がふと気付くと、鞠子がビールをゴクゴク飲み始めたので慌てて止めた。
「ちょっとストップ! そんな水みたいに飲んじゃあダメだよ。体に悪いから」
「え? あ、はい…」
紙コップのビールが半分無くなっていた。
結佳は心配そうに言った。
「まあ急に再会したから、驚いて動揺する気持ちは分かるけど」
「別に動揺なんてしていません。『ああ、こんな奴いたっけな』っていう程度の事です」
「じゃあ、どうしたの?」
「私がムカついてるのは、あの態度です。ニコニコして、陽気な雰囲気で喋る。気持ち悪いです。本当はあんな奴じゃないでしょう? 私達に対する当てつけですよ」
「それは考え過ぎだよ。売り子なんだから、仕事として普通の振る舞いじゃないかな? それにジョルノ先生は元々、人と接するのが嫌いではないかもね。得意ではないだろうけど」
「ん? ちょっと分かんないです」
「出会った当初はさ、ジョルノ先生は不愛想だった。人を寄せ付けない雰囲気だった。でもよく考えると、それは仕方ないんだよね。裏の業界で生きているんなら、自分に近寄ってくる人間は疑わざるをえない。ニコニコしていたらつけこまれるから」
「まぁ…」
「それが無かったら、昔は普通だったんじゃない? ニコニコまではいかないだろうけど、普通に話す男の子だったんだよ、きっと」
「…」
「その証拠に、一緒に過ごす時間が増えてくるにつれ、彼の雰囲気は柔らかくなっていったものね。これから友達になるかも…という時に、私達は縁を切ってしまった」
「縁を切るだなんて! それはアイツに問題があるからです! 発端はあっちです! ユイさんは、アイツにも同情の余地があるとでも思ってるんですか?」
「いや、そうじゃないよ。ジョルノ先生のした事が本当なんだったら、軽蔑するし、人付き合いをしたいとも思わない。たださ、全てを真っ黒にはできないの」
「真っ黒って?」
「研究者として、やっていはいけない事をしたのかもしれない。でもそのせいで、一緒にいた時間を全てを黒く塗りつぶすなんて事はしたくないの」
「一緒にいた時間?」
「うん。ノンアルビールをお酌してくれたり・バッティングセンターで必死にバット振ったり・文庫本のプレゼント・酔った私の介抱…。あっ、酔ったフリだけどね。みんな楽しかった思い出だから。これまで真っ黒にはしたくないよ」
「ユイさんはそうかもしれませんが、私はありませんから。そんな思い出なんて」
「ジョルノ先生の頭を、お皿で殴って流血させたんでしょう?」
「え…? あ、はい」
「彼どうしたの? 殴り返された? 警察に通報された?」
「…いえ、内密にしてくれました。傷が目立たないようにして、自宅に戻ってくれて」
「仕事の愚痴とか辛い話をたくさん話したんでしょう? 面倒そうに聞いてた?」
「…いえ、最後まで真剣に聞いてくれました。『大変だったな』って」
「ジョルノ先生を誘惑したんでしょう? 彼はどうしたの? 襲ってきた?」
「…いえ、『自分を大切にしろ』って言ってくれました」
「うん、そうだよね。キクは研究者だから、データの盗用なんて絶対許せない。それはそれで良いの。怒っていいんだよ。でも、もうジョルノ先生を憎まないでほしい」
「…」
「憎しみなんて感情を背負って生きてほしくないの。それは自分の体の一部を焼き焦がしているようなものだから。ジョルノ先生の為じゃない。キクの為にね」
「うん、分かりました。そうします。もうこだわるのは止めにします。もう会う事もないでしょうしね。こんな偶然は、二度とありませんよ」
「うん、そうだね」
「でもユイさんは、切り替えがハッキリできてますよね。すごいと思います。大人だな」
「それはちょっと違うかも」
「なにが違うんですか?」
「さっき言ったジョルノ先生への想いは本当だよ。でも、それだけじゃない。私には、彼に偉そうに言える資格は無いよ。負い目があるからね」
「負い目?」
「不正に手を染めているって事。賄賂渡したり・もらったり、他にも…ね? ジョルノ先生を責める資格なんて、私には無いから」
「違いますよ! あいつは私利私欲。ユイさんは病気で困っている人達の為じゃないですか。昴君のように苦しむ子の力になりたいって。身や心を削るようにして、頑張ってるんです!」
「でも、報奨金も賄賂もたっぷりもらってるからね。一緒だよ」
「…ごめんなさい」
「え? なにを謝ってるの?」
「私、知っちゃってるんです。ユイさんが今までにもらった、合計で数千万円のお金を全部寄付してるって事。難病患者の家族の生活支援をするNPOに、匿名で寄付してるでしょ?」
「ど、どうしてそれを?」
「私、ユイさんが大好きだから、前にも言いましたけど、ついスマホを勝手に見ちゃって…。ごめんなさい」
結佳は深くため息をついたが、怒りはしなかった。
「またぁ? もう止めてよね」
「はい。でもどうして医療費の援助じゃなくて、家族の生活支援を選んだんですか?」
「昴の時もそうだったんだけど、患者の家族って泊まり込みで入院に付き添ったりして、色々とお金が掛かるでしょ? 患者本人は保険が適用されるけど、家族の付き添いにかかる経費は全額が自己負担だからね。家族が苦しんでたら、患者を支えられないから。私も小児がん患者の家族だったからさ、そんな人達の力になれたらなって思ったの」
「…うん! やはり違いますよ。ユイさんとアイツでは、同じ不正でも違います」
「もうこの話は終わりにしよう。サッカー観に来たんだからさ、楽しもうね」
「はいっ!」
試合開始まで、あと十分を切った。
鞠子が、やや緊張気味に言った。
「さあユイさん、いよいよです」
「そうだね。キク、ちょっと声が震えてるよ。どうしたの?」
「どうしてか、すぐに分かりますよ。そろそろ来ますからね」
「来る? 誰が?」
大勢の選手が練習中のピッチに、一人の選手が入ってきた。その姿が見えた瞬間、客席全体から大歓声が沸いた。老若男女が叫んでいたが、女性の声が多い。
《ノミアー!》
《ノミちゃーん!》
《神様! 女神様! ノミア様―!》
《ノミアー! 今日もハットトリックだぁー!》
入場してきたその選手は、そのまま自然に練習へ参加した。今まで目立っていなかったマスメディアのカメラマンも、『ノミア』と呼ばれる選手に向かって一斉にシャッターを切り出した。
止むことのない大歓声の中で、結佳は鞠子に顔を近づけて言った。
「ものすごい大歓声! なにが起きているの?」
「私も体験するのは初めてです。もう少ししたら静かになると思いますから、我慢ですよ」
二~三分で、やっと客席が落ち着きを取り戻した。
鞠子は言った。
「すごいでしょ? あまりの人気に、試合前の練習はフルに参加できないそうですよ。着席していない観客が多い状態で登場したら、危ないかもしれないからって」
「そんなに? すごいね。どんな選手なの?」
鞠子はスマートフォンで選手のプローフィール画面を表示し、結佳に見せた。
名前:弓玀 ノミア (ゆみら のみあ)
年齢:十九歳
誕生日:十一月九日
出身地:イタリア (サルデーニャ)
身長:百五十三
背番号:二十五
ポジション:
経歴:セルティックFC (スコットランドリーグ) → セブアライブ大栄 (Jリーグ2部)
結佳は、画面に表示されている写真を見て言った。
「可愛い! 女の子にしか見えないよ!」
「いや、ユイさん。女の子です」
「えっ! 女子の選手なんだ。これは可愛いよ。金髪だけど、パッと見た感じは日本人だね」
「『クォーターかも』って噂です。イタリア人なんだけど、日本人っぽい容姿をしているでしょ? それで付いた二つ名が『東洋のダイアナ』」
「うん、名前負けしていないね。美人だよ」
「そうなんです。可愛いから、ファッション雑誌の表紙を飾るのもザラなんです。モデル並みの容姿だから…というか、モデル以上ですね」
「へぇ~、ウチのチームって、女子選手を受け入れたりするんだね」
「ユイさん、それはちょい違います。チームの方針じゃなくて、ノミアだからです。彼女だけが、男子チームでプレーできる実力がある選手なんですよ」
「それってすごいの?」
「ユイさんは野球詳しいですよね?」
「うん」
「日本のプロ野球に、女子選手っています?」
「いないね。女子の硬式野球リーグはあるけど、『日本プロ野球(NPB)』のチームに女子選手はいないよ」
「もし、女子選手がいたら驚きません?」
「驚くよ! すごいと思うよ! 野球界を変える存在になるよね」
「そういう事なんです。全世界のプロ男子サッカー界で、最初で唯一の女子選手なんです。だからマスコミの注目もすごいんですよ。世界中から来てるし、海外でテレビ中継もされているんですよ。この試合が」
「そうなんだ。どうやら私が思っている以上の、とんでもない試合を見に来てるんだね」
「ええ。ノミアが出場する試合は、即・完売ですから」
結佳は、もう一度スマートフォンの画面を見た。
「ポジションが空白になってるね。どうして?」
「全部できるからです。キーパーも含めてね。しかも主力としてできるから、その時のチーム状況によって流動的なんですよ」
「それも、やはりすごい事なの?」
「野球で言えば、キャッチャーの選手が、次の日にショート守ったりします?」
「はぁ? まさか。全然プレーする内容が違うじゃない」
「ノミアは違うんです。キャッチャーのレギュラーであったとしても、ショートもできる。しかも、本業の選手より優秀」
「そんな神がかった選手がいるんだ。でもそんな選手、どうやって獲得したの? 経歴を見ると、海外のチームがスタートになってるね。そのチームより、年俸を多く用意したとか?」
「ユイさん、ウチはJ2だから、多くて四百万くらいです」
「四百万円! すごいじゃない!」
「十九歳のサラリーマンならね。でもあの子には、凄い巨額のオファーがあったハズなんです」
「あ、J1だね? 1部リーグって事だね?」
「いえ、世界です。前チームのセルティックは勿論、イタリアのセリエA・スペインのリーガエスパニョーラからもオファーがあったって噂ですよ」
「へぇ~。そういう所は、お給料がいいんだ?」
「前のセルティックで、三億円くらいって言われています」
「さっ、三億!」
「ノミアなら活躍するだろうから、イタリアやスペインに行ったら、あっという間に十億・二十億ってもらえるようになりますよ」
「そんな選手、どうやって獲得したの?」
「それが謎なんですよ。世界的なクラブチームを蹴って、なぜ日本…しかも2部のウチに来たのか。しかも、自分から売り込みに来たらしいんです。もちろん、代理人を通してですけど」
「えっ、こっちからオファーしたんじゃないの?」
「違うんです。オファーなんて出しませんよ。獲得できるなんて思わないし、見合った年俸も払えません」
「へぇー。聞けば聞くほど、不思議な選手だね。日本でプレーしたかったのかな? Jリーグのチームも沢山あるから、悩んだろうね。条件とかあるだろうし」
「それが、希望チームはウチだけだったらしいですよ。J1は検討もしなかったって噂です」
「ますます分からないね」
「うん、分かりません。でも、その彼女のプレーが見れるんですよ。楽しみですね」
「そうだね。サッカーは詳しくないけど、すごいワクワクしてきた」
試合が始まると、二人は…というより観客全員がノミアに釘付けになった。前線ではシュート打とうとボールを競り合った。中盤では守備をこなして、フォワード陣へのパスを供給した。ゴール前に戻ると、ボールを奪ってセンターバックのように攻撃へ参加した。
結佳が言った。
「あの子、どこにでも出てくるね」
「そうなんです。豊富な運動量。九十分間、全力で走れる体力がすごいんです。守備もできて、ゲームも作れる。でも、なんと言っても最大の武器は---」
敵ゴール前に、センタリングが上がった。相手デフェンダーとセブアライブのフォワードが競り合おうとジャンプすると、後方からがノミアが走り込んできてジャンプし、飛び込んだ。
そのままヘディングをし、ゴールを決めた。
結佳は驚いて言った。
「なに今の? ものすごく高くジャンプしなかった? 身長は百五十三センチだから、そんなに高くないよね? それでも他の選手より高く飛べるんだ」
「ええ。女子の日本代表の平均身長が百六十センチくらいだから、それより低いんです。でも、それを補って余りある跳躍力。走り幅跳びのように走り込んでからのヘディング。最高到達点が地上三メートルとも言われてるんですよ。測った訳じゃないから、言わば伝説ですけどね」
「それは高いの?」
「イタリアのセリエAの長身フォワードの到達点が、二メートル九十センチと言われています。まぁそちらは垂直ジャンプですけどね。ノミアは背が低いトコロを、助走で補ってます」
「あの子の必殺技ってトコだね」
「はい。他のチームからは『スカイ・ラブ・ティフォーネ(イタリア語で台風の意味)』と呼ばれて恐れられてます。逆にファンは大喜びで、待ちに待ってますけどね。あっ、ユイさん、ノミアに注目してくださいね」
ノミアはチームメイトとハイタッチをした後、客席の方を向いた。右手の人差し指を立てると、ウインクをしたまま満面の笑みで、こめかみに向けてクルクル回した。
「可愛いでしょう? 彼女のゴール後のパフォーマンスです。ノミアくるくる、通称『ノミくる』と言って、人気の仕草なんです。サッカーやってる子供達が、真似してるんですって」
鞠子の説明に、結佳の反応が無い。
鞠子が心配になって聞いた。
「ユイさん、どうかしました? 呆然とノミアを見ちゃって」
「い、いや…。あの仕草、何処かで見た事があるかもって…」
「え?」
「ううん、なんでもない! 可愛いパフォーマンスだよね。何をしていても絵になる子だね」
パフォーマンスを終えると、ノミアはゴール前に敵選手が倒れ込んでいるのに気付いた。
先ほどノミアと競り合った時にバランスを崩して倒れたのか、少し腰を打ったらしい。右手で腰をさすりながら、痛そうにしている。
ノミアは駆け寄り、笑顔で言った。
「ごめんなさいね♡」
その選手に両手を差し伸べた。敵選手が右手を差し出すと、両手で握手の様に持ち、引っ張り上げて立たせた。
結佳はその様子を見て声を上げた。
「わぁー! スポーツマンシップだね。爽やかだぁ」
「それは半分だけ。残り半分は違いますよ」
「どういう意味?」
「ユイさんが男だったとします。あれだけ可愛い子に、両手で握手されて『ニコリ!』なんてされたらどうなります?」
「まぁ、メロメロになるよね」
「そういう事です。自分やチームメイトが報復されたりしない様に、懐柔してるんですよ」
「えっ? まさかぁ。それは考え過ぎじゃない?」
「憶測ですけどね。でも、それほど的外れでも無いと思いますよ。現にノミアが出場する試合は、警告カードが激減するって言われてるんです」
「十九歳でしょ? 末恐ろしいわね」
「身体能力と同じように、『女の武器』も使いこなすんです。プロとしてチームを勝たせる為なら、手段は選ばないんですよ。愛嬌がありながら、冷徹に勝利を目指す部分もある。ある意味、完全なプロ選手です」
試合は終わった。四対一で勝利。ノミアは三ゴール・一アシスト。ハットトリックを達成。
結佳・鞠子と観客達は、ピッチの選手に惜しみない拍手を贈った。
ジョルノは祝杯のビールを買い求める観客達に、忙しく対応していた。
しばらくすると、ピッチの手前に用意されたお立ち台で、ノミアへのヒーローインタビューが始まった。
《ハットトリックおめでとうございます。これで出場全試合で達成ですね》
「は~い、ありがとうございま~す。チームメイトとサポーターの皆さんのおかげで~す」
《好調の要因はなんでしょう?》
ノミアは右手でピースサインを作り、右目の横にかざした。いわゆる『ギャルピース』だ。
「サポーターの『ノミアコール』で~す。エヘッ♡」
結佳は他の観客に聞こえないように、ボソリと言った。
「なんかあざといけど、それを上回るぐらい可愛いわね」
「ですよね。観客が喜ぶポイントを、しっかりと押さえてるんですよ。エンターテイナーとしても一流なんですよね」
試合に関する質問が二~三された後、インタビュアーが聞いた。
《ノミア選手はイタリアから来られたそうですけど、日本の生活はどうですか?》
「もう慣れましたよ。食べ物が美味しいです。特にお寿司! 日本のお寿司は最高ですね! イタリアにもお寿司の店があるんですけど、創作寿司ばっかなんですよね~。シャリにトマトが乗ってたりするんですよ~。酸っぱ~い♡」
《得点王最有力と言われているノミア選手ですが、他の賞も狙えるのでは?》
「もちろん狙いますよ! 最優秀選手・ベストイレブン・ベストヤングプレイヤー・最優秀ゴール・フェアプレー…色々ありますよね。五冠・六冠・七冠を目指します!」
《それだけ受賞すると、賞金がすごい金額になりますね。何に使いますか?》
「そうですね。賞金の札束で焚火でもしようかな? ついでに栗も焼きます! アハハ!」
《豪勢な焚火ですね。でも栗というのは? 焚火で栗を焼くのですか?》
「はい、イタリアでは焚火で栗を焼くのは定番ですよ。日本で言う焼き芋ですね!」
インタビューの後半は、ノミアの冗談で会場が沸いて、和やかに終了した。
結佳がクスクス笑いながら言った。
「面白い子だね。ヒーローインタビューも盛り上げるなぁ。ねぇ、キク?」
結佳は鞠子の異変に気が付いた。
なにか考え事をしているように見えたので、鞠子に聞いた
「キク、どうしたの? なんかお寿司の話以降、様子が変だよ?」
「いっ、いえ…。何処かで聞いた事がある話のような気が…」
ノミアはグラウンドから引き揚げる為、出口に向かって歩き出した。わざわざ観客席の近くに行き、笑顔で両手を振りながら歩いて行く。
結佳は嬉しそうに言った。
「近くまで来てくれるんだ。私達からは遠いけど、前の方に座っている人は最高だね」
「ですよね。ファンサービスも抜かりなしが、弓玀ノミアです」
しばらく歩いていたノミアだったが、急に立ち止まって、体の向きを観客席へ正対させた。
そして客席を見上げ、ある一点を見つめ始めた。
ノミアが動かず居続けるので、観客は大喜びだ。大声援が飛んだが、じっと一点を見続けているノミアの耳には入っていない感じだ。
鞠子は言った。
「どうしたんでしょう?」
「変だよね? ファンサービスじゃあない感じだよ。嬉しそうな顔をしてるね」
ノミアの目は、うっとりした優しい目をしていた。この場にいる全員が、ノミアの視線の先を追った。そして気付いた。ノミアが見ているのは、売り子の背中…ジョルノ・ヴェロネージの背中だという事を。
ジョルノだけがノミアの視線に気付いておらず、しゃがんでお釣りや紙コップの整理をしていた。
ノミアは両手を口の周りに添えて、メガホンのようにして叫んだ。
「ソーマさ~ん! 生ビールくださ~い!」
結佳と鞠子は顔を合わせて言った。
「今、名前を言わなかった?」
「いっ、言いましたよ! まさか知り合いなんて事ないですよね?」
ジョルノは観客席にいる客に呼ばれたと思い、声を上げながら慌てて立ち上がった。
「はいっ!」
周囲をキョロキョロ見渡したが、自分を呼んでいそうな客が見当たらない。
ジョルノが困っていると、再び観客席の下から声がした。
「だ~か~ら~! 生ビールくださいって言ってるでしょ? ソーマさん!」
ジョルノは『声は下から聞こえているんだ』と気付き、ピッチを見た。
ノミアの存在に気付き、大きな声で言った。
「あの~、僕でしょうか?」
「やっと気付いた! 今、そっちへ行くからね!」
イラスト:migmag
ノミア
「Ciao Soma,da quanto tempo! Il tuo amore e arrivato dall’ltalia!」
(久しぶりっ、ソーマさん! 貴方の恋人が、イタリアからやってきたよっ!)
ジョルノ
「No,Non La conosco…」
(いえ、僕は貴方を知らないんですけど…)
ノミアは二~三メートル後ろへ下がると、客席へ向かって猛ダッシュした。その勢いで高くジャンプすると、高さ二メートルはある客席スタンドに手をかけ、よじ登ってきた。
観客達は、その身体能力に『おお~っ!』と歓声を上げ、ジョルノも驚いた。ノミアはジョルノの元へ駆け寄り、向かい合った。結佳と鞠子の客席は二人から離れており、声がギリギリ聞こえる距離だ。
ジョルノは戸惑っていた。その理由はノミアとの距離だ。三十センチほどしか離れていない。
ジョルノが『近い』と思って一歩下がると、今度はノミアが一歩近づいてくる。
「逃げないでよソーマさん。ビールを買いにきたんだからさ。一杯頂戴ね」
「ビールですね? 少々お待ちください」
ビールの売り子をしている間は笑顔を心掛けていたジョルノだったが、今は表情がこわばっていた。ノミアの行動にジョルノは動揺していたが、ともかく生ビールの用意を始めた。紙コップを用意し、背中のサーバーからビールを注ぎ始めた。
ノミアはジョルノの頭の先から足の先まで、じっくりと見て言った。
「へぇ~。ビールの売り子って、こういう格好なんだ。可愛いね、ソーマさん」
ノミアはジョルノの被っていた帽子を取り上げて、自分が被った。周囲から『可愛いい~・似合う~』という声が飛んだ。ジョルノはノミアの奔放さに困っていたが、ともかくキチンとビールを注ぐ事に集中した。
ビールを注ぎ終えると、両手で持ってノミアに渡した。
「おっ、お待たせしました」
「は~い! ありがとうソーマさん。あのー、質問があるんだけど」
「はい、なんでしょうか?」
「お金持ってないの。他の支払い方法でも良い?」
「はい。現金じゃなくても大丈夫です。スマホのコード決済でも大丈夫ですよ」
「スマホ持ってるように見える?」
「あ、いえ。持ってらっしゃらないですよね。失礼いたしました」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「えーっと、ここでお待ちしてますので、取りに行って頂けますでしょうか?」
「えぇ~! その間にビールぬるくなっちゃうよぉ」
「ですよね…、では僕が付いて行きますので、お支払いができる場所までお連れ下さい」
「そんなの疲れるよぉ。試合で九十分走り倒したんだよ? もう歩くのヤダッ! お姫様抱っこで、ロッカールームまで連れてって♡」
「そっ、それはダメですね…。えーっと・えーっと---」
困っているジョルノを見て、ノミアは満足気だった。
「フフッ、やっぱりイイな」
「えっ?」
「ソーマさんが、私の為に困っている顔。昔から、その顔が一番好きなの。その瞬間は、私の事だけを必死に考えてくれてれる証拠だもんね。愛情を感じちゃうよ」
「あの、おっしゃっている意味が良く分からないです」
「じゃあ駄々をこねるのは止めにしようかな。ここで払うよ」
ジョルノは安心した。
「はい、ではお願いします。現金かスマホをお持ちなんですね?」
「だから持ってないって。こっちで払うよ」
「こっちって?」
ノミアはウットリした表情になって言った。
「Paga con un bacio… (パガ コン ゥン バッチョ…)」
結佳は鞠子に聞いた。
「ねぇ、ノミアは今なんて言ったの? キクは大学時代、イタリアからの留学生と親しかったから、多少はイタリア語が分かるんだよね?」
鞠子は青ざめた表情になっていて、答えようとしない。
結佳はもう一度聞いた。
「…キク? 聞いてる?」
鞠子は不安そうな声で言った。
「ノミアは『私のキスで支払うわ』って言いました…」
「は?」
ノミアはしゃがんでビールをそっと地面に置き、立ち上がった。次に両手でジョルノの肩をつかみ、背伸びをした。そして目を閉じてジョルノに顔を近づけていく。
女性のキス顔が迫ってきたジョルノは慌て、後ろに体を引こうとした。しかし、ガッチリと肩をつかまれていて動けない。相手は小柄な女性だが、トップアスリートである。力では負ける。
ジョルノは、思わず叫んだ。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
それと同時に、額に『コツン』という物が当たった感覚があった。ノミアの被っていたジョルノの帽子のツバが当たったのだ。おかげでノミアの顔の接近が止まった。
ジョルノはホッとしたが、ノミアがすぐに言った。
「ソーマさん、安心している場合じゃないよ。こうすればいいだけじゃん」
ノミアは帽子を回転させ、ツバを後ろに向けた。そして間髪入れずに、唇を軽く『チュッ』とジョルノの唇につけて、一瞬で離した。ジョルノは全身の力が抜けた。背負っているビールサーバーは十五キロあるので、後ろに倒れて尻もちをついた。
ノミアは笑みを浮かべてジョルノに近寄り、しゃがんで言った。
「大丈夫? 次はビールを背負っていない時にしようね。フフッ!」
そしてノミアは満面の笑みで、大きな声で言った。
「Signore Some! Ti amo! (シニョーレ ソーマ! ティアーモ)」→ソーマさん! 愛してる!
ジョルノは呆然とした表情で言った。
「Signore? Lo? (シニョーレ? ロ?)」 → 愛してるって、僕をですか?
●
場所をスタジアムの食堂に移動した。出入口などの周辺には、スーツ姿の屈強な男女が見張っていた。ノミア専用のボディーガード達である。
食堂内では、八人掛けのテーブルにジョルノとノミアが並んで座り、向かい側に結佳と鞠子が並んで座っていた。四人の前には水やお茶のペットボトルが置かれていた。ノミアの前にはペットボトルに加え、先ほどジョルノから買ったビールの入った紙コップも置かれている。
ノミアはユニフォーム姿のまま。ジョルノは売り子姿のままだ。ノミアは横に座ってるジョルノの右腕に、ずっと両手を絡めている。
そして笑顔で言った。
「ソーマさん、どうだった? 今日の試合」
ジョルノは少しうつむき加減で、顔を真っ赤にしていた。恥ずかしさで参りそうなジョルノだったが、なんとかチラリとノミアに目だけを向けると言った。
「あの、弓玀選手。手を離してもらえませんか?」
ノミアはジョルノの顔を、下から覗き込んだ。
「だ~か~ら! ノミって呼んでよ。昔みたいに」
ジョルノは顔を後ろに引いて言った。
「昔? 初対面ですよね?」
「はぁ…。このループ、何回したら気が済むの?」
ノミアは覗き込んでいた顔を引っ込め、手を離した。深いため息をつくと、テーブルに置いてあるビール入りの紙コップを持った。
結佳は慌てた様子で言った。
「ストップ! 弓玀選手」
「えっ、なんでしょうか?」
「スマートフォンでプロフィールを拝見しました。貴方十九歳でしょう? お酒は駄目ですよ」
「大丈夫です。私、二十歳になりました。誕生日なんですよ、今日」
「えっ、そうなんですか?」
鞠子はスマートフォンでプロフィールを確認した。
「本当だ。今日が誕生日だ。おめでとうございます、弓玀選手」
結佳も言った。
「ごめんなさい。おめでとうございます」
「ありがとうございます。ところでソーマさん、どうして貴方は私がビールを飲むのを止めなかったの? 今日が二十歳の誕生日だって、知ってたからだよね?」
「違います。イタリアでは飲酒は十八歳からできますから、勘違いしたんです」
「チェッ、上手くかわしたか。でも『おめでとう』くらい言ってくれてもいいんじゃない? このお二人は言ってくれたよ?」
「まぁ…、それはそうですね。お誕生日、おめでとうございます」
ノミアはニッコリ笑って言った。
「フフッ、ありがとう、ソーマさん!」
「でも、私は貴方を知りませんから。サッカー選手としては、存じてますけど」
「それは寂しい言い方だなぁ、四年振りに会ったっていうのに。私、見違えたでしょ?」
「見違えるもなにも、四年前を知らないです」
「顔だけじゃないよ。こういうトコロも成長したから」
ノミアはそう言うと、両手でジョルノの右手のひらを持った。そして自分に近づけ、手の甲を自分の胸に軽く押し付けた。ジョルノは慌てふためき、手を振りほどいた。
「ちょっとぉ! なにをするんですか!」
「アハハ! お堅いのは相変わらずだね。そういうトコロが大好きだよ。女に誠実だね」
結佳と鞠子は呆然と二人を見ていたが、状況が分からない。
結佳がノミアに聞こうとした。
「あの、弓玀選手---」
ノミアは声をかけられると、体を結佳と鞠子の方へ向けた。
そして立ち上がって言った。
「そうだ! 自己紹介がまだでしたね。丈璃乃さん・玖口さん、初めまして。弓玀ノミアと申します。よろしくお願いします」
ノミアが深々とお辞儀をすると、二人も釣られるように立ち上がって名乗った。
「そんなご丁寧に、ありがとございます。私は丈璃乃 結佳です」
「玖口 鞠子です」
二人もお辞儀をすると、三人は自然と椅子に座った。
ノミアは結佳と鞠子に言った。
「私の事はノミアって呼んでくださいね。お二人の事も、お名前で呼んでいいですか?」
結佳は言った。
「はい、いいです」
鞠子も答えた。
「私もです」
「私、日本に来て長くないから、女の子の友達がいないんです。仲良くしてくださいね」
鞠子は戸惑いながらも答えた。
「はっ、はい」
ノミアはジョルノに聞いた。
「ねぇ、ソーマさん。お二人とは、どういう関係なの?」
「関係ですか? 僕じゃなくて、お二人に直接伺ってください」
「私はソーマさんから聞きたいの」
「関係は…、丈璃乃さん・玖口さんとの関係は---」
「仕事上の知り合い?」
「いえ、違います。二人は友達です。僕の好きな友達です」
結佳と鞠子は、『知り合い程度』というような回答をすると思っていたので驚いた。
結佳は嬉しさがあったが、鞠子の心中は複雑なようだ。
「ソーマさんは、こう言ってますけど、間違いありません?」
結佳は少し微笑んで言った。
「はい、お友達です。私も好きですよ」
鞠子はノミアと視線を合わせず、小さな声で言った。
「まぁ…ね」
ノミアは嬉しそうにジョルノに言った。
「すごい! ガールフレンドが二人もいるんだ! 昔は私以外の女と喋れなかったのに!」
「いやだから、昔の貴方を知りませんってば」
鞠子は渋々な感じで聞いた。
「ノミアさんは、ジョルノ…ソーマさんとは、どういう御関係なのですか?」
「幼馴染みだったんです」
「『だった』って言いました? じゃあ今は?」
「婚約者ですよ。彼は私の fidanzato (フィダンツァート)です」
結佳・鞠子・ジョルノは目を丸くしてノミアを凝視し、黙り込んだ。
ジョルノは恐る恐る聞いた。
「あのー、弓玀選手」
ノミアはジョルノと目線は合わせているが、返事をしない。
「聞いてます? 弓玀選手」
「弓玀って呼ぶの止めてくれない? ノミって呼ばないなら返事しないから」
ジョルノは困りながら言った。
「じゃあノミアさん」
「もう~。ま、ひとまずそれでいっか。で、なに?」
「僕、貴方と婚約しているのですか?」
「したよ」
「いつ?」
「だいたい四年前かな」
「してないですよね?」
「あー、そんな言い方するんだぁ、悲しいよぉ。って言うか、トボけてるよね?」
ジョルノが黙ったので、鞠子がノミアに聞いた。
「彼の名前なんですけど、私達は『ジョルノ・ヴェロネージ』と聞いてます」
「あ、ジョルノって名乗っているんだ。ちょっと待ってくださいね」
ノミアは立ち上がると、少し離れた所にあるホワイトボードの前に来た。大人が両手を広げたぐらいの大きさだ。食堂の『本日のお勧め定食』などのお知らせが、普段は書かれている。
ノミアは、それらを手際よくイレーサーで消した。そして背伸びをして、ホワイトボードの上部から、黒のホワイトボードマーカーで大きく文字を縦書きした。
『北九条 颯真』
書き終えるとホワイトボードを背にして、座っている三人に対した。まるで先生のような状態になっている。
そしてジョルノに元気よく言った。
「はい、ソーマさん! これを読んでください!」
ジョルノは自信なさげに、たどたどしく答えた。
「え~っと…、にしく、じょ、う…。残り二文字は読めないです」
そう聞いて、鞠子は呆れたように言った。
「アンタ漢字に弱いの? 医薬とはいえ学者でしょ? 『北』は『きた』って読むんだよ」
「あっ、『きた』って読むのか。漢字は難しいんだよ、イタリア人にとってはな」
ノミアは鞠子と結佳に言った。
「『北九条 颯真 (きたくじょう そうま)』。これが彼の本名です」
ジョルノは顔をしかめた。
「だから、僕はジョルノ・ヴェロネージです。そんな名前じゃないですって」
名前について話している間、結佳だけは名前の書かれたホワイトボードを凝視していた。
鞠子は周囲に聞こえないよう、小声で結佳に言った。
「ユイさん、どうしたの? 何か気になるの? 難しい顔してるよ」
「う、ううん、なんでもないの」
結佳は鞠子の問いにそう答えた。
次にノミアの方を見て、右手を少しだけ挙げて言った。
「あの、ノミアさん」
「はい、結佳さん。なんでしょう?」
「そもそもなんですけど、どうして私と玖口がここに呼ばれたんでしょう?」
「あっ、それは簡単ですよ。私がお二人にもお会いしたかったからです。日本で生活を始めたソーマさんが、どんな人と付き合いがあるのかなって調べたんです。そうしたらお二人だけだったから、お人柄を知りたいと思ったんですよね」
鞠子が言った。
「会いたかったって? じゃあ、この試合に私達が来るようにしたのは、ノミアさん?」
「はい。お二人が上内製薬の社員さんって知ったから、社長さんにお願いしちゃいました」
「社長とお知り合いなんですか? 私達社員ですら会えないのに」
「お会いした事は無いですよ。私の秘書に、お願いするように指示したんです」
「秘書…? ノミアさんって、何処かの会社に籍でもあるのですか?」
「そうです。『Curare farmaci (クラーレ・ファルマーチ)』って御存知でしょうか?」
「クラファル? 当然知ってます。イタリアの大手製薬会社…というよりは、ヨーロッパ圏で最大手ですよね。ウチも大手ですけど、クラファルには敵いません」
結佳も聞いた。
「ノミアさんは、クラファルと御関係があるのですか?」
「ええ。そこでCEOに就任予定なんです。と言ってもまだ内密だし、将来の話ですけど」
結佳と鞠子は驚きのあまり、一緒に絶叫した。
「CEO!」
ノミアはクスッと笑った。
「フフッ、お二人ともハモリましたね。いきなり見ず知らずの私がお願いしても、
来てくれないかもと思って。会社の業務命令なら、来てくれるでしょ?」
鞠子は言った。
「なるほど。クラファルの次期CEOなら、ウチの社長もどんなお願いも聞くでしょうね。確かクラファルは、ラッティーン博士の親族が経営していますよね? じゃあノミアさんは?」
「私はシルビノ・ラッティーンの末娘です。本名はシルビノ・ノミア。『弓玀』は日本のサポーターの皆さんに、親しみを持ってもらう為につけたピッチネーム、
いわば『芸名』ですね。本名の『シルビノ』を隠したのは、クラファルと関係があると思ってほしくなかったらなんです」
「そうなんですね」
「兄弟が他に三人いるんですけど、みんな研究職とか、自分のしたい事があるんですよね。だから私がCEOになる…というか、ならされるというか。引き受ける条件として、今はサッカーを自由にさせてもらっているんですよ」
ノミアは鞠子に言い終えると、次にジョルノを見た。
そしていたずらっ子のような笑顔で言った。
「ところでソーマさん、ここは驚くトコロだよ? 私の事は知らないんでしょ? だったらココは、驚かないとダメなんじゃないのぉ~?」
「突拍子も無い事をおっしゃるから、戸惑っていただけです」
「チェッ、また上手くかわしたか」
鞠子がノミアに聞いた。
「どうしてこの時期に、ジョルノに会おうと思ったのですか?」
「Jリーグで実績を積んでからと思ったんです。スコットランドのセルティックでも、去年の『スコティッシュ・プレミアシップ(スコットランドの1部リーグ)優勝』・『チャンピオンズリーグ優勝』っていう結果は残しましたけど、ソーマさんが住んでいる日本のJリーグで、改めてね。恋人…婚約者として再会したいという気持ちはあります。でも、『サッカー選手』として会いたいという気持ちも強くって。チームもJ1昇格が決まりかけているし、私も得点王などのタイトルが獲れそうですし。『貴方の愛弟子が、こんなに凄い選手になったんだよ』って見せてあげたかったんですよね」
ジョルノはノミアに聞いた。
「あの、聞いていいですか?」
「ソーマさんが聞きたいならなんでも答えるよ。なに? スリーサイズ? Bカップだよ」
「真面目に聞いてください! じゃあ、僕がこのスタジアムでビールの売り子をするようにずっと勧誘していたのは貴方ですか?」
ノミアは笑顔で言った。
「そうだよ。お店のオーナーさんにお願いしてね。もちろん、私の指示って事は内緒だよ。Jリーグでかなり実績を積み上げた八月くらいから勧誘してたのに、全然来てくれないんだもん。寂しかったなー」
「『そうま』っていう売り子名が決められていたのは?」
「私が秘書を通して、お店のオーナーさんに頼んでおいたの」
「なぜ僕を、スタジアムで働かせようとしたのですか?」
「私がカルチョをしているトコロを見てほしかったの。普通に観客として招待してもこないでしょ? 売り子になったら、定期的に見てもらえるかなーって思ったの」
「僕が募集に応じなかったら、どうしていたんですか?」
「私はソーマさんの弱みなんて、いっぱい知っているからね。別の手段を考えたかな。脅迫してでも来てもらったよ。エヘッ!」
嬉しそうに話すノミアに、ジョルノは戸惑って言った。
「僕がカルチョの試合を見ても、意味がないですよ。ノミアさんと知り合いじゃあないんですから。それに、カルチョも詳しくないし」
「へぇ~、ココでは『カルチョは詳しくない』ってキャラにしてるんだぁ」
結佳が聞いた。
「それって、どういう意味でしょうか?」
「ソーマさんは私にカルチョを教えてくれたんです。私のmaestro (マエストロ)です」
結佳は鞠子に聞いた。
「マエストロって、どういう意味?」
「『師匠』とか『先生』って意味です」
ノミアは結佳と鞠子へ言った。
「五歳くらいから教えてもらったんですよ。『トラップ・ボールタッチ・リフティング』。この三大基礎を、徹底的に仕込まれましたよ。と言っても、特訓っていう雰囲気ではありません。楽しく、お遊び感覚でね。いつも大笑いして、毎日が楽しみでした」
結佳が言った。
「確かにジョルノ先生は、『昔、五歳の女の子の、サッカーの相手をしていた』と話されていましたが…」
「あっ、それ私だ」
ジョルノはノミアに言った。
「違います! ノミアさんじゃないです! 近所の女の子と、サッカーボールで遊んでいただけで、教えたりしてません! というか、教えたりできないし!」
結佳が続いてノミアに言った。
「ノミアさん。確かにジョルノ先生がサッカーが上手って言うのは、信じがたいです」
「あら? どうしてですか?」
「一緒にバッティングセンターに行った事があるのですが、スポーツが出来るタイプには見えませんでした」
「『ばってぃんぐ』ってなんですか?」
「野球のプレー動作の一つです」
「やきゅう? あっ、ベースボールの事ですね。イタリア人にバッティングなんて出来ませんよ。ベースボールの選手に『リフティングを上手にやって』と言っているのと同じです」
ジョルノは我慢の限界がきたのか、少し声を荒げた。三人は少し驚いてジョルノを見た。
「ノミアさん、いい加減にしてください! 僕はジョルノ・ヴェロネージであって、
『ソーマ』ではありません。ご理解頂きたいですね」
ジョルノの強い言葉に、ノミアも強く言い返した。
「じゃあ証明できる?」
「証明? 戸籍謄本でも見せろと言うのですか?」
「それじゃあダメだよ。書類なんて幾らでも偽造できるからね。例えば…そうだね、指紋を採取するなんてどう? これが一致すれば、科学的に間違いはないよ」
ジョルノは吹き出しそうになるのをこらえ、チラリと結佳と鞠子を見た。
「プッ! 指紋の採取かぁ。なにかと縁があるんだよね、それ。ねぇ丈璃乃さん」
結佳は恥ずかしそうに視線を下げた。
「もう、キツイなぁジョルノ先生」
鞠子も困った顔で、右手で自分の後頭部をかいた。
「言い返せない…」
ノミアは不思議そうに、三人を見渡した。
「ん? どうかされました?」
ジョルノがノミアに言った。
「なんでもないです。分かりました。指紋採取を受けますよ。なんならDNA鑑定でもいい。僕はソーマじゃないので、絶対に大丈夫だから問題ないです。いつでも言ってください」
ジョルノに堂々と言われ、ノミアは肩を落として言った。
「そんな自信満々に言われたら、こっちが自信なくしちゃうよ」
ジョルノは少し鼻で笑った。
「フッ…」
するとノミアは胸を張り、自信満々で言った。
「なぁ~んてね。そんな事ぐらいでひるむとでも思ってんの?」
「えっ?」
「ソーマさん。貴方は今、こう考えたでしょう? 『ここまで自信満々に啖呵を切ったら、DNA鑑定なんて躊躇するだろう』ってね」
「…」
「ところが! 私はそうはいかないんだなぁ。そんなに爪は甘くないよ。絶対にやってもらうからね」
結佳はノミアとジョルノのやり取りを聞いていて、少し青ざめていた。
鞠子は小さな声で聞いた。
「結佳さん、どうしたの? 大丈夫?」
「ん? だっ、大丈夫だよ」
ノミアは自信あり気な表情から一転し、不思議そうな表情に変わっていた。
「あのさぁ、ソーマさん。さっきから不思議に思っている事があるの」
「不思議って?」
「私達が話し始めて、結構な時間が経ってるじゃない? 何度もソーマさんを困らせてるのに、『アレ』が出ないなと思ってさ」
「アレって?」
「クセだよ。ソーマさんは困った時には、こめかみを指でグリグリ押すじゃない?」
「どうしてそれを知っているんですか? まぁ、それは最近指摘されまして、しないように気を付けているんです」
「気を付けないで、したらいいのに。私のゴールパフォーマンスだって、ソーマさんのクセを参考にしたんだからね」
「そんな事を言われても、サッパリなんですが」
ノミアは黙り込んだジョルノを見て、両手を軽く『パンッ!』と叩いて、笑顔で言った。
「さて! 今日のトコロはこれぐらいでお開きにしましょう。ソーマさんも帰るでしょ?」
「ええ、もちろん帰ります」
「先に帰っておいてね。私はまだ、チームのミィーティングとか残ってるから」
「はぁ…。ミーティングとか関係無く、僕は先に帰りますよ」
「次は一緒に帰ろうね。これからは、同じアパートに住む訳だしさ」
ジョルノは少し考えて、ある事を思い出した。
「あの、今日付けでウチのアパートに新しい入居者が来るんですけど、まさか---」
ノミアは右手の人差し指を立て、笑顔で自分を指した。
「そっ、私。今日から入居するの。長かったホテル住まいもおしまい。よろしくね、大家さん」
「ほっ、本気で言ってます? 計三部屋入居するんですけど、他の二部屋も関係があるのですか?」
「うん、全部私だよ。一つが私の部屋。もう一つが荷物置き」
「あと一部屋は?」
ノミアは両手を頬に当て、目を閉じて顔を赤くした。
「やだ~、ソーマさん。それを私に言わせるの? 大胆だなぁ♡」
●
時刻は二十時を過ぎた。結佳と鞠子は行きつけのファミレスで食事をしていた。
結佳の前にはスパゲッティ・鞠子の前にはステーキが置かれていた。
鞠子は、結佳のスパゲッティを見ながら言った。
「なかなか減りませんね。食欲ないんですか?」
「私よりキク、アンタだよ。まだ半分も食べてないじゃない。さっきからフォークでグサグサ刺してるだけ。試合前は『今日はステーキ食べるんだ』って、楽しみにしていたでしょ?」
「まぁ、そうなんですけど…。私、肉が好きじゃないですか? でも、野菜も食べなきゃなって。研究者ってアスリートと一緒で、栄養管理も大事ですよね。ふと思い出しました」
「そう…」
鞠子がなぜ思い出したかは察しがついたが、あえて言わなかった。
「ねぇ、キク。どう思った?」
「どうって?」
「さっきの二人だよ。キクはどう思ったの?」
「まあ、どちらかが嘘をついているって事ですよね」
「私は、ノミアさんが嘘をついていると思う。人間的な好き・嫌いで言ってないよ」
「どうしてですか?」
「ジョルノ先生を幼馴染みだって言ってるけど、直接会えば本当かどうか分かるでしょ?」
「それは、私もそう思います。ただ、私はジョルノが嘘をついていると思います。ノミアを見ていてそう思いました。あっ、私も個人的な感情は込めてませんよ」
「ノミアさんを見て?」
「初対面の男にキスしたり、手の甲とはいえ胸を触らせたりしませんよ。少なくとも、ノミア側に恋愛感情がないとできません。それに気になるのは、アパートの『第三の部屋』。あんな事を言って、本当にジョルノが迫ってきたらどうするんですかね? それでも構わないって思ってるとしたら、ノミアが言っている事は本当の気がします」
「でもジョルノ先生は、私達の誘惑を振り切れるような男の子だよ?」
「私達はそうなったとしても『行きずり』です。でもあの二人なら、ノミアいわく『婚約者』ですからね。自然な流れです」
「ノミアさんがジョルノ先生を『幼馴染み』・『婚約者』と言ってるけど、それが嘘か本当かは分からない。でも、あの子がジョルノ先生の事を、今好きなのは本当だろうね」
「えっ? 断言できます?」
「誕生日の話になった時、彼言ったでしょ? 『誕生日おめでとう』って」
「まあ、無理矢理言わされた感じですけど。それがなにか?」
「あの時のノミアさん、とても嬉しそうだった。キクの言う通り、無理に言わせた感じだったけどね。それでも好きな男の子に言われたら、それは嬉しいよ」
「うーん、確かに良い表情はしていましたね。可愛かった」
「でしょ?」
「私、気付いたんです。ノミアって『突撃型』ですよ。たぶん」
「どういう事?」
「ジョルノと幼馴染みで・婚約していて、・ジョルノが好き。この三つが本当だったら---」
「…だったら、どうなるの?」
「もうなりふり構いません。既成事実を作り上げて、絶対に手に入れる気ですよ。
ジョルノ・ヴェロネージをね」
「既成事実って、具体的になんなの?」
「もう始まってますよ」
「だから、なんなの?」
鞠子はスマートフォンを取り出し、SNSアプリを開いた。少し操作をして結佳に見せた。
「はい、ユイさん。画面を見て」
画面を見た結佳は、驚いて言った。
「これってさっきの?」
スマホの画面に表示されたのは、先程のノミアとジョルノのキスシーンの画像だ。
結佳は画面を下へスクロールさせていく。
「うわあ~、どんどん出てくるね。一万人の前で、あんな事をするからだよ。可哀想に」
「可哀想って?」
「こんな写真を撮られて、拡散されてるんだよ? ノミアさん、困っているだろうね」
「はぁ? 違いますよ。これは狙ってやったんですよ。わざとですよ!」
「それ本当?」
「ええ、これも『キスをした』っていう既成事実です。こういうのを積み重ねて、ジリジリとジョルノとの距離を詰める気じゃないですか?」
「『こういうの』って、他には?」
「さっき話したじゃないですか。『第三の部屋』ですよ。究極の既成事実。『妊娠』ですね」
「にっ、妊娠?」
「みんな私の推測ですけど。もし全て当たっているとしたら、恐ろしすぎます。十九歳の発想とは思えません。…あ、今日で二十歳か」
「確かにノミアさんは、一見すると可愛い女の子。でも、そうとう度胸があるとは思った」
「なにかありました?」
「ほら彼女、DNA鑑定の話をしたじゃない? ジョルノ先生は『やれるものならやってみろ』的な事を言ったけど、彼女はひるまなかった」
「それが度胸なんですか?」
「私、キクに『ジョルノ先生に在留カードを見せてくださいと言った』っていう話をしたでしょ? その時、ジョルノ先生は見せようとしたから、私はそれだけで大丈夫だと思って確認しなかった。でも、あの子は途中で止めない。確認する気だよ。私みたいに爪が甘くない」
「それで二人がDNAの話をしている時、青ざめていたんですね」
「私も仕事やプライベートを諦めないタイプだけど、あの子には負けそう。執念を感じるもん」
「ジョルノがスタジアムで売り子をするように仕向けたのは、ノミアなんですよね」
「うん、ノミアさんが言ってたね」
「『募集に応募してこなかったら、脅迫するつもりだった』って、笑顔で言ってましたけど…」
「脅迫は比喩か冗談かもしれないけど、なんとしてでも、自分がサッカーをしている姿を見せようとしたと思うよ」
結佳は何かを思い出したかのように、『フッ』と笑った。
不思議に思った鞠子は聞いた。
「ユイさん、どうかしました? なんか嬉しそうですね」
「うん。ジョルノ先生の売り子の話だけどさ。彼の真面目な一面が分かったと思ったの」
「真面目…ですか?」
「あの子はさ、ハッキリ言って、もう働かなくても生活はできるよ。研究が好きなら、それだけやってればいいハズなの。それでも私やキクに影響を受けて、新しい事・苦手な事に挑戦した。性格は難しいけど、『向上心は人一倍あるんだな』って思ったの。真面目な子だね」
結佳にそう言われ、鞠子はキツい口調で言った。
「つまり、『キュンときた』とでも言いたいんですか?」
結佳は慌てて否定した。
「ちっ、違うよっ!」
「違うんですね? ジョルノに恋なんてしていないんですよね?」
結佳は冷静に言った。
「うん、違うよ。『真面目な子なんだなぁって思った』っていう話だよ」
結佳は冷静に言ったつもりだったが、鞠子は若干の声の震えを聞き逃さなかった。
鞠子は呆れた口調で言った。
「もう良いです。正直に言ってくれませんか」
「だから、恋なんてしていないよ」
「じゃあ、私から正直に言います。そうしたら、ユイさんも言ってくれますよね?」
「正直って?」
鞠子は表情を引き締めて言った。
「私は、ジョルノ・ヴェロネージが好き。研究者としても・男としても」
「きっ、キク。アンタはやっぱり---」
「---だった」
「えっ?」
「好きだった。興味を持っていたから、そのまま好きでいたら、恋になったかもしれない。でも、私は冷めてしまいました。『データ盗用』の件で、『信用していたのに裏切られた』っていう怒りの感情が支配してしまって。もちろん、割り切るのは簡単じゃあなかったですよ。定時で家に帰ったり・有給で休んだしても、なんにも集中できなくて」
「…うん」
「さっき、スタジアムにいた時、ユイさん言いましたよね? 『データ盗用があったからって、全部を黒くできない』って。私はダメだった。黒い感情に塗りつぶされてしまったんです。それで思いました。私は一時的な感情の高まりだったけど、ユイさんは本当に好きなんだって。ジョルノを信じようとしている・信じたいと思っている。でしょ?」
「うん…」
「私は正直に言った。次はユイさんが答える番。貴方はジョルノ・ヴェロネージが好きですか?」
結佳はアッサリと即答した。
「うん、好きだよ」
「違う! 『人として好き』って話じゃない! 男として好きかって聞いてんの!」
「おっ、男として?」
「そう。正直に言ってください。ユイさんがこの質問を誤魔化したり、・嘘をついたりしたら、私はユイさんと縁を切る。本気ですよ」
「そんな!」
「このまま曖昧に時間を過ごしても、ユイさんの為にならないもん。ジョルノの為にもならない。ユイさんの助けになるなら、私は平気で悪魔にだってなってみせますよ」
「キク…」
「さあ、どうですか?」
結佳は両手を膝の上に置いた。そして少しうつむき、目を閉じた。
そして力の無い声で言った。
「私、ジョルノ先生が好き。男の子として好き。こんな子が恋人だったら良いなって、考えてしまう…」
鞠子の表情は厳しいままだったが、穏やかな口調で言った。
「そう。じゃあ話は簡単だね。告白しましょう。ノミアにかき回される前に、早く---」
結佳は鞠子の言い終えるのを待たずに、弱い声で返答した。
目は開けたが、顔はうつむき加減のままだ。
「好きだけど、恋人にはなれない」
「どうしてですか?」
「私、三十六だよ。もうすぐ三十七になるの。もうおばさん。おばさんが、二十四の男の子の恋人になんて、なれないよ」
「それはユイさんが決める事じゃない。ジョルノが良いんなら、問題無いんですよ」
「良いなんて言わないよ。それに動機が不純すぎる」
「動機って、好きになった理由って事ですよね? 真面目で女に真摯に接するトコロでしょ? 意外と素直なトコロでしょ? 紳士的に振舞えるトコロでしょ? 裏稼業とはいえ、仕事の才能があるトコロでしょ? こんな感じですよね?」
「表向きは、そうだよ」
「表? 裏ってあります? 人に言えないような理由でもあるんですか?」
「最初は外見に釣られたの。ジョルノ先生の顔立ちは、弟の昴に似ているんだよね。昴とは八歳で死別したけど、昴が二十五~六歳になったら、今のジョルノ先生みたいになっていたかもね。裏稼業だけど、仕事の才能がある。彼から教われば、私の仕事にも大いに役立つと思ったの。お金もある。性格に癖はあるけど、女には従順。私が主導権を握れるなって思った。お父さんとは連絡を絶っているらしいし、お母さんは亡くなっているの。だからもし結婚するとしても、姑も舅もいないし…」
「ユイさん、顔を上げてください」
そう言われても上げなかった。鞠子は右手で握り拳を作り、軽く机を『ダンッ』と叩いた。
少し大きめの声で、厳しく言った。
「顔を上げなさい! 丈璃乃 結佳!」
鞠子の怖い口調に驚き、結佳は素早く顔を上げた。
「はっ、はいっ!」
「あのさぁ、さっきからなに言ってんの? 裏なんて言い出すから何事かと思ったら、どうでもいい普通の事ばかりじゃん」
「どうでもよくないよ。私の不純な考えだよ」
「あのね! 今、結佳さんが言った事は、『ルックス・年齢・仕事・経済力・家族構成』って事なの! そんなの結婚相談所や出会い系アプリを使ったら、最初に答える必須項目だよ。不純どころか、その希望を隠していたら、むしろ警戒されるっつーの!」
「そうなの?」
「そうだよ! じゃあ聞くけど、『ルックスが悪くて・年の離れたおじさんで・お金が無くて・嫌な姑がいる男』だったら、真面目な恋だとでも言うつもり?」
「そんな! それは無茶苦茶だよ」
「ユイさんの言っている事は、そういう事なんだよ! しっかりしてよ!」
「は、はい…」
「私、ユイさんの事は、色々なトコロを尊敬しているよ。一番は冷静なトコロ。物事を俯瞰した視点で見れるというか。冷静どころか、冷酷と言ってもいいぐらいに客観的に決断したりするもの。特に仕事だと、さらに冴えるものね。ところが自分の恋愛となるとねぇ---」
「恋愛だと…、どうなの?」
「優柔不断になる。物事を間違って受けて止める。自分を見失う」
「よく分かんない」
「要するに、『乙女になる』って事ですよ」
「おっ、乙女ぇ~?」
「以前、ユイさんに恋人ができそうになった時、多少はこういう『症状』はありました。でも、ジョルノに関しては比較にならない。『重症』です。つまり、ユイさんはジョルノ・ヴェロネージが好きなんてモンじゃない。大好きなんですよ。大・大・大好きなんです。恋しちゃったんですよね?」
「こっ、恋…」
「私が今言った事、少しでも間違いがありましたか?」
結佳はゆっくりと顔を少し下に向けると、真っ赤な顔で目を閉じてボソリと言った。
「ありません。私はジョルノ先生の事が大好きです。恋人になりたいです」
すると、鞠子の『へへーっ』という明るい声が聞こえたので、結佳は顔を上げた。
視線の先には、ニッコリと笑った、鞠子の爽やかな笑顔があった。
「その言葉を聞きたかったんですよ。これで私も気持ちを切り替えられる。ユイさんの恋の成就を心から願えますからね」
「ありがとうね、キク。おかげで自分の気持ちに整理がついたよ。良かった」
「どーいたしましてっ!」
「ただ、それとジョルノ先生との恋愛が成就するかは別なんだよ」
「どういう事ですか?」
「ノミアちゃんだよ。若くて・美人で・サッカーのスター選手で・世界的な会社のCEO。私じゃあ太刀打ちできない。卑屈になって言ってるんじゃなくて、客観的にそうでしょ?」
鞠子はキッパリ言った。
「そうだね。ユイさんの言う通りだと思います」
「うん…」
「でも、それは関係無い。ジョルノとノミアの問題であって、ユイさんには関係の無い事です」
「いや、あるでしょ? どうしてそう思うの?」
「ユイさんは野球が好きだから、それで例えましょうか? ユイさんがプロ野球選手で、正捕手候補だったとします。『正捕手』というポジションをつかむ為に努力するでしょ?」
「うん、するよ」
「そこにもう一人の正捕手候補が入団してきた。しかも若い。二人共ポジションを取る為に努力をする。ユイさんはどうする? ライバルの事ばかり気にして意味あると思う? ライバルがバッティング練習を始めたら、自分のスケジュールを変えてバッティング練習を始めるの? まずは自分でしょ? 自分が野球を上手くなるように、頑張るしかないんです」
「それでライバルに正捕手の座を奪われたら?」
「それまでです。『あー、ダメだった。残念!』ってだけの話ですよ。人生で自分の思い通りになる事なんて、一割もないんじゃないかな? 仕方ないです。でも---」
「でも?」
「その一割を、大切にしたい恋に使えたら、最高ですよね」
「フフッ、その通りだね。『正捕手』を目指すよ」
「告白のタイミングはどうします? 私は早い方がいいと思う。極端な話、ユイさんが『今からジョルノのアパートに押し掛けて告白する』って言うんであれば、止めませんよ」
「私だって早く言いたいよ。もし今度会う機会があった時、我慢できる自信がないもん。恋は先着順じゃないけど、自分の想いを早く伝えておくのは大切だと思う。ただ---」
「あ、分かりますよ。ユイさんが何が気になっているか。二つあるんでしょ?」
「うん。一つは『データの盗用』。今までのジョルノ先生。そして今日、慣れない売り子の仕事を頑張っているジョルノ先生を見ていて思ったの。彼はデータの盗用なんてしなかったと信じたい。したとしても私利私欲じゃない。彼の真意を知りたいの。いや、知りたいと言うより、それを私に話しても良いと想ってもらえるぐらい、信用されないと恋愛なんてできないよ」
「うん、そうですよね。でも、それは大丈夫です。どんな形であれ、ユイさんと接点を持っていれば、絶対に信用してくれる日が来ます。それは、親友の私が保証します」
「ありがとう、キク」
「そっちは大丈夫。問題は、もう一つの方ですよね」
「うん、そうなんだよ。気付いてた? もう五分おきくらいにスマホが鳴ってるんだよね」
二人は苦笑いをしながら、自分のスマートフォンを手に持って画面を見た。
ノミアに懇願されて作った、三人のメッセージグループ。
ノミアから二人宛に、メッセージが続々と送られてきていた。
《今日はお会いできて嬉しかったです》
《お二人は日本に来て、初めて出来た女の子の友達です》
《お寿司食べに連れて行ってくださ~い。女子会しましょう》
結佳は左手でスマホを持ち、右手で頭を抱えて言った。
「まったく、可愛い事を言ってくれるよね。もっと生意気で腹の立つ事でも言ってくれないかな」
鞠子もスマホを見ながら言った。
「本当ですね。美味しいお寿司を食べさせてあげたいと思っちゃいます。正捕手争い、難航しそうですね」
「野球だったら負けないんだけどなぁ」




