9、博士たちの切なさ
翌朝。白衣姿の鞠子はイライラしながら、事業開発部の入口前にいた。壁に寄りかかり、
結佳を待っていた。時刻は、あと十分ほどで始業時間の九時。八時には出勤して仕事を始めているのが結佳である。結佳に一刻も早く会いたかった鞠子は、八時からここで待っている。
他の社員が何人も事業開発部の部屋に入っていくが、結佳は来ない。昨晩の深夜三時にメールがきて以来、連絡を入れても返事がない。鞠子のイライラと心配は頂点に達していた。
すると、廊下の奥から結佳の姿が見えた。スーツ姿で、こちらに向かって歩いてくる。
鞠子はそれに気付くと、人目もはばからずに叫んだ。
「ユイさん!」
結佳の元へ駆け寄り、両手で結佳の両腕をつかんだ。
「ユイさん! 大丈夫ですか? なにもされませんでしたか? 遅くまで何をしていたんですか? 飲みに行ったんですか? 家には帰れました? ちゃんと寝れました? どうして連絡をくれないんですか?」
鞠子は不安と心配で、質問が止まらなかった。
だが結佳は、冷淡な表情でボソリと言った。
「キク、それって私の心配をしてるの? それとも違う人の心配?」
「えっ…?」
冷たい目で言われ、思わず鞠子は両手を離した。結佳は言った。
「後で話があるの。昼休み、階段の踊り場に来て」
「踊り場? はっ、はい」
結佳はそう言うと鞠子を見る事も無く、事業開発部の部屋に入って行った。
●
昼休み。二人は食堂がある、三階の階段の踊り場にいた。この建物には階段が数ヶ所ある。この踊り場は奥にある為か、ほとんど人がやってこない静かな場所だ。
二人は向かい合って立ち、鞠子は不安そうに言った。
「ユイさん、大丈夫ですか? なんか変ですよ。いったいどうしたんですか?」
結佳は無表情で言った。
「アンタ、ジョルノ先生に会ったの?」
「は? えっ、えーっと、ジョルノってレシピエントですよね? まさか、会いませんよ」
「ジョルノ先生は、アンタに『会った』と言ってたよ」
鞠子は驚き、目を見開いて叫んだ。
「ええっ! あいつがそう言ったんですか?」
「やっぱりね」
ハッとなった鞠子は、両手で口を押えた。
「あ…」
「言わない。ジョルノ先生は言わないよ。アンタが口止めしたんでしょ?」
鞠子は両手を降ろして、うなだれた。
「…そうです」
「ジョルノ先生の事は、スカウト部のパソコンか、私のスマホで調べたってトコでしょ?」
「…はい」
「理由は? どうして会いに行ったの?」
「ユイさんを助けたかったんです」
「助けるって?」
「今回のレシは、今までで一番優秀だと聞きました。会社が是が非でも獲得したい天才だって。言い換えれば、それはユイさんの責任が重大で、過酷な任務になるって事ですよね?」
「そうだね」
「だから会って、意思を確認したかったんです。もう全くウチへ来る気が無いなら、『ユイさんに会うな』と念を押すつもりでした。可能性がゼロでも、チャレンジし続けるのがユイさんだから。来る気も無いレシと何度も交渉しても、ユイさんが傷つくだけです。でも、もし来るかどうかを悩んでいるなら、説得をするつもりでした。ユイさんの力になりたかったんです」
「説得って、こういう事?」
結佳はポケットから、小さな品物を取り出し、鞠子の右手に無理矢理に持たせた。
ジョルノの部屋で見つけた、未開封の避妊具だった。
鞠子は驚いて言った。
「こっ、これは! …どうしてこれをユイさんが?」
「やっぱりアンタのだったんだね。ジョルノ先生の部屋で見つけたの。箱に見覚えがあった。いつだったかな? 二人とも酷く酔っ払った時、ふざけてアダルトグッズを検索して遊んだ時があったじゃない? 『こんな可愛らしい柄の箱の品があるんだ』って思ったのを覚えてる」
「いっ、いや! でもこれが私の物だとは限らないじゃないですか」
「これを見せた時の、キクのリアクションが全てだよ。キクはそれを持って、ジョルノ先生に会いに行ったんでしょ?」
「うっ…、はい」
鞠子は避妊具を白衣のポケットに入れた。下を向き、結佳と視線を合わせられなかった。
「一応聞くけど、これを持っていってどうするつもりだったの?」
「もし今回のレシ…ジョルノが、スカウトの承諾と引き換えに、ユイさんの体を求めてくるようなゲス野郎だったら、私が身代わりになろうと思ったんです」
「キク、顔を上げて」
「えっ? はい」
鞠子は顔を上げて、結佳を見た。その瞬間---
バチィ!
結佳は右の平手で、鞠子の左頬を殴打した。しかも大きく振りかぶった、より強いビンタ。
結佳の筋力は野球で鍛えられていた為、普通の女性よりも力強い。鞠子の体は勢いよく倒され、床にへたれこんだ。鞠子は頬の痛みとショックで、顔を上げられなかった。
結佳は怒鳴った。
「このバカァ! ふざけるなぁ! そんな事をされて、私が嬉しいはずないだろう!」
結佳は床に膝を着けてしゃがみ、鞠子の両肩に両手を添えた。そして語り掛けた。
「キク、よく聞いて。私が今までにしてきた事は・アンタがしようとしていた事は、自分を傷つける事なの。これは『行きずりの男と関係を持った』とか『正規の風俗で働いていた』なんていう事とは、似ているようで全然違うんだよ? 後悔と傷を、一生背負って生きるって事なの。分かってる?」
下を向いていた鞠子だったが、結佳の手を強く振り払って顔を上げた。表情は怒っていた。
「分かってる…分かってるよ! そんな事ぐらい! だから、それを引き受けようとしたんじゃないっ! そもそも自分はそれで男と寝てるクセに、偉そうに説教できる資格があるの? しかも、結構な額のお金までもらっておいてさ!」
鞠子の厳しい言葉に、結佳は血の気が引いた。
「キッ、キク…!」
鞠子は鋭い眼光で、嫌味ったらしく言った。
「別にいいじゃん。アンタにとって、私なんて所詮は他人でしょう? 利用すれば良いだけ。それぐらいドライになりなよ。結局、アンタにとって一番大事なのは仕事なんだよね。私の為でもなければ、患者の為でもない。自分の仕事の成果が一番大切なんじゃない?」
「…」
結佳の両手は拳になって、プルプルと震えていた。
「私を心配しているフリしてさ、本当は自分の仕事を邪魔されかけたから怒ってるんだ」
「…許さない」
「『許さない』って、どの口が言ってんの? こういうのって、まあどの業界でもあるんじゃない? 少しくらい良いでしょ?」
「…絶対に許さない!」
「ふん、別に良いよ。許してもらおうなんて思わな---」
結佳は鞠子の両腕を、力強くつかんだ。そして叫んだ。
「それだけは許さない! アンタが私のように闇へ落ちて行く事を許さない! 一生消えない心の傷を背負うなんて事は、絶対に許さないんだから!」
鞠子は悟った。結佳の『許さない』は、罵倒してきた自分を許さないんだと思っていた。しかし違う。『鞠子自身が不幸になる事を許さない』と言っていたのだ。
鞠子の威勢は消えた。目が赤くなり、どんどん涙があふれてくる。
「ユイさん…ユイさん! どうしてそんな優しい事を言うの? 私、酷い事を言ったよ。怒るべきだよ。私の事、軽蔑してよ。酷い女だって」
結佳は、鞠子の腕を握っていた手の力を緩めた。
「私はキクの事を分かってるつもりだよ。売り言葉に買い言葉で、つい出ちゃったんだよね? 今のはキクの本心じゃないって、私は信じてる」
「ユイさん!」
鞠子は結佳の胸に飛び込んで泣き始めた。
「ユイさん、ごめんさない。そんな事は微塵も思ってないの。本当にごめんなさい」
「うん、うん、いいんだよ。アンタに心配をかけ過ぎた私が悪いんだ。ごめんね」
二人は階段をベンチのようにして並んで座っていた。しばらく嗚咽していた鞠子だったが、
段々と落ち着いてきた。両手で握らている結佳のハンカチで、何度も涙を拭いていた。
鞠子の背中をさすりながら、結佳は言った。
「どう? 少しは落ち着いた?」
「うん、ありがとうユイさん」
「でも分からないの。今までも、レシの話は何回もキクにしてきたでしょ? どうしてジョルノ先生に限って、会ってみようと思ったの?」
「理由は二つあるんです。さっき言ったように、今回のレシ…ジョルノは絶対に獲得したい人材だと聞いていました。だから、ユイさんの力になりたかったんです。もう一つはこれ以上、ユイさんに自分を犠牲にするような事をしてほしくなかったから、私が身代わりになれるのなら、なろうと思いました」
「うん、ありがとうキク。ごめんね」
「あと、オマケの理由も一つありますよ」
「オマケ?」
「ユイさん、覚えていませんか?」
「えっ? なんの事かな?」
「ほら、この間、二人でイタリア料理を食べに行ったじゃないですか? ユイさんがかなり飲んだ日です。電車の中で寝ちゃったでしょ?」
「あ、それか。うん、電車に乗ったトコロまでは覚えているよ」
「その時、寝言でユイさんは言ったんですよ。『あの子、昴みたいになるのかな』って」
「どういう意味?」
「それはこっちが聞きたいですよ」
「あっ、そっか」
「まったく。…で、これは私の推測です。以前、昴君の写真を見せてもらった事があったじゃないですか? 確か八歳ぐらいの写真かな? それから推測するに、昴君が二十代になっていたら、今のジョルノみたいな雰囲気になっていたんじゃないですかね?」
結佳は少し顔が赤くなった。
「へ? 違う違う! そんな事無いよ」
「まぁともかく、その年下のレシを『ユイさんは気に入ったのかな?』って思ったんです。実際に会ってみたら、外見は悪くない。昴君似かもね。私の推理は間違っていませんでした」
「あのねぇ、それは考え過ぎ。その理屈で言ったら、私が『気に入った男の子がいるから、仕事を頑張ってる』みたいになるじゃない」
「それは別にいいんじゃないですか?」
「いや良くないよ、不謹慎だよ」
「いやいや、普通ですよ。男子社員が『一緒に仕事をするあの子、可愛いなぁ。よしっ、俺も仕事を頑張ろう!』って思うのと同じです。それがダメなんだったら、社内恋愛や社内結婚をした人は、職務怠慢って事になっちゃいますよ」
「あ、そうか」
「そうですよ。相手と周囲に迷惑さえかけなければ、想うのは個人の自由ですから。この前言ってましたもんね。『カッコイイ・八十五点』だって」
「もう! 聞かれたから、軽い気持ちで答えただけだよっ!」
「ふーん…。まぁともかく、私は嬉しかったんですよ」
「嬉しいって?」
「ユイさんは仕事に没頭しすぎで、本当に心配なんです。でも、『あの男の子、可愛いな』って思ったりするんだと分かったから。些細な日常の『楽しい』を感じたり出来るんだって。気持ちの余裕って大切ですよ。視野が狭くなるから」
「うん、分かった。もう少し余裕を持つようにするよ。ところで、キクはどう思った?」
「どうって?」
「ジョルノ先生と会ってみて、どう思ったの?」
「う~んとですねぇ---」
二人はジョルノと会った日の事を、お互いに簡単ではあるが報告し合った。
鞠子はジョルノの印象を話し始めた。
「私は元々、レシ全員に対して良い印象を持っていないんですよね。天才だけど、嫌な奴みたいなのが多いから。努力系の私としては、相容れないんです。ジョルノは屈指の才能の持ち主だと聞いていたから、さぞかし鼻持ちならない奴だろうと思ってました。で、実際に会ってみたら、やっぱりそうでした」
鞠子にそう言われ、結佳は少し吹き出した。
「プッ、そうだよね」
「でもね、あいつは『素直』っていう長所を持っていました」
「素直?」
「はい。研究者は自分なりの考え方や方法論があって、それに固執する人って多いんですよ。研究者としては長所でもありますけどね。でも、他者の意見を取り入れないっていう欠点でもあります。しかし、ジョルノはそうじゃなかった。自省して、良いと思う事を取り入れて実行できる奴です。やっぱり素直な男って、素敵ですよね」
「素敵?」
「あっ、研究者としての話ですよ」
「じゃあ、一人の男の子としては?」
「う~ん、まあユイさんの言う通り、見た目は悪くないと思います。もう少し背が高ければなぁとは思いますけど」
「フフッ、正直だね」
「でも、真面目で真摯な奴ですよ。そこは良いなと思います」
「何故、そう思うの?」
「まぁ、その…、さっきの話ですけど。ハッキリ言って、誘惑したんです。そうしたら、今のユイさんみたいに怒りました。そしてキッパリと断わりました。『そんな事をしたら、自分が傷つくぞ』ってね。あと、『丈璃乃さんが悲しむ』とも言ってましたね」
「へぇ、そんな事を言ったんだ」
「ユイさんは? ジョルノに何かされそうにならなかったんですか?」
「誘惑はしなかったけど、わざとスキは作ったよ。でも、何もしなかった。少し悩んでいるようには見えたけど」
「えっ! えっ! えっ! あいつ、悩んだんですか?」
「いや、『少し悩んだ』というより『一瞬』だね。ほんの一瞬、悪い発想が頭をよぎったんじゃない? でも、何もしなかった。真面目な男の子だよ。合格」
「へぇ~。私達って、自分で言うのもなんですけど、社内でベスト五に入る美人二人ですよ? その二人の誘惑を断ち切るんだから、ジョルノってすごいんですね」
「研究の方を評価してあげたら?」
「あ、そっか。アハハ」
二人で笑い合った。次に結佳が言った。
「ジョルノ先生は、女の尊厳を踏みにじるような事はしない人だって分かった。そんな人は仕事ができるよ。周囲の人とも、なんとかやっていけると思うんだけど…。良い人材だよね。獲得したかったな」
「それは会社の為に・医薬業界の為に獲得したかったと言ってんですか?」
「え? 他になにかあるの?」
「それ本気で言ってます? やれやれ…。まぁいいや。で! 今度はいつ会うんです?」
「誰に?」
「ジョルノですよ」
「いや、もう会わないよ。ハッキリ断られたから。これ以上は失礼だし、無駄だと思う」
「ユイさんがレシを獲得できなかったのは、これが初めてですね。もういいんですか?」
「うん、もういいよ。ジョルノ先生は困ってた。何事もそうだけど、断るのってエネルギーいるからね。女に優しいタイプみたいだから、余計そうなるだろうし。もう困らせたくないの」
「そっか、もう終わったんですね」
「そう」
「スカウトマンとしては終わった。じゃあ、次は女として会いましょう」
「は?」
「食事ぐらい誘ったらどうですか?」
「どうして?」
「ジョルノからは言ってきませんよ。アイツは奥手。ユイさんから言ってあげないとダメです」
「だから、どうして私がジョルノ先生を食事に誘うの?」
「ええーぃ! まどろっこしい! デートでもしてこいって言ってんですよ!」
「でっ、デート? ジョルノ先生と? それはちょっと…」
「いやいや、昨日は一緒に出掛けていたんでしょ? それはデートでしょ?」
「違うよ。昨日は仕事の一環だからね。接待だよ」
「もう、世話がかかるなぁ。とにかく食事でもなんでもいいですから、誘ってみてください。喜んで飛んで来ますから」
「喜ばないって。キクが行った方が、喜ぶんじゃない?」
「うーん、折れない人ですねぇ…。じゃ仕方ない。とっておきの情報を教えてあげましょう」
「なに?」
「アイツに、女子社員の人気アンケートについて話したんです。『私とユイさんはベスト五にランキングしたんだぞ』って。で、聞いたんです。
『どっちが順位が上だったと思う?』って。そうしたら---」
「そうしたら?」
「あっさり即答しましたよ。『丈璃乃さん』って」
「ふーん」
「またまた、クールに振舞っちゃって。嬉しいクセに」
「フフッ、ありがとうキク。スカウトを失敗しちゃった私を、励まそうとしてるんでしょ? でも、もういいの。仕事でも・プライベートでも、ジョルノ先生の事は、もういいいよ」
「どうしてですか? ユイさんが男から興味を持たれる事は無数にあるけど、ユイさんから興味を持つって、なかなか無いじゃないですか? 一緒にお酒を飲みに行った。しかも多く・楽しく飲んだ。絶対ジョルノに興味アリアリなんでしょ?」
「食事のついでに飲んだだけだって」
「私はこんな貴重な機会を、逃したくないんです。恋かどうかは関係無く、アイツに興味はありますよね?」
「まあ、あるけどさ。でも、私じゃあダメだよ。ジョルノ先生に相応しくないもん」
「それは逆! ジョルノみたいな不愛想・偏屈博士の方が、ユイさんに相応しくない! もしかして背が低いから? ユイさんは高いから、十センチくらい低いかもしれませんね」
「身長はどうでもいいの。あの子、二十四歳だよ。十二歳下。そりゃダメでしょ?」
「歳、関係あります? 本人同士が良いなら、良いでしょ?」
「身長とか歳だけの問題じゃないの。私、汚れちゃってるから」
「…え?」
結佳は寂しそうに言った。
「ジョルノ先生は変なトコロはあるけど、真面目で真摯な男の子だよ。私みたいな世間の闇に落ちて、黒く染まった女なんてダメだから」
「…ユイさん、分かったよ」
「うん、分かってくれた?」
鞠子は左手で結佳の胸ぐらをつかんだ。顔は恐ろしいほどの形相に変わっていた。
「さっきのユイさんの気持ちが分かった。友達を殴りたくなる瞬間ってあるんだね。私、ユイさんを殴りたい。歯、喰いしばった方が良いよ」
「えっ? ちょっと待ってよ!」
鞠子は右手を高く振りかぶったが、目をつむって身構えている結佳を見て、手を降ろした。
「ユイさん」
鞠子は穏やかにそう言うと、両手を結佳の肩に置いた。
そして白衣姿の鞠子は、悲し気に言った。
「ユイさん。もうそんな事は二度と言わないで。自分の事を『汚れている』とか『黒く染まった』なんて言わないで。絶対に言わないでね。ユイさんは汚れてなんていない。仕方なかったんだよね? 病気で苦しむ人達の力になろうとしたら、綺麗事だけじゃあ済まない。ユイさんにとって苦渋の選択だったんでしょ?」
「キク…」
「それにユイさんだけの責任じゃないよ。相手の男・会社・私もそう。みんなに責任はあるんだ。『あの事』は、私以外に知っている人はいるの?」
「ううん、キクだけ。スカウト部の人達は、『プライベートで食事ぐらいは付き合ったんだろうな』って思ってるぐらいだよ」
「そっか、ならいいの。言ったらダメだよ。私以外に言ったらダメ。特にジョルノには絶対に言ったらダメ! 世の中には知らない方が幸せって事があるよ。ユイさんは言う必要が無い。ジョルノは知る必要が無い。分かった? だから絶対に言わないで!」
「うん、分かったよ。キク、ありがとう」
二人は軽く抱き合った。結佳は右手で軽く、鞠子の背中をポンポンと叩いた。
鞠子はそのままの体勢で言った。
「ユイさん、背中ポンポンも良いけど、頭を撫でてほしいな」
「またぁ? まったくお子ちゃまなんだから」
結佳は体を離して向かい合うと、優しく頭を撫でた。すると鞠子の顔がほころんだ。
「へへっ、ユイさんの頭ナデナデは最高だよ」
そうこうしていると、鞠子のポケットからスマートフォンの着信音が聞こえた。
鞠子はスマートフォンを取り出しながら言った。
「ごめんね、ユイさん」
「ううん、いいから出なよ」
鞠子はスマートフォンの画面を見た。
「知らない番号だ」
鞠子は恐る恐る電話に出た。
「もしもし?」
電話相手の声を聞いて、鞠子は驚愕した。
「ジョッ、ジョルノ?」
たった今まで噂話をしていた相手からの電話だ。結佳も驚いたが気を利かせ、立ち上がってこの場を離れようとした。すると、鞠子が右手で結佳のジャケットの袖を引っ張った。
『ユイさんにも聞いてほしいから、ココにいてほしい』と、目で訴えた。
鞠子の目を見た結佳は座った。
鞠子はスマートフォンの音声をスピーカーにして、結佳にも会話が聞こえるようにした。
《もしもーし》
「あっ、ごめんごめん」
《玖口か?》
「えっ! …そうだけど」
《なにが『えっ!』なんだよ。間違えたかと思ったぞ。ビックリするだろ》
「アンタが私の事を名前で呼ぶの初めてじゃない? だからビックリしたんだよ」
《そうだっけ?》
「連絡が無いから、てっきり番号の紙を捨てたのかと思ってた」
《捨てないよ。『豪華景品』なんだから》
「ジョルノって、冗談を言う事あるんだ」
《面倒くさいな。今、会社だろ? 簡潔に用件だけを言うよ》
「うん、なんの用?」
《この間、お前言ったよな。『今日私と会った事は、ユイさんには内緒にしてほしい』って》
「…うん、言った」
《あれな、止めておけ》
「ん? どういう事?」
《正直に言った方がいい。俺を説得するために会ったって事は、言っておいた方がいいぞ。細かい事は言わなくていいから》
「どうしてよ?」
《『秘密』とか『内緒』って、意外と大変なんだぞ。心の体力を使うって感じでさ。体も少し重くなった気もするし、目に少し靄がかかったみたいに感じるんだよ。お前と丈璃乃さんって、毎日会うんだろ?》
「そうだよ。毎日会うし、一生友達でいたいもん」
《じゃあ話した方が良い。お前に秘密を持つなんて無理だ。単純すぎる・正直すぎる・アホすぎる》
「こっ、このおっ!」
《隠し事ってな、バレたら相手が傷付くんだよ。どうせバレるんだから、もう言っておけ。お前が来ても、俺はスカウトを断る考えに変わりはなかったんだ。問題ないだろう》
「まあ、言わんとする事は分かったよ。でもなんだろう? アンタの話を聞いていると、まるで『秘密を持つ苦労を、自分は知っている』って感じがするんだけど?」
《そりゃあ考え過ぎだ。今のは一般論だよ》
「ふーん。でも、どうしてそんな助言をくれるの? 私達がギクシャクしても、ジョルノにとっては差し支えないでしょう?」
《まあそうだが。申し訳ない気持ちもあるんでな》
「申し訳ない気持ち?」
《今回の件で二人には色々と面倒をかけた。発端はそっちだが、苦労させたのは違いない》
「そっか、気を使わせちゃったね」
《それと、内緒にするなとは言ったけど、全部じゃないぞ》
「えっ? なにを内緒にするの?」
《俺を誘惑した事。言うなよ》
「…そっか、やっぱり言わない方がいいのかな?」
《うん、止めておけよ。結果、なにも無かったんだからな。お前は言う必要は無いし、丈璃乃さんは知る必要も無い。分かった?》
鞠子は結佳を見た。二人は目を合わせ、少し笑みを浮かべてうなずいた。
「うん分かる。すご~く分かるよ、それ」
《は? どうして?》
「こっちの話だよ。私達の事を心配してくれて、ありがとう」
《いや、いいんだ。ところで、まだ話せるか?》
「いいよ。なに?」
《今日、丈璃乃さんは元気に出勤しているか?》
「ユイさん?」
二人とも驚いた表情で、また目を合わせた。
「うん、大丈夫。普通に出勤しているよ。どうしてそんな事を聞くの?」
《昨日はかなり飲んでたから心配でな。止めたんだけど、聞いてくれなかったんだよ》
鞠子はニタニタしながら言った。
「へぇ~そうなんだ。ユイさんが深酒するのは、相手の事を気に入ってる時なんだよねぇ~。ジョルノ。アンタは気に入られたんだよ」
結佳は声を出さず、口を大きくパクパクさせて訴えた。
「バ・カ! ダ・マ・レ!」
だが、鞠子は止めるつもりはない。
「ジョルノは? ユイさんと一日過ごしてどうだった?」
鞠子は、ジョルノが言葉を濁して答えるだろうと予測していた。
しかし、ジョルノはアッサリ答えた。
《楽しかった》
「あっ、言い切った。それどういう意味? スカウトマンが、よく接待してくれたって意味?」
《ややこしい言い方だな。そうじゃないよ。スカウトの話は終了してから出掛けたんだから。もっと単純な理由だよ》
「どういう理由?」
《気遣いの出来る綺麗な女性と、一日を過ごせた。だから楽しかった。それだけ》
鞠子は結佳を見ながら、からかうような口調で言った。
「へぇ~そうなんだぁ~。綺麗な女性とデートできて楽しかったと。そう言うんだぁ~」
結佳は顔を赤くして、下を向いた。
《まさか今の話、丈璃乃さんに言ったりしないよな?》
鞠子は上機嫌で笑い出した。
「アッハ~! どうしようかな~! 確か『内緒』はしない方がいいんでしょ?」
《お前な! もしバラしたら、二度と連絡取らないからなっ!》
「ごめんごめん! 冗談だよ。言ったりしないって。…あれ?」
《なんだ?》
「バラさなかったら、また連絡取るの?」
《そうだ》
結佳は驚いて、顔を上げた。
「どうして? もう私達とは終わったでしょ?」
《終わりたいんなら、それでも良いけど》
「いやいや! 待った! それどういう事よ?」
《電話では面倒だ。丈璃乃さんと二人で、俺のアパートへ来い。いつでもいいから》
「あっ、ちょっと---」
ジョルノは一方的に電話を切った。
二人はポカンとして顔を見合わせていた。
鞠子は言った。
「どういう事でしょうね?」
「分かんない…」
●
五日後。結佳と鞠子の二人は、ジョルノのアパート・一〇一室にいた。仕事帰りにやってきて、時刻は二十時。相変わらずガランとした部屋の中心に、小さくて円形の、茶色いちゃぶ台が置かれていた。
ジョルノ・結佳・鞠子が三角の形で、ちゃぶ台の回りに座布団を敷いて座っている。三人とも正座だ。
全員が熱い日本茶が入った湯呑みを持って、少しすすった。
鞠子がジョルノに聞いた。
「このお茶はアンタが淹れたの?」
「目の前で見てたろ? なに言ってんだ?」
次に結佳が聞いた。
「ちゃぶ台とか座布団とかあったんですね。前に来た時は気付きませんでした」
「ありませんよ。お二人がいらっしゃるから買ったんです。日本の家具のお店なんて知らなかったので、少し困りました」
「湯呑みや急須も?」
「はい。お茶の葉も色々と種類があって困りましたけど。味は大丈夫でした?」
「あ、はい。美味しいですよ」
「良かったです」
鞠子はイライラしながら言った。
「あのさ、ジョルノ。聞いていい?」
「なんだよ」
「ユイさんには丁寧に話すのに、私にはタメ口。この差はなに?」
「そりゃあ当たり前だ。丈璃乃さんは年上なんだから、敬語で話すよ」
「えっ? じゃあ私はいくつだと思ってるの?」
「俺より歳下だろ?」
鞠子の声は上ずった。
「あっ、そう? そう見える? アハハッ! そっか~! うん、タメ口でいいよ!」
「違うのか?」
結佳はお茶をすすりつつ、冷静に言った。
「二十七歳ですよ、ジョルノ先生」
「ユイさん! 言わなくていいのに!」
ジョルノは驚きで、目を丸くした。
「本当かよ?」
「へへーっ、若く見える?」
「違う。幼い。ガキっぽい。話していてもアホっぽい」
「ケンカ売ってんの?」
結佳は仲裁も兼ねて、ジョルノに聞いた。
「意外ですね。欧米やヨーロッパ圏の人って、上下関係に年齢を加味しないと思ってました」
「まぁ、そうですよね。でも僕は日本人の感覚も持っているから、自然とそうなります。それに父親が厳格な人間で、礼儀にはうるさかったんです。しかし参ったな。今さら玖口に敬語なんて使えません」
若く見られた鞠子は上機嫌だった。
「いいよいいよ~。タメ口でOK!」
結佳は自信なさげに言った。
「あのー、ジョルノ先生。私にも敬語は使わなくていいですよ」
「それは逆ですよ。丈璃乃さんが僕に敬語を使わなくていいです。五~六歳年下ですし」
鞠子は小さな声で驚いた。
「えっ! 五~六歳?」
結佳は申し訳なさそうにうつむいた。十二歳差とは言えなかった。
ジョルノは鞠子に聞いた。
「なんだよ?」
「う、ううん。なんでもない。ま、女に歳の話はあまりしない方がいいよ」
「あ、そうだな。玖口らしくない、まともな意見だ。丈璃乃さん、失礼しました」
結佳は右手のひらを、軽く振りながら言った。
「いえ! いいんです」
鞠子は不満気に言った。
「アンタねぇ、その丁寧さの百分の一で良いから私にも向けなさいよ。で! 今日はなんの用で私達を呼びつけたの? 買ったばかりのちゃぶ台を、自慢する為じゃあないんでしょう?」
「ああ、そうだ。まあ、二人とも足を崩してくれ」
三人とも正座を解いて、それぞれ楽に座った。
「来てもらったのはスカウトの件です。僕が上内製薬で働くか否かで、提案があるんです」
結佳は言った。
「提案…ですか?」
「はい。僕は、スカウトの話を受けます。それで---」
ジョルノがそう言うと、結佳と鞠子は大きな声を同時に上げた。
「えーっ! 本当ですか?」
「ジョルノ! ついに来る気になった?」
気持ちが高まっている二人を、ジョルノは制した。
「いや、最後まで聞いてほしいんですけど。お互いに一つとって、一つ譲りませんか?」
結佳が聞いた。
「どういう事でしょうか?」
「僕は上内製薬の為に研究をします。その代わり、このまま、このアパートで研究をさせてください。上内製薬の研究部、つまり玖口の指示通りに働きます。この形でお願いしたいんです」
「一種のリモートワークみたいなものですね。それなら構いません」
「その代わり、私に一つ譲ってください」
「なんでしょうか?」
「僕の存在は秘密にして下さい。丈璃乃さんと玖口、この二人だけの胸にとどめて下さい」
「あの、それ自体は難しくないかもしれません。でも就職してくれないと、ジョルノ先生にお給料が支払えないんです。リモートで良いので、正式にウチに就職してくださいませんか?」
「いえ、いいんです。僕はお金は要らないので」
「そんな…」
鞠子が不機嫌そうに言った。
「私はお金よりも気になる事があるよ」
「なに?」
「研究の成果だよ。アンタだったら、きっと活躍するだろうね。でも、それを誰がやったって説明したらいいんだよ?」
「玖口、お前の功績にしたらいい。俺の成果で権利や特許が発生したとしても、それはお前や会社の物にして構わないから」
「いやだ」
「えっ?」
鞠子は怒って言った。
「いやに決まってんだろ! 私はお前のあやつり人形じゃないんだよ! 二人羽織でもやってるつもり? 私にだってプライドはあるんだよ! ふざけてんじゃねぇぞ!」
怒りだした鞠子に、ジョルノはたじろいだ。
「くっ、玖口…」
結佳は二人を諭すように言った。
「ジョルノ先生。今キクが言った事は、確かにその通りです。でもそれだけじゃないんです。おっしゃった方法だと、ジョルノ先生の功績や才能が称えられないでしょう? キクはそれが悔しくて、残念に思ってるんですよ」
「ユイさん違いますよ! 単にムカついただけだってば!」
「はいはい、素直じゃないんだから」
ジョルノは言った。
「玖口、すまなかった。そんなつもりじゃなかったんだ」
「あーもうっ! そういう素直さが、余計に腹が立つ!」
結佳は少し、笑みを浮かべて言った。
「ジョルノ先生、キクは『分かってくれたらいいよ。私も言い過ぎた。ゴメンね』って言ってます」
「ユイさん! 変な通訳をしないでっ!」
ジョルノは結佳に聞いた。
「丈璃乃さんも同じ意見ですか?」
「そうですね。給料も支払わず・功績も奪ってとなると、流石に我々も胸が痛みます」
「そうですか…、じゃあ分かりました!」
ジョルノは少し荒げたような声を上げて、立ち上がった。結佳も鞠子も、ジョルノが怒ったと思いながら、立ち上がったジョルノを見上げた。しかし、ジョルノの言葉は意外なものだった。
「夕食にしましょう。お腹を空かして話し合っていてもね。良い答えはでません」
結佳は聞いた。
「今から行くのですか?」
「いえ、ここで食べます」
鞠子が聞いた。
「デリバリーって事?」
「俺が作るんだよ」
「それって食べれるの?」
「うるせぇよ! 嫌なら食べなくていいから!」
二人はジョルノは本気で言っていると理解した。
結佳は言った。
「なにかお手伝いしましょうか?」
「いえ、そんなに手の込んだ物を作る訳じゃないので。座っててください」
二十分は経たなかっただろうか。三人の前に焼うどんの皿が置かれていた。うどんにまぶされた、たっぷりの野菜と肉。その上に乗っている鰹節がヒラヒラして、より美味しそうに見える。
鞠子は不思議そうに、焼うどんを凝視していた。
「これ、なに?」
「焼うどんだよ」
「なぜ焼うどん?」
「俺は日本食ってあまり知らないから、作れないんだよ。で、パスタに一番近い調理方法の料理を探していたら、こうなった。炒めるのは自信がなかったが、なんとかなったかな。…玖口、なにを警戒してんの?」
「味と、毒の有無」
「ふざけやがって!」
結佳が割って入った。
「まぁまぁ、頂きましょう。ジョルノ先生、ご苦労様でした。では---」
結佳と鞠子は「Buon appetito (ブオナアッペティート)」 → 頂きます
ジョルノは「頂きます」
…と、言った。三人はお互いを見あって、少し吹き出した。
結佳がジョルノに言った。
「言語が入れ替わっちゃいましたね」
鞠子もジョルノに言った。
「せっかくイタリア語で言ってやってんのに」
「アハハ、ありがとよ」
結佳は少し声が高まって言った。
「あ、美味しい! ジョルノ先生、美味しいですよ」
鞠子も続いて言った。
「あっれぇ、本当だぁ! 美味しいじゃん!」
「丈璃乃さんの言葉は嬉しいけど、お前はなんか含んでるだろ?」
「含んでないよ。『美味しいはずがない』って思ってたから、ビックリしてるだけ」
「含んでいるじゃないか!」
結佳はさえぎるように言った。
「ジョルノ先生は、料理はよくなさるのですか?」
「そうですね。朝・昼は簡単に済ませるだけですから何もしませんけど。夜は作ります」
鞠子は不思議そうに言った。
「へぇ~、意外だね」
「どうして?」
「料理をしている暇があったら、研究に時間を使うタイプだと思ってたよ」
「別に料理が好きって訳じゃない。栄養管理の事を考えたら、そうせざるを得ない。俺は、研究職ってアスリートと同じだと思っているから」
「アスリート?」
「ああ。栄養不足で睡眠もしっかり取れていない。それじゃあ良いパフォーマンスはできないだろう? それと同じだと思っている。健康は大事なんだよ。玖口、お前もそうだろう?」
鞠子は恥ずかしそうに言った。
「アハハ…。それが、私は『寝てる時間が勿体ない』と思うタイプでして。一人暮らしだから余計かな」
結佳もバツが悪そうに言った。
「私は実家住まいだけど同じです。女なのに、ダメですね」
ジョルノは言った。
「いえ、女とかは関係ないです。興味があるかどうかという話なので」
鞠子は言った。
「そうそう! 作りたい奴が作ればいいだけの話。ジョルノ、また頼むね」
「お前、定期的に食べにくるつもりじゃないだろうな…」
和やかに食事は終わった。結佳は食器を下げ、洗い物をしていた。
ジョルノは結佳の背中に言った。
「すみません、気を使わせちゃって」
結佳は洗い物をしつつ、顔をジョルノに向けて言った。
「いえ、せめてものお礼です。それより、お箸の使い方、上手くなりましたね」
「ええ、先生の教え方が良かったからです」
「あら、ありがとうございます」
ジョルノはお茶を淹れる準備をする為、湯呑みや急須を並べ始めた。鞠子は壁にもたれ、脚を開いて伸ばしている。
そして二人を見て言った。
「言っとくけど、私はなーんにもしないからね」
「お前になんか、期待してねーよ」
「アハハ、そりゃ懸命だ。ところで、どうして焼うどんなの?」
「だから、日本料理はそれぐらいしか作れ---」
「そうじゃなくって、どうして私達に食事を作ろうと思ったのかって聞いてんの」
結佳も洗い物をしつつ、聞いていた。ジョルノはお茶を淹れながら言った。
「二人には、色々と教えられたからな。ちょっとしたお礼だよ」
「私達が? なんにも教えた覚えはないけどね」
「最近は研究に集中し過ぎていた。周りを顧みなくなっていた。昔は研究に楽しさもあったのに、今じゃあ苦行に近かったんだ。煮詰まっていたよ。そんな時に二人に出会ってさ。考え方が変わった。丈璃乃にも、前に少し話したがな」
「私達? どうして?」
「自分が『井の中の蛙』だって知る事ができた。世間の事を何も知らないんだって分かった。自分だけじゃなくて、こんなにも頑張っている人達がいるんだってさ。現実と向き合って・難題に挑戦して・その為に努力している。二人を見ていたら、俺ってちっぽけだなって思えた。二人に会わなかったら、ずっと傲慢なままだったかもな」
「ふーん…」
「メシはその一環。研究でも協力できたらと思ったが、折り合いがつかなかったな」
結佳は洗い物を終えた。ちゃぶ台に戻って来て、ジョルノの正面に座った。
「そんなにご自分を悪くおっしゃらないでください。ジョルノ先生は、ご自身の研究に没頭していたんですよ。大きな仕事をする為には、周囲を顧みない時期だってあります。それはジョルノ先生に必要な事だったんです。だから、悪いように取らないでください」
「ありがとうございます、丈璃乃さん」
鞠子も言った。
「そーそー。まっ、私達に感謝するのは良い事だね。恩に着ろよ」
ジョルノはちゃぶ台にお茶を並べながら、言い返した。
「お前は俺を見習え」
ジョルノがお茶を並べ終えて座ると、結佳はジョルノに聞いた。
「ジョルノ先生、伺ったらダメでしょうか?」
「ん? なんでしょうか?」
「ジョルノ先生が裏で活動する理由です。お金が理由だなんて、どうしても信じられない」
鞠子も言った。
「私もそれは聞いてみたい。そこまで裏稼業に固執する理由ってなに? 事と次第によっては---」
ジョルノは聞いた。
「よっては?」
「一緒に働きたいと思うかもしれないし、働きたくないと思うかもしれない。私達にとっては重要な事かもね」
ジョルノは観念した様子で言った。
「そっか。分かったよ。こっちから一緒に働くと言っているんだから、当然かもな。まぁ、シンプルな理由なんだけどね」
「へぇ、なによ?」
「人を殺したんだ」
「えっ?」
「人を殺したって言ったんだ」
あまりの驚きに、結佳と鞠子は顔を合わせた。だがジョルノに掛ける言葉はみつからない。
ジョルノの方から話し始めた。
「玖口、俺がラッティーン博士に師事していたのは聞いてる?」
「うん、ユイさんから聞いたよ。すごい人の下で働ていてたんだってビックリした。確か、もう亡くなっているよね。…まさか?」
「そう、俺だよ。俺が原因で亡くなった。あの人は心臓を患っていてね。年々、体調は悪化していた。そんな時、俺が最悪の不祥事を起こしてしまった。それが原因なんだ。医者も『心労がたたって、心臓に負担がかかったんだろう』と言っていたよ」
結佳が聞いた。
「最悪の不祥事って、なんでしょうか?」
「網膜色素変性症の治療薬に、博士が貢献したのは御存知でしたよね?」
「ええ」
「研究が最終段階に差し掛かろうとしていた時でした。助手から集めていたデーターの中から、他者からの盗用が発覚したんです」
「盗用?」
「ある助手の一人が、他の大学に行った時に、網膜色素変性症の臨床結果を目にしてしまった。それは素晴らしいデータだった。その助手は、自分が研究したかのように、博士にそのデータを報告して---」
「それが通ってしまった?」
「博士自身も後から不正に気付いたんですが、もうプロジェクトは進行していて、止まる事は許されませんでした。そのまま治療薬は開発され、博士は称賛されました。盗用された相手には、多額の口止め料で理解してもらったんです。『事を荒立てれば、薬の開発が遅れてしまいます。患者の未来が遠のいてしまいます』ってお願いして。口止めをしたと言っても、『いつバラされるのか』と、博士は気が気じゃなかったでしょうね。毎日が針のムシロだったんです。それがきっと心臓に…」
「あの…、その『盗用した助手』って言うのが?」
「はい、僕です。他者のデータを盗用したんです」
「嘘です」
「本当なんです。当時の僕は追い詰められていました。博士に才能を認められてチームに入りましたが、目立った結果は残せていなかったんです。だから解雇は時間の問題でした。なんとしてでも、功績が欲しかったんです」
「その事は、誰が知っているんですか?」
「博士と僕だけです。博士は僕の将来を案じて、こんなに酷い事をしたのに『内緒にしよう』と言ってくれました。申し訳ないと思っています」
「日本に来たのは、それが原因ですか?」
「ええ。もうイタリアにいるのは、僕自身が耐えられませんでした」
「それで、今のような生活を始めた?」
「僕は普通の仕事をしたことがないので、結局は研究しかないんです。ひっそりと裏でやっていれば、静かに暮らせると思ってました」
「ジョルノ先生。世の中には言って良い嘘と、悪い嘘があります。今、貴方が言っている話は、『やっぱり嘘でした』では許されませんよ」
「はい」
鞠子が怒気を込めて言った。
「ジョルノ。私、このあいだ言ったよね? 『以前、クズ上司が私の成果を横取りしていた』って」
「ああ」
「それをどんな気持ちで聞いてたの?」
「『へぇ、この業界には、俺みたいな奴が他にもいるんだなぁ』って思って聞いてた」
「お前…、それ本気で言ってんの?」
「ああ」
結佳は悲しそうに言った。
「ジョルノ先生…」
●
二人はジョルノのアパートを出た後、駅前の喫茶店にいた。四人用のテーブルに向かい合わせで座っている。目の前には温かい飲み物が置かれていた。
結佳は不安そうに聞いた。
「キク、どう思う? さっきのジョルノ先生の話」
「はぁ? 研究者失格どころか、人間失格。もうなにも思いません。放っておきましょう」
「でも、本当かどうかは---」
「本当でしょ。だって、黙ってれば分からないじゃないですか。それを自分から言ったって事は、本当ですよ」
「もしかすると、良心の呵責に耐えかねて言ったとか?」
「だから! それは自首したってだけの事ですよ! データの盗用をしたのは本当って事ですよ! 私を死にそうなくらい追い詰めた、あのクズ上司と同じ事をしていたんだ!」
「キク…」
「アイツ、電話で言ってましたよ。『秘密とか内緒を持つのは大変だ』って。経験者は語るってやつですね。納得できました」
「私もショックだけど、キクの方がダメージが大きいんだろうね」
「えっ? どうしてそう思うんですか?」
「キクはジョルノ先生のような天才型じゃないけど、努力型の優秀な研究員じゃない? キクと対等に渡り合える人って、なかなかいないもんね。でもジョルノ先生は違った。キクにとって、やっと出会えた特別な研究者。研究者としても尊敬できるし、男の子としても---」
「違う! 違いますよ!」
「そっか」
「私、分かりません。ユイさんって、まだアイツの事を信用しようとしてません?」
「…」
鞠子は、結佳の前に置かれている飲み物を見て言った。
「この期に及んで、カプチーノを頼んでる。それが信じられません。私はもう、一生カプチーノは飲みません。ブラックコーヒーを飲みます」
「これはたまたまだって。最近カプチーノも飲むようになってさ。意味は無いよ」
「絶対的にブラック派の人だったのに」
「確かに信じたいという気持ちは残っているかもね。これを飲むと、そう思ってしまうの」
「どういう事ですか?」
「ほんの数日だった。時間にしたら数時間かもね。しかも、ほぼ仕事絡み。深い部分は分からない。でも思うの。ジョルノ先生が、そんな私利私欲で動く人なのかなって」
「いや、だから---」
「別にジョルノ先生が善人だとは言ってない。そんなの、長い付き合いでも分からないよ。人間の本当の部分なんてさ。そうじゃなくて、『理由』が見つからないの」
「理由?」
「うん。『動機』とか『モチベーション』なんて言葉でもいいんだけど。彼がそういう行動を取る必要性を感じないの」
「いや、言ってたじゃん。『解雇が怖くて、功績が欲しかった』って。それで盗用して・バレて・博士に見逃してもらって・日本に逃げて来た。もう表には出れないから、裏で研究屋をしていた。全部、辻褄が合いますよ」
「そうだけど…」
「なにが引っ掛かっているんですか?」
「二つある。一つは『赤毛のアン』」
「え?」
「この前会った時に、くれたんだよね。文庫本」
「そう聞きましたけど…。それがどう関係するんですか?」
「心底悪い人が『目標が叶ったら読んでください』なんて言いながらプレゼントするかな?」
「そんなの五百円くらいのモンでしょう?」
「だからだよ。高価な物で、気を釣ろうなんて全然思ってないんだよ」
「もう一つは?」
「焼うどん」
「は?」
「美味しくなかった?」
「まぁ、美味しかったですけど。料理が上手だったら、善人だって言うんですか?」
「違うよ。上手い・下手じゃなくて、作り方」
「作り方?」
「私、見ちゃったんだよね。お皿にポットのお湯を入れて温めてた。その後、うどんを入れる直前にお湯を捨ててたの。あれは焼うどんが、お皿で冷めないようにしていたんだよね」
「まぁ、そうなりますね」
「それに肉を冷蔵庫から、先に出してあったよ。常温に戻してたんだろうね。肉って冷たいまま焼くと、旨味が逃げるらしいよ」
「なにが言いたいんですか?」
「彼、言ってたよね。私達に『お礼がしたい』って。作り慣れていない日本料理を、少しでも美味しくなるように気遣って---」
「いやいや! 違いますよ! そんな事が、アイツを信じる理由になんてなりません! ほんの少し感心する部分があるからって、アイツを信じないでください! ヤクザだって、電車で老人に席を譲る事だってありますよ! ユイさん、しっかりしてくださいよ!」
「うん…」
「あっ、ごめんなさい。声を荒げちゃって」
「いいの。それより、私の方こそごめんなさい。キクを辛い事に巻き込んでしまったね」
「そんな事はないです。これは、私の方から首を突っ込んだんですから。それよりもユイさん、もう終わりましょう。この件は終わったんです」
「えっ?」
「こちらとしても、これでジョルノの獲得意思は無くなりました。ジョルノも、まさかウチで働きたいとは二度と言ってこないでしょう。今度こそ終わったんですよ」
「そうだね」
「ユイさん? まさか個人的に連絡を取ろうなんて考えてませんよね?」
「ううん、それは本当に無いよ。でも---」
「でも?」
「私、この件がまとまったら、スカウト部から身を引こうと考えてたの。事業開発部に専念して、頑張ろうと思ってね。キク・ジョルノ先生・私でさ、一緒に同じ会社で働けたらいいなって、思ってたんだけどね。それはキクも同じでしょう?」
「…」
「でも終わったよ。キクの言う通り、ジョルノ・ヴェロネージ獲得の話は、完全に終わった。明日から私達は、いつも通りに働くだけ。問題無しだよ」
「そうですよ。明日から普通に過ごせば良いだけ。悪い夢を見ていたんです。私達は」
「キク、それは違うよ」
「違う?」
「うん。『素敵な夢』を見ていたんだよ。だからこそ叶わなくなったら、こんなにも辛いんだろうね」




