2. 今後の行程
グーヴニルの国境近くにある街ファマは軍事施設を備えていて、周りを防壁で囲まれている。産業は豊かで、街は活気に満ちて賑やかだった。ネフェリアとベルゼの二人はこの街から国境を越えて、隣国のランドールに入るつもりでいた。
国境沿いに軍事施設を構えてはいるが、グーヴニルとランドールの両国は、長らく良好な関係にあり、緊張感はあまりない。交流も多々ある。この二国を含む周辺数か国では共通の言語があるため、移動や移住もしやすかった。
一方でグーヴニルとランドールを隔てる峠は難所として知られている。準備を整えるために、二人は数日のあいだファマに逗留していた。
ネフェリアたちはあてがわれた宿の二階の部屋の寝台に座って、それぞれ寛いでいた。
「峠を越えるのに、何日かかるんだっけ」
腰まで伸びた髪を梳かし終えて、ネフェリアは向かいの寝台に座って荷物整理をしていたベルゼに質問した。
「大体、四、五日かかるかなぁ」
「やっぱり、また野宿になるのね…」
ネフェリアは深く溜息を吐いた。寝台にうつ伏せに寝転ぶ。
王都を離れ、馬車に揺られたり、歩いたりを繰り返して、いくつもの街を通り過ぎた。次の街まで辿り着かずに野宿することもあった。体力は貴族であった頃に比べると随分養われたし、旅にはだいぶ慣れてきたが、野外での寝泊まりだけは未だに慣れない。外で寝ても体の疲れが取れなかった。
ネフェリアが貴族籍を抜ける前に、ベルゼは計画に協力するにあたっての条件を示した。その条件とは、ネフェリアが平民として一通り自分の身の回りのことをこなせるようになることだった。
「そりゃ、俺がネフェルの生活の諸々をフォローしてあげられたらいいけど。俺とずっと一緒にいられるとは限らないでしょ」
病死や事故死は珍しいことではないと、ベルゼはネフェリアに残酷な現実を突き付けた。
たとえベルゼがいなくなっても、ネフェリアがひとりで生きていけるように色々な知識を叩き込まれた。それから平民の生活や長い旅路に必要な体力作りも課された。貴族の子女であったネフェリアにとって、こちらも過酷なものとなった。
ネフェリアはうつ伏せのまま顔だけ上げて、ふと浮かんだ考えを口にした。
「空を飛ぶとかできないの?」
「……難しいんだよねぇ」
ベルゼはしみじみと呟いた。ベルゼはそうできない理由を並べた。ひとつは、人に見られる恐れがある。結界を張って姿を隠そうにも、複数人の飛行となると諸々制御するのが難しい。
「影に潜るよりも難しいことかしら」
ネフェリアは魔術の難易度について、いまひとつ理解が及ばない。空を飛ぶより、影に潜る方がよほど非現実的で不可能なことに思えた。
「俺にとってはね。風を操るのは向いてないんだよね……」
ベルゼは寝台の上で胡坐をかいて、そのうえに頬杖をつく。
「それに……仮に飛んだとして、一番の問題は、大トカゲに見つかるかもしれないってことだね」
「オオトカゲ?」
「翼の生えた大トカゲが北のルプティア山脈に居座ってるでしょ」
「……ひょっとして天竜様のこと?」
ベルゼが苦々しい表情で頷いた。ネフェリアはあんぐりと口を開ける。上体を起こして、ベルゼに苦言を呈した。
「呆れた。天竜様をトカゲ呼ばわりするのは、あなたくらいのものよ」
一度でもその巨大な姿を目にしたことのある人間ならば、畏れ多くて呼び捨てになどできない。神話の時代から生きる伝説の存在であり、山脈の長さにも匹敵する雄々しく巨大な体は、その山々の稜線にねそべっている。山頂付近は常に雲がかかっているが、ごく稀に雲が晴れる頃合いがある。その折には、山脈から離れた場所からでも、神々しく威厳に満ちたその姿を捉えることができた。
そして、ひとたびその咆哮が轟けば、雲は切り裂かれ大地が震える。人々はいやでもその威光にひれ伏す。トカゲに喩えるなどもってのほかである。
「天竜様にそんなことを言うなんて不敬よ。天竜様は、北側の野蛮な人間の侵入を防いでくれて……」
ネフェリアはそこでハッとして口を噤んだ。
「……」
「…ごめんなさい。失言だったわ」
ベルゼは、もとは北側諸国の人間である。ネフェリアは素直に謝罪した。
「南側の一般認識だから、気にならないよ。北側諸国の人間は、実際にこちらにとって危険だから」
言葉通り、気を悪くするでもなくベルゼは平然としていた。
「南の人間が天竜を敬うのは当然だよ。もし天竜がいなくなれば、こちら側の国々は北の国々に圧倒的な力で攻め滅ぼされるだろうからね」
「……」
淡々とした物言いが真実味を帯びていて、不気味さを助長する。ネフェリアは息を呑んだ。
「それで話を戻すと。もし空を飛んでいるところをあの巨大トカゲに見つかると、高温ブレスで消し炭にされる恐れがある」
「……そうなのね」
繰り返しトカゲよばわりするベルゼに呆れつつ、ネフェリアは相槌を打った。
天竜は、人間が世界の調和を乱し大地の均衡を揺るがすような、高度な魔術を使うことを許さないでいる。ゆえに南で魔術が発展しないよう抑圧し、見放した北側から強力な魔術師が侵入しないように見張っていた。天竜は常に南側に顔を向け、北側に背を向けていた。そのため山脈の北側は南側からは神に見捨てられた大地と呼ばれていた。
「結局歩くしかないのね…」
「旅芸人の一座が近く馬車で国境越えをするんだって。交渉したから、その一座と同道することになるよ」
ネフェリアは目を瞬かせた。
「二人で山を越えるよりは安全だと思う」
「その旅芸人の人たち…は大丈夫なの?」
一座とひとくちにいっても、ピンからキリまである。ガラの悪い集団から統制の行き届いた集団まで、様々だ。
「調べたけど、その一座は隣国ランドールを拠点に活動していて、しかも貴族の後援がついているんだ」
「ふぅん。それなら少し安心かも」
後援がついている身で、下手なことをすれば貴族の反感を買いかねない。場合によっては支援を打ち切られるどころか、罰せられる可能性もある。逆に、貴族の威光で諸々不正を握りつぶしている可能性もあるにはあるが、考え出すときりがなかった。
「出発は明後日。その前にしっかり休息をとっておかないとね」
ベルゼは立ち上がって、部屋の隅に立てかけてあった折り畳み式の衝立を運んで、二人の寝台のあいだに広げた。
「じゃあ、おやすみ」
「……おやすみ」
一緒の部屋に寝るようになってから、仕切りを要求したのはネフェリアだ。グーヴニルの王都を出てしばらく経った頃、ベルゼがネフェリアに無遠慮に手を出そうとしてきたことがあった。ネフェリアは怒って、しばらくのあいだ接触禁止を言い渡していた。
自分から言い出しておいて、ネフェリアは釈然としない気持ちを抱えていた。寝台に横になって、ベルゼのいる方向に体を向けた。
ネフェリアはさきほど吞み込んだ問いを、心の中で繰り返した。
(ベルゼはどうやって山脈を越えたの?)
ベルゼは強力な魔術師だ。影を自在に操るし、精神を操作する魔術も行使できる。天竜が山脈越えを許すとは思えない。
口に出して聞こうかと思ったが、迷った末に結局口を閉ざした。
(呪いのせいで弱っていたから、見逃されたとか?)
ベルゼの過去について、聞いてみようと思ったことは何度かある。しかしそのたびに戦場に立つベルゼを想像して躊躇した。
話すことを拒絶されれば、いっそ安心したかもしれない。知りたい気持ちはあるが怖くもある。
お互いに、あえて踏み込まないでいる。そう感じるときが何度もある。
隣で寝息が聞こえてきても、ネフェリアはしばらく眠れずにいた。
(私、ベルゼと上手くやっていけるのかしら)
今さらなことを自問した。
ベッドに仰向けに寝転がる。カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいて、薄暗い天井が視界に入った。取り留めもない考えが浮かんでは消えて、どこまでも不安な気持ちに包まれた。
家の名を捨てることに躊躇いがなかったわけではない。
いざ実行の段階が近付いてくると、ネフェリアの心に迷いが生じた。ベルゼは、後戻りはできないと、何度も念を押してきた。それがネフェリアのためを思ってしていた忠告だと、頭ではわかっている。同時に、空虚な想いも抱く。
ベルゼはもしもネフェリアと別れることになっても、素直に受け入れるのだろう。ネフェリアのためになる別れであれば、きっと引き留めることはない。そのことがただ悲しくて、寂しい。
二人の気持ちの形が違うことに、不安が消えないでいる。きっと、互いに求めている愛の形が違うのだ。
ぐるぐると思考の渦に巻き込まれるうちに、ネフェリアはいつのまにか静かな眠りに落ちていた。




