17. 狂影
ネフェリア視点で少し前に戻ります。
ジョゼの怪我を治したところをセディアスに目撃されて、ネフェリアは窮地に陥った。
「婚約者に黙っているなんて、水臭いじゃないか」
「元婚約者でしょう」
厄介な相手にネフェリアの能力がバレてしまった。ネフェリアは唇を噛みしめた。
「なぁ……。僕たち、やり直さないか?」
ネフェリアに癒しの力があると分かった途端、セディアスは手のひらを返した。
猫撫で声でセディアスが擦り寄ってきた。柔らかな物腰だったが、その目はギラギラとして獲物を狙っていた。
「いやよ」
ネフェリアはジョゼを横たわらせたまま、立ち上がる。セディアスと距離を取った。
しかしあっという間に距離を詰められ、腕の中に閉じ込められる。
「離して!」
抵抗したが、びくともしなかった。首筋に吐息が触れて、全身に鳥肌が立った。
「僕に釣り合う容姿だけは気に入っていたんだよな。胸もジョゼより大きいし」
体が怒りと羞恥で震える。掠れた声で助けを呼んだ。
「ベルゼ……!」
ネフェリアの背後から黒い影が伸びて、セディアスを捕らえる。
「ひっ! なんだっ…これ!」
「! 殺さないで!」
ネフェリアは咄嗟に叫んだ。殺すつもりかどうかわからない。
セディアスの生死などどうでもよかったが、ベルゼが罪に問われることは看過できない。
黒い塊からベルゼの腕が現れて手のひらがセディアスの顔を覆う。バチっと音がすると、セディアスの身体がぐらりと揺れて地面に崩れ落ちた。ネフェリアは両手で口を覆った。
「なにしたの?」
影に向かって問いかけた声は震えていた。恐る恐る屈んで倒れたセディアスの顔に手を当てる。息はある。ネフェリアは胸を撫で下ろした。
黒い影が霧散して、ベルゼの姿が現れる。
「ここ数時間の記憶を消した」
「……記憶を?」
記憶を改ざんする魔術など、聞いたことがない。にわかには信じがたかった。
「ご主人様の能力を知られたんだよね」
倒れたジョゼや、ケーキの箱を一瞥して、状況を概ね把握したようだった。ネフェリアは頷いた。
「ジョゼの記憶も消しておくよ。あとは適当な記憶を上書きしておけばいい」
ベルゼは事もなげに言って、気を失ったセディアスを影の中に沈めた。
「ご主人様のおかげで怪我も大丈夫みたいだ。この人たちをあとで自宅に届けておくよ」
そう言うと、ジョゼも同じく影の中に溶けていった。
「記憶を消すなんて、そんなこと……」
(火や水、風や土を操る魔術ならある。でも人の精神に作用するような魔術があるとしたら)
禁忌とされているのではないだろうか。
ベルゼはこういったことで嘘はつかない。セディアスに襲われかけた時に感じたものとはまた違った類の恐怖が、じわじわと這い上がってくる。
どうとでもできてしまうのではないか。使いようによっては、国をまるごと変えてしまえるのではないか。
立ち上がってこちらに歩み寄る黒いローブが、蠢く影が、得体の知れない化け物に見えて、身体が竦んだ。何より、いつも通りに振る舞う彼が、怖い。
「あ……」
力なく立ち上がり、じり、と後ずさる。
「ネフェル」
ベルゼの抑揚のない声が耳に届く。
「…………え?」
(今、なんて言った?)
「…………っ」
不安や恐怖が一瞬にして吹き飛ぶ。口をポカンと開けた。心臓がバクバクと脈打つ。
「ネフェル。大丈夫?」
「~~~っ」
「もっと早くに来ていればよかった」
心配そうに近付いてきたベルゼに思わず縋りついた。胸に顔を押し付ける。
「『様』を付けなさいよ! 心臓に悪い……っ」
情緒がどうしようもなく乱されて、混乱する。ベルゼがネフェリアの叱責にしゅんと項垂れた。
「ご主人様、ごめん……。名前呼びがそんなに嫌だとは思わなくて」
「あ、そうじゃなくて……」
ベルゼは驚くほどどこまでも平静で、安堵を覚えると同時に、底なし沼に沈む思いだった。
「恥ずかしいから……まだ、だめ」
「……」
どきどきと心臓の音がうるさい。密着しているせいで、ベルゼの動揺も手に取るようにわかる。
「わかった…」
答えるベルゼの声も完全に上擦っている。顔が上げられない。背中に腕が回されて、そのまま互いに抱き締め合った。固く目を閉じる。
ずっとベルゼの善性を信じ続けることができるのか。ひょっとして、すでにネフェリアの記憶も彼のいいように書き換えられてはいないだろうか。そんな不安も恐れも全部この腕の中で消えてしまえばいい。ベルゼを信じたい。




