16. あなたといたい
ベルゼ視点で回想があります。
「キキタイコト、ある」
隣で絵本を読み上げるネフェリアの服をベルゼは軽く引っ張った。
「驚いた。もう話せるの?」
本から目を離したネフェリアは目を丸くしてベルゼを見た。
発音は覚束ないが、会話の内容は大体理解できる。昔必要に応じて覚えた敵国の言語に似ていた。
「ド、シテ、ヒロ…ッタ」
覚えたばかりの言葉を繋いで、指でネフェリアを示し、そのあと自分を指した。
「……どうしてあなたを拾ったのかって?」
ベルゼは頷いてネフェリアの返事を待った。
「ああ…あのときはね」
ネフェリアは視線をさまよわせながら記憶を辿った。
「何もかも諦めたって顔して気に食わなかったから」
ベルゼはネフェリアの発した単語の意味を頭の中でなぞった。ひとつひとつは難しい意味ではない。正確に言葉の意味を受け取る。
(気に食わない…)
あっけらかんとしたネフェリアの表情が、その言葉が嘘ではないことを物語っていた。
ネフェリアが同情でベルゼを拾ったわけではないことを知って、心の底から安堵した。
「よかっタ」
ネフェリアは苦笑を漏らした。
「よかったって…変なひとね」
もし同情で助けられたのだとしたら、自分があまりに惨めに思えた。
***
長年染みついた癖がベルゼを動かした。声を封じて助けは呼ばせない。それから首をへし折れば終わる。――いつもどおり。
「! 殺さないで!」
ネフェリアの制止で、我に返った。
即座にセディアスを拘束していた力を緩めて気を失わせるに留める。
(戦場から離れて何年も経つのに)
ベルゼは溜息を吐いて自己嫌悪した。
「なにしたの?」
影に向かって問いかけるネフェリアの声は震えていた。ネフェリアが倒れたセディアスの顔に手を当てる。殺そうとしただけなので、当然生きている。
ベルゼは身を隠していた影から完全に姿を現した。
「ここ数時間の記憶を消した」
「……記憶を?」
「ご主人様の能力を知られたんだよね」
そばで倒れたジョゼや、ケーキの箱を一瞥した。なにがあったかは容易に想像できた。ネフェリアは頷いた。
「ジョゼの記憶も消しておくよ。あとは適当な記憶を上書きしておけばいい」
ベルゼは何の気なしに言って、気を失ったセディアスを影の中に沈めた。
「ご主人様のおかげで怪我も大丈夫みたいだ。この人たちをあとで自宅に届けておくよ」
怪我の確認をしたあと、ジョゼも同じく影の中に収めた。
「記憶を消すなんて、そんなこと……」
ネフェリアが戸惑いの声を上げる。
「……」
記憶を消す魔術の存在など、知らないのも無理はない。
ベルゼが住んでいた北の国々と比べると、ネフェリアたちの住まうグーブニル国は、魔術の発展が著しく遅れている。
精神に干渉する魔術は、ベルゼが昔いた国においてすら、表向きは禁忌として扱われている。危険性もさることながら、習得が容易でなく、習得できたとしても扱いが難しい。制約も多かった。
当然、北の国でもベルゼを畏怖する者が多かった。
予想通り、ベルゼを見るネフェリアの瞳に怯えの色が混じる。
混乱と自責と、得体の知れないものに対する恐怖の眼差し。
「あ……」
ネフェリアが力なく立ち上がり、じり、と後ずさる。
かつて見た仲間の表情と重なり、足元に広がる血だまりが見えた気がした。
落胆も幻滅もしなかった。予想通りで、当然の反応だ。どうせ遅かれ早かれ、離れていく。
「ネフェル」
いっそのことこのまま厭ってくれたらと、願いを込めて名を呼んだ。
「…………え?」
ネフェリアが呆然として口を開いた。何を言ったのか理解できないようだった。
「ネフェル。大丈夫?」
様子のおかしいネフェリアが本気で心配になった。
「~~~っ」
直後、ネフェリアはベルゼを睨み付けて口元を固く引き締めた。
「もっと早くに来ていればよかった」
怖い思いをさせた。ベルゼの所業によって、さらなるトラウマとして胸に刻まれるだろう。
近付くとネフェリアが突然ベルゼに縋りついた。ネフェリアがベルゼの胸に顔を押し付ける。
先ほどまで明らかに怯えていたのに、恐怖の対象の懐に飛び込んでくるのは、どういう心理だろう。
「『様』を付けなさいよ! 心臓に悪い……っ」
(え。それだけ?)
拍子抜けしたが、責められたことは確かだ。
ベルゼはネフェリアの叱責にしゅんと項垂れた。雇い主に対して敬称を付けるように、昔から散々言いつけられてきた。改めて立場の違いを自覚する。
「ご主人様、ごめん……。名前呼びがそんなに嫌だとは思わなくて」
「あ、そうじゃなくて……」
ネフェリアはベルゼのローブの端を掴んで、自分の方へ引き寄せて顔を隠した。
「恥ずかしいから……まだ、だめ」
「……」
一瞬、ありもしない未来を夢想した。見放されたと諦めていた反動で、混乱する。情緒がどうしようもなく乱された。
どきどきと心臓の音がうるさい。密着しているせいで、動揺を悟られた。
「わかった…」
答える声が完全に上擦っていた。顔を見せたくない。華奢な背中に腕を回して、そのまま抱き締めた。固く目を閉じる。
ネフェリアのベルゼへの気持ちは、いっときの気の迷いだろうという考えは常にある。これから先もネフェリアの好意を信じることはない。だからネフェリアの気持ちが離れたとき、せめて手を離して解放してあげたいと願う。




