11. 壁・距離・未遂
頭の隅で、考えていたことがある。
ネフェリアは次の休日、一人で街へと出掛けた。いつも遊びに行く表通りから外れて、人気のない細い路地へと入っていく。
ベルゼと出会った路地裏に立って、壁と向かい合わせになる。
(侍女とはぐれて迷子になって、ここで出会ったのよね)
ぼろ雑巾のようになって倒れていた少年になにを思ったのか、当時十歳だったネフェリアは手を差し伸べた。両親や使用人たちからは、くれぐれも近付かないように注意されていた場所であり、関わりを持ってはいけないとされていた人種であった。優しさや憐れみからではなかった。なぜあのときベルゼを助けようと思ったのか、いまだに自分でもよくわからない。
薄汚れた壁を見つめたまま、未来視した内容を思い返した。
卒業を間近に控えたある日、ネフェリアは思いがけない罪を着せられた。
『君がそこまで酷い人間だとは思わなかったよ』
セディアスは冷え切った眼差しでネフェリアを糾弾した。
『私は…ネフェルの友人である資格はないの。ごめんなさい』
そう言って、ロイナは去っていった。
『私はこの方に教科書を破られたり、脅されたり……それに階段から突き落とされました!』
ジョゼに危害を加えたのが本当だったとして、平民と貴族では処分に差がある。本来なら謹慎で済むはずだった。
それにもかかわらずネフェリアが退学となったのは、セディアスたちが大げさに騒ぎ立てたことと、ネフェリアの評判が良くなかったことが関係していた。
上位貴族に伝手のないネフェリアは、助けを求めることもできず、ただ周りの娯楽として消費された。
父は事件を機にネフェリアを見限り、優秀な親戚の子どもを養子に迎え入れた。そしてネフェリアの修道院送りを決めた。
ひとり閉じ込められた部屋で泣きはらし、さんざん怨嗟を吐き散らしながら疲れ果てた頃、ようやくベルゼのことを思い出した。
八つ当たりして遠ざけていたときでさえ、ネフェリアの愚行を止めようとしてくれた。助けようとしてくれた。しかし、しばらく顔を見ていない。
ネフェリアは身勝手にも最後にベルゼに縋った。名を呼んだ。けれど。
――自業自得だった。
壁に手を触れる。ネフェリアはしばらく動かずにいた。
「ご主人様」
地面に伸びた影が動いて、起き上がる。治安が良い場所とはいえない。ベルゼの呼びかけは忠告を兼ねていた。
「私……貴族籍を抜けるつもりよ」
壁に視線を向けたまま、後ろに現れたベルゼに語りかける。
ネフェリアのしようとしていることは、若さにありがちな暴走で、熱に浮かされているだけだと周りからは見られるだろう。
「お父様が次の縁談相手を探してくださっているのは、知っているわ」
家のため、娘のために動いているのは理解できる。しかし心までは納得できていない。いとも簡単に捨てられる未来を視てしまった。
「勝手を言っているのは、わかっているの。恋愛だろうと、政略だろうと、どちらも幸せになるとは限らないし、不幸せになるとも限らない。貴族の一員としては家長に従うべきだわ」
未来で、修道院生活を送る中で、多くの人と出会い、様々な人生を見た。だから、どちらの道も必ずしも不正解ではないし正解ではないことを知っている。
「でも、もし私が貴族と結婚すれば、ベルゼは私のそばにはいられなくなるでしょう。私は高望みしなければ、それなりに幸せな生活を送れると思う。そうなれば」
手を後ろ手に組み、視線を地面に落とす。
「ベルゼは…私の思い出の中で生きることになるわね」
背後で身じろいだ気配がした。
「今なら、誰も見ていないし、聞いてない…よ」
思いきって振り返り、ベルゼの顔も見ずに静かに囁き、唆した。ベルゼが手を取ってくれるなら、幸せになるための努力を惜しまない。両親を傷つけて後悔しても、自分で選んだ道を進む。
ベルゼがネフェリアの肩に手を添える。もう片方の手でネフェリアの顔を掬い上げた。
「ご主人様」
ベルゼの、焦燥に駆られた顔が間近に迫る。ネフェリアの顔がカッと熱くなった。
直接的な行動に出るのは予想外で、慌てて両手でベルゼの口を塞いで押し止めた。
「き、キスはだめ」
「煽っておいて、それはないんじゃないの」
少し身を引いたベルゼはお預けを食らった不満を零した。灰色の瞳が妖しく揺らめいてネフェリアを捉える。
「あ…うぅ…」
背徳感がぞくぞくと背筋を駆け上がる。セディアスやジョゼが互いに夢中になる理由を理解してしまい、軽い自己嫌悪に陥った。禁じられることほど逆にやりたくなってしまうものだと、痛感した。
「と、とにかく、今はだめ」
最大限の理性を動員して、なんとかベルゼを拒んだ。
(本当に、セディアスのことを責められない)
「はぁ。それで、貴族籍を抜けるって、具体的な算段はあるの?」
ベルゼが溜息を吐いて、ネフェリアを解放した。先ほどまでの雰囲気は霧散して、ベルゼはいつもの落ち着きを取り戻していた。
「……切り替えが早すぎない…?」
ネフェリアは戸惑って瞬きを繰り返した。ネフェリアにはまだ先ほどの余韻が残っている。
「切り替え…? ああ、それはまぁ、必要だったから」
「……」
端的な回答に、詳しく聞くことは憚られた。ネフェリアが黙っている様子を見て、ベルゼは口の端を歪めて嗤った。
「……ご主人様は平和な生活をしているわりに、妙に察しが良いとこあるよね」
スッと細められた瞳には小馬鹿にしたような色が宿り、それと同時に羨望の感情が滲んでいた。ネフェリアは目を丸くした。
見下されたと怒るより、ベルゼが今まで晒したことのない中身を見せたことに驚いた。
「本当のあなたをもっと見せて」
貪欲に腕を伸ばして、手のひらでベルゼの頬に触れた。
一瞬呆気に取られた後、ベルゼが苦笑してネフェリアの手に頬を寄せる。
「いつも見せている顔も、本当だよ」
ベルゼはネフェリアの手に己の手を重ねた。
「じゃあ、ご主人様の計画を聞かせて」
率先して秘密を共有しようとする不敵な笑顔に魅せられて、ネフェリアの頬が染まる。なんとか平常心を保とうと努めた。
それからネフェリアはいくつかの考えを示した。




