無頼 一
武学の場が騒然としていた。
宋江率いる梁山泊軍が田虎軍を討伐したという報が、東京開封府にもたらされたからだ。
一同の前に立つ蔡京は、やや辟易していた。
田虎め、あれほどの勢力を誇っておきながら破れるとは。もう少し骨のある奴だと思ったのだがな。まあ良い。梁山泊も簡単に勝てた訳ではない。損害は大きくはないのだ。
どのみち、わしにとって都合が良いのだがな。
「静かにせよ。ここをどこだと心得る。聞く気のない者は出ていってもらおうか」
ここ武学とは、先帝の神宗帝が設立した、官僚たちに兵法の講義を行う施設だ。蔡京はここの教諭である武学諭でもあった。
その蔡京の言葉に、一同が粛然とした。
「まあ、お主たちの関心は田虎討伐にあるようだ。ならば、此度の戦の展開でも語ってやろうかのう」
蔡京にしては珍しい。武学の聴衆たちも喜色を浮かべた。
梁山泊が田虎軍相手にいかに戦ったかを、蔡京が語った。だがその内容は、梁山泊の戦略がいかに稚拙であるかを滔々(とうとう)と述べるものであった。
「田虎ごときにおよそ半年も時をかけるなど、話にもならん。勝てたから良かったものの」
次に自分ならどういった戦略を取るか話そうとした時である。
むっ、と蔡京が唸った。
講義を聞いていない者を見つけたのだ。なんと天井を見上げ、あまつさえため息をついているではないか。
「お主、どういうつもりだ」
羅戩という男で、彼も武学諭であった。
羅戩は答えずに蔡京の方をちらりと見た。軽蔑するような目だった。同じ目だ。宿元景などの、無駄に正義を振りかざす連中と同じ目だ。気に食わん。
そこへ帝の来訪を告げるお触れがあった。
蔡京も他の官僚も居住まいを正した。
どういう事だ。帝が来るなど聞いておらぬぞ。
帝が姿を見せた。脇に王黼を従えていた。
一同が平伏する中、羅戩が進み出た。
護衛たちが剣を突きつけ、下がれと命じるが、帝がそれを制した。
がばりと羅戩が平伏した。
「武学諭、羅戩。万死の罪をおかし、謹んで奏上いたします」
武学の空気が張り詰めた。誰もが最悪を予想した。
帝が静かに言う。
「良い。続けよ」
「奏上したきは、淮西の強賊王慶の事にございます。王慶が謀反を起こし、すでに五年。やっと討伐に赴いた童枢密はすでに潰滅しております。おそらく天子さまには、偽りの報告がなされていることと存じます」
帝が驚いた顔をした。羅戩の言う通りらしい。
蔡京は憐れむような、笑っているような目をした。
童貫め、ばれたぞ。果たしてどう取り繕うつもりかな。
「王慶はさらに領土を広げ、罪なき民を恐怖に陥れており、我が郷里、雲安も奪われてしまいました」
喉の奥で嗚咽を堪え、羅戩は続けた。
「なにとぞ王慶討伐の聖旨を出されますようお願い申し上げます。なにとぞ」
帝に直接嘆願するなど、己の命も顧みない羅戩に一同は驚嘆した。
わずかな沈黙の時。
そして帝が口を開く。
「お主の思いは伝わった。しかし童枢密をも退ける連中だ。誰かふさわしい将軍がいるだろうか」
羅戩は自信満々に答えた。
「梁山泊なら、適任かと」
ここまで思い通りに事が運ぶと、かえって怖くなるな。
すれ違った者が振り返るほど、にやつきを隠しきれない王黼。
羅戩を焚きつけたのは自分だ。正義感の強いあの男の事だ、ひと言ふた言囁いただけで案の定、火が付きおった。
童貫には気の毒だが、いずれは露見すること。早いに越したことはあるまいて。それも己が悪いのだ。
王黼は思い返す。
武学での蔡京の顔を。
己の職務の場で、しかも帝の前で、顔に泥を塗られたのだ。
怒りと恥辱を必死に押し殺す、引きつったあの顔よ。
思わず笑い声が漏れ、またすれ違う者が怪訝そうに目を向ける。だがそんな些事は気にならないほど、王黼は愉悦に浸っていた。
もちろん、帝の足を武学に向けさせたのも王黼だ。
王黼は蔡京に向かって、心中で呟く。
もはや帝を、いやこの国を操っているのは、この私だ。
あなたが叶えられずにいる大事を、私が成してみせる。
梁山泊を潰す。私にはそれができる。
私にもあなたが知らない情報網を持っているのですよ。もうあなたの時代は終わったのです。田舎で余生でも過ごしたらいかがですか、蔡京どの。
そして皺だらけの蔡京の顔を思い浮かべた。
思わず噴き出した王黼は、軽やかな足取りで宮中を出ていった。
王慶はすでに八州八十六県を支配下に置いていた。
そしてさらに魯州、襄州を包囲しつつある。二州から、兵の要請を求める嘆願が引っ切りなしに届けられていた。
王慶は房州を拠点として叛乱の狼煙を上げたが、もともと東京開封府の出身であった。
ある日、父である王砉は夢を見た。妻が臨月の時分である。
突然、虎が家に入ってきた。そして表の間の西に蹲った。そしてそこに獅子が飛び込んできて、その虎を咥えて立ち去ったのだ。
王砉が目を覚ました時、妻が子を生んだ。
それが王慶であった。
この子は大物になるに違いない。そうやって王慶は甘やかされて育つことになる。
王慶が十六、十七になる頃には体も大きくなり力も強くなったが、学問には見向きもせずに、もっぱら武芸や闘鶏などに熱中するばかりであった。
王砉も注意をしたのだが、却って王慶を怒らせる事になり、それからは何も言えなくなってしまった。あの夢は間違いだったのか。王砉は何度も嘆息するのだった。
やがて二十歳になる。
武芸を頼りに、役所で副排軍の職を得た。だが金が入ると仲間と博打や飲みに行ってしまい、すっからかんになると拳で人から脅し取るという有様で、手のつけられない存在となっていた。
ある日、王慶が朝務めを終え、役所を出ると、目の前に鳥がいた。なんとそれは白鳥であった。こんな所に、何故。手を伸ばすと白鳥は大きく羽ばたき、どこかへ飛んで行ってしまった。
不思議に思いながらも王慶は、城南の玉津圃へと向かった。知り合いがいたら居酒屋へ誘おうと、園内の池のほとりで枝垂れ柳に寄りかかっていた時の事だ。
そこへ一台の轎が、十人ほどに囲まれてやってきた。轎は御簾を下ろしておらず、中には花のような美しい女性が乗っていた。
目を輝かせた王慶は静かに後をつけた。
やがて一行は昆嶽へと入って行ってしまった。
昆嶽とは、帝が築いた全国の奇石や珍木などが並べられた庭園である。王慶などが入ることができない場所だ。
外で待つことにした王慶。お付きの虞候や幹辦を見ると、どうやら童貫の家の者のようだ。およそ声などかけられる人物ではない。
既に妻のいる王慶だったが、危険よりも欲望を優先させた。
待ちくたびれた頃にあの美女がやっと出てきた。すると轎には乗らず、しばし昆嶽の外の景色を見て回った。その姿を眺めた王慶は、あらためてその美しさに蕩けたようになってしまった。
この女性、名を嬌秀といった。
弟、童貰の娘を、童貫が養女にしたのだ。彼女は蔡攸の息子の許婚であった。つまり蔡京の孫の嫁である。
周りからの視線に慣れているはずの嬌秀は、人ごみの中にいつもと違うものを見つけた。王慶である。肩が広く、胸が厚く、逞しい腕。そして粋だが野趣味溢れる顔立ちに、気を惹かれてしまった。
実は蔡攸の息子が、その親に似ず野暮な男だと聞いており、どうやらそれが本当らしいと知り、嫌になっていたのだ。
次に嬌秀は嶽廟参りへ向かった。もちろん王慶もついてゆく。
「何だ貴様は。さっきからうろちょろしやがって。そういえば、見覚えがあるぞ。貴様、軍卒の者だな」
董という虞候が王慶に詰め寄った。
さすがに王慶も自分の首は惜しい。ここは素直に引き下がることにしたが、家で悔いるばかりであった。この時、王慶は気付いた。
「ちくしょう、きっと白鳥はあの女の事だったのだ。俺が白鳥の肉にありつけるはずもなかったんだ」
しかし、である。その嬌秀は屋敷へ戻っても、王慶に焦がれるばかり。ついには侍女たちに情報を集めさせ、董虞候を呼び出した。たんまりと袖の下を渡された董虞候は、王慶をこっそりと裏門から引き入れ、嬌秀と密通させたのであった。
だが三月ほど経ったころ、したたかに酔ってしまった王慶は、つい口を滑らせてしまう。
たちまちの内にその話は童貫の耳に入った。
童貫の怒りがどれほどのものだったか、想像するに難くない。
嬌秀との件が童貫にばれてしまい、会いに行く訳にもいかず、悶々としていた王慶。
中庭で涼んでいたが、家の中に扇子を取りに行こうと立ち上がった時だ。何と座っていた椅子が、四つの脚を動かして歩き出し、近づいてきたのだ。
「なんだ、こいつは。化け物め」
咄嗟に蹴りを放った王慶だったが、力を入れ過ぎて脇腹の筋を違えてしまった。王慶は痛みで立ち上がる事ができずに唸り声を上げるばかりだったのだ。
「ちくしょう、一体なんだったんだ、あの椅子は」
と愚痴をこぼすばかり。
翌日、やっと立ち上がれるようになった。膏薬屋の爺さんに薬を貰った帰りである。
西の通りから見慣れぬ者がやって来るのに出くわした。
紗の頭巾をかぶり、単衣の薄布の着物を羽織っている。手にした日傘から、先天神数と書かれた紙の看板を下げている。
どうやら占い師のようだ。
さらに看板には、次の言葉が並んでいた。
荊南に李助あり
見料一回十文なり
すべての文字に意味があり
その占術管輅に勝れり
管輅といえば、かつての魏にいた、外れなしという占い師の事だ。なんと大きく出たものだ。
王慶はその占い師、李助に興味をそそられた。嬌秀のことや、椅子の怪異があったからだ。
「ちょうど良いところへいらっしゃいました、先生」
「うむ、何用かね」
「これは面白い事を。占って欲しいに決まっているじゃないですか」
「そうか、では」
膏薬屋に戻り、李助が占いを始めた。なにやら口の中で唱えるのを、王慶と爺さんがじっと見ている。
ふいに李助が言う。
「何を占うかね」
「そうですね、家の事を」
李助が占い箱を二度開けて、卦を作った。
「何が出たんです」
少しの沈黙の後、李助が告げた。
「これは水雷屯の卦。屯とは難の意。まさに災難が起こったという事だ」
さらに李助は渋紙の扇子を打ち振りながら唱え出した。
理のままに申し上げるのでお怒りなさらないように、と念を押して告げた。
「お宅にはまだまだ怪異が起こるでしょう。心を入れ替えて引っ越ししない事には、無事は保証できかねます。明日は丙辰の日、どうかご用心を」
十文を受け取り、李助は去ろうとした。
「先生、難を避ける方法を教えてくれないんですかい」
「それは自身で考える事。しかしお主は奇相の持ち主、もしかすると大難を避け、大事を成すやもしれぬ。縁があれば、またいずれ会えましょう」
では、と振り向く事もなく行ってしまった。
王慶は苦笑した。まだ怪異が起きるというのか。興味本位で占ってもらったが、さてどうしたものか。
翌日、王慶が遅めの朝飯と酒を取っている時である。
ふたりの小役人が家の戸を叩いた。点呼に王慶がいなかったので、府尹に言われて来たという。腰を痛めた王慶を、彼らは庇ったのだが、府尹は聞く耳をもたないというのだ。
仕方なく役所へ赴き、府尹の元へ行く。
王慶は怪異の件を説明するが、信じるはずもない。しかも酒で顔が赤いのがまずかった。
「朝から酒の匂いをさせおって。しかも、あのような不埒なことはおろか、今度は妖言で私をたぶらかそうというのか」
府尹は棒打ちを命じた。
王慶が申し開きする間もなく、何十回と打たれ。さらに、妖言で民をかどわかし、謀反を企んだという自白までさせられてしまった。
実はこの件、裏で童貫が糸を引いていた。嬌秀の一件で顔に泥を塗られたため、王慶を亡きものにしようと企んだのだ。
だが蔡攸は違った。
王慶を殺してしまえば、噂はやはり真実だったのだと裏付けることになってしまう。それはまずい。
そこですぐに嬌秀と息子の婚儀を執り行うとともに、王慶を遠方の陝州の地へ流罪とする事を決めたのだ。これで一応は童貫も面目が立つこととなった。
まったくあの占い師の言う通りになってしまうとは。牢の中で、痛む足を擦りながら王慶がひとりごちる。
しかし死罪は当然だと思っていたが、どうしてか流罪となった。大難を避けた、ということなのか。
それに占い師は引っ越せと言っていたな。丁度良い、これで東京開封府からもおさらばという訳だ。
「奇相、か」
王慶は顎を撫でながら、嬉しそうに口の端を歪めてみせた。




