仇敵 四
馬が風のように駆けている。
それを操る瓊英が、険しい顔をしていた。
ついに威勝を陥とした。田豹と田彪を捕らえると、残りの兵はすぐに投降を始めた。
葉清と范権の呼びかけが功を奏した。これ以上無駄な血を流したくはない。二人とも同じ考えだった。
鄔梨の妻猊氏は自害していた。瓊英は胸が痛くなるのを感じた。仮にも育ての親だったのだ。
葉清が優しく肩に手を置いた。
「気に病むことはない。お前の本当の親は、田虎と鄔梨に命を奪われたのだ」
「そう、ですね。でも、なんだか悲しくて」
「お前が優しい娘に育ってくれて良かった」
そこへ安氏が姿を見せた。
「おば様」
抱き合う三人。瓊英の目から涙がとめどなく流れる。葉清が強く抱きしめる。礫の技を覚え、武芸の腕があったとしても、まだまだ年端もいかない子供なのだ。
これまでよく耐えた。葉清そして安氏の目にも涙が光る。
だが葉清と瓊英を慌ただしく呼ぶ声がした。
「ここにいたか」
「一体何事です」
馬霊がそこにいた。襄垣方面で田虎軍と相対していたはずだ。
「田虎を逃がしてしまった」
馬霊が悲痛な面持ちで言った。
瓊英は無意識に駆けだしていた。葉清の声が聞こえたが、止まらない。
馬に飛び乗り、威勝を飛び出した。
田虎が馬を駆っている。
その顔は怒りに満ちていた。
全羽が援軍に現れた。田虎軍は一旦、襄垣へと向かった。
しかし、である。
城内に入り、悲鳴と怒号が響きわたった。
胡英が落とし穴にはまり、上から突き殺された。城外へ逃げようとした唐昌だったが、全羽の槍に果てた。護衛の兵たちが次々と斬り伏せられてゆく。
罠だった。
田虎は生け捕りにせよ。全羽の声が聞こえる。
田虎は逃げた。
ふざけるな。捕まってなるものか。田虎は駿馬に乗っており、追いつける者はいなかった。
単騎、山沿いを駆ける田虎。
襄垣が敵の手に陥ちていた。葉清か。奴が鄔梨を殺したのだな。やはりあの時、殺しておくべきだったのだ。
そして全羽とかいう男は。いや、もはや何者でも良い。
どこへ行くべきか。威勝は、危険だ。己の嗅覚がそう告げている。
この辺りは、猟師の頃駆け回っていた庭のようなものだ。草一本についてまで知り尽くしている自負はある。山に隠れ、ほとぼりが冷めたら金国へ向かおう。同盟を結ぼうと画策はしていたのだ。
北へいくらか走ると、辺りが暗くなってきた。夜にはまだ早い。また雨か。
風が出てきた。やはり雨のようだ。しかし雨は降らず、風だけが強く吹いている。そして黒雲がのしかかるように低く垂れこめてきた。
毒づきながらも馬を飛ばしていると、何か聞こえた気がした。
まさか梁山泊か。いやそんなはずはない。
しかし確かに風の音に混じって、声のようなものが聞こえてくる。
女の声だ。
「誰だあっ。隠れてないで出てこい」
田虎が唾を飛ばす。
突然、馬が棹立ちになった。田虎は体勢を崩し、落馬してしまった。
「ああ、待て」
馬がどこかへ駆け去ってしまった。
くそ、と毒づいた田虎の目の前に、大きな石が横たわっていた。人の大きさほどもある、白い石だった。
「なんだ、こいつは。むっ」
また声が聞こえた。
声は、石の方から聞こえる。
田虎は注意深く、近づいた。
風が巻き起こった。
風が止んだ時、目の前に女がいた。
「奸賊田虎、お前は我が家の仇。決して逃したりはしない」
田虎はどこにいる。
飛び出したものの、無暗に駆けても見つからないか。
その時、瓊英は聞いた。蹄の音。前方から。敵か。腰の袋に手を添える。
馬だった。人が乗っていない。何かに怯えたように、駆け去ってしまった。
見覚えがある。あれは田虎の馬だ。
この先に、いる。
田虎が、いる。
その方向の空が暗い。近づくにつれ、雲は空全体を覆うようになった。
見つけた。やはり徒歩だ。
何だ。田虎の周りに靄がかかっているように見えた。
瓊英は方天画戟を脇に挟むようにして支え、そのまま駆ける。
田虎がこちらに気付いた。刀を振り上げ、噛みつかんばかりに吼えた。
「貴様あ、この裏切り者があ」
田虎が歯を剥き出して吼えた。
怖い。
手が、脚が、体が震える。
鼓動が早い。息が苦しい。
目を逸らしてしまいそうになる。
す、と瓊英の腕に、何かが触れた。
優しくて、暖かい。懐かしい匂い。
「大きくなったわね」
囁きが聞こえた。
この、声は。
震えが止まった。
お母さん。
「田虎、父と母の仇。覚悟っ」
瓊英の画戟が閃いた。だが、手ごたえが無い。
あっ、と瓊英が声を上げた。視界が揺れた。馬がよろめいた。瓊英が地面に放りだされ、背をしたたかに打ちつけてしまう。だがすぐに立ち上がった。田虎がそこにいるのだ。
見ると、馬の首から血が夥しく流れていた。
「くくく、お前のような娘一人に、わしが倒せるものかよ」
思い出した。田虎は元々猟師だったのだ。
飛び付くように画戟を拾い、構える。腕は震えない。行ける。
気合いと共に、瓊英が画戟を放つ。だが田虎はそれを素早く避けた。
次の画戟も、その次も当たらない。田虎の顔にうすら笑いが浮かんでいる。
「鄔梨がお前の事を大層褒めちぎってたけどよ。大したことないじゃねぇか。まあ、あいつも大したことはなかったがな」
田虎が前に出る。突風のような勢いで刀が襲いかかる。
鈍い音とともに画戟の柄が両断された。
画戟を捨て、瓊英が距離を取った。
まずい。どうする。足が微かに震え出す。
「落ちついて」
また声が聞こえた。母の声と、それに重なるもう一つの声。
「俺が伝えられることは全て教えた。君は、強くなったんだ」
それは全羽、張清のものだった。
右手が腰の袋に伸びた。そして抜いた手が見えないほどの速さで、礫を放った。
礫は田虎の手首に当たった。嗚咽を漏らし、刀を取り落とす。
「貴様あ」
礫か。これも鄔梨が自慢していたな。女子の、所詮は曲芸だと思っていた。くそったれめ。右手が痺れてしまっている。
だがそれでもやはり、しょせんは児戯だ。
田虎は左手を鷲の爪のように広げ、襲いかかる。
瓊英が再び礫を投げた。
しかし田虎は横に飛び、礫をかわしてしまった。
三発、四発、そして左右同時。だがことごとくかわされてしまう。
「当たらなければ、そんな石ころなど怖くないわ。その細い首をへし折ってやる」
田虎がさらに近づいた。
瓊英が思わず後ずさってしまう。
「落ち付いて。稽古を思い出すんだ」
張清の声が、また聞こえた。
そうだ。焦っちゃだめだ。
目を閉じ、夢を思い出す。張清の一挙手一投足を思い浮かべる。
そして目を開け、素早く礫を放った。
田虎はまたも横へ飛び、礫を避けた。
だが、その礫の向きが変化した。突如、田虎の顔面に向かって、角度を変えたのだ。
礫が田虎の鼻を砕いた。
張清との夢の中で編み出した技だ。瓊英の非力さを補える、と言っていた。
田虎の鼻から大量の血が溢れ出ている。押さえる手も、地面も血で染まっている。
礫が曲がった、だと。
頭がぼんやりする。意識が朦朧とする。
田虎の足がふらついている。
ここで、決める。決めなければならない。
瓊英はありったけの礫を田虎に飛ばした。
腕に、腿に、脛に、腹に、肩に、耳に、頭に、そして最後に眉間に礫が当たった。
血が飛び散る。
白目を剥いた田虎が、一度天を仰ぐようにして、倒れた。
ぴくぴくと痙攣をしている。もう立てまい。
「お父さま、お母さま。やりました。仇を」
そして瓊英も意識を失った。
倒れる瓊英を抱きとめるように、そこに白い石が現れていた。瓊英は石の上に、眠るように横たわった。
父と母に抱きしめられる、懐かしい夢を見た。
銅鞮山に籠った李天錫らが投降した。そして盧俊義軍が残りの拠点を奪還し、田虎軍との戦いは終わりを告げた。
「よう待ってたぜ、小悪来」
史進に声をかけられた卞祥は、少し困ったような顔をしていた。
宋江と対峙した後、綿山を下りた。そしてすでに威勝が陥落し、田虎も捕らえられた事を知った。
卞祥は深く、長いため息をついた。
強大な勢力と版図を誇っていたはずの田虎が、敗れた。梁山泊とはそれほどのものだったのか。
「行くところがなくなった。俺を置いてくれるか」
「歓迎するぜ。あんたほどの好漢が来てくれるなんてな」
そうだ、と史進が思い出したように言う。
「梁山泊に行ったら、会わせてみたい奴がいてね」
「俺にか」
「陶宗旺って奴で、そいつも元は農夫だ。なんだか似ていると思ってな」
「そうか」
とだけ卞祥は言った。
田虎を裏切った、という自責の念は、史進の明るい口ぶりでいくらか楽になったような気がした
宋江たちが梁山泊へ、整然と行進をしている。街々や街道では、田虎からの解放を喜ぶ人々からの喝采を惜しみなく浴びた。
殿を行く孫安が振り返り、一帯を見渡した。
梁山泊になることができなかった。それが田虎軍だ。
多くの者が田虎に賛同した。腐った役人たちに対する憤りは、それほどだったのだ。そしてその中には秀でた者もいた。頭目を数えれば百人近くになるか。梁山泊と同じだ。
だが、敗れた。
活かしきれなかったのだ。晁蓋が頭領になる前の梁山泊がそうだったという。王倫という男は器ではなかったという事だ。
そして田虎も。
いや、自分もか。
孫安は、流れる雲に目を細めた。
目を開けると張清の顔が飛び込んできた。
ゆっくりと上体を起こし、記憶を呼び起こす。
「田虎は」
「捕らえられたよ。しかし無事で良かった。気が気じゃなかったよ」
「ありがとう」
と言われ、不思議そうな張清。
「田虎と戦っている時、あなたの声が聞こえたの。それで勝てたのよ。ありがとう」
「そうか。とにかく良かった」
張清はやっと安心したように、肩の力を抜いた。
ありがとう。あなたと出会えて、本当に良かった。
そしてありがとう、お母さん。
体が癒えた頃、石室山を訪れた。
「この石が、お主の母だったとは」
囲いの中の白石を見て、李雲がしみじみと言った。葉清の、三年前の話とも符合する。瓊英の母は、ずっと娘を守っていたのだ。
囲いの撤去を待ち切れず、瓊英が石に抱きついた。
石に縋り泣き続ける姿に、張清も李雲も葉清も胸が張り裂けんばかりだった。
その時、風が吹いた。
あっ、と瓊英が驚きの声を上げた。張清たちも目を疑った。
白石が、人の姿になっていたのだ。それは確かに瓊英の母、宋氏の姿だった。
娘をよろしくお願いいたします。
宋氏の声が聞こえた気がした。
「奥様」
葉清も滂沱の涙を流した。
その後、李雲が建てた廟に、宋氏の亡骸は葬られた。
「ありがとうございます。これで母も、父も安らかに眠ることができます」
頭を深々と下げる瓊英。
去り際、李雲が張清に囁いた。
「これからはお前が守ってやるのだぞ」
「はい」
張清が力強く頷いた。
田虎が田豹、田彪と共に処刑された。
東京開封府は見物人で溢れかえっていたという。
宋江が杯に口をつける。田虎処刑の報に、深く目を閉じた。
田虎の末路は、かつての梁山泊の末路だ。田虎の叛乱も、腐った役人に対しての怒りが根底にあったという。だが目的はいつしか田虎の欲を満たすためのものに成り果ててしまった。だから崩壊したのだ。
宋江が目を開ける。替天行動の旗が翻っていた。
己の心に言い聞かせる。信念が揺らぐことはない、と。
隣で呉用が、見透かすようにこちらを見ていた。
心配するな。という表情で、宋江が酒を飲み干した。
張清と瓊英の婚姻を改めて祝う、この酒宴。田虎軍から投降した面々も参加していた。
唐斌、山士奇、卞祥、馬霊、喬道清そして孫安。主だった者だけでもかなりの戦力が加わり、喜びもひとしおだ。
「孫安どのも仇を追っているとか」
張清が訊ねた。
大方、姚約か金禎あたりが喋ったのだろう。まあ別段、隠し通すことではないが。
「そうだ。だが足取りが杳として知れなくなってしまってな」
孫安は、父を殺した占い師と道士の話をした。
「すまん、話が聞こえたのでな」
と武松が側に腰をおろした。
「その道士の手口、聞いたことがある気がしてね。名前は何というのだ」
「王とだけしか。あと確か飛天なんとかと呼ばれていたかな」
「もしかして飛天蜈蚣か」
孫安は思わず立ち上がっていた。
「そうだ。その占い師が、そう呼んでいた」
あの時の記憶を思い出す。知らず、眉間に皺が刻まれていた。
「その飛天蜈蚣、王道人は俺が仕留めちまった」
すまんな、と無表情で武松が言った。
「そうか。いや、礼を言わねばならんな」
孫安は、なんだか拍子抜けした。あれだけ追っていた相手が、いつの間にか殺されていたのだ。しかも梁山泊の者に。
だが、もう一人。占い師に関しては、武松も他の者も知らないようだった。
「なんだ、もう始まっちまってたのかよ。間に合うと思ったんだけどな」
白勝だ。宋江の指示で、淮西で叛乱を起こしている、王慶の事を探っていたのだ。
白勝の報告が聞こえ、孫安が立ち上がった。
そして宋江の元へと歩いてゆく。一同の目が、孫安に釘付けになった。
孫安が言った。
「失礼は承知の上です。もう一度、今の報告をお聞かせ願いたい」
宋江が促し、白勝が戸惑いながらも繰り返した。
「王慶は、梁山泊が田虎軍と戦っている間にも勢力を広げ、いまや八州八十六県を占領し、自らを楚王と称している」
八州とは南豊、荊南、山南、雲安、安徳、東川、宛州、西京である。田虎の支配地は五州五十六県だった。それよりも広大な地域だ。
「宛州を攻められた時、さすがに帝の耳にも入り、童貫が討伐に出たんだが、王慶軍に大敗しちまった。だがそれを帝が知っているかどうかは定かじゃない。まあ、おそらく知らないのでしょうがね」
これまで通り、蔡京たちが揉み消していると思われる。
だが孫安が聞きたかったのは、その後の事だった。白勝も、そっちの話かい、と意外そうな顔をした。
どうやら王慶には軍師がついているらしく、その男のおかげでここまで勢力を拡大できたのだという。
「その軍師ってのが、もともと占い師らしい。なんでも、金持ちなんかに嘘の占いを信じ込ませて、最後には屋敷や土地を奪っちまうなんて悪どい事をしていたようですぜ」
その占い師も只者ではなく、剣の腕もなかなかで金剣先生などと呼ばれているという。
「金剣先生、か」
間違いない。
その占い師が、父の仇だ。
あの時、王道人の横にいた、剣を帯びた占い師。
あの顔、今の今まで、一時たりとも忘れた事など、ない。
孫安の目が、鋭いものに変わっていた。




