第四章
緋色の炎が本能寺の天井を染めていた。
丑三つ時、夜を裂くような火の光が闇を突き抜けた。
杉本は本能寺の奥、庫裡へと続く通路を裸足で駆け抜けた。
夜風が火と煙を運び、熱気が肌を襲った。
「明智……光秀……」
その名を口にした途端、すべてが現実になってしまう気がして唇を噛み締めた。
歴史が書物の中の伝承ではなく、今、目の前で起きている。叫び声や兵の怒号、弓の音、剣戟が響く中、杉本は小間を目指して走り続けた。
宗久が教えてくれた場所――信長の私的な茶室。あの曜変天目茶碗が「信長の未来の眼」として秘蔵されている場所。
火の粉が舞い、杉本のシャツに黒い焦げ跡がついた。
煙にむせながら床を弄った。
「……あった!」
畳の下、節目に沿って切られた細い溝。指先で押すと板が軽く浮き、小さな空間が現れた。
その中に天目茶碗があった。黒い釉薬に浮かぶ星のような結晶。薄暗い中でも、青、紫、金、緑――多彩な輝きが茶碗の内に渦巻いていた。
「……信長の曜変、本当にある!」
声が震えた。現存する三椀とは異なる誰も知らない幻の国宝。歴史の炎に焼かれ、その光を知る者はおらず、伝説だけが残された名品。
杉本は茶碗を前に膝をついた。両手が震える。触れてはならないと分かっていながら、目を逸らせなかった。
「見たい……覗き見たい……」
曜変の内側には、あの油膜のような虹色の光が渦巻いていた。深く、底知れない星空の世界へ、意識ごと引き込まれそうだった。
――吸い込まれる。
気がつけば杉本の身体は傾き、手が茶碗へと伸びていた。意識も視界も、時間さえも――すべてが崩れていく。炎の音が遠ざかり、現実が剥がれ落ちていく。
曜変の底に星々が流れ、その渦の中へ、闇の向こうへと引きずり込まれていった。




