第三章
本能寺の空気が次第に張り詰めていくのを、杉本は肌で感じていた。
見張りの数が増え、足音も変わった。兵の口調に緊張が滲み、誰かが慌ただしく命を下す声が聞こえた。その度に背筋が反射的に伸びた。
「……そろそろか」
杉本は夢を見た。信長と曜変天目が真っ赤な炎に包まれ、茶碗の表面を走る虹色の光が炭のように黒く崩れ落ちていく。信長の命と美の輝きが、一つの炎の中で交錯しているかのようだった。
――歴史を変えてはならないのか? それとも、美を救う事こそが正義なのか?
その問いが、杉本の胸を締めつけた。
曜変天目茶碗は、杉本にとって人生そのものだった。文献をどれほど読み漁っても、信長の幻の茶碗には辿り着けなかった。今、この瞬間にこそ、それをこの目で見るチャンスがある。これを逃せば、二度とない。
「でも……俺が信長の曜変を救えば、歴史の改変になる」
茶碗が燃えなければ、美術史はどう変わるのか?
国宝は四椀となり、研究も展示も再編されるだろう。それだけでは済まない。信長が生き延びる未来すら生まれるかもしれない。
杉本は牢の隅で拳を握り、目を閉じた。
「俺は学芸員だ。美を守るのが仕事のはずだろ。でも……それが未来の破壊になるなら?」
答えを見つけられずにいると、足音が聞こえた。
薄暗い灯りの中、宗久が立っていた。
「杉本殿。今夜……天正十年六月二日、歴史が動く夜じゃ」
杉本は背筋を伸ばした。
「やはり光秀が!」
「申すな。そなたは知り過ぎておる」
宗久は扇子を広げず、目を伏せたまま言った。
「我らがこの先、どのような末路を迎えるとしても――それは定めの流れ。変えてはならぬ。変えれば、曜変の底に引きずられよう」
「曜変の底……」
杉本の脳裏に、あの油膜の渦が蘇った。光と闇が入り交じり、星々が交わるような不思議な世界が曜変天目茶碗の内に広がっていた。
「宗久さん……私はただ、見届けたいんです。信長様の曜変が、確かにこの時代にあったという事を……」
「それでよい。……忘れるな。茶碗を見る事と触れる事は違う。ひとたび手を伸ばせば、歴史は牙を向くぞ」
「……分かっています」
外から兵の叫ぶ声が聞こえた。
「火の手だッ! 敵襲――!」
ついに、歴史が動き出した。
「庫裏の奥、小間の棚だ。そこに――眠っておる」
宗久は闇に消えた。
「曜変の底へ、俺は行く」




