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第二章

 牢の外から聞こえる足音と話し声が空気を震わせていた。日常のものとは違い、何かが始まる前触れのようだった。


 牢の中で杉本は藁の上に座り込み、じっと膝に額をつけていた。ここが「本能寺」で、外には「織田信長」がいて「曜変天目茶碗」が存在しているという現実……。


「信長の曜変……それが、あの燃えた茶碗なのか……」


 宗久の話が本当なら、杉本と同じように未来から来た者が過去に一度いた。


 牢の隙間から湿った風が吹き込んだ。


 夜が更け、日付が変わる――。

 ――天正十年、六月二日。


 歴史に刻まれた『本能寺の変』が始まろうとしていた。


 夜になって、宗久は牢に現れた。


 扇子を閉じて杉本の前に膝をついた。

「杉本殿。あの天目茶碗を見せてやる事はできぬ」


 予想通りの答えだった。

「……それでも、一目だけでも見たいんです」


「理由を申せ」


 杉本は曜変天目茶碗とは何かを語り始めた。現代の研究、美術史の中でその名品がどれほど重要な存在なのか。その中でも「信長の茶碗」は、焼失によって幻となった存在である事を――。


「本来、曜変天目は中国・南宋《なんそう》時代に作られた建盞《けんさん》という種類の茶碗の一つです。いくつも作られたはずですが、現存しているのはわずか三椀。いずれも日本にあります」


「三碗のみか……」


「はい……。でも、信長様の曜変天目は本能寺の変で焼失して、幻の存在となっています」


 宗久の目が揺れた。彼の内にも天目茶碗に対する敬意と、ある種の執着があるのだろう。


「一目でもいいんです。信長様の曜変をこの目で確かめたいんです! 失われる前にそれが『在った』と心に刻んでおきたいんです」

 杉本は懇願するように頭を下げた。


「それは叶わぬ。あれは信長公の『未来の眼』よ。かつてその力を欲した者は、茶碗を覗き――未来を語った」


「未来を語った?」


「そなたと同じようにな。そやつも同じ言葉を口にした。『これは曜変天目である。これは未来において国宝とされる』と……。それが御怒りを招いたのだ」


 杉本は拳を握りしめた。このまま茶碗に触れる事なく、ただ歴史の一部として燃えゆくのを黙って見送るしかないのか。


 宗久が立ち上がった。

「杉本殿、ひとつだけ申しておこう」


 杉本は顔を上げた。


「もし信長公の茶碗を見たければ、夜の混乱のさなかに、――あるいは」


 目が合った。

「その時、それは庫裏《くり》の奥――小間の棚に隠されておる。拙者しか知らぬ場所だ。炎がすべてを呑み込む前に辿り着ければ、一目見るだけは叶うやもしれぬ」


「……ありがとうございます」


 宗久は去り際、振り返りもせず言った。

「だが、手を触れるな、杉本殿。それは神の眼ぞ。人が覗くにはあまりに深い。――覗き込めば、戻れぬかもしれん」


「それでも――私は見たいんです。曜変の底を」



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