第一章
杉本は身体の奥で何かが焼ける匂いを感じた。煙でも焦げでもない、砂が乾き太陽に焼かれたような、懐かしくも不吉な匂いだった。
――風が鳴っていた。現実の音ではなく夢のように曖昧で、遠くから聞こえてくるようだった。
重い瞼を開けると、粗末な梁の天井が見えた。その隙間から薄明かりが漏れていた。
「ここは?」
身体を起こすと背中は汗で湿り、藁と乾いた土の匂いが鼻をついた。上着もネクタイも指輪もなく、泥と砂埃にまみれたシャツとスラックスだけが、現代から来たことを示していた。
「何だ……。ここは、どこだ?」
格子窓から薄橙色の光が差し込んでいた。荒い土壁に藁敷きの床。重たい木の扉には錆びた錠前が下がっていた。
「気がついたか」
杉本はハッとして声の方を見た。
扉の向こうに男が立っていた。年の頃は五十ほどで和服に茶袴姿、手には扇子を持っていた。痩せた男で、口元には不気味な笑みを浮かべていた。
「お主、奇妙な格好をしておるな。都の者ではなかろう?」
「ここは……?」
「ここは本能寺。お主は信長公に無断で怪しき言葉を吐いた咎により、一度は寺内に留め置かれたが――油断ならぬ異人と見なされ、今朝、急ぎ板牢が設けられた」
「信長?」
杉本は辺りを見回した。厚い板に囲まれた薄暗い空間。天井は低く、外の音もほとんど聞こえない。
「もしかして、これが板牢?」
「簡素な牢だが逃げ道はない。音も声も通りにくい。足元は乾いた土に藁を敷いただけよ。……まるで、時そのものに閉じ込められたようではないか?」
杉本は黙り込んだ。板の内側に閉じ込められたような、息苦しさを肌で感じたからだ。
「そなたは何者だ。どこの者だ?」
「……すみません。教えてください。今日は、何年の、何月何日ですか?」
男は一瞬、眉をひそめた。
「……天正十年、六月一日」
杉本の背中が凍りついた。六月二日、織田信長が本能寺で自害に追い込まれる『本能寺の変』が起こる前日だからだ。
「そんな……嘘だ……」
「お主の身に着けていた品々も見たぞ。紙のような布の冊子、無駄に細かな文字、光る鏡のような物。あれは、唐のものでも南蛮でもない。指に嵌めていた物も拙者の知識にない代物ばかりだった」
「……拙者?」
杉本の頭がじんじんと痛んだ。
男の目が杉本の動揺を凝視した。
「名乗るがよい。そなたの名を……そなたはどこから来たのだ?」
「……私の名前は杉本晶。藤原美術館の学芸員です」
男は頷くと扇子で口元を隠し、まるで芝居でも見ているかのような目つきで一歩近づいた。
「拙者の名は、今井宗久。信長公に仕える茶の道を嗜む者」
「今井宗久……」
杉本は絶句した。歴史の教科書で見た名。戦国期の豪商にして茶人、外交もこなす多才な人物。その本人が目の前にいる。
「杉本殿。そなたは……未来から来たのだろう?」
杉本は目を見開いた。なぜその言葉が直ぐに出てくるのか。
宗久は囁くように言った。
「実のところ……そなたのような者を、拙者は過去に一度だけ見た事がある。――数年前、そなたのような男が現れた。奇妙な衣を着た男だった。天目茶碗を曜変天目だと言い、茶碗に『未来を見る力』があると信じ、信長公に願い出た」
「それで、その方はどうなりましたか?」
「手にしたその瞬間、斬られた。信長公の御物に触れるは不敬。神の茶碗に触れし者の末路よ」
曜変天目……現代に三椀しか残されていない幻の茶碗。信長が所持していた曜変天目は本能寺の変で焼けたとされている。
「その茶碗を私に見せてください! お願いします!」
宗久はしばらく黙っていた。
「歴史を知る者が、歴史を動かそうとすれば禍が起きるぞ」




