1.43 アリアとユリス
気が付けば由紀は、瓦礫まみれの床に倒れていた。
「…………う、ぁ」
何があったのだろうか。アリアの拘束を解き、優香里と挟み撃ちする形で走った事までは覚えている。そこからいきなり全身が物凄い衝撃に襲われて、視界も真っ暗に。
ゆっくりと頭を上げると、額から頬にかけてとろりと生暖かいものが垂れ落ちる感触がした。手も、足も、頭も痛い。目もぼんやりする。
だが、由紀にとって今はそんな事、自分の事なんてどうでも良かった。
「……優香里姉ぇ」
爆発の直前、目の前に居た大切な『姉』。
結実が『あんなこと』になった今、もし彼女まで何かあれば、自分は。
体の痛みに耐えながら、由紀は只々呼び掛ける。
「優香里姉ぇ……!」
「――こんな時くらい、まず自分の事をご案じになさってください。佐倉様」
返事をしたのはアリアだった。そして由紀の視界も漸くはっきりしてくる。
メインホールの天井は半分吹き飛んでいた。大穴から見えるのは夜空とそれを埋め尽くす程の分厚い黒煙の塊。瓦礫と火災に辺りはまみれ、粉塵がもうもうと立ち込める。
唯一爆発前と変わっていないのはユリスの『創世』霊子術式。青白い光を纏うそれを守るように仁王立ちするアリアは、顔もメイド服も血塗れの満身創痍の姿だった。
「……泉様なら、そちらです」
由紀よりも更に重傷そうな彼女はゆっくりと指をさす。優香里は由紀のすぐ近くの床に倒れ伏していた。思わず由紀は真っ青になって叫んだ。
「優香里姉ぇ!!」
「大丈夫、気を失ってるだけ。貴方よりは軽傷です。……本当にお強い方」
由紀は恐る恐る確認をする。息はしている。脈も異常ない。先頭の傷さえあれ、大きな怪我も失血も無さそうだ。アリアの言った通りだった。
「――でも、やっと倒れてくれた。これで、本当に最後です」
唯一人になった由紀にアリアは宣告する。優香里を抱きかかえながら彼女に向き合った由紀は、そこで気づいた。
由紀と優香里の周りには比較的大きな瓦礫が落ちていなかった。術式も同様に。あんな状況でアリアは自分以外の全てを守っていたのだ。ボロ雑巾のようになってまで。
「儀式を、急ぎましょう。主人が此処に気をやる余裕が無くなった。彼女との決着も近いという事です。……それまでに、この世界を削り、『創世』の準備を」
「……アリアさん。貴方は、そんなになってまで。なんで、そんな――」
「それが、主の願いですから」
由紀の言葉は途中で切れる。由紀はアリアの目を見る。彼女の主と同様、己が信念にひたむきでまっすぐな、覚悟の炎が灯る強い瞳。
だったら、自分も示さなくてはならない。
優香里を回復体位に寝かせ、近くに転がっていた光の剣を拾い上げる。今もなお美しく光り輝く裁定の剣。握って構えると僅かに温かい。由紀はその温もりに覚えがあった。
――ユイだ。
「無駄です、貴方の力量では。……それ以上に、人に剣を振れるタイプではない」
あどけない少女にしか見えない由紀が、両の手で何とか剣を構え、逃げずに向かって歩いてくる。とても頼りなく、華奢で、弱弱しい。
しかしその目は。今や完全に蒼く爛々と輝くその二つの瞳は、アリアの万年にも及ぶ長いカノヨビトとしての歩みの中でも、比類無き美しさと、覚悟の強さがあった。
「……剣を捨て、大人しく身を委ねてください」
「断り、ます」
アリアは恐れていた。唯一の障害であった優香里は既に戦えない。後は無垢な特異点の少年一人、縛り上げて術式の中に組み込むだけ。文字通り赤子の手をひねる程容易い。
だろいうのに。アリアは自身の胸に手を当てる。先程彼から霊子布越しに受けた衝撃は今も感覚として残っていた。『現世』の者でありながら『彼世』の者である自分に干渉し倒しうる能力。
皮肉な事に、最後にして最大の障害は『鍵』そのものだったのだ。
「――――っ」
痛みを押してアリアは再び多数の布を展開する。由紀がどう向かってきてもいなし即拘束できるように。
「……凄く、怖い顔です。アリアさん。最初に会った時とは別人みたいです」
「何を」
唐突な由紀の言葉に、アリアは姿勢を崩さないまま返す。力強い瞳はそのままに、由紀は何か想いを馳せるように微笑んだ。
「ユリスさんもそう。レベッカさんも、皆。本当は誰かの為に頑張って、傷ついても戦えるくらいに優しい人達なのに。怖くて、……辛そうな顔をしちゃってる」
由紀はそう言いながら重い光の剣を掲げる。
「僕、アリアさんには笑顔が一番だと思います。もう、それ以上そんな顔していてほしくない。だから」
剣をしっかり握り、向ける。しかしそれは目の前のアリアではない。
「――皆に辛い思いをさせるものを取り除いてしまえばいい」
そう言った由紀は目を閉じ、刃を自分の首元に向けて――。
「――――駄目っ!?」
血相を変えたアリアは全速力で飛び出す。他の何にも考えが及ばず、がむしゃらに由紀の手から今すぐあの剣を!
しかし、由紀は剣を首に掲げた姿勢のまま、持ちうる全ての力を込めて、向かってくるアリアの方に投げつけた。
「……ごめんなさい。嘘です」
「――は?」
飛んでくる剣を反射的に避けたアリアの眼前には、自身に両手を必死に伸ばす蒼い瞳の少年の姿があった。
あの子は、優しすぎた。
私達の生まれた『現世』にて最も大きく栄えた国。その長き歴史の中、運輸・運送業から始まり外交、やがてそこから政の中枢を担うまでに栄えたアドラヴァイスの一族。
次代を担う待望の嫡子として生まれたのが彼だった。
文武両道にして清廉潔白。だが貴人特有の高慢さや驕りは持ち合わせない。
元来心優しく穏やかな子だったのだ。それはお世辞にも家柄の優れない、古い歴史があるとは言え日陰の生業を請け負う卑しい家の出の私を取り立ててくださった事からも明らかであった。外面に囚われない、特に人の感情の機微に聡い子だった。
そんな彼が珍しく我欲のまま、私にある『悪戯』を提案した事があった。厳格な父君の昔からの蒐集品、その一品を盗もう、と。
きっと日々の励まれる勉学や稽古の息抜き、或いは遊び盛りである筈の子供として、着飾った名家に対するちょっとしたレジスタンスの気持ちだったのだろう。一瞬だけ迷ったが、我が生涯終わるまでの主の願いだったのだ、当然従った。
あの時の彼の表情は忘れない。庭園に降り注ぐ日差しが眩しい中、してやったり、と頬を紅潮させ胸を高鳴らせながら私に向日葵のような笑顔を向けてくれた事。
嬉しかった。彼にとっては最高のスリルある冒険に付き添わせてくれた事に。
幸せだった。普段から高貴であれと躾けられ、自身を取り繕う事ばかり強いられていたあの子の心の内を、自分だけに許し明かしてくれた事が。
そして、悲しかった。こんなにも優しく愛おしい人が、生まれついた役割と家柄、責任に雁字搦めになった、籠の中の鳥であることに。
彼の家が、燃えていた。
領地も領民も、彼と私が好きだった庭園も。彼の全てが赤く燃えていた。
呆然と立ち尽くすのは彼。迫りくる火の粉と敵を退け守るのは私。
誰が悪い、と一言で表すのは難しかった。貴族同士の権力争いや親族の利権絡みの応酬に、貧富や立場の違いから生じる領民との軋轢。
どれもが統治者として生まれた彼に課せられた使命、宿命、壁だった。そしてそれらを治め、国を更に発展させる器量はあった。それは確かだった。
しかし、時に冷徹に切り捨て、何かを裁断する覚悟だけが足りなかった。
「――――僕の、せいだ」
焼け落ちる生家を見て彼は呟く。違う、と私は叫ぶ。心からの叫びだった。貴方は良くやったのだと。只々各々の欲と野望の大きさが貴方の懐を超えてしまっただけだと。
自分の所為だけにはして欲しくなかったのだ。
追っ手を私は薙ぎ倒し、炎の中の彼を見る。あの輝かしい日々を象徴する銀色のナイフを彼は握り、自らの首に向けていた。
私はもう、かける言葉が見つからなかった。ただ、あの子に寄り添い、抱き締めた。あの子の痛みと苦しみを僅かでも背負えるように。
「……次がもし、あるというなら。僕は、僕は」
ええ、そうですね。私はそう言って精一杯笑った、と思う。炎の熱と彼の冷たさが私の境を曖昧にしていく。
もし、もう一度機会があるというなら。
――今度こそ私はユリス、貴方に。
「……ユリスは、優しすぎたのです」
由紀の視界は、何時しか元居たメインホールに戻っていた。無数の瓦礫と力が抜けた霊子布が散乱する中、目の前には静かに涙を流すアリアがうずくまっていた。
今しがたまで由紀が見ていた光景は、アリアの過去。彼女とユリスがカノヨビトへと生まれ変わる際の記憶だった。レベッカの時と同じ。
カノヨビト達と近く触れ合った事がきっかけなのか、由紀は知らず知らずの内にこの世界では有り得ない筈の力に目覚めてしまっていた。
カノヨビトの魂の先、「霊子核の本質を読む力」に。
それが何を意味するのか。今の由紀に気にしている余裕は無かった。
「ユリスさんは、自分の国と国の人達を助けられなかったから……それが自分の所為だと思って、皆が幸せに暮らせる『楽園』を、あんなに必死に求めて」
アリアは深く項垂れながら小さく頷く。
「カノヨビトとなり『彼世』に辿り着いた時、正直私は希望を抱いていました。ユリスにもう、何の重荷を背負わせなくて済む。自由にあの子だけの人生を見つけられると。在りしの無邪気な笑顔を私に見せてくれる、と」
だが、当のユリスはそう考えなかった。新しい人生という前ではなく、過去の自分自身に背負わされた罪の贖いを求めた。
「『楽園』ヱディ・カナディアと『彼世の女神』の伝説を聞いた時のあの子の顔は忘れません。そこから長く、長い旅をしました。数多の『現世』を巡り、かつての民と同様に絶望に沈む人々の魂と霊子を預かって。……共に『楽園』をひたすらに目指して」
「だけど、……見つからなかった」
アリアは肩を震わせ、「はい」と小さく呟く。何万年と続く『彼世』の聖地、誰も、ユリスほどの執念をもってしても、手掛かりの一つすら得られなかった。
「ユリスは苦しんでいました。縋られ、託される魂は増えるばかりで彼らを救い、過去の贖罪を果たせないと。やがて思い至ってしまったのです。『楽園』が見つからなければ自ら創造しかないと。……己の人としての存在自体を消してでも」
大昔のあるカノヨビトが遺したという『創世』の秘術。術者の霊子核を世界の核とし、膨大な霊子を纏って新たな『現世』を生み出す神がかりの業。
人造の『現世』は基となった者の遺志によって全ての理が定められる。物理法則も自然法則も、社会も文化も歴史も、人それぞれの営みすら。
そうなれば人が生きている中で起こり得る自然的・人為的な不幸も不条理を大凡起こり得なくなる。全ての人の受け皿となって、『神』と形容されうるシステムとしてユリスはそれを為そうというのだ。
「私には……どうして良いのか分からなかった! 主の願いには応えてあげたい。あの子を信じ想いを託した人達も救ってあげたい。だけどあの術式が完成してしまったら。例え願いが成就したとして、あの子の人としての心も魂も消えてしまうの! ……ユリスが生きた事も、私の事も、全て、全て!」
止めどない感情が濁流のように叫びとなってアリアから溢れ出した。
「アリア、さん……」
由紀はただ、漸く本音をさらけ出し童のように泣き叫ぶ彼女を静かに見下ろしていた。
「……アリアさん」
しかし、やがてアリアの前にしゃがみ、肩を抱いて由紀は彼女と同じ目線で向き直る。
「僕、まだ十六年しか生きてない、ただの子供です。ユリスさんの苦しみもアリアさんのユリスさんへの想いも、皆の願いの大きさも、分かるだなんて簡単には言えません」
だけど、と由紀は優しくアリアに問いかける。
「アリアさんがユリスさん――貴方の人生の中で一番大切な人に言わなくちゃいけない事、あるんじゃないですか?」
「……え」
泣き腫らしたアリアの顔に由紀は微笑む。
「それだけは、分かるんです。……だって僕もずっとそうだったから」
両手を自身の胸に当てる。そこにあるのは由紀にとっての『大切な人』への言葉。
別に今言わなくても良い。これからの毎日でもずっと一緒なのだから。わざわざ口に出さなくても伝わり合っているだろう。だからこのままでいい。
そんな半端な想いのせいで、この言葉は永遠に近く此処に沈むことになった。
「……僕、アリアさんには僕みたいになって欲しくない。まだ間に合います。だから」
「佐倉様……」
手を差し伸べ、自分よりずっと長身の女性をゆっくりと助け起こす。次いで未だ気を失っている優香里の頬を撫でて、由紀は静かに決意を固めた。
「まず、二人の戦いを止めなくちゃ、ですね?」
「……はい、佐倉様。――ありがとう」
深々と頭を下げた彼女に由紀は笑顔で返す。策はある。それは先程と同じ、しかしもっと危険な賭けだ。死ぬかもしれない。だがそうでもしないと二人の争いは止められない。
アリアと共に優香里を端の安全な場所に移し、屋外に向かう。その時、
「……佐倉、由紀様」
不意に、重々しい口調でアリアに呼ばれた由紀は振り向いた。




