1.30 犯人
――謝らなきゃ!
飛び降りんばかりの勢いで階段を駆け下りる由紀の頭の中は、その想いで一杯だった。
優香里と明人はまだ休憩しているだろうか。せめて一声かけるべきだったのだろうが、そんな気の余裕も無かった。
――僕、何て事を言っちゃったんだ。
幾ら、自身の淡い期待と願いを否定されたからといって。結実を、大切な人を忘れろと言われ、頭に血が上ったといって。
言って良い訳がない。世界を独りで守る強い彼女に、こんな自分の気持ちが分からないなんて事、ある筈が無いのだから。
実際のところ、彼女という存在が何故カノヨビトになったのか、なぜ『彼世』の裁定者として旅をしているのか、何故独りでずっと戦っているのか、由紀はまだ何も知らない。
だが、これまでに聞いた話だけでもユイが見た目には分からない程長い時間、数多の世界を旅して生きてきたのは明白だった。ここ数日由紀が目の当たりにした、常に死と争いの渦中に身を置いているような、常軌を逸した『彼世』の世界を。何も、誰も拠り所としないカノヨビトとして、独りで孤独に。
それは、一体如何程の強い覚悟が要る事なのだろうか。想像すらつかない。
だけど、例え知らなくても、教えてもらえなくても分かる。ユイにはそれを為していくだけの、大切な『理由』があるだろうということを。
分かる筈、だったのに。
――僕、馬鹿だ。
息を切らしながら、由紀はミオン舞之宮の出入り口から街路に飛び出る。先程建物の屋上から見下ろしていたメイン通りは彼方此方から発せられる人口の光に照らされ、夜とは思えない程明るく賑やかな様子だった。特に駅前はこの時間でも人通りが多い。
道行く人をかいくぐる様に、由紀は急いでユイの後を追う。屋上から飛び立っていった方向だけを頼りに、無我夢中で走った。
「ユイ……何処? ユイ……っ!」
酷い事を言ってしまった。それだけは無い。駄目だと分かっていたのに、自分の悲哀を理由にまた他人に甘えてしまっていた。しかも、よりにもよって自分の心と命を救ってくれた、異世界から来てくれた彼女に対してだ。
由紀は懸命に走った。具体的な目的地は無い。ユイが行ってしまったと思う方向へ、ただひたすらに。駅中央外れの商店街、その向こう、その路地裏。次第に街明かりの数が減って、すれ違う人も居なくなっていく。だけど今の由紀はそんな事を気にもしない。
「ユイ!……ごめんなさい、本当に! でも……」
――じゃあ、僕はこれからどうしたら良いの?
巨大な謝罪の中にある、一つの辛い結論。ユイの言う通り、このまま僕は結実の事を忘れてしまうのか、諦めてしまえというのだろうか。
謝意と悲嘆の感情に揉まれながら、心ここにあらずの状態で由紀はただ走る。いつの間にか他に人影も無く、遠い光が辺りを照らすだけとなった路地裏を。
それが、間違いだった。
――ガンッ!
「――――――あっ!? …………っ」
不意に由紀の後頭部に衝撃が走る。目にチカッと火花が散り、由紀はそのまま無防備な状態で地面に倒れ伏した。遅れて身体全体に鈍い痛みが走り、じわりと涙が出る。
「――ハハァ、お嬢ちゃん? いけないよぉ、君みたいな可愛い子が、こんな時間にこんな暗い所で。危ない、危ない」
ジーンと耳鳴りがする頭の向こうから、下品な笑いを含んだ男の声がする。苦悶の表情を浮かべながら、由紀はふらふらと顔を上げた。
見知らぬ男達が、倒れ伏した由紀を取り囲むように立っていた。柄が悪く乱れた服装の三人組。一人は気弱そうな小太りの小柄な男で、由紀の顔に携帯のライトを照明代わりに向けて、好奇の眼差しを向けている。二人目は頭に包帯を巻いた、背がひょろ長い狐のような印象の男。先程由紀を殴り声をかけただろう彼は、今は意地悪そうな笑みを浮かべながら、由紀が落としたバッグを無造作にまさぐっている。
そしてその奥。路地に転がったゴミ箱に腰掛け由紀に鋭い眼差しを向ける不機嫌そうな男がいた。左腕にギプスを巻き付け、血走った瞳の彼は明らかに普通でない雰囲気を醸し出している。目が合った由紀にぞくりと悪寒が走り、先程までユイの事で一杯だった頭の中は現在置かれた状況に対する危険信号で埋め尽くされる。
「……ったく。目ぼしいのあと一人ってつけてみりゃ、こんなちっせえガキ一人? 大した移動費にもならねぇじゃねぇか。えぇ? 野田よぉ」
「そっ……そんな事ないですよ。佐々山さん。それどころか大当たり。こっち来て見てくださいよ! スッゲー可愛いコっす。今までで一番かも」
「ハァ。……このクソ変態野郎が。今の俺らに必要なのは金。金なの。分かれ馬鹿」
恐らく三人組のリーダーなのだろう、佐々山と呼ばれたギプスの男は立ち上がり由紀を照らす男の頭をはたく。そして再び由紀の怯え切った顔を、身体を見回し「……フン」と鼻を鳴らす。ここ数日感じてきたものとは全く別のタイプの恐怖に、由紀は堪らずぎゅっと目を瞑る。しかし、
「――あぁ!?」
もう一人、由紀の手荷物を探っていた長身の男が素っ頓狂な声を上げ、驚きと愉悦を混ぜたような高笑いを上げた。
「……なんだ坪川。うるせぇぞ」
怪訝そうな目を向ける佐々山に、坪川は堪えきれない笑みを浮かべながら由紀のバッグを地面に放り、取り出したものをプラプラと持って見せびらかす。
それは、由紀の財布と手帳。手帳には、大切な写真が幾枚も。
「――返して、ください!」
「おっと。……駄目だよ」
漸く吐き出た言葉と共に飛びかかろうとした由紀を野田が素早く羽交い絞めにする。何日も風呂に入っていないのだろう男の身体は、汗特有の悪臭がした。尚も暴れる由紀に、彼は気弱そうな目から一転、横目で冷たい目線を送りながらポケットから小さなナイフを取り出し由紀の首に当てる。一瞬で血の気が引いた彼の反応すら楽しんでいるようだった。
「おい、どうせだ。まだ殺すなよ」
「分かってますよ。もう、しくじりませんってば。……そんで、どうしたの、坪川君」
「へへ。いやぁ、あんまりにも奇遇でおかしくってさ。佐々山さん、どうやらその子、俺らにとって金なんかよりよっぽど美味しいネタっぽいっすよ? 二つの意味で」
「二つ?」
坪川はまず財布の中に挟まっていた学生証を取り出す。
「ひとーつ。この子、そこの高校の生徒さん。そんでなんと『お嬢ちゃん』じゃなくて野郎だったわ。間違ってわりぃね、えーと佐倉由紀くん? 噓みたいに可愛いね、キミ」
「えぇ! そうなの? そんな、こんなに可愛いのに。ほら、甘くて良い匂いもする」
「大概にしとけ変態、気色悪ぃ。……で、もう一つは?」
震える由紀と、その反応を愉しむようにする野田を心底嫌そうに睨む佐々山は、未だにもったいぶるような様子でにやつく坪川に目を向ける。ニヤニヤといやらしく笑う彼の細い目は、何時しか醜悪な光を帯びていた。
「ふたーつ……。こっちのが俺と佐々山さんにとって重要――ほら」
坪川は由紀の手帳を開き、写真が貼ってあるページを仲間に見せる。
「――――コイツ!」
「……ぇ。あ! そのコ、僕達が殺した女の子じゃん!?」
――――――――え?
由紀の身体の震えが一瞬で止まる。次いで頭の中の思考も、恐怖も、真っ白に。
「……『僕達』ってなんだよ。てめぇがビビッてヘマしただけじゃねぇか。ったく、折角楽しむのにちょうどいい上玉だったってのに。……あぁ、クソ。そのツラ見たら腹立って来た。痛ってぇな、クソが」
佐々山は忌々しそうにギプスの巻かれた腕を見て舌打ちをし、そして目を見開き呆然とした様子の由紀に視線を移す。
「それで? そいつの写真を大事そうに持ってるそのガキは」
「……ええ。へへへ、本当に奇遇。野田ちゃんの見る目、馬鹿にできないっすね。どうやらその子、佐々山さんや俺の憂さ晴らしにもってこいみたいでさぁ」
「え。えー由紀、君? 君、あんなおっかない子の彼氏さん、だったの? そんなぁ、趣味悪いよ。折角こんなに可愛いのに、肌も髪もツヤツヤで……」
ヘラヘラとずっと笑う男に、自身を捕らえ耳元で気持ち悪い言葉を囁く男、そして目の前で禍々しい殺気を放ち怒っている男。彼らを前にして、それでも由紀の心は完全に凍りついたままだった。彼らの存在が、話した事が、今知った事の全てを理解することを自然に拒絶してしまっていた。
「……大体よ、このガキもそうだが、ムカつくのはてめぇにもだ、野田。首切った挙句に何お前、おめおめ取り逃がしてんだよ。あぁ?」
「そ、そんなぁ! そりゃ無いですよ。佐々山さんと坪川君が先に掴みかかったら、二人ともあの子にぶっ飛ばされちゃって。俺、二人を助けようってがむしゃらに」
「――うるせぇ! てめぇもぶっ殺されてぇのか! ……ったくあのメスガキ。とんでもねぇ馬鹿力振るいやがって。あぁ、本当に馬鹿ガキだよ。大人しくしてりゃ、どうせ殺すにしても最後に気持ち良い体験させてやったってのによ」
「強かったですねー、あの子。おかげで俺と佐々山さんは文字通り骨折り損。おまけにあの子も逃げた先でおっちんじゃってニュースに。随分この街でヤッて殺って楽しませてもらったけど、流石に潮時って事なんでしょうねぇ……いてっ」
まるで他人事かのように語る坪川に蹴りを入れた佐々山は溜息をつき、そして由紀の顔に目を落とし、そこで初めて笑った。優しさの欠片も感じられない、害意と悪意を煮詰めたような悍ましく恐ろしい笑みを。
「……ってな訳でな、坊主。その変態に偶々目つけられたお前は、全く以て偶然にも俺達にとって因縁のある復讐相手なんだよ。見てみろよ俺の腕、坪川の頭。ひでぇだろ? お前の彼女がよ、俺達に負わせやがった傷なんだ。こちとらまだ何もしてねぇのに」
仰々しくギプスを見せる佐々山の横に坪川が詰め寄る。野田も由紀への拘束を強め、完全に由紀を取り囲むように陣取っていた。次は絶対に、何処にも逃さないように。
「あの日から数日、ずっとあの女の顔がこびりついてしょうがなかったんだ。今まで上手くやってたのに、おかげで街を離れなきゃならねぇ。その前に……お前が責任、取れ」
「――――ぁ、う」
声が、出なかった。出そうとしても由紀の口から吐き出されるのは、呻きとも鳴き声とも言えない音だけ。
余りにも唐突に、何かの間違いかと思う程唐突に現れた、連続殺人犯。この舞之宮市で沢山の人を殺して、奪ってきた人達。
まるでゲームか何かをしているような軽さで他人を弄ぶ人達。
そして由紀にとっては、結実を奪った人達。
何かを言ってやりたかった。叫びたかった。怒り、糾弾、恐怖、慟哭。無数の暗い感情が渦巻く心の中で、言葉の泡が次々と浮かんでは消えていく。
何故。何で。何か。せめて結実、結実の事を。
駄目だった。それどころか次第に呼吸すら上手くできなくなって、由紀の身体は止まり切った思考に抗うように、必死に酸素を取り込もうと自然と口をパクパクと動かす。
そんな由紀の様子が面白かった、或いは彼好みの反応だったのだろう。佐々山は口の端を更にニィッと歪ませ、醜悪な笑みを浮かべる。不自由な片腕を鬱陶しそうに振り回しジャケットを脱ぎ捨て、ゆっくりと羽交い絞めにされた由紀に近づく。
「えぇ、佐々山さんからですか? 僕が目付けたのに……。それに坪川君言ってじゃないですか、由紀君男の子だって。……そっちの趣味は無いんじゃ」
「てめぇだけには難癖付けられたくねぇよ、馬鹿。……あのガキのモンだったなら話は別だろ。それにまぁ、こんだけ上玉ならヤロウでも楽しみようはある」
「ハハハ、確かに。由紀くんくらい可愛いコ、女でも中々見られないし。何より絶対初物っぽいっすからね。さようなら舞之宮市記念としてはこれ以上ない」
由紀は、迫りくる佐々山の悪魔のような顔を大きく見開いた瞳で見つめながら、尚も一言も発することが出来なかった。
何も分からない、彼らの話していることが。何も納得できない、彼らがした事が。
それでも唯一、否が応でも直面させられる事実。
これから自分は、結実のように理不尽な形で彼らに命を散らされる。いや、由紀でも薄々感じられる事には、きっともっと酷く残酷な形で。
つい数日前にも感じたばかりの、唐突な死の匂い。しかしあの時よりも遥かに心は暗く染まり、由紀の中を巡るのはどす黒く悲しい感情ばかり。
「さて――」
佐々山の腕、ひび割れた爪の汚い右手がゆっくり由紀に伸ばされる。
――嫌だ。
今度こそ、自分は終わる。何一つ納得できない、何も出来ていないというのに。
佐々山の手が由紀に触れる直前。漸く、その小さな唇から言葉が発せられる。
「……ごめん、なさい」
「――やぁ。そろそろ彼から離れてくれないかい? この素敵な『現世』において生きる価値の無い、汚物の皆さん」




