第3章12 小さな羽
「はぁ、はぁ、はぁ――」
ただ、少女は走る。行き先など、目的地など、追い出されたあの日から帰る場所などない。何者からか逃れるように。
ここは狭く薄暗い路地。天の表情は暗く、滴る大粒の涙が頭を濡らす。視界がぼやけて前を見難くしているのはきっと誰かの涙のせい。
少女の両手には真っ赤な果実。貧相な身なりの少女とは違い、その瑞々しさは新鮮そのもの。それは本当に採りたてなのかこの世界の魔法の賜物なのか。
ころりと、果実が一つ地面に落ちる。その形で予想外のところまで転がり、全身を薄汚く染める。
「あっ――」
――もったいない。
どれだけ不潔になろうとも、この少女にとってはな資源だ。けれど残念ながらそれを拾い上げるには余裕も手の数も足りずに無視する他ない。
雨で本来の固さを保っていない地面を走るには、この靴では物足りない。雨水が、泥がボロボロの靴の中にまで侵入、地を蹴る過程で汚泥が足趾の間を通り抜ける。
水たまりを踏む。避けられそうにないくらい大きく道を塞ぐ水たまり。ボロボロの服を汚し乾いた肌を潤す。
「もう、ここまで来れば――」
いくつか角を曲がった後、壁に背を預けて座り込む少女。お尻を置いた場所にあめんぼが浮いていようと気にしない。
無尽蔵に湧き出る体力のおかげで疲れはない。息も上がっておらずまだ走れる。
けれど、空腹が酷い。もう何日食べていないのだろう。それを考えるのはずっと前に辞めた。自分が苦しくなるだけだから。
手に持った果実を一つ、その小さな口で頬張る。少しだけ固い皮を歯が突破したら、甘味と酸味が同時に広がる。美味しく感じるのは空腹が酷いのが理由だけではないはず。
良かった。これであと数日は生きられる――
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「フレル、僕は少し呼ばれてるんだ。先に戻っておいてくれる?」
普段通りに朝食を終えたフレルたち。お腹いっぱいで自室に戻る途中、うさちゃんがそんなことを言う。それは突然のことで、フレルは少しだけ驚く。
報告の必要な事柄でもないのに、勝手に行けば良い。そう思って少し、ようやくフレルはうさちゃんを抱えていたことに気付いた。
当たり前の日常になりすぎていた。落としてしまわないように注意しながら慎重に降ろす。放り投げたとしてもきっと大丈夫なのだろうと言う謎の信頼がフレルにはあるが、そんなことをする勇気はない。
うさちゃんは小さく会釈をして、来たばかりの方向へと戻って行った。
うさちゃんだけを呼び出す可能性があるのはユースだけなのだが、何の用事なのだろうか。
ユースは優しい人で、フレルとしては信用も信頼もしている。縛りはほとんど課せられておらず、自由奔放すぎる訳でもないと言うのがフレルからの総評だ。けれどうさちゃんにとってはそうではないらしかった。信じてはいるけれど警戒もしているように見えて仕方がない。
何をするのか気になったフレルは一瞬だけ尾行でもしてやろうかと思うが、すぐにその考えを削除する。意味のないことだ。どうしてもと思うのなら後で聞けば良い。少なくともフレルにとっては信頼している物同士なのだから。
少しの間背後の気配に集中した後、フレルは歩を進めた。
フレルは無意識にぶらぶらと腕を動かす。普段腕にかかっているはずの重圧がない。その違和感のせいだ。
いつか本で読んだ兎の平均体重よりも、うさちゃんはずっと軽い。生態も何もかもが違うので比べる物ですらないのかもしれないけれど。
そんな少しの重みでもあるのとないのでは腕の楽さが結構違うのだ。まるで重力が弱まったみたいに、簡単に腕を振り回すことができる。楽で良いけれどいざ重りがなくなってみると、少しだけ寂しい。
広々とした廊下で、フレルは腕を振り回す。その奇行を見た者は誰もいなかった――
ボフッと音をたてながら、糸の切れた操り人形のようにベッドへと倒れ込む。その勢いのまま枕に鼻の頭をぶつけた。
「痛い――」
フレルは少しふざけすぎたことを反省する。少しヒリヒリとする鼻を優しく撫でた。
痛みが引いてから、思い出したようにフレルは枕元にある本に手を伸ばす。確か昨晩、良い感じのところで寝落ちしてしまった。
暗いところで本を読むと目が悪くなるだとか、夜更かしは身体に悪いだとか、そんなお小言を聞き流していたことをフレルは思い出す。眠ってしまわないよう電気を付けたままだったのに、朝気付いたら消されていたのだ。きっとうさちゃんが消して、そのせいで眠ってしまったのだろうとフレルは曖昧な記憶を頼りに推測する。
後少しで終わる、読んでしまいたい。
「ただいま〜」
「…………」
うさちゃんが部屋に入って来た。集中しているフレルは大して反応を示すこともなく、文字を目で追い続ける。
うさちゃんは少し悲しくなって、フレルの耳元へ小さく破裂音を鳴らした。
「ねぇフレル。少しだけ話があるんだ――」
昨日は睡魔。今日はうさちゃんによってページを捲る手が遮られる。少しだけ、ほんの少しだけフレルの中で話への興味を苛立ちが勝った。
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「二人きりで出掛けたいって、珍しいね」
「――たまにはそんな日もあるんだよ。」
そうして、今。特に用事もなく町に来たフレルが茶化すように言う。うさちゃんは適当な言い訳も思い付かず、そんな返答をするしかなかった。
好んでこうなった訳ではないのだと、誰も聞けない心の中で弁解する。二人きりで外出するきっかけを得たと言う側面は空の果て。悪態をつく。
今朝、うさちゃんだけがユースに呼び出された。無意味な枕詞を無視した後、本題を促す。曰く、侵入者を殺した際に庭に残こった痕跡を完璧に消すために業者をいれるそうだ。勘づかれないよう追い出してくれと頼まれた。
あれから一週間ほど、大きな破片だけは回収して血痕などはうさちゃんの魔法で隠していた。魔法の維持は珠が勝手にやるので特に労力にはならないけれど、遂にその必要すらなくなる。
信用できる業者を探すのに時間がかかったらしい。それは表の組織なのか、何処にそんな伝手があったのか、わからないことだらけだが知る必要はない。フレルたちには関係のないことだから。
娯楽に乏しいこの町で予定なしに時間を潰す方法などあるのかとフレルは思う。
町の人たちの暇潰しは会話がメインだ。子供たちこそボールを追い掛けているけれど、大人たちは仕事か立ち話しているところしか見かけない。
きっと、食べ歩きのような形になるのだろうと思う。二時間後ほど遊ぶと聞いているけれど、それはちょうどお昼時だ。
そう、今はお昼前なのだ。
無駄に大きな声で騒ぐ子供たちがいる時間帯。それを咎めるでもなく微笑ましそうに見守る大人たちがいる時間帯。それらは日常で、なくてはならない存在だった。
それが今はどうだろう。驚くほど静かなのだ。耳を澄ませば小鳥のさえずりが聞こえそうなくらい。
誰も人がいないと言う訳ではない。騒がしい子供たちはいないが、ぽつぽつと住民であろうと見られる大人たちはいる。ただ、静かだ。活気がないと言った方が正しいかもしれない。
フレルたちがここに来るのは少し前の買い置きの時以来だ。何もなければ良いのだが、フレルは少し心配になる。
「きっとただの杞憂だよ。それよりほら、食べ歩きならあっちが一番だ」
そうしてうさちゃんが指差すのは、商店街。様々なお店が建ち並ぶ場所。
フレルたちも何度か行ったことがある。何かが欲しいのならあそこ――と言うより、あの場所以外付近にお店がないのだ。
商店街と、それを核とするように広がるこの町。離れれば離れるほど住居の密度も低下し、手入れされていない原っぱが多くなる。逆に近づくほど住居が増え、畑が少なくなっていく。
目的地もなく彷徨っていたフレルたちは、一旦その方向へと足を進める。ここから商店街まではそう遠くない。
数分間歩くと商店街の入口を知らせる目印が見えてくる。
一本の比較的大きな道に連なる様々なお店。今日は珍しく行商人さんがいた。おかげでここはそれなりに活気がある。
「お嬢ちゃん、今日は一人かい?」
「あ、はい」
ふと、前方から声をかけられた。
それは背の低いおじさんだ。この付近でお店を出している者よ一人。買い物に来た時はよく会うので顔見知りではあるが、名前は両者共に知らない。その程度の関係だ。
機嫌良さそうに、おじさんは言葉を連ねる。フレルにはそれを聞きながらたどたどしく返答するしかできなかった。
基本的にリリーが対応してくれるからだ。フレルが対応しなければいけないことなどほとんどない。いわば付き添い。
うさちゃんが黙ってしまった。おじさんに喋ることを伝えていないから。フレル一人で対処しなくてはならないのだ。
「少し前から在庫と売り上げが合わないんだよねぇ」
「泥棒ですか?」
おじさんの愚痴が始まった。フレルはあまり仲良くもないので逃げ出したい気分だ。
曰く、この周辺のお店はことごとく被害に遭っているそうだ。それほど大金ではないけれど、尻尾を掴めそうな気配すらないらしい。
そのせいで皆気が滅入って活気がないのかとフレルの中でピースとピースがはまる。
大変そうだな、とフレルは他人事のように思う。最寄りの町で犯罪が起こっているのは問題だ。そのせいで廃れてしまってはフレルとしても困る。
けれど、それと同時にあまり強く言えない気持ちもあった。
気まずそうに、フレルは心の一部から目を背ける。
「――向こう」
腕の中でうさちゃんが小さく呟きながらフレルの腕をつつく。語るのに躍起になっているおじさんに気付かれないように指差すのは、おじさんの背後の曲がり角の先。
フレルはこくりと頷く。
「おじさん、すみません。ちょっと用事が――」
「……おじさ…ん」
ショックを受けたように固まるおじさんに、問答無用と言うように断りを入れ、指差された方向へと向かう。
何があったのだろうか?それとも、ただフレルが逃げるための口実を作ってくれただけかもしれない。
曲がり角には小さな、けれど何処か美しさの感じる羽が一つ、舞っていた。




