第3章6 喋らない兎と喋る兎
背中を押され半強制的に入れられた部屋。俯いていても雰囲気が変わるのがわかる。埃の一つも見えない床。ピンク色のカーペットに涙を落としてしまわないよう手に持った兎で拭い、顔を上げる。特に嫌な顔はされなかった。
ユースの子供なのだろうか。フレルの何も弄っていないシンプルな部屋とは違い、可愛らしく装飾されている。何の動物かもわからないようなぬいぐるみに同じく変な動物の柄のカーテン。当初の推測どおり起床してすぐなのか、布団は雑に乱れている。綺麗に整えられたものばかりだったから、それが余計気になった。
「あんまりキョロキョロしないでちょうだい」
はっとする。相当失礼なことをしていたかもしれない。何故かバツが悪そうに頬を赤らめる少女と同じように、フレルも顔を横に逸らした。
「そこに座って。ジュースでも出すから」
指示された机の前に足を畳んで腰を据える。それは一人用の小さな机で、上には纏められたノート類があった。フレルが読んでいた物語のような本とは違ってより実用的なもの。分厚くて表紙からも小難しそうな臭いがプンプンする。
少女は何の変哲もない小さな箱から瓶に入ったジュースを取り出した。箱よりも大きな瓶を。意味がわからず目を点にしていると膝の上から「あれは二点間を繋げるものだよ。あの先は冷蔵庫になってるんじゃないかな」と小声。
同様に別の箱からガラスコップを二つ出して注ぐ。ぶどうジュースのようだ。ふと父がお酒にしなきゃ勿体ないと言っていたのを思い出した。もう聞くことのできない声、台詞。引っ込んだはずの涙が目尻に貯まる。なんだか今日は情緒がおかしい。流れる前の涙を再びうさちゃんで拭く。今度は怪訝な顔をされた。
「ぶどうは苦手じゃない?」
フレルの向かいであぐらをかく少女にコクリと頷いてみせる。ジュースが並々注がれたコップに口を付けると、甘さのなかに酸っぱさがあった。
会話のない、気まずい時間。どれくらいそのままだっただろうか。フレルのコップから半分くらい無くなった頃、少女が耐え兼ねたように口を開いた。
「落着いたようね。あなた、名前は?」
「フレル。こっちの兎はうさちゃんって言うの」
膝の上、机の下で隠れていたうさちゃんを持ち上げ、相手に見えるようにした。うさちゃんは何故か喋ることをせず、挨拶でもするようにペコリと会釈して再び膝の上へ戻ってしまった。
少女は「そう……」と小さく零す。流石に安直な名付けすぎたかもしれないとも思ったが、今更かえる気も起きない。その不満気な顔は見なかったことにした。
「私はリリー。よろしく。……単刀直入に聞くけど、さっきあそこで何してたの?」
少し言い難いことを聞かれて、戸惑ってしまう。聞かれるとは思っていた。けれどどうやって答えるべきか。素直に話せば良いというだけではない。混乱やらプライドやらが邪魔をして纏まらないのだ。
こうやって黙っていると、不信感が募っていくはずだ。それなのにリリーは静かに待ってくれた。先を求めるでもなく。だからフレルはぽつぽつと言葉を紡ぐ。不都合なことは伏せたままにして。
「つまり、村の子じゃなかったってこと?」
「うん…」
フレルが説明したことをオウムのように繰り返し、なるほどと言った具合に何度も頷く。昨日ユースに連れて来られたと伝えただけなのに色々と理解してくれたようだ。
長年の疑問が晴れたように、すっきりとした笑顔で何度も頷いていたリリーだったが、一瞬だけ表情が曇る。そして何を思ったのか、哀れみを含んだ、可愛そうなものでも見る目に変わる。
不快な視線。その視線から逃れようと身体が勝手にぴくりと動く。その振動に反応してか、うさちゃんが急に飛び上がった。フレルとリリーを隔てるように机に乗り上げる。
机の上にあったガラスコップは転倒。中身のジュースは机に広がる。滴り落ちてカーペットや服を濡らす。うさちゃんは真っ白の毛が汚れていくのも気に留めず、その場に鎮座し続けた。
フレルは動こうとしないうさちゃんを強引に持ち上げ、濡れた足を自分の服の裾で適当に拭う。警戒を解こうとしないうさちゃんをこちらに向かせ、ぷくぅと頬を膨らませて怒っていることをアピールする。
すると何を思ったのか、腕の隙間を抜けてフレルの膝へと戻った。
「どうしてこんなことしたの?」
そう問い詰めてみるが、首を左右に降るだけで何の返答も得られなかった。拗ねているのか喋ろうともしてくれない。明後日の方向を見つめるだけだ。
「本当ごめん……」
「大丈夫。それより服は?汚れてない?」
ぽかんと訳がわからず固まっていたリリーだったか急に立ち上がり、上からフレルの服を上から覗く。言葉を続けにつれてだんだんと語気が弱まる。ジュースが染みて変色した服を見てしまったようだ。
わたわたと焦るリリーの服は汚れていないようで良かった。今のフレルは一文無し。弁償なんて言葉を出されたら目も当てられない。自分のことは棚上げにして、そんなことを思った。
うさちゃんの足はあまり濡れていなかったので急いで拭いたが、机の上まで服を使う訳にはいかない。辺りを見回して布巾になるものを探す。
「お風呂に入って来なさい。服はこっちで容易しておくから」
「でもカーペットが……」
ぽつぽつと、僅かながら未だ水滴が机から滴っている。カーペットは水滴を弾くことなく吸収、変色が進む。様々な模様が刺繍されており、安くないだろう。このまま放置しても良いものには見えない。
「大丈夫よ。後でガブ、使用人を呼んでおくわ」
手伝うために居座ろうとするフレルを追い出すように背中を押す。フレルは拗ねたままのうさちゃんをすくい上げ、部屋を後にする。
「お風呂の場所って……」
「案内する。こっちよ」
紆余曲折あったものの、フレルの目的は叶うこととなった。
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お風呂。それは一番リラックスできる場所。一人きりでゆったりと過ごすのがお気に入りだ。と言っても今日ばかりは一人じゃないのだけれど。
大きな町の銭湯と見間違えてもおかしくないくらいに広いお風呂。シャワーがいくつも並んでいる。こんなにも必要なくらいの住人がこと家に入るのだろうか。
そして何故か三つに分けられた浴槽。そのうち一つにだけお湯が入っている。常にお湯を入れ替える、高そうな装飾がついてはいるものの動作していないようだ。
フレルはうさちゃんで自分の胸を隠すように抱え、一番奥のシャワーへと向かう。この場所にはフレルたちしかいないとは言え、これだけ広いと落着かないのだ。身体を外へ見せびらかしているような感覚に陥る。
抱きかかえている胸辺りにさわさわとした感覚があり、くすぐったい。けれど恥ずかしさにはかえられないと思い、より強く抱える。そのせいで不自然な持ち方になってしまっているはずなのだが、まだ拗ねているのか碌な反応がない。ほんの少しだけ寂しい。
「君には恥じらいがないのかい?」
「………?」
自分の身体はあらかた洗い終わり、真っ白な毛と泡で遊んでいた頃、うさちゃんが口を開いた。そっぽを向いたままで、一瞬誰に話しかけているのかわからなかった。
「僕は言わなかったかな?」
「………?」
確信を突かない台詞。言いたいのか言いたくないのかわからない。フレルに話しかけているはずなのに、誰にも話しかけていないような。独り言のような雰囲気があった。そうでなくても意味がよく理解できていないフレルは静かに耳を傾けるしかない。
そう決めたものの再び黙ってしまった。何かしらの返答を求めていたのだろうか。
突然恥じらいとか言われてもわからない。恥じらいがなければ胸を隠そうとなんてしない。
うさちゃんに対してと言うことだろうか。いや、それこそ意味がわからない。常に全裸でいるようなものなのだから。
水に濡れて細身になったうさちゃんは困ったように頭を抱えて首を振る。フレルは考えても答えの出ない問いに時間をかけるのは止めた。
洗い終わったうさちゃんを同じような姿勢で再び抱え、お湯の張った浴槽に浸かる。浴槽の浅いところに腰掛け、膝の上にうさちゃんを乗せる。じんわりと身体に暖かさが滲んでいく。
「……はぁ」
うさちゃんが背を向けながらため息をつく。そして決心するように一拍おいた後、こちらに振り向いた。そして顎でフレルの後の方を指す。
そこにはどこから持って来たのか、バスタオルが畳まれてあった。離れるからそれで隠すせと言うことだろう。
「マナーが悪いけど仕方な……あっ」
首を傾げ、次の言葉を待つ。けれどそれは全くの予想外な方向、真後ろからだった。
「兎が喋った……」
全裸のリリーが、顎が外れそうなくらい真ん丸に口を空けて立っていた。




