第3章5 赤髪の少女
朝。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。ふかふかの布団の中で目を覚ます。小鳥がさえずっているのが聞こえる。昨晩はどれくらい話し込んだのだろう?寝起き故か他の理由があるのか、頭が呆然として記憶が曖昧だ。最後まで聞いたのか、途中で眠ってしまったのか。
まだ朝は早いようだ。薄いカーテンのぶら下がった部屋は薄暗く、どんよりとした空気が流れている。瞼を開こうにも重くてもう一度夢の世界へ戻ろうかと言うところ。
「おはよ、フレル」
そんなフレルを引き止めるかのように声がかかる。聞き慣れた声だ。無視をするわけにもいかず、ぐっと伸びをして今起きましたを演出する。無理矢理瞼を持ち上げる。
うさちゃんはずっと前から起きていたのか、ぱっちりとした瞳でこちらを見つめる。その瞳がいつになく近い。少し顔を前にずらせばキスでもできてしまいそう。兎にそういった概念があるのかわからないけれど。
早朝の、新鮮な空気を吸い込もうと大きく深呼吸。すると鼻孔を刺激するツンとした感覚。嫌な臭いだ。思わず頭をうしろに引き、顔をしかめてしまう。失礼だとは思いつつも一度歪んだ筋肉は簡単に戻ってくれない。
気にする気にしないは別として、どうやって伝えようか。どうオブラートに包めば良いのか思案していると、恥ずかしそうに距離を取り申し訳なさそうに目を逸らしたうさちゃんに言われた。
「……お互い様だよ」
一瞬意味が理解できなくて固まる。やけに長い一秒を体感したあと、一つの仮定を弾き出す。頭を左にひねり肩付近の布の臭いを嗅いでみる。うさちゃんのような獣臭さはないものの、しかめた顔がもっと酷くなる。
それもそのはず、思い返すとまともに身体を洗ったのはいつだっただろう。容易に思い出せない。最近の記憶と言ったら生温いお湯で身体を流しただけ。それも大量の水を使うなんてできるはずもなく、初めの内は嫌悪感ばかりだったことを思い出す。それ以上に慣れというのは恐ろしいもので、こうやって意識しないとどうも思わないことを実感する。よくよく考えてみても嫌悪感は生まれないけれど以前の自分が許せないので朝風呂に勤しむとしよう。
一人で入るのは違うので、距離を取ったままの場所で鎮座する兎を抱える。臭いも顔を埋めないとわからないくらいで不快感なく運べる。うさちゃんも特に抵抗してこないのでこのまま誘拐する。
「……んしょ」
持ち上げてみると殊の外重くて息が漏れる。けれど筋力が多少付いたのか無理なほどではない。落としてしまわないよう細心の注意を払いつつ自室を後にする。
廊下。不気味なほど静まり返っている。ここにあるのは足音と二つの息遣いだけ。どの扉の先に誰がいるかわからないのだ。うるさくして眠っている人を起こしてしまってはいけない。
できるだけ足音を鳴らさないように。そう意識すればするほど足音が大きく聞こえてしまうのはどうしてなのだろう。こうも静かだと布の擦れる音さえ鬱陶しく感じてしまう。普段はそれなりの声量で喋るうさちゃんも今はとびきりの小声だ。
「何処向かってるの?」
「お風呂」
「いやそうじゃなくて……場所知ってるの?」
場所?知らない。それもそのはず。この家に付いたのは昨日。そして昨日は分け与えられた自室に案内されただけでその他の部屋は案内されていないのだ。
まあきっと大丈夫。この屋敷は三階建て。扉の数も無限じゃない。適当に散策でもしていれば見つかるはず。きっと。多分。
同じような扉をいくつも通り過ぎる。それっぽい部屋を探して。外から見て判断できるのかと問われれば口籠る。けれど何もせず諦めるわけにもいかない。
後でユースが目覚めてからでも良いのにそこまで頭が回らない。と言うより半分意地のような感情で歩く。
もういくつ目かもわからない扉。一度通ったことがありそうな景色を右に左に流し見る。初めての場所であることを一心に信じて、願って。
「ここ、一度通らなかったかい?」
「……」
フレルは迷子になった。目印になりそうなものはあれど時既に遅し。それは一度通ったことをフレルに告げ、心を傷つける道具にしかならない。
心の中で不安が渦巻く。時間が経過すればするほどそれは大きくなる。部屋を出てから大して時間は経っていない。けれど体感では何時間も回り続けている。不安はそのまま表情に出て、笑顔でいる余裕なんてない。
そんな、血の気の引いた今にも涙を流してしまいそうな顔を誰かに見られたくない。変なプライドがよりフレルを焦らせて苦しめる。
はぁ。兎はフレルの耳に入らないよう小さくため息をつく。呆れに近いがそうではない。どうすれば良いのかわからないから。どんな言葉をかけるのが正しいのか。他人を見下し距離を取り、まともに関わりを持とうとも思わなかった者にはわからない。ただ気不味そうに眺めることしかできない。
実を言うとうさちゃんは道を覚えている。ただ伝え方がわからないだけ。フレルの考えていることがわかっているからこそ悩む。普通に言っても強がられておしまい。何かしなければいかないけれど、何もできない。その狭間で悩み葛藤する。
どうすればプライドを傷つけずに済むのか。実際どう思っているかなんて関係がない。どう思われていそうかを一番に考えた無意味で低レベルな頭脳戦が今ここに。
「あんた、誰?あとここで何してんの?」
始まらなかった。
フレルたちが立ち尽くし葛藤していた場所のちょうど隣。いくつもある同じような扉の内の1つがガチャリと小さく音を立てて開かれる。そしてそこから顔を覗かせるのは一人の少女。
フレルよりも二回りほど背が高い。起床したばかりなのかはだけた寝巻きに身体を包み、艶のある赤髪は纏まりなく散っている。少女は訝しみながらフレルを覗き込んだ。
俯き具合で立ち尽くすフレルとそれを見上げる抱かれた兎。さぞ怪しかったのだろう。警戒心丸出しだ。
その少しだけつった目がフレルには睨まれたように感じられた。心に貯まった不安が水のように流れる。気張っていた表情も崩れる。ぽつぽつと堪えていても小粒の涙が床を濡らす。
「わかった、わかったから落着いて。……まったく、どうしたのよ」
自分よりも小さいフレルの背に合わせるよう腰を折り問いかける。吊り上がった目を丸め、できるだけ優しい表情になるよう努めて。
隠そうともしていなかった警戒心はもう心の中にはない。不信感はあるけれど危害があるようにも見えない。付き出す理由はなかった。
一、二、三。真っ白な沈黙が流れる。気まずい時間。返答しようにも嗚咽が混じりそうで声にできない。ただ涙を拭って場面が切り替わるのを願うだけ。
少女はどうしようかと目線を走らせていると、同様に困った顔で見回している兎と目が合う。純黒でハイライトのない目。かわいいけれど、えも言われぬ不気味さと恐怖がそこにはあった。
「……はぁ。いいわ、入りなさい」
静寂に観念したように閉じられたばかりの扉の向こうへと誘致する。それでも一向に動こうとしないフレルを頼むように、無駄だとは思いつつ兎に目配せをした。
何処の誰なのか全く検討もつかないけれど、自分よりも幾分小さな女の子だ。面倒臭そうな素振りはしつつも無視はできなかった。
焦ることはできるのにそれだけの知能はないのか、目配せの意図が理解できなかったのか。何の反応もない兎は無視して、俯く女の子の背中を押して部屋へと誘い込む。
大切そうに抱えられておきながら、人間じみた感情を持っておきながら、役に立たない兎だ。




