第三章『第二の家族』
目が覚めると見覚えのない部屋、そして自分が落ちないように配慮されている木の策で囲われた赤ちゃん用のベッド―――夢ではなく紛れもない現実に赤ん坊として今を生きている。
昨日の大泣きから疲れて寝てしまったせいか泣きすぎて、眼が腫れて少し痛い……。
「ふぁあああ……。」
時計がないので正確な時間は判らないが空の明るさから考えても相当長く眠ったと思う。それでも眠気は未だに健在中。赤ん坊は寝るのが仕事なのだと転生して理解出来た。
赤ん坊の肉体は骨も筋肉も未発達。その状態で無理に身体を動かそうとすれば疲労が蓄積されて、直ぐに脳から休眠指令が送られて眠くなってしまう。
一度、ハイハイしようと両手、両腕に力を込めると粘土のように簡単に崩れて倒れてしまった。その為、今出来る移動方法は横から横へと回転移動―――単純に仰向けからのうつ伏せを連続に行う程度。オマケにやり過ぎると酔って気持ち悪くなる。正直、不便すぎる…赤ん坊の身体……。
「食べて寝ての生活は最高の贅沢だけど退屈すぎる……。」
まあ、あと2年~3年もすれば歩くくらいは出来るようになる。それまでは退屈を満喫しながら眼で楽しむことでも覚えよう。
「あら、坊や起きたの?」
自分が起きたことに気付いた第二の母親である彼女の名前はアイシャさん。優しい声で自分を呼んで抱き抱える。見た目は子供であるが流石に大人の男が抱っこされるのはかなり恥ずかしいがアイシャさんの優しい温もりと匂いが不思議と甘えたい気持ちに舞い戻されてしまう。
「坊やは泣かなくて本当に偉いね」
(そりゃあ、本当の年齢は20代ですから……。)
苦笑しながらアイシャさんの腕の中で抱きしめられながら周りに目を向ける。
丸太に穴を空けて作られた本棚や石釜が置かれている。驚いたのは水道がない台所。確か明治時代には水道が通っていたから西暦で考えるならばこの世界は1968年よりも前なのかもしれない。
(よく見れば、アイシャさんの髪も少しボサボサだな…せっかく綺麗なのに髪を整えないのは勿体ないな)
文明が発達している自分の時代ならばアイシャさんは恐らく誰もが振り返るほどの超絶美人女性だろうな。第二の父親は幸運の星の元で生まれた存在だな。
「あら? あの人の忘れ物かしら」
机の上に包まれている荷物。それはアイシャさんが夫の為に作ったお弁当だった。
(幸運な男は)
父親のお弁当を届けるためにアイシャさんは自分を背中に背負い、落ちないように布で固定して外に出かける。初めての外出に少し胸が高鳴ってしまう。
扉から外に出ると鍵も掛けずそのまま道に沿って歩き出す。不用心ではないかと思ったが同じような家が幾つか建てられている。小さな集落で共に生活をしているのかもしれない。
アイシャさんの背中におぶさりながら風景を眺める。舗装されていない土の道、自然な豊かな花や木々の存在、車ではなく馬で移動する人の姿。やはり明治時代よりも前なのかもしれない。しかし服装は日本みたいな和服とかではなく洋服なので中世ヨーロッパと例えた方が良いかもしれない。
そんな光景と風景を目のあたりにするとこの世界には平和の二文字しか思い浮かばない、あの自称神から異世界に転生と言われているが単純に過去にタイムスリップしただけではないかと考えられる。
現状では“転生者の役目”が何のことなのか意味が全く判らない。“神々の管理や法則”の言葉を二次元要素で考えるならば―――魂の管理と考えるべきか……。
幾つかの異世界との魂の数のバランスを保つために異世界から異世界へと転生して送り届ける。そう考えるならば転生を施す際に記憶を消去すれば魂のバランスは管理だけで済む程度。記憶を引き継がなければ出来ない特別な役割が転生者には存在するのか……?
(今、赤ん坊状態の自分に出来ることは転生者の役目を憶測で考えるよりも自分の置かれている現状を理解することが最優先だな)
向かいの方向から
どうやら村の住人のようだ。
「アンさん、こんにちは」
「こんにちは、アイシャちゃん。アルフに忘れたお弁当を届けるところかい?」
「ええ」
「全く、アルフも何度目だろね。今日は見回りも兼ねているのにしょうがない旦那だね」
“アルフ”は自分の第二の父の名前。どうやらアルフさんは村では忘れ物が多い常習犯で知られているようだな。
それにしても【見回り】とは一体何の為に行うものなのか今の環境を知る為にも像の耳になって情報を集めなくてはいけない。
「森の近くで獣が無残な姿で発見されているから、もしかしたら魔物が発生したかもしれないわ」
【獣を食する魔物】がやがては【人を食する魔物】になる恐れがあるかもしれない。どうやら自分は転生した世界が異世界であることが証明されてしまった。自分が生きていた世界では魔物は存在しない。
(だが解明されていない生物を魔物と認識している可能性もある)
人間は解明出来ない謎を悪魔の呪い、神の奇跡と信じる所業が歴史で確認されている。特に
文明時代が中世程度では病気でさえ悪魔の呪いであると信じていたと聞いたことがある。
魔物の存在は眼で見なければ信じることは出来ない。
「領主様に兵の要請をお願いして本格的に調査してもらった方が良いかもしれませんね」
「駄目よ、あの領主、金に煩くて中々兵を出してはくれないわよ。オマケに去年に起きた野盗騒ぎには全く助けてくれなかったのに税収だけはしっかり徴収する嫌な奴だよ!」
【金に汚い領主】のせいで村人達だけで団結して警備を行っているのか。現実問題として盗賊や魔物で民を失い領主としての信用を失ってしまうのに何故そのような問題が起こせるのかこの世界の法律そのものをいずれ知らなくてはいけないな……。
「皆さんが援助してくれたおかげでこの子を無事に出産をすることが出来たのです。」
「何言ってんの! アンタの娘にはいつも村全員が救われているんだよ。これくらいで当たり前だよ」
どうやら【アイシャさんの娘】は村にとって頼りになる存在のようだ。
(自分に姉さんが居るのか……そういえば生まれた時にも居なかったな)
「おっとあんまりお喋りしてたらいつまでもお昼が届けられないね。気を付けてね!」
手を振ってさよならをして再び歩き出す。アンさんと別れて、しばらく歩いた先には広大な農地が広がっている。その一画で畑を耕すアルフさんの姿が見えた。
「アルフ!」
妻の声に気付いたアルフさんはアイシャさんの元へ駆け寄る。
「アイシャ、どうしたんだい?」
「もう、また忘れ物をしているから届けに来たのよ」
差し出されたお弁当を受け取るとアルフは申し訳なさそうに何度も頭を下げる。アンサさんの言う通り何度も忘れ物を届けてもらったことがあるようだ。
「せっかくだし一緒に食べないか?」
「そう言うと思って私の分もお弁当に詰めたのよ」
バケットから出てきたのは美味しそうなサンドイッチ。パンの香ばしい香りで自分のお腹は―――グゥウウウウウと空腹の合図が大きく鳴り響いてしまった。二人は微笑ましそうに見ている。
「坊やもお腹が空いたよね」
アイシャさんは自分を前に抱き抱えるとそっと胸を出して優しく、自分の口元に運ぶ。
「さあ、いっぱい飲んでね」
(アルフさん、お願いだからまじまじと見ないでください!)
羞恥心を与えられながらも母乳を吸う。
食欲だけでなく心まで満たされる幸福感が眠気を呼び起こしてしまう。
「あらあら、幸せそうに眠ったわ」
「本当だ。この子はどんな子供になるかな」
「なんでも良いわ。元気に健やかに育ってくれたら」
「ああ、そうだな」
二人は子供に手を運び、そっと祈る。
「俺は見回りをしてから帰るからこの子を頼むぞ」
「はい、アルフも気を付けてね。この子の為に無理しないでくださいね」
母の背中に背負われながら揺れる動く
家の前に大きな影が待ち構えていた。
(まさか!? アンさんが言っていた魔物が現れたのか!?)
声を出さないように静かに息をひそめる。影はアイシャさんに気付いたのかどんどん近づいてくるが、アイシャさんは逃げるどころかじっと立ち尽くしている。
(アイシャさん!? まさか、足がすくんで逃げられない)
泣いて助けを呼ぶにはもう影がアイシャさんの前へと届いてしまった。
アイシャさん―――ッ!
「母さん、ただいま!」
(―――え?)
「アンリ! おかえりなさい」
影の正体は昼間話に出ていた自分の姉さん―――アンリさんだった。影がいびつな姿に見えたのは獣を抱えているからだった。ほっと一安心したが、アンリさんの抱えている獣はどう見ても人間以上の大きさである猪。それを片手で背負いながら豪快に担ぐその姿はまさにアマゾネスである。
(あの細い体格にどれだけの力があるの!?)
「母さん、出産おめでとう。ゴメンね。生まれてくる赤ちゃんに栄養つけてもらうために大物を探していたら遅くなっちゃって」
「まあ、アンリったらありがとう。でも家に入る前に汚れを落としてきなさい」
「はーい」
いえいえ、お母様……普通に親子の会話をしているけど可笑しいですよ!? 汚れを落とすって血痕ですよね? 娘さん血まみれですよね……? 何故だろう、母親想いで優しい姉のはずなのに……返り血まみれの笑顔と一回り以上大きい猪を差し出す姿に恐怖が走ってしまった。
「ふふっ、お前のお姉ちゃんだぞ。早く大きくなれよ」
手袋を脱ぎ捨て、綺麗な手で優しく触れる手であるが血痕のせいか錆びた鉄の匂いがする。ああ、これは夢だ。優しい夫婦の間にアマゾネス戦士のような姉が生まれることは悪夢以外の何者でもない……神よ。夢ならば早く覚めてほしい……。
(考えたらあの自称神だから無理だよな……)
今日の出来事をなかったことにして、自分はアイシャさんの胸元で安らかに気絶する―――
―――続く